志村坂(板橋区志村)
現在は国道17号線の大通りの坂道。 江戸時代の中山道は清水坂を下り、志村坂下へというのがルートだった。現在も志村坂上から志村坂下までは1.2㎞もある。 国道17号の志村坂は緩やかな勾配で20m強の高低差をカバーする。 しかし旧中山道清水坂は22mから5mの標高までを一気に下っていた。近代的な大通りになって切通しと盛土で滑らかになると、高低差を感じるのが極めて難しくなる。
現在の志村坂が開通したのは昭和8年。 坂上の志村一里塚は数少ない現存する街道を挟む一里塚の形を残している。 この一里塚は日本橋から三里の距離にある。 江戸時代には、雨による増水で川越え待ちを余儀なくされる東海道よりも、距離は長いが安定して予定の組める中山道を歩く旅人も多かった。西国から戻ってきた旅人は、江戸まであと半日という安心感を持ちながらこの辺りで休んだことだろう。
本来の坂下は1.2㎞先の志村坂下なのだが、坂と言えるのは環八通りとの交差点までだろう。この環八よりわずかに江戸よりのところで旧中山道は新道を横切る道筋だった。 その旧道筋は今も道路としては残っている。
志村坂の途中に「薬師の泉庭園」がある。かつてこのあたりに清水薬師があり、中山道の清水坂の由来である可能性もあるようだが、現在の庭園は平成元年に新たに作られたものである。隣にある総泉寺に吸収された大善寺という寺の境内にあった清水で、八代将軍吉宗が志村で鷹狩りをしたさいに立寄り、境内にある清水を誉めたという言い伝えがある。 湧水を見ながら、数百年の昔の里の姿をイメージするのもまた楽しい。
湧水があるのは、ここが関東ローム層のいわゆるハケで、粘土層の上を流れてきた地下水が湧出する場所である。 そのため、坂上からこの辺りまでは縄文時代の貝塚が出てきている(小豆沢山ノ上遺跡)。 ただ縄文時代は縄文海進により、ここより隅田川方面は海だった。そのために貝塚が出てくるのである。
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