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2018年9月30日 (日)

小井戸坂(板橋区成増)

上赤塚公園の北側の坂。 成増4丁目と赤塚3丁目の町境になる。 上赤塚公園のあたりを源頭に沢が谷を形成し、旧白子川に注いでいた。 昭和の中期までは開渠になっていたようである。上赤塚公園の湧水は確認できないが、武蔵野台地の標高30mゾーンなのでこの辺りに湧水があった可能性は高い。

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小井戸という坂名が湧水に関係していることはおそらく間違いないだろう。板橋区の資料によると、小井戸川の谷頭にあたる。昔は急坂だったが、今は埋められてなだらかになっている、とある。 昭和中期の地図を見ると、この坂はまっすぐではない。また、切通しで谷に下っている。 道は明治時代にはすでにあったようだ。

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小井戸川という川名は旧白子川からの分岐点の路地(成増5丁目16と17の間)に「こいど川緑道」の碑があるが、それ以外には特に表示などは見当たらなかった。 上赤塚公園と隣の葬祭場の間に水路の形跡がある。小井戸坂の道路には水路(溝)が横切っている。これが小井戸川の痕跡だと思われた。

Photo:2016/11/5

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2018年9月29日 (土)

百々女木坂(板橋区成増)

百々女木(スズメキ)か百々向(スズムキ)かは両方あって混用されている。 川の名前はほぼ百々向川とされているようだが坂名は百々女木坂である。地方にも同じ地名があるが「どどめき」と読ませる場合が多い。成増の百々向川は川のせせらぎの音、あるいは雀の鳴き声からつけられたとされているがはっきりとしない。

 

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百々女木坂は成増駅北口の区立図書館裏から北東に上っていく坂道。 この道は江戸時代からある村道で、川越街道から上赤塚への主要道だった。現在もこの成増台の上を走る生活幹線のひとつである。 坂の脇には赤塚第二中学校と成増増ヶ丘小学校がある。並んでいるのに違う地名を冠しているのがいささか疑問でもあった。

 

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坂上と坂下の高低差は6m程度だが、これは百々向川が極めて小さな河川だったので、それほど深い谷を形成できなかったためと思われる。しかしその浅さのおかげで、江戸時代もさほど急な坂ではなかったようである。 現在はほぼ直線になっている。

 

百々向川は赤塚新町三丁目付近の湧水を水源として成増を流れ、旧白子川に注ぐ僅か1.8㎞の沢というべき小河川だった。流域の宅地化が進んだ昭和50年頃に暗渠化された。

 

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坂下の図書館の傍に百々向川の暗渠が通っている。地面よりもかなり低い。 後に成増駅周辺の川跡は盛土をしてかさ上げしたようだ。 ちなみに百々向川の下流に「百向」という地名がかつてあった。 しかし読み方はスズメキやスズムキではなく、ズウコウというこれまた不思議な読みである。 文字からするとこの地名も由来の可能性はあるかもしれない。しかしそうなるとズウコウがスズメキ(スズムキ)に転化した理由がわからない。

Photo:2016/11/5

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2018年9月28日 (金)

新田坂(板橋区成増)

新田坂(しんでんざか)は川越街道の旧道で成増から白子川へ下る坂道である。白子坂の別名がある。 板橋宿の平尾追分で中山道と分かれた川越街道には、上板橋、下練馬の宿を経て、白子川をはさんだ江戸側の新田宿、川越側の白子宿と続いた。その白子川の谷へ下る新田坂は相当な急坂だった。

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川越街道は江戸時代以前に開かれた街道で、太田道灌が川越城の支城として江戸城を築城した折に川越街道が開かれた。江戸時代までは川越往還を呼ばれていたが、明治以降川越街道の呼び名に変わった。昔、この坂のあたりは成増村で向新田という地だった。1600年頃に街道の整備が行われ、川越の物資を江戸へ輸送する要路ともなった。川越と江戸は陸上でも、新河岸川の水運でも結ばれていたほど重要な道だったのである。

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坂上の標高32mに対して坂下は13m、ほぼ20m近い高低差は武蔵野台地を削った谷の深さの平均に近いだろう。 そして概ね関東ローム層上部の地層は赤土で、雨が降るとぬかるんだはずである。そんなわけで難所扱いされた場所がいくつもある。その難所に難渋した旅人たちのために、路傍に石地蔵を建立し供養した。

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その石仏群が新田坂と国道254号の川越街道との間にある。もとは新田坂にあったもの。 道祖神(1862)は八坂神社入口に在ったものとある。 常夜燈(1830)は坂の途中にあり、白子坂右岸沿いに練馬の土支田村への道の分岐に建っていたもの。

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八坂神社は京都の八坂神社を勧請したもので、地元では天王さまと呼ばれている。昭和初期まではもう少し南側にあったが、昭和8年(1933)に川越街道(国道254号線)の工事で現在地に移転した。

Photo:2016/11/5

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2018年9月27日 (木)

成増坂(板橋区成増)

旧川越街道を直線化して開かれた新道。 成増台から白子川を渡るまでの長い下り坂が成増坂。 江戸時代は白子川をはさんで東側が新田宿、西側が白子宿であった。昔の川越街道の坂は成増側が新田坂、和光側が大坂で、ともに難所ともいえる急坂だった。

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成増坂は川越街道というよりも国道254号線の坂である。 上の写真で左側の下っていく大通りが成増坂、右の側道が元々の川越街道。どちらも坂下で白子川を越える。昭和中期までの新川越街道は東埼橋の先を直線的に和光市へ伸び、本田技研の北側を走っていたが、新しいバイパスが白子川直前で南にルートを取った為に、川越街道は三番目の橋である新東埼橋で白子川を渡り、和光市では本田工場の南側を通る事になった。

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白子川の標高は10m、成増駅前が33mなので23mもの落差があるが、新しい成増坂は僅か2度(勾配で3.5%)となだらかで長い坂になっている。車で走ると気づかない間に通り過ぎてしまう。川越街道の味わいは新田坂でないと難しい。

Photo:2016/11/5

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2018年9月26日 (水)

小次兵衛久保坂(板橋区成増)

国道254号川越街道にある坂道。 成増小学校入口の交差点を境に、東側が帳元の坂、西側が小次兵衛久保坂である。 つまりここは谷地形になっていて、それを形成したのが白子川支流の百々向川(すずむきがわ)。 さすがに川越街道は道幅もあり交通量も多いので、坂の傾斜は感じにくいが、坂下と坂上では5mほどの高低差がある。

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坂下の成増小学校入口交差点脇に小治兵衛窪庚申尊がある。 久保は窪から転訛したもので、大正期までこの辺りはコジベイ久保という地名だったので、窪を用いたのは江戸時代のことかもしれない。  この小治兵衛窪庚申尊は、天明飢饉の犠牲者を供養するのに建てられたもの。
天明の飢饉は、1782年から異常気象により全国的に不作から飢饉が発生し、翌年は浅間山の噴火で大凶作となった。 餓死者・病死者は全国で90万人を超え、そのため一揆や打ち壊しが発生したものである。
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コジベイ久保という地名にはある昔話が由来になっている。 昔、この辺りは百々向川が流れており、街道と言っても寂しい場所だった。 川には粗末な丸太橋が掛かっていて、周囲は背の高い草と樹木に覆われた場所なので盗賊の格好の犯行場所になっていた。 ところがある時、丸木橋の代わりに立派な橋が架かっていて、村人たちが驚いて近づくと、橋の傍らにこう書かれていた。 「ここで悪いことを数えきれないほどした。それを悔いて、罪滅ぼしに橋を架けた。 小治兵衛」
坂名は小次兵衛久保坂だが、物語の人物は小治兵衛と一文字違うのは調べてみたがよくわからない。
Photo: 2016/11/5

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2018年9月25日 (火)

帳元の坂(板橋区成増・赤塚新町)

成増駅の南、川越街道(国道254号線)の坂道である。 あまりに大通りで交通量が多いので、坂道の印象はほとんどない。 光が丘公園の北東角の赤塚口あたりを源頭にした百々向川(すずむきがわ)が浅い谷を形成して和光市との境を流れている白子川に注いでいた。 その浅い谷の都心側の坂道である。この谷周辺の昔の地名がコジベイ久保で大正期までの字名である。

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西側の上り坂は小次兵衛久保坂という坂だが、東側の帳元の坂の坂上あたりを帳元と言っていた。 帳元の意味は、江戸時代から城北地域の興行の取り締まりをしていた帳元の家(友山家)があったことによると板橋区の資料にある。現在も坂上のバス停名は「帳元」である。 バス停や小学校名に古い地名が残っているとほっとする。

Photo:2016/11/5

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2018年9月24日 (月)

閻魔坂(板橋区中台)

板橋区中台の地名の由来は、戦国の城、志村城から見て、前野原と西台の中間に見える台地ということで中台となったというのが定説。 西台は志村城の西の台の意であるが、元々板橋区は昭和の初期に、板橋町、志村、上板橋村、赤塚村の1町3村が合併してできたもの。 そのうちの志村(志村村ではない)は明治の中期に8村が合併したものである。

志村8村は、志村、本蓮沼村、上蓮沼村、小豆沢村、前野村、中台村、西台村、根葉村。そのうちの西台村から中台村を経て板橋本町から西に延びる富士見街道への主要道が現在の若木通りだった。 中台村の南部にあるのが稲荷神社。 地名は冠になくただ稲荷神社である。

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創建は不明。 江戸時代は中台村の鎮守で、北にある延命寺はその別当だった。この稲荷神社の南側は志村の出井川の支流である前野川の谷になっており、そこに向かって下っていく坂が閻魔坂である。

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一見昭和の道路のように見えるが、実は昔からある道で、江戸時代にはすでに村の主要道路だった。緩やかなカーブの連続はその名残である。 稲荷神社前から徐々に標高を下げながらきれいな弧を描いて下っていく。 途中に中台地域センターがある辺りがもっとも坂らしいところ。

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その先のもっとも低い辺りが前野川の流れを渡っていた場所になる。 ここには閻魔(堂)橋という橋があった。 傍には閻魔堂があったのでそう呼ばれたようだ。それが橋の名前としても坂の名前としても由来となり、現在は坂名だけが残っている。

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ちょうど写真の歯科の路地が前野川の暗渠になる。 ここに閻魔(堂)橋があったわけだ。 港区六本木にも閻魔坂があるが、あちらは江戸時代の武家屋敷と寺社地の中、こちらはのどかな農村風景の中の閻魔坂を想像できる。 その中でも閻魔堂がどちらも由来になっているのは、当時の人々が神仏を重要に考えていたことの名残りだと思う。 ここのおおたけ歯科クリニックも、閻魔橋歯科医院にしてはどうかと考えたが、患者が来なくなるかもしれない。

Photo:2017/1/29

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2018年9月23日 (日)

松山の坂(板橋区中台)

環八通りに井荻トンネルという長い地下部分がある。 開通は1997年、それまでは拙宅から関越自動車道に乗るのに西武新宿線をどこで渡るかが難関だったが、このトンネルで随分改善された。 しかし、井荻トンネルの中で、笹目通りと環八通りが分岐しているので、いまだに車線を右往左往する車が多い。 

その環八通りが成増台(武蔵野台の一部)を縦断している。 川越街道より北側にある練馬トンネルは井荻トンネルより後の2006年に開通し、蓮根川の谷を通って新河岸川流域の低地に抜ける。 東武東上線が成増台の尾根筋を通っているが、環八通りはうまいこと練馬トンネルでその下を抜けている。 地形をうまく利用した道路づくりである。

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その環八通りが蓮根川(現在は暗渠)沿いから広大な低地に抜けるところにあるのが松山の坂である。 坂の西側、戸建住宅の多いほうが住居表示では若木、東側の標高の高い高層マンションがある方が中台と、町境になっているが、通り名は若木通り。

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地名は松山ではない。 区の資料によると、坂の上に松林があったので松山の坂と呼んだという。 また、坂下に天狗杉という大きな杉があったので天狗坂という別名もある。 昔は坂上一帯が松林で、遠くから中台へ向かう時の目印になっていたという。 残念ながら現在はヒマラヤスギが多く植えられているが、もとは松林だったのである。

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中台側の台地上にはサンシティというマンション群が立ち並ぶ。 ここは戦前までは一面の林、戦後になり旭化成の倉庫と研究所があった。 マンション群は1980年頃に建ったらしい。現在も人工ではあるが樹木が多くいい環境である。

この成増台から赤羽台にかけては遺跡がまんべんなく広がっていて、この中台にも縄文・弥生時代の遺構や出土品が出ている。 台地の縁に当たる場所には必ず縄文・弥生の痕跡があるのが興味深い。

Photo:2017/1/29

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2018年9月22日 (土)

谷津坂(板橋区西台)

首都高5号線下の西台交差点から南に向かって伸びるバス通りは新道の坂で谷筋を上り詰め、そこからはほぼ尾根筋を南下するのだが、その台地の西を前谷津川とその支流が削り、東を蓮根川とその支流が削って谷戸を形成している。 この尾根から東の蓮根川に向かって下るのが谷津坂である。

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バス通りとの接続は並行して合流するような珍しい接道。 この接道は明治初期の地図からこうなっているので、尾根筋の主要道との高低差が大きい為、若干無理をして繋げたのではないかと思われる。

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写真の民家の石垣に沿うように、谷津坂は東に折れ高度を下げていく。 ちなみに関東ではこういう沢が削った小さな谷あいの地形を谷津、谷戸、谷地という風に呼ぶことが多い。「谷津」という呼び名は関東、とりわけ鎌倉や下総に多く、「谷戸」というのは武蔵国、相模国に多い。また「谷地」は東北や北海道に多いが、三つともアイヌ語源だというのが定説。
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坂の途中の北側に西台不動尊がある。 斜面に石仏や石碑がたくさん並んでいて風情のある小さな不動尊。伝承によると、ここの不動明王は、太田道灌の守り本尊で、志村城落城後この地に移されたという。 明治初期の地図には延福寺と書かれているが、西側にある円福寺の別院だった可能性が高い。 この不動尊下、谷津坂が走る谷あいを不動谷と呼んでいた。 この不動尊に因んだものである。

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谷津坂は下っていきやがて西台公園に至る。 この公園は不動谷の何面に作られた自然満載の公園で、かつては賑やかな子供の声が響いていたのだろう。 最近はどうも子供も減って、超ロングスライダーも貸し切り状態になっていた。 この公園は割と自然のまま作られているので、関東ローム層の赤土があちこちに露出していて面白い。

この下流の蓮根川だが、蓮根の地名の由来はレンコン産地かと思われがちだが、元からあった上蓮沼と根葉という集落が明治時代に合併して蓮根となったようだ。蓮根川は志村を流れる出井川と接近するも合流することなく新河岸川(隅田川)に流下していた。

Photo:2017/1/29

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2018年9月21日 (金)

伝兵衛坂(板橋区西台)

とりげつ坂、新道の坂がある谷筋の東側、現在の住所は西台1丁目、昔はこの辺りを西台村の中でも門前と呼んでいた。 周辺は住宅開発が進み、とりげつ坂周辺のような古い町並みは残っていないが、この伝兵衛坂は江戸時代からある道で、台地と低地を結ぶ農道のような道だったと考えられる。

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伝兵衛坂の東側には志村学園高校(旧志村高校)があり、擁壁も近年きれいに整備されなおしたためまるでごく最近できたような道路の印象を受ける。 志村学園は2011年に手足にハンディキャップを背負った生徒のための支援学校として再スタートした学校である。 都内には意外と少ないようで、拙宅の近くの梅が丘に光明学園という同様の学校があるが、その校区は世田谷区のみならず、港区、目黒区、渋谷区、中野区、杉並区という人口260万人のエリアを1校がカバーしている。通学も大変だろうから1区1校くらいでもいいように思うのだが。

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もちろん昔の伝兵衛坂は狭い未舗装の農道だったはずで、区の資料によると、伝兵衛が誰かも分からないし、いつごろからある道なのかもわからない。 ただ、地元の古老によると、崖に足掛かりを付けて昇り降りするような急坂だったという。 まあ、それは大げさだが、西台の台地は関東ローム層の上部の赤土が表面にのった地質なので、雨でぬかるんだりすると滑って上れなかったのだろう。

Photo:2017/1/29

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2018年9月20日 (木)

新道の坂(板橋区西台)

とりげつ坂の崖下に流れていた沢筋を挟むように昭和になって自動車道が開通した。もともと台地と低地をとりげつ坂で往来していたが、この新道で西台から川越街道の上板橋に車で容易に抜けられるようになった。 そのため地元の人々は新道の坂と呼ぶようになったという。

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坂下は沢筋の暗渠に付き物の銭湯がある。 功泉湯という銭湯で、時代を彷彿とさせる破風造りの屋根が素晴らしい。 この近所にはほかに銭湯はなく、ずっと南の徳丸と赤塚にあったが、徳丸の北野湯(徳丸1-32)と赤塚の栄湯(赤塚1-34)ともに2018年3月に閉業してしまった。

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神道の坂は坂上でとりげつ坂からの道と出合う。  馬頭観世音から少しのところである。 この辺りが最も標高が高く27mほどある。 坂下は6mほどだから随分上っているのだが、傾斜が緩やかになるところに道が引かれているので、だらだらと長い坂という印象である。

途中この坂にかかる西台陸橋という鉄製の橋がある。西台1丁目と西台2丁目を谷筋で新道の坂が分断してしまったので、それを渡す役割を果たしている。

Photo:2017/1/29

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2018年9月19日 (水)

とりげつ坂(板橋区西台)

板橋区西台二丁目は西に前谷津川の暗渠、東はもう一つの沢筋を町境にしており、その間は川筋よりも20mほど高い台地になっている。 現在の首都高速5号池袋線よりも北側の団地地帯は一帯が米作農地であった。 この東側の沢筋は極めて短いので、江戸時代でも子供が跨げるほどの沢でしかなかったと思われる。

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この沢筋と西側の台地の間の斜面を上っていくのがとりげつ坂である。 この道は相当古い道で、江戸時代には中山道から西台の峡田道、そしてとりげつ坂から南坂を経て、川越街道へ抜ける重要な村道だった。

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この坂道の西側の台地を昔、「とりが谷津山」と呼んでいた。 その山沿いに上る道なので、とりがやつがとりげつに転化して坂名になったと言われる。坂下から坂上へ緩やかではあるが20mほどの高低差を上っていく古道だ。 谷側には新道と呼ばれる広い道路が開通していて、通る人も少ないとりげつ坂は古道の雰囲気を残している。

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坂上には馬頭観音堂があり、古くから街道筋だったことがわかる。お堂に守られているので風化の少ないきれいな馬頭観世音である。寛政二年とあるので、1790年の馬頭観音だが200年以上を経ているとは思えないくらいきれいだ。台座に「門前谷念仏講中」、側面に 「南 祢りま道、東 戸田渡し道、西 吹あげ道、北 はやせ道」とあるので、道標でもあったのだろう。 門前谷といのはこの谷のことかどうかは不明。 南は練馬ということである。 坂を上ってきた旅人がここで一服したに違いない。

Photo:2017/1/29

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2018年9月18日 (火)

神明坂(板橋区西台)

神明坂というのは神社の近くにある坂名に多い。 ここも前谷津川から西台の鎮守である天祖神社(神明社)に上る坂道ということで神明坂である。 坂上の西台天祖神社は西台の総鎮守。 江戸時代の呼び名が神明宮で、明治になってから天祖神社となった。

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馬坂のある峡田道から分岐している。峡田道の標高が8mで天祖神社辺りが22mだから、14mほどの高低差がある。 しかし長い坂道なので勾配は普通の坂道である。 峡田道との辻は不規則な十字路。明治時代からの道の形を残している。 角には竹藪もあり、その裏手が一段高くなっている。

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天祖神社の辺りまで上り坂が続く。200mほど上ると勾配は平坦に近くなる。台地の上に着いたわけだ。 この台地は瓢箪型をしている。その西のくびれの辺りに天祖神社があり、台地の傾斜地に昔からたくさんの民家があった。

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坂の途中から徳丸田圃方向を望むと現在そこには大東文化大学のビルが建っている。大東文化大学の西側には暗渠となって遊歩道化された前谷津川が流れている。 昔は坂上から一面の田んぼが見渡せたことだろう。

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西台村の総鎮守である天祖神社は創建不明だがもともと円墳の上に建てられた古い祠が神社の起こりだと伝えられる。 この台地全体が西台遺跡で、縄文時代から弥生時代の出土品が出ている古い集落跡。  ここも何千年も人々が生活の営みを続けてきた場所なのである。

Photo:2017/1/29

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2018年9月17日 (月)

馬坂(板橋区西台)

馬坂は「うまさか」と読むが、地元では「まさか」とも呼ぶらしい。 前谷津川の左岸を上る昔の主要村道を峡田道(はけたみち)と呼んだ。 馬坂はその一部、前谷津川が新河岸川(隅田川)流域の徳丸田圃・赤塚田圃に出る最後の台地の縁を走る緩やかな坂道である。 坂下から西の台地に上ると鎮守の天祖神社があり、馬坂をそのまま進むと、坂上で東の伸びる弥陀堂の坂を分かち、徳丸村の台地に向かっていく。

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写真は坂上から下流方面に向かって撮影している。 道はいかにも古道らしいくねった道で、まさに昔の村道そのものである。また馬坂という坂名の由来としては、大正時代に下赤塚で謡われた「ヨカヨカあめうり唄」に馬坂が出てくるという。

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この道は徳丸や赤塚の台地上に住む人々が、低地の田んぼに行き来する馬のために開いたみちだと伝えられる。 前述の飴売り唄は全国に残っているが、ここ板橋のものは聞いたことがない。

Photo: 2017/1/29

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2018年9月16日 (日)

弥陀堂の坂(板橋区西台)

ツルマイ池の沢の北側の峰を越えると、再び谷地形が現れる。 番場稲荷の坂を上った北側の斜面を越えた北向きの斜面に坂はいくつもあるが名のある坂はなぜかない。ほとんどの道が高度成長期以降に開かれた住宅用の坂だからである。

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その谷を越えると再び尾根に向かって上る。 その斜面にある円福寺の門前には六地蔵が赤い被り物をして並んでいる。ここから西へ向かって下る道が弥陀堂の坂。 坂名の由来は、この円福寺法蔵庵のことを地元では弥陀堂と呼んでいたのでそれがそのまま坂の名になった。

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坂は西へだらだらと下っていく。沢筋の谷脇を前谷津川に向かって流れ下る筋と並行して下っていく道である。 この谷筋では戦前はこの道しかなかった。この坂沿いには江戸時代から民家が多く、徳丸田圃で農業をしている家々が立ち並んでいたのだろう。

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坂下近くには京徳観音堂がある。左側の石組みの階段は江戸時代からあるものらしく、荒々しい鑿の跡が美しい。 江戸時代にはここに京徳寺があり、観音堂があった。のちにここは前述の円福寺の管理となり、現在に至っている。 境内には1361年(宝文年間)の宝塔があり、ここで人々がずっと生活を営んできたことがわかる。 明治期は西台村の京徳という字名の地域だった。西台村の西の外れである。

Photo:2017/1/29

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2018年9月15日 (土)

番場稲荷の坂(板橋区西台)

伝説のツルマイ池の沢筋を挟んで急坂の北側を東に向かって上る坂道が番場稲荷の坂である。 谷筋の道路は万博(1970)以降に開発された道で、この番場稲荷の坂がそれまでは西台へ向かう主要道路だった。 歩いてみると何となく不思議な昔の道路を感じさせる。

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勾配はそれほどきついとは感じないが、やや急坂の部分もありいつの間にか高度を上げている。 現在の道交法では道路は4m以上となっているが、昔は2.5mの道路もたくさんあった。 ここも戦後しばらくは狭い主要道だったのを、高度成長期の頃から整備したのだろう。

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不思議さを感じるのはこの残されたガードレールである。 昔は崖際に走る道だったと考えられる。東京オリンピックう以前は崖側には民家がなく、昔は崖っぷちだったはずである。 戦前の地図ではこの道は村道、地元では重要な道路である。この崖下を昔は番場と呼んでいた。また坂上にはかつて稲荷社が祀られていたので、番場稲荷の坂と呼ばれるようになったのだが、現在はどちらも残っていない。

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いつの間にか高度を上げた坂上に接する階段からは急坂が展望できる。 かつてはこの道から鶴舞池が望めたはず。 谷あいに広がる田んぼの上流に池があり、鶴やコウノトリ、トキが飛び交う江戸時代の風景を思い浮かべる。

Photo:2017/1/29

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2018年9月14日 (金)

急坂(板橋区徳丸)

新坂のところでも書いたが「急坂」というそっけない命名の坂道。 しかも道は一本ではなく複数の路地を合わせて急坂という名がついている。 前谷津川の下流域に注ぐ沢のひとつとさらに下流の沢との間にある峰に向かって上る坂道である。

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徳丸一丁目の交差点から環八通りの西台一丁目南に出る新道の途中(サンクスの手前)から南に上ってすぐに折れる路地が急坂となっている。 最初の曲がり角からは尾根筋に向かって見上げるような階段坂がある。

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しかしこれくらいの階段は徳丸では珍しくない。 急坂はさほどの勾配も見せずに民家の間を上っていく。70mほど進むと少し広い道路と交差する。 急坂はここで南に折れる。 つまり角を右折して上っていくのである。 ここからの坂はその名の通りかなりの急坂である。

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ここが急坂のもっとも急坂らしい部分であるが、どうもそっけない傾斜地の住宅開発の新設道路に見えてしまう。ところがこの折れ曲がるルートこそが明治以前からの古道なのである。この坂下の谷は西台と徳丸を分ける村境だった。 150年以上昔から徳丸田圃から台地上の中尾集落に上るメインルートだったのである。

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坂上からの写真だと、まっすぐに進むのが後に命名された徳丸一丁目の坂。右の横断歩道のついている道が急坂で、ここから急に高度を下げている。 この谷にはツルマイ池(鶴舞池、弦巻池の説がある)があった。言い伝えがあり、池の上空を飛んでいた鶴が池に引き込まれることがしばしば起こったという。のちにこの池が涸れたときに龍のような大きな蛇が現れて、暴風雨と共に石神井池に飛んで行った、という話である。

ツルマイ池は昭和の高度成長期までに埋められてしまい、その場所は現在の徳丸小学校や西徳公園になっているという。

Photo:2017/1/29

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2018年9月13日 (木)

おう坂(板橋区徳丸)

不思議な坂である。 こういう坂のほとんどが徳丸では無名の坂なのに、ここだけはおう坂という名前がある。 同じような坂は辺りにたくさんあるから何か特別な理由があるのではないかと思わざるを得ない。

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おう坂は右の階段ではなく正面の細い路地の急坂である。板橋の言い伝えでは、「胸を合わせるような急坂なので、合坂(おうさか)と呼ばれた」とあるが、このパターンは江戸市中では胸突坂となる場合が多い。 新坂の坂上近くから北方向に入る路地坂であるおう坂は、なぜここに必要だったのだろうか。 それも謎である。

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坂上の部分は階段になっているが、コンクリート階段なのでそれほど古いものではない。 この階段部分だけをおう坂とする説明もあるが、やはり新坂から上までをすべておう坂とした方がいいように思う。坂下と坂上の高低差は7m。しかも戦後高度成長期までは存在しなかったと思われる路地なのに、名前があるのは何とも不思議である。

Photo:2017/1/29

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2018年9月12日 (水)

新坂(板橋区徳丸)

板橋区徳丸は坂道の宝庫である。 あまりに坂が多すぎて、名前のある坂が少ない。 坂が当たり前で平地が少ない地域では、坂に名前を付ける方が不自然なのである。

東武東上線の東武練馬駅の北側にイオンショッピングセンターがある。 もとはサティとして出来たのだが、マイカルサティが倒産しイオンに吸収された。 スーパーの先駆けダイエーも消え去りイオンに吸収された。 しかしそのイオンとて万全とは言えないのが、現代経済の不条理。 三越の倒産は江戸時代からだから400年以上も繁栄したわけで、それはそれで大したものだと思う。21世紀はすべてを破壊する世紀になりはしないかと還暦を過ぎた私などは思うわけで、短期に稼ごうとする現代経済という怪獣に、街は常に破壊されている気がする。 しかし土地が持つ形は変えられない。 だから徳丸は1,000年経っても坂だらけの土地なのである。

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新坂に向かう前にいくつかの階段坂を楽しむ。 上の写真は徳丸一丁目公園脇の階段。 なかなかいい景色をしている。 こんな階段坂がこの公園の周辺だけでも二桁はある。 そんな徳丸の地形を作ったのは前谷津川の支流。 谷の底を南北に走るバス通りには「徳丸坂下」というバス停があるが、なぜか徳丸坂という坂はない。 しかし徳丸の坂となると数知れず、そういう解釈をすればここは徳丸坂下である。

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さて、新坂だが、これだけ多くの坂がある地域にしてはそっけない名前である。この北東にこれまた「急坂」というそっけない名前の坂があるが、それよりも後に開かれた坂なので新坂と名付けたという。 道のくねり方からして古道であり、昔は徳丸本村や徳丸台地の裾を回り、徳丸田圃に出る重要な道だったらしい。

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現在の高島平や西台辺りの広大な平地は「徳丸田圃」「赤塚田圃」と呼ばれる地平線まで続くような米作地だった。 川越街道の周辺の人々はこの坂道を通って徳丸田圃に通ったという。 前谷津川は板橋区のこの辺りの坂道を読むにはカギになる川で、この川の流域の低地も田んぼだった。 そんなのどかな農村であった徳丸村や西台村も、今ではあらゆる斜面に家の立ち並ぶどこまでも続く住宅地になってしまった感がある。

Photo:2017/1/29

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2018年9月11日 (火)

漁藍坂(板橋区小豆沢)

港区にある魚籃坂が有名。あちらは魚籃寺のある坂という坂名の由来だが、こちらは何だろうというのが最初に思いついたこと。 そんなことを考えながら志村坂上から板橋中央総合病院の前を歩いていると、歩道の真ん中に忽然と石碑が立っている。

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これは庚申塔のようだが傷んでいて文字が読めない。右側面に「大山」、左に「いたはしみち」という文字がある。道標も兼ねているのである。 確かに、志村坂上方面に進み旧中山道の清水坂上で左に行くと大山道になる。庚申塔が建てられたのは1785年。 私は石碑研究家ではなく、道の方に興味が深いので、道標としての表示の方が気になる。 いたはしみちというのは板橋道ということだろうが、それがどの道なのかがわからない。

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そのまま進むと小豆沢公園と体育館がある。 その角(小豆沢公園前)を北に折れると緩やかな下り坂が緩いカーブで伸びている。 これが魚籃坂である。 地形的には小豆沢公園が小さな谷あいになっていて、その脇を下るのがこの坂。  坂下は新河岸川(隅田川)の流域になる。

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魚籃坂の由来は、昔、小豆沢の北側の荒川で漁業をしていた村人が、農業に転じた時、勝手に漁を行わないように、それまで使っていた魚籠(びく)を坂上に埋め八百漁藍塚という塚を築いた。 その漁藍塚の脇を通る坂道なので魚籃坂と呼ばれるようになったと伝えられる。

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2018年9月10日 (月)

志村坂(板橋区志村)

現在は国道17号線の大通りの坂道。 江戸時代の中山道は清水坂を下り、志村坂下へというのがルートだった。現在も志村坂上から志村坂下までは1.2㎞もある。 国道17号の志村坂は緩やかな勾配で20m強の高低差をカバーする。 しかし旧中山道清水坂は22mから5mの標高までを一気に下っていた。近代的な大通りになって切通しと盛土で滑らかになると、高低差を感じるのが極めて難しくなる。

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現在の志村坂が開通したのは昭和8年。 坂上の志村一里塚は数少ない現存する街道を挟む一里塚の形を残している。 この一里塚は日本橋から三里の距離にある。 江戸時代には、雨による増水で川越え待ちを余儀なくされる東海道よりも、距離は長いが安定して予定の組める中山道を歩く旅人も多かった。西国から戻ってきた旅人は、江戸まであと半日という安心感を持ちながらこの辺りで休んだことだろう。

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本来の坂下は1.2㎞先の志村坂下なのだが、坂と言えるのは環八通りとの交差点までだろう。この環八よりわずかに江戸よりのところで旧中山道は新道を横切る道筋だった。 その旧道筋は今も道路としては残っている。

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志村坂の途中に「薬師の泉庭園」がある。かつてこのあたりに清水薬師があり、中山道の清水坂の由来である可能性もあるようだが、現在の庭園は平成元年に新たに作られたものである。隣にある総泉寺に吸収された大善寺という寺の境内にあった清水で、八代将軍吉宗が志村で鷹狩りをしたさいに立寄り、境内にある清水を誉めたという言い伝えがある。 湧水を見ながら、数百年の昔の里の姿をイメージするのもまた楽しい。

湧水があるのは、ここが関東ローム層のいわゆるハケで、粘土層の上を流れてきた地下水が湧出する場所である。 そのため、坂上からこの辺りまでは縄文時代の貝塚が出てきている(小豆沢山ノ上遺跡)。 ただ縄文時代は縄文海進により、ここより隅田川方面は海だった。そのために貝塚が出てくるのである。

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2018年9月 9日 (日)

清水坂(隠岐殿坂・地蔵坂)

板橋区の坂には説明板や標柱はほとんどない。 坂名だけというのは稀にあるが、説明板があるのはここだけである。 平次坂の坂下と、清水坂の坂下は出合っているが、江戸時代はこの坂下では合流していなかったようだ。 もっともこちらは天下の中山道で、坂下の道沿いには商家や民家が立ち並んでいた。 平次坂は農道で、中山道の西側には田んぼが広がっていたので、台地の上からそこに行くのに中山道に出る必要性はなかったのだろう。

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坂下と坂上に立派な御影石の「清水坂」と彫られた石碑が鎮座している。 坂下方向が戸田、坂上が板橋とある。その脇には高札場の札の様な説明板がある。 板橋区唯一かもしれない、ちゃんと説明板には板橋区教育委員会とあるので、ぜひ他の坂についても設置していただけると嬉しい。

清水坂の名前はここに清水が湧いていたことに由来する。徳川吉宗が鷹狩りに来た折に、坂下の大善寺に立寄り、湧出る清水を見て感動して、寺の本尊薬師如来を清水薬師と唱えるよう指示したことから、清水坂と呼ばれるようになった。

地蔵坂は周辺にたくさんの地蔵があったからだろうと思う。 すぐ上の地蔵堂にも多くの地蔵がある。 そしてそのまた昔は隠岐殿坂、これは志村城城主の千葉氏が千葉隠岐守と呼ばれていたことに由来するが、さすがに500年も前の話である。江戸時代になって1740年代、大善寺(現在は国道沿いの総泉寺に併合)の和尚たちが旅人の難儀を思い、石畳を敷いて階段道にしたという。

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「日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代共にその呼び名を変えました。 この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています。坂の下には板橋・蕨両宿をつなぐ合の宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。この辺りは昭和30年頃までは旧街道の面影を残していましたが、地下鉄三田線の開通など、都会化の波によってその姿を変えました。」とある。

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かつての中山道も今は国道17号線の志村坂にほとんどの交通を奪われて、静かな風情を感じる坂道になっているように思われる。 坂上にある1857年建立の庚申塔脇にも説明板がある。この坂上で中山道と、富士街道(大山道)が分岐していた。左へ進むと城山坂を下り、南坂を上っていくのが昔の道。 現在はかなり形を変えている。 中山道の清水坂(隠岐殿坂)の途中にも馬頭観音や石地蔵がいくつかあり、いかにも名所だったようだが、現在はその面影はない。

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2018年9月 8日 (土)

平次坂(板橋区志村)

平次坂というから銭形平次と関係あるかと思ったが無関係。 志村二丁目の交差点から、北に下り、延命寺の墓地とプラウド志村マンションの間を走る。 坂下では急にカーブして、旧中山道の清水坂(隠岐坂)にあたる。 江戸時代の地図ではこの辺りは地蔵堂とあるが、現在も墓地の中には延命寺の地蔵堂がある。この墓地にはたくさんの地蔵がある。 それを見るだけでも面白い。

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本堂の延命寺はここにはなく、もっと南の志村第三公園の脇にある。 ここは墓地のみだが、江戸時代以前から大きな寺である。 志村延命寺は1524年に志村城が落城した際に、見次権兵衛が庭先で我が子の討たれる姿を見て、戦国の無情を感じ、居宅を寺として創建したと伝えられる。 見次権兵衛も見次坂の地名の由来のひとつではないかと、この創建話から推定できるのだが、まあ諸説ある方が面白い。

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平次坂はいつの頃からか平次という人が開いたと伝えられている。急勾配の上に崖から湧水が赤土の道いっぱいに流れ出し、滑りやすいことこの上なく、雨降りの日などは特にひどく、草や木につかまりながらでないと上り下りできなかったという。 もちろん隣の中山道の清水坂(隠岐坂)を通ればいいのだが、台地の上に住む農家の人たちはこっちの平次坂を使っていたそうである。

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2018年9月 7日 (金)

見次坂(板橋区志村)

板橋区志村と前野町の間を北東に上る坂道。 見次公園の脇を上るのだが、見次公園自体は北に向かって急に標高を上げる崖線の公園なので、そこに盛土をして坂を作ったことが、公園側から坂を見るとわかる。見次公園には広い池(14,000㎡)がある。

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太公望を決め込むおじさんたち、手漕ぎボートで遊ぶ人、とてもいい公園池だが、この池の水源は実は湧水だという。 しかし決して古い池ではない。地図を見る限り、ここは出井川の支流の沢筋のひとつだが、戦前の地図に池はない。
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池の西側(志村側)をくねりながら上っていくのが見次坂。 坂下標高9mから、坂上の見次公園裏の22mまでを上っていく。 坂上をそのまま進むと、国道17号になった中山道の一里塚がある交差点に出る。 中山道六十九次の日本橋を出て最初の宿場、同時に川越街道の起点でもある。 この見次坂も江戸時代からある坂道で、池よりもはるかに古い。
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見次坂という坂名の由来は、この辺りが昔から開けた場所で、出井川周辺の田んぼで採れた米を年貢として集めた集積地があったため、年貢→貢→見次と転訛したという説がある。 公園の広葉樹の木立が気持ち良い坂道である。

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2018年9月 6日 (木)

馬の鞍の坂(板橋区志村)

志村城址の南側の谷を出井川暗渠が走る。 首都高速池袋線は出井川の作った谷あいを本蓮沼方面へなどっている。 かつて出井川があったのでその流れを使って首都高速が作られたといっても良いだろう。 この谷に沿って南北にたくさんの有名無名の坂道がある。

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馬の鞍の坂はその中で名前のある坂のひとつ。 ただ過去の地図を調べる限り、江戸時代にはなく、明治になってから開かれた坂道のようだ。 志村から熊野神社を通って中台に繋がる道(城山の坂)の途中から、小さな沢筋の西側に付けられた道があり、その坂の部分が馬の鞍の坂という名で呼ばれていた。

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日露戦争の時、軍馬にするために近在の村々から、徴収した馬を一時繋いでいたので、この坂周辺を馬の鞍と呼んだのが坂名の由来という。坂上の標高が24m、坂下が7m、明治時代からほぼ直線坂だったので、当時は難儀をしたことだろう。

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2018年9月 5日 (水)

南坂(板橋区中台)

志村城址の台地を下ると目の前に空を覆う首都高速5号池袋線が視界に広がる。 この首都高の下をかつては出井川がいくつかの沢を集めて流れていた。 首都高をくぐった南側に三角形の小さな公園がある(志村第二公園)。 この公園の片隅に古い庚申塔が3基建っている。

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古いものから製作年は1770年、1830年、1869年と江戸時代の後期から明治初頭にかけてのものである。江戸時代はこの辺りを流れていた出井川より南西側は中台村と呼ばれていた。 その中台村の向台講中という人々が建てた庚申塔と伝えられる。 この庚申塔の辺りには出井川が流れていて、それを渡る石橋が出来た記念の碑がそのうちのひとつ。 そして公園の南側にはいかにも古道らしいまっすぐでない道が南方向に続いている。

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志村から南の中台へは昔はこの道しかなかった。 その道を進むとやがて急な上り坂になる。 南坂である。 坂名の由来は不明といわれるが、出井川の南側にある坂、もしくは志村城の南側にある坂という意味で違いないだろう。板橋区の資料によると、出井川には摺張橋という橋が架かっていて、その橋から南坂を上り、やがて練馬の富士街道に出たという。 江戸時代は富士講の人々や大山詣での人々がこの道を通ったという。

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坂の途中には見事な石垣がある。 志村城址の志村小学校の石垣にも負けないくらいの素晴らしい石垣に見とれていると、道の反対側がかなりの崖になっているのに気づく。 坂上で北を振り返ると、志村城址の辺りに巨大なマンションが見える。 ずっと昔は志村城があの丘に建っていたことをイメージしてみる。坂上にある小さな公園には中台南坂緑地とあり、この公園が南坂の名を残してくれている。

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2018年9月 4日 (火)

城山の坂(板橋区志村)

志村城址でもある城山熊野神社の境内の南側(参道入口)から西に向かって崖線の斜面を斜めに下る坂道が、城山の坂である。 志村城の山から下る坂道で江戸時代からの道筋になる。志村城址の南側の谷を削った川跡(現在暗渠)で川名は出井川。

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区立志村小学校の校門の前から下り勾配が急になる。 小学校の擁壁の石組みが城山の坂の風景を盛り立てている。また熊野神社の樹林と小学校の西側の巨大なマンションが時代のコントラストを見せている。

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その樹林の中には志村城の空堀や土塁の痕跡もあるという。参道にある銀杏の古木も大した存在感があって、その他の常緑樹の大木で形成された森がとてもいい。 昔は樹木に覆われ、昼なお暗く、上り下りに苦労する急坂だったという。

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神社の標高は25mなのに対して、坂下の標高は僅か7m。 かなりの高低差がある。石垣はと游からコンクリートのブロック組みになる。いささか風情を欠くが、これだけの崖なので上部法面と合わせてしっかりと安定させる必要があるのだろう。坂下に細い暗渠の跡があるが、これは出井川の支流だろうか。出井川の暗渠は高速道路の南側にある。

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2018年9月 3日 (月)

志村城址坂(板橋区志村)

都営三田線の志村三丁目駅を出て南に進むとすぐに緑地帯の崖線に出合う。 赤羽の北側からまっすぐに続く台地の崖線がこの志村三丁目までくると西の端として終わりを告げる。志村と前野の間にある低地はいくつもの沢を集めて新河岸川(隅田川)に注いだ小河川(出井川)の名残りである。

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坂の崖側は公園になっているが、山側は志村熊野神社の境内である。 緩やかにカーブしながらかなりの勾配で上っていく。昭和中期まではこの辺りにはたくさんの町工場があった。現在は坂上に日本電産コパル本社があるだけだが、神社の反対側はコパルの第一工場、本社の場所は第二工場だった。

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熊野神社の西にあるヴィオスガーデンという大きなマンションがコパル工場跡だが、その裏手の志村小学校も合わせた台地の岬になっている地形全体が、かつての志村城の跡である。

志村城は1456年に千葉氏が赤塚城に入城した際、赤塚城の前衛拠点として築城された戦国時代の城跡である。

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熊野神社の境内にこじんまりと城跡の石碑がある。本丸は隣の志村小学校辺りだったようだ。 1524年に小田原の北条氏に攻め込まれて落城した。

熊野神社はそのさらに昔にあった古墳上に創建された神社で1042年に志村氏が紀州から勧請したとされている。 その志村城山遺跡は旧石器時代、縄文時代、弥生時代とほぼ全時代の遺跡が発掘されており、何千年ものあいだここで人間が最適地として生活してきたことがわかる。

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2018年9月 2日 (日)

赤羽坂(北区赤羽台)

現在では師団坂の坂下から西に入る住宅の路地の様な目立たない道になっているが、もとは赤羽で岩槻街道と分岐した浦和道がこの赤羽坂を経て、袋諏訪神社を通り岩渕に抜けるという道筋だった。赤羽の変遷とともに、いつしか住宅地の路地のように寂れてしまったのである。

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勾配はほとんどないと言ってもいいくらいで、赤羽坂というよりも赤羽坂の痕跡というべきかもしれない。赤羽の地名の由来のひとつは、荒川の流れに削られた赤土の丘陵地(今の赤羽台)を赤埴(あかはに)と呼んでいた。 それが赤羽根に転じた後、現在の赤羽になったという。

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傾斜がないが、南側に分かれる道路は下り坂になっている。元はどんな傾斜だったり、カーブだったりしたのだろうとイメージを思い浮かべようとするがなかなかうまくいかない。痕跡としては、昭和中期までこの道よりも南側が赤羽町で北側が袋町、つまり町の境界線がこの赤羽坂だったというのがある。 なかなか評価の難しい坂道である。

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2018年9月 1日 (土)

師団坂(北区赤羽台)

風景に似合わない師団坂という坂名。 戦前の赤羽は陸軍の街であった。 赤羽、十条の辺りには兵器庫や火薬庫、火薬製造所、銃砲製造所、被服庫、そして最も北の赤羽八幡の近くには、近衛工兵大隊や第一師団の工兵隊などが集結し、当然空襲が始まってからは周辺住民はどれほどの恐怖を感じたことだろう。 しかし現在の師団坂は明るい笑い声が似合う通学路の坂道となっている。

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坂は赤羽駅から星美学園に向かって不規則なカーブを見せながら上っていく。坂の途中に標柱があり、次のように書かれている。

「この坂は、旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した2つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治20年(1887)8月から9月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台4丁目内に移ってきたので、坂はつくられました。この坂は「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は、「赤羽の兵隊屋敷」と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより、付近の住民にも親しまれていました。現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり、第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。」

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工兵隊は明治の初期まで現在の東京国際フォーラムのある日比谷から越してきた。 日比谷の跡地は東京市庁(現在でいう東京都庁)になり、新宿の都庁舎が出来た1991年に移転するまで東京都庁であった。 東京の大きな変遷(スクラップ・アンド・ビルド)はあちこちで見られるが、ここも時代の節目に大きな変貌を遂げたエリアである。坂の北東側に擁壁が続くのは、ここに新幹線のトンネルを通した(1985年)からであり、それ以前の様子を見てみたかったがいまだかなわない。

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