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2018年10月31日 (水)

しったり坂(板橋区大門)

武蔵野台地と荒川低地の境目の崖線沿いに都立赤塚公園が東西に延びて崖線の自然が守られている。東側から、辻山地区、徳丸ヶ丘緑地地区、番場地区、沖山地区、大門地区、城址地区とあり、東西1.7㎞程に広がっている。 この中でも大門地区が最も自然環境がよさそうである。崖線に数カ所の湧水があるが、大門地区のしったり坂周辺には2ヶ所が確認されている。

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崖線上からはいきなりの急階段。 公園内の散策路だが、昔のしったり坂はこの筋だったと思われる。崖線下にはニリンソウの群落が4月頃に一面に広がる。 当然水があるので縄文時代からここには人間が住着いていた。 そういう場所である。

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しったりざかはほぼ階段で20mの高低差を稼ぐ。 昔の地図は普通の道路線で描かれているが、ここはおそらく階段だっただろうと思われる。僅か50mほどで20mもの高低差である。よく見る勾配標識の%に換算すると、40%(22度)の坂ということになる。 それはとてつもない坂である。しかも関東ローム層の赤土であったのは間違いないだろう。

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下ってみても坂下に着くとホッとするくらいの坂であった。 昔、大門の人々は徳丸田圃(高島平)へ通うために諏訪神社の西裏手の崖から下るしったり坂を使っていたという記録がある。語源については、農耕具や収穫物をもって上るときに後ろから尻を押す姿から「尻垂れ坂」になり転化してしったり坂になったという説、坂の途中から清水が湧き垂れるので「しったり坂」と呼ばれたという説、湿気がひどいので「湿ったり」が訛ってという説など諸説ある。

江戸市内であれば、胸突坂とか炭団坂とか転坂などと呼ばれたに違いないが、ここはのどかな農村地帯であったので、板橋の方言でしったりというのがあった可能性もあるのではないかと想像するのも面白い。

photo : 2016/11/6

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2018年10月30日 (火)

馬坂(板橋区大門)

現在の坂の姿は新大宮バイパスの側道。 この馬坂の途中にある安部自動車には1980年代から何度か来ていた。 当時エンジンオイル添加剤が流行しており、マイクロロンは高くて買えない、フロンティアでは効果がいまひとつということで、東京でも2,3ヶ所でしか売っていない商品(ミリテック)をここまで買いに来ていたのである。しかし当時はこれが馬坂だなどとは考えもしなかった。

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写真の左側の側道が馬坂である。 もともとこの東側にはしったり坂というとてつもない急坂があった。 しかしとても馬が荷を積んで上れないということで、後に開かれたのがこの馬坂だと伝えられる。しかし馬車や牛車で道がでこぼこになって人が歩きにくく、そのため当時の人々は急なしったり坂を使っていた。昭和中期まではそんな道路状況だったという。

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本当の馬坂の道筋は安部自動車の辺りから下は反対車線の方に大回りをして、Uターンをするように東に回り込んでいた。馬坂を下ると西側には大きな池があったが、現在も一部が残されている。(赤塚城址公園内)

新大宮バイパスで本来の馬坂の大半は削り取られて切通しになってしまった。昭和30年代の航空写真を見ると、この辺りは林と畑が広がる田園地帯であった。

photo : 2016/11/6

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2018年10月29日 (月)

観音寺坂 (板橋区大門・四葉)

山の坂から南に分岐して上る坂道。 昔ながらの道筋を残している。坂上には新大宮バイパスがあってそこで交通が遮断されているが、もとはその向こうの松月院への道であった。バイパスは平成になってから暫定区間として開通したもので、おかげで往来がとても不便になった。

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山の坂から分岐した観音寺坂は緩やかに上っていく。 その筋はまったく昔と変わっていないようだ。 その先には平成20年に整備された大門東の森が緑地公園として残されている。 昔からの道はこの緑地公園を見ながら右に進むが、ここからはほぼ直線の坂道になっている。

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坂上には墓地があり源後成法観音堂がある。 古い石塔がいくつも並んでいる。 坂名の由来はこの観音堂のようだが、観音寺だったことは記録にないので寺というほどのものでは昔からなかったようだ。 この観音堂の北側には富士塚が残っている。

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裏側をバイパス工事であわらにされた感があるが、立派な富士塚である。この赤塚富士塚は新座の富士講「丸石講」の流れで江戸時代末期に赤塚に伝播し、ここに富士塚が造成されたと伝えられる。 板橋には意外に多くの富士塚がある。 ここも上ってみたがなかなか立派で大きな富士塚であった。

photo : 2016/11/6

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2018年10月28日 (日)

山の坂 (板橋区大門)

都営地下鉄三田線の新高島平駅から南に下り、首都高速5号池袋線をくぐるところが高島大門の交差点。そこから南に弧を描いて上るのが山の坂。 このみちと首都高速および大宮バイパスに囲まれた三角地帯が大門という地名。 東側には縄文時代から人が住み続けてきた沖山遺跡がある。 沖山の塁という土塁跡は戦国時代の城跡という説もある。

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大門の由来は戦国時代の城への門だとか、赤塚の古刹松月院の山門があったとか諸説がある。何千年も人が住んできた土地なのである程度以上昔のことは分からない。ただこの大坂が現在の姿になったのは昭和の中頃。やはり荒川低地から赤塚の台地へ上る道として小さな谷地に通された農道が広げられたものである。昔は坂の途中から分岐する観音寺坂の方がメインルートだったようだ。

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山の坂は台地の上まで20m近い高低差を上っていく。坂上には諏訪神社があり、その脇に「山の家」と呼ばれた田中家があったのが坂名の由来という。 おそらく現在の道筋とは上部は重なり、観音寺坂を合わせたあたりからはもっと西側に道が付いていた。 昔は松月院と諏訪神社がこの地の中心で、松月院は戦国時代の千葉一族の支配時代から栄えた古刹。徳川幕府の時代には40石、15,000坪の御朱印寺という大きな寺だった。 諏訪神社も千葉氏に関わる神社で、諏訪大社を勧請して15世紀に創建されたもの。

千葉氏はここから大宮バイパスを挟んだ赤塚に根城を持っていた戦国大名で、それ以前は関東全体を支配するほどの勢力を有し、千葉県の県名の由来となったほどの関東の名族である。

photo : 2016/11/6

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2018年10月27日 (土)

大坂(板橋区徳丸)

板橋区の大坂は徳丸七丁目を首都高5号池袋線から南へ上る坂道である。 坂は江戸時代からの坂道で、荒川低地の徳丸田圃から上り徳丸北野神社脇に繋がる道だった。 この徳丸七丁目の崖線には緑が残っていて、わずかではあるが昔の風景を残しているように思う。

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徳丸地区では最も長い坂と言われるが、他にも長い坂はある。 それで大坂と呼ばれるようになったようだからそこは尊重しなければならない。 第一、江戸時代や明治時代のことについては地図しか頼りがない。

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坂上には小さな稲荷神社がある。 社殿は半畳ほどだがそれに比べると大きな狛狐が置かれている。左の狐は鍵を咥え、右の狐は稲穂を咥えている。 稲荷神社の狐が咥えるものにはいくつか種類があって、稲穂=五穀豊穣、巻物=知恵、そのほかに鍵と玉がある。玉と鍵というのは稲荷神の象徴で、花火で「鍵屋」「玉屋」の掛け声はここから来ており、江戸時代の花火屋が当時の稲荷信仰から屋号にしたという。

photo : 2016/11/12

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2018年10月26日 (金)

鷹番の坂(板橋区徳丸)

現在の徳丸通りの前谷戸川以北の上りが鷹番の坂。 坂下の徳石公園は道路よりも一段低い場所にあり、前谷津川の暗渠が道路下のトンネルになっている。 つまり坂下が土手道になっていてすでに川の面から数m高いところにあるのである。

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鷹番の坂は緩やかに上っていく。東隣の天神坂と同じ崖線を上っているとは思えない緩やかさである。 鷹番の坂はもともと天神坂が急すぎるので開かれた坂で、崖線を斜めに上っているから傾斜が緩やかなのである。

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江戸時代この辺りの徳丸ヶ原は徳川将軍の鷹狩り場で、鷹番が多くいたのだろう。 それが坂の名の由来になったと考えるのが自然である。 窪口の庚申塔という古い石塔がこの鷹番の坂の上にある安楽寺の参道にいつからか移転され、さらに平成17年に徳丸三ツ和公園に移設された。 もとは寛永7年(1750)年の庚申信仰のもので、徳丸講中12人というから小さな村の集落というものだったと想像される。

photo : 2016/11/12

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2018年10月25日 (木)

天神坂 (板橋区徳丸)

天神坂の天神は徳丸北野神社である。 長徳元年(995)に京都の北野天満宮から分霊を勧請したもので、既に千年を超える。 江戸時代には天神または天満宮の社号だったが、明治6年から北野神社となった。 当然ながら祭神は菅原道真である。

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境内には月山の出羽三山神社の分社や富士塚もあり、江戸時代は徳丸本村の鎮守として各地の山岳信仰を取り込んでいたようだ。 富士塚については小さなものだがきれいでいかにも富士塚という雰囲気がある。

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もともと徳丸を南北に走る村の主要道は北野神社の西脇を南に下り、向坂で再び上っていた。 その下り坂が今でもなかなかの急坂で、歩く人も相当難儀をしている。昭和の中期まではほとんど民家もなかったが、高度成長期に造成が進んで今では民家で地面が覆われている。

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徳丸の台地から前谷津川の谷地に向かって落ちるように下っていく。 昔は関東ローム層の赤土面で雨でも降ろうものならぬるぬるでツルツルだったようだ。  この坂の勾配の急さは西隣の鷹番の坂と比べると不自然なくらいである。 しかし鷹番の坂は数倍の距離を掛けて崖を斜めに上るように付けられているからである。昭和初期には天神坂を車で上るのは無理だったのではないかと思う。

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坂の高低差は坂上が26m、坂下が10mなので、普通の台地の際の坂と変わらないが、ここは本当に急に感じる坂になっている。 昔の道のままの道筋だからだろう。 坂上には、「自転車は降りて通行してください」という標識が立っていた。

photo : 2016/11/12

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2018年10月24日 (水)

向坂(板橋区徳丸)

徳丸を東西に走る西徳通りと南北に延びる徳丸通りとの交差点は宮の下交差点。 少し北側を西から東に流れていたのが前谷津川。 今でも谷になっていて、川跡は暗渠の緑道になっている。東西の西徳通りは川沿いの道だが、南北の徳丸通りは川を挟んで南が向坂、北が鷹番の坂で、薬研状になっている。

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上の写真は南側の向坂途中から宮の下交差点を見下ろしたもの。 その向こうの直線部分は土手状にして谷を越えるところ。 さらに向こう側は上り坂になり鷹番の坂となる。 この徳丸通りの土手部分は戦前にはすでに開通していた。東武練馬から徳丸を経て赤塚を分度器状に半円を描いて回る道路で、早くから整備されていた道だった。

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向坂はカーブを描きながら上っていくが、ここは明治の終わりから切通しの坂道になっていて、それ以前は急勾配の難儀な道だったと思われる。 車でなく人馬の時代は観音講の坂の方が使われていたに違いない。

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切通しの状態は坂の途中の擁壁を見ると一目である。10mを超える段差がある。戦前は前谷津川の南側の向坂周辺はほとんど民家もなく、多くの家は北側の鷹番の坂周辺に集まっていた。 そのため、あちらから望むと向こう側の坂道ということで向坂となった可能性が高い。 板橋区の資料だと、徳丸本村の台地から望む南方の向山に上っていく坂道、とある。ただ向山という地名は古い地図にも見当たらないので、一般名としての向い山ではないかと思う。むけい坂という別名もある。

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宮の下というのは、北側にある徳丸北野神社の下ということであろう。北野神社については北側の坂道で別述したい。 こちらの向坂の西側の擁壁の上には昆虫公園という面白い公園がある。数年前に施設は撤去されてしまったが、雑木林が残され、カブトムシも自然繁殖しているようだ。

photo : 2016/11/12

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2018年10月23日 (火)

観音講の坂(板橋区徳丸)

西徳通りは東端を環八と接続し、西端は新大宮バイパス直前の民家手前で突然終わる。 計画道路としてはバイパスと接続するようだが、幹線道路の抜け道としてトラックが増えて、地元住民からの苦情が絶えなく、今後は便利を取るか、環境を取るかの争いになりそうである。少子化の時代なので、そのバランスが変化すべき時期に来ているのだが、行政も財界も近視的な決定が多く、まだまだ舵取りが行われているようには思えない。方策はいくつもあるのだが、権利を主張し義務を果たさない戦後の国民性が邪魔をしているような気がする。

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そんな西徳通りは前谷津川の削った谷底を走っているので、地形に反響するトラックの騒音問題も避けて通れない。前谷津川はこの辺りでは西徳通りの北側を流れていたが、写真の道路沿いにはその支流の沢があって北野小学校辺りを源頭にしていた。この北側にある交差点のマンションの1階が黄金湯という銭湯になっていて、沢筋の名残りである。その沢に架かる橋の脇にあった庚申塔が今もまだ残っている。享和2年(1802)の庚申塔の前には道標もあり、右下練馬村、前赤塚役場、左志村赤羽と彫られている。

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その先の特別養護老人ホーム マイライフ徳丸前から東に上る坂道が観音講の坂。 戦前の地図にはこのあたりの地名として観音講と書かれたものがある。

板橋区の資料によると、「徳丸5丁目から前谷の徳石橋を渡り、南の台地に向かうと、台地の裾から上にかけて旧小字観音講と呼ぶ一帯が広がっている。この地は谷を挟んで東西に分かれている。この東側を上がる坂を観音講の坂という。坂の下に観音堂(アゼッポのお堂と呼ばれた)があって、観音信仰の信者によりう結衆した家の多い地であった。このことから観音講と呼ばれるようになったという。」とある。

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沢が削った突端が坂の南側に見える。 見事な鋭角の土地と擁壁が迫ってくる。 南北の道は戦後の開発で出来たもので、戦前は沢を上る道が東に曲がりこの観音講の坂のみだった。 観音の痕跡はないが、この地形は面白い。

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坂下が12m、坂上が27mなので15mの高低差がある。昔はぬかるむと大変な坂だったのだろう。 観音講というものは現代社会ではかなり疎いものだが、私の祖母が信心深い人で稲荷と北向観音へのお参りを欠かさなかった。 子供の身体に具合が悪いところがあると観音様に祈願したりするのは、数十年前までは日本の普通の情景だった。

photo : 2016/11/12

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2018年10月22日 (月)

お伊勢坂(板橋区徳丸)

徳丸は前谷戸川水系の削った谷と台地が蒔絵のようになった地域である。 昭和後期になって再開発が進み、前谷戸川沿いを西徳通りが東西に走り、南北に徳丸石川通りが薬研状に走っている。 その二つの通りの交差点が徳丸五丁目郵便局裏。 この辺りの道路は概ね1970年以降の開発によって整備された。

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そのため昔からの道路と直角に接続していない箇所がいくつもある。上の徳丸五丁目郵便局裏から南へ上る坂は1990年代に開かれた極めて新しいもの。しかし坂上は江戸時代からの道路である。 この坂の上部から、東に分岐する道路が古道で、お伊勢坂という。

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従って徳丸石川通りのうち、お伊勢坂に当たる部分は坂上の数十mのみで、あとは上の写真の右端にある横断歩道のある道へとお伊勢坂は曲がっていた。 そちらも現在はきれいに整備された道路になっているが、その道が坂を下り前谷津川を渡っていたのである。

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お伊勢坂は区立徳丸福祉園の前を下って西徳通りに出る。 お伊勢坂の名前の由来は、坂上に伊勢神社が祀られていたことによると伝えられるが、それらしき痕跡見当たらなかった。 ただ坂上のバス停が「おいせ坂上」となっており、お伊勢坂の名前を残しているのが喜ばしかった。

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この辺りの前谷津川流域にはほとんど縄文弥生時代の遺跡はなく、古い時代には人間の住めない環境だったと思われる。 坂下の標高は15m程度なので、縄文海進時代も海ではなかった。やはり海岸に近いほうが住みやすかったのであろう。

photo : 2016/11/12

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2018年10月21日 (日)

峡ノ坂(板橋区徳丸)

現在は小さな区画整理で出来た路地のように見えるが、この道が昔からある道で、周りの道はすべて最近できた道という不思議な存在の道である。 水車公園から東へ伸びるきれいな徳丸槙の道と南北に走る徳丸石川通り、その交差点の北西にある知らなければたどり着けない峡ノ坂の長さは僅か50mほどしかない。

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坂上は四葉公園の北東角、変則の五差路になっている。そこから戸建て住宅の間を抜けるように峡ノ坂が始まる。 クランク状に曲がって途中から下りがきつくなる。 この道を最初は何かの間違いだと思った。 しかし昭和中期までの地図を見ると、これが唯一の道。 しかも江戸時代の地図にも出ている道なのである。

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何とも不思議な道である。 少し南側には前谷津川が流れていたが、現在は石川橋公園となって暗渠化している。 川筋はほとんど緑道になっていて、容易にたどることが可能である。 昭和30年代までは雑木林の中を流れる小川の風景だったのだが、今はその面影はない。

photo : 2016/11/12

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2018年10月20日 (土)

番場ノ坂(板橋区徳丸)

徳丸には様々な坂道がある。 番場ノ坂は高島平の赤塚公園交差点から徳丸の台地に上る坂道。 緩やかに上る主要生活道路だが、この道が拡幅整備されたのは1990年頃で、それ以前は細い急坂の道がくねりながら上っていた。 そのため番場ノ坂と呼ばれていた坂の坂下7割は団地の道路のようになってしまったが、坂上の3割はまだくねったまま残っている。

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昔は坂下に湧き水があって、坂上には代官から水番を命ぜられた番小屋があったと伝えられる。 湧水の辺りは近年まで釣堀として残っていたそうだ。 また坂上には郷蔵もあり蔵番がおかれた。 この辺りの昔の地名を番場と呼ぶことから番場ノ坂となった。 ここの崖線は坂下の標高5mから一気に30mまで上っているのが、マンション脇にある階段を見るとよくわかる。

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信号機のある交差点から南へ曲がるのが昔からの道筋である。 ここからは拡幅されているが昔ながらのカーブを繰返す道。 しかし徳丸台地から崖下の徳丸田圃に行く坂道の中では、昔の番場ノ坂は緩やかな方だったので、一番利用された道だったようだ。

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多くの人々が使う道だったこの辺りは、縄文以前からの遺跡も多く出土している。 というよりこの新河岸川の南の崖線はほとんど縄文、弥生の遺跡が出てくるエリアなのである。縄文海進んの時は入江の海岸線で貝などを採取するのに適していただろうし、同時に雑木林の実りも享受することが出来た。 弥生時代になり農耕が始まると、海は日比谷まで後退し、農耕に適した低地が広がっていた。 辺りには環濠集落が築かれ当時から人口は多かったと思われる。

photo : 2016/11/12

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2018年10月19日 (金)

駒坂(板橋区四葉)

種井坂の坂下から東に分岐する道は向口公園に当たると右折して坂を上っていく。 この坂道が駒坂である。 駒というと馬のこと。昔は馬が上り下りしたのではないだろうか。 昔は台地上に住む農家の人々がこの坂を下って、低地に広がる徳丸田圃との間を往復した道である。

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向口公園は斜面の公園。 高低差は18mほどあり、雑木林の残るいい公園だが、そばに赤塚公園があるので利用者は少ない。 この公園の下が駒坂で、公園の上部と同じ高さまで上っていく。 公園と反対側には生コン工場があって、コンクリートミキサー車が並ぶ。

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生コン(レミコン)は私にとっては懐かしい。 幼少期を工務店で育ったのだが、当時はまだ生コンは少なく、殆ど現場でセメント、砂、砂利、水を混ぜて生成していた。それが高度成長期以降、効率を上げるのにこのミキサーで走りながら混ぜ上げたコンクリートを作って現場で流し込むだけという方法が主流になっていったのである。
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坂上から望むと向口公園の豊かな緑が覆いかぶさる。 この辺りは四葉地区遺跡として考古学上では有名なエリア。 四葉地区遺跡は、板橋区の四葉、徳丸の広大な土地区画整理事業に伴って、約64,000㎡を対象として調査された遺跡。 荒川谷に臨む武蔵野台地(成増台)の縁辺部にあたり、支谷や湧水を抱え、旧石器時代から近代に至るまで膨大な資料が出土した。

photo: 2016/11/12

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2018年10月18日 (木)

種井坂(板橋区四葉)

赤塚公園の沖山遺跡脇から南にむかってゆるやかにカーブを描きながら上っていく坂道が種井坂(たないざか)である。 坂上から少し西に行ったところに四葉稲荷神社がある。 ということはこの道は宮前坂から続く古道の一部ということになる。 江戸時代の古地図を見ても間違いないようだ。

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稲荷神社の道路が北に向かって台地を下り、高島平方面に行く坂。旧小字沖口にあるので沖口坂ともいう。坂下近くに「たない=種井」という2坪せいぜいの広さの池があり、種もみを浸すのに使ったという。これから坂の名が付いた、と板橋区の資料にもある。

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種井を調べてみたが、僅か2坪の池では古地図に載ることもない。昭和中期まで赤塚公園のグラウンドになっている辺りには大きな池があったがこれとは違う。 種井坂の道路も近年再開発で拡幅しきれいになった道路だが、2坪といえば四畳半より小さい。 ただ、坂の途中沖口遺跡とは反対側に深い窪みと池がある。

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種井とは無関係だが、忽然と残る池が気になった。 種井坂と東隣にある駒坂は昔の小沢に沿って付けられた道で、種井坂沿いにあった細流の源頭がこのあたり。 ということは現在も湧水が出ている可能性が高い。板橋区の湧水リストにはこの窪地が載っている。個人所有らしい。 赤塚公園もまた湧水の多い公園である。これらの湧水のおかげで、縄文時代から人間が住着いて、さらに弥生時代には農耕を行うための最適な条件の土地となったのだろう。

photo : 2016/11/12

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2018年10月17日 (水)

宮前坂(板橋区四葉)

板橋区四葉は徳丸と高島平の間の町名。 ほんの50年前はのどかな農村風景だった場所である。 現在はまだかつての農家と新しい戸建が共存している。 前谷津川が流れ、水車小屋があった風景が再現されて、水車公園になっている。

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水車公園には昔の炭焼き窯も残されており、興味深い。昔はここでも周辺の雑木林の材を使って炭焼きが行われていた。 水車小屋の前には昔、前谷津川が流れていた。 農業用水として使われてきたが、昭和59年(1984)に暗渠化された。 現在も一部は緑道になっている。

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宮前坂は水車公園の前から北に上っていく。 江戸時代からの古道である。 纏(まとい)をかたどった看板の建物(上階はアパートっぽい)の前をくねりながら上る姿はまさに古い道筋である。 坂の途中に庚申塔がある(現在は工事で消えているようだ)。

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この辺りは庚申塔や石仏が多い。 この3基の庚申塔は現在開発工事で亡くなってしまっているようだが、地元の方がきちんと移設してくれているのではないかと期待している。宮前坂の東側は最近相続でもあったのか盛んに地ならしが行われているから、また戻ってくれると嬉しい。

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宮前坂の由来はどの神社だろうと思いながら坂上を進むと、バス通りの向こうに四葉稲荷神社があった。 元亀3年(1572)創建の四葉村の鎮守である。この神社が宮前坂の名前の由来かと思ったが、板橋区の資料だとこのあたりの旧地名が宮前だったからだとある。 心の中で(四葉だろう)と突っ込むが、根拠が見当たらない。 昔の稲荷社はかなり広かったようで、そこに向かって上っていくので個人的には自説を取りたいところである。

photo : 2016/11/12

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2018年10月16日 (火)

梶谷津の坂(板橋区赤塚・徳丸)

下って上る坂。 現在では新大宮バイパスに分断されてしまったが、昔は前谷津川支流の谷を下って向こう側に上る薬研型の坂道だった。 徳丸側からアプローチすると、長い下り坂が徳丸四丁目の交差点に向かって続いている。この道は「浦和道」と呼ばれた幹線の古道。 現在の高島平から水車公園近くを通り、この梶谷津の坂を抜けて現在の東武練馬駅に抜けていた。

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その道を東武練馬から西に進む。まっすぐにしたいのだが古道が曲がっていたのでそれに合わせた道になってしまったという感じがする。 しかし東側の坂は道幅もあって普通の坂という雰囲気。 バイパスのこちら側は徳丸になる。

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坂を下りきると盛土された新大宮バイパスの数少ない信号交差点の徳丸四丁目。 本来の道筋はトンネルになっている方。 昔はここで川を渡っていた。 今も暗渠道が残っているので、多くの暗渠マニアが探索をしている事だろう。川が消えたのは昭和の高度成長期のこと。 どこもほぼこの時期に暗渠化されている。

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バイパスを横切って赤塚に入ると、昔の道の風景になる。 農地も残っていてかつての雰囲気を残している。この辺りは前谷津川がいくつかの沢に分岐していて、そのうちのひとつが梶谷津川と呼ばれていたようだ。 梶谷津川の源頭は現在の下赤塚駅東側、大正期あたりまでそこは梶山と呼ばれ、そこから流れる沢の刻んだ谷を梶谷津と呼んだ。

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また梶谷津の東の谷は馬喰谷戸といわれ、かなり急峻な沢だったようだ。 梶谷津の坂の西側はその馬喰谷戸の真反対を上っていく。 坂上にの集落に増福寺がある。 寛永8年(1631)に開かれた曹洞宗の寺院で、区内最大の208㎝の板碑がある。

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梶谷津坂の坂上には庚申塔が3基並んでいる。かなり風化が進んでいる。 右から宝永7年(1710)の三猿の庚申塔、真ん中は舟形の石塔で貞享5年(1688)、左の小さいものが元禄16年(1703)の傘付き庚申塔。 こういうものを大切に守っている地域は良い地域だと思う。

photo : 2016/11/12

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2018年10月15日 (月)

長命寺坂(板橋区常盤台)

環七通りと川越街道(国道254号線)の交差する板橋中央陸橋の東側に残る旧川越街道の坂道が長命寺坂である。 ただし長命寺は環七立体交差の反対側にある。 旧川越街道は上板橋宿を過ぎ下頭橋を渡ると長命寺の前で二手に分かれ、右が川越街道、左は氷川神社から安養院を経て茂呂へ向かう道。 現地では大通りを視界から消してイメージすると昔の様子が浮かんでくる。

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昔の川越街道は幅3間というから、およそ5.5mあった。ほぼ当時のままの道幅のようである。下頭橋の標高が22m、長命寺の前が28mだからそれほど急な坂ではない。 板橋区の資料によると、旧川越街道が下頭橋を渡し東山町にある長命寺に向う坂。東山にはかつて板橋城があったという説があるが確証はない、とある。

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板橋城は豊島一族の板橋氏の居城で、室町時代に長命寺と隣の上板橋小学校の一部にかけてあったと言われる。長命寺が江戸時代の初めの開山で、それよりもはるかに昔の話なので諸説ある。ただ、地形はこのあたりだけが一段と高くなっているので、居城であった可能性は十分ありそうだ。

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一方の坂下にかけては、下頭橋通り(旧川越街道)という道路標識も出ていて、江戸時代の賑わいを感じさせる。 橋のたもとには下頭橋六蔵尊があり、下頭橋のことが掛かれた説明板が立っている。 橋の名前の諸説には、旅僧が地面に突き刺した榎の杖が、やがて芽吹いて大木になった逆榎がここにあったという説。 二つ目は川越街道を利用する川越城主が江戸に出府の折、江戸屋敷の家臣がここまで迎えに来て頭を下げたからだという説。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨(寺社や貧乏人に施しものをすること)を受けていた六蔵の金を元に石橋が架けられたからという説である。

三番目の説の六蔵というのは乞食の名前で、『まんが日本昔ばなし』にも取り上げられた「けちんぼ六さん」という話で面白い。

photo : 2018/4/8

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2018年10月14日 (日)

海老山の坂(板橋区弥生町)

海老山の坂といってもどこからどこまでが坂なのかわからない程度の微妙な勾配。しかも大部分が直線なので、歩いていて坂を認識することはまずないだろう。 しかし、下頭橋から坂上の日大病院入口までは10mもの高低差がある。この海老山の坂はかつての川越街道上板橋宿である。

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下頭橋付近はカーブしているので勾配を感じることが出来るが、直線になると疑問符が出る。 しかしこの直線部分が海老山の坂なのである。坂の真ん中あたりに豊敬稲荷がある。旧街道の宿場町にある稲荷なので古いと思いきや、江戸末期から明治あたりに出来たらしい。

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豊敬稲荷は常盤台の天祖神社の末社で、由緒説明も天祖神社の宮司によるものとなっている。つまり、江戸時代の川越街道にはなかった神社ということになる。 しかしこの辺りには宿場の商家が立ち並び栄えていた。街道の宿場だけではなく、練馬・板橋の農産物を江戸市中に運ぶための拠点にもなっていたのだろう。将軍綱吉が尾張から持ってきた種を使い名産となった練馬大根もここを通って運ばれたはずである。

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海老山の坂という坂名は、この辺りの山を海老山と呼び、飢饉に備えた稗蔵(ひえぐら)があったが、ヒエが訛ってエビとなったという説がある。 果たしてヒエがどうしたらエビになるのかはわからない。 稗蔵は江戸時代に多く作られた木造の蔵で、最近はほとんど見かけなくなった。

photo : 2018/4/8

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2018年10月13日 (土)

暗闇坂(板橋区南常盤台)

東武東上線のときわ台駅の南側、誠の碑(故宮本警部記念碑)の踏切から南へ伸びる常盤台銀座通りから環七に下る坂道。 宮本警部の話は記憶に新しい。2007年2月6日、自殺を図って踏切に飛び込んだ女性を助けようとした53歳の警部は「死ぬんじゃない」と踏切から女性を引っ張り出したが、女性は助かり警部は電車にはねられ亡くなった。やるせない話である。

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暗闇坂は踏切からいくと2つ目の辻を南東に下る道。 この路地は常盤台銀座通りから環七までの間しかない区画整理後の取付道路のようだが、実は古道。 昔からあった道が区画整理で付け替えられたがここだけが残ったのである。 江戸時代は川越街道が下頭橋で石神井川を渡ると、川越街道と常盤台の天祖神社への道と二つに分かれていた。 この天祖神社へ向かう道がこの暗闇坂だった。昔は、覆いかぶさる樹木で昼なお暗い道だったのでその名が付いた。

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常盤台一帯は、旧地名を北豊島郡上板橋村字向屋敷といい、昔は道沿いに民家が2、3軒あるだけの「前野っ原」と呼ばれる農地だった。大正3年(1914)に東上鉄道(現在の 東武東上線)が開通したが停車駅がなく、昭和初期に東武鉄道が一帯を買収した後も、しばらくは民間の飛行場として使われていた。その後、 昭和10年(1935)に武蔵常盤駅(現在のときわ台駅)が開業し、常盤台住宅地の分譲が開始された。

Photo : 2018/4/8

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2018年10月12日 (金)

堂坂(板橋区東新町)

川越街道の東新町辺りの川越街道と石神井川の間にある坂道が堂坂で、細い路地だがこれも江戸時代からあった道。 この辺りは当時上板橋村だった。 またこの辺りの地名は上ノ根(かみのね)と呼ばれていた。 一説によると、神流→上沼→上ノ根と転訛したというが、私が個人的に考えているのは、石神井川の南側の字名が根ノ上であることから、川の南が根ノ上、北が上ノ根とされたのではないかという別説である。(可能性は低いと思う)

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堂坂は氷川神社の東側に沿って川越街道に向かって上る坂道である。 勾配は少ないが、微妙な曲がり具合が古道であることを示している。この氷川神社の古い名は上ノ根氷川神社。創建は不明。昔は上板橋村の鎮守だったという話もある。

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堂坂の坂名と氷川神社に何か関係があるのかと思ったがそうではないようである。板橋区の資料によると、坂の途中に旧家で大庄庵と称した小野沢氏の家があり、ここに地蔵堂があったので堂坂、あるいは地蔵坂と呼ばれた、とある。

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氷川神社の最初の鳥居の標高が24m、本殿が30mなので境内の中で6mほどの高低差がある。 河岸段丘をうまく使った境内の配置になっている。 氷川神社の西250mに安養院という古刹がある。鎌倉時代に北条時頼により創建された真言宗の寺院だが、ここも河岸段丘をうまく使った院内配置になっている。その安養院の前には昭和の初期にわずか5年間ほど上板橋村の村役場だった役場跡があり、現在も区の施設になっている。

Photo : 2018/4/8

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2018年10月11日 (木)

ばんち坂(板橋区小茂根)

小茂根は小山町、茂呂町、根ノ上町をまとめて出来た1965年以降の町名。その中の茂呂町は江戸時代には上板橋村の一部。茂呂は毛呂とも書いた。従って茂呂山坂でもよさそうなものだが、ばんち坂という呼び方は意外性がある。

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この毛呂山通りの先は岬とその先に浮かぶ島のような地形になっている。手前の岬に下る坂道がばんち坂である。 その由来は板橋区の資料によると、坂の東側一帯の山は茂呂公園といい、昔は「ばんち山」といわれた。この山の持ち主であった山上氏の先祖は、江戸城の警護衆が住んでいた番町から来たという。このことからこの山を「ばんち山」と呼んだと思われる。 江戸時代のこの辺りはすこぶる田舎である。 何か事情があって都心から引っ越してきたのだろうが、村人からすると公家が引っ越してきたようなものだったのかもしれない。

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坂は直線で勾配はそこそこある。自転車ではきついようだ。上野写真の樹木が繁るところが茂呂山公園。 公園全体が丘の上と斜面になっていて、地元では桜の名所らしい。 このばんち坂を語るのに、この坂の部分だけでは十分ではない。

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それはこの坂の下から再び小高い小さな丘を乗り越える部分である。 そこには茂呂遺跡という石碑と説明板がある。 日本の考古学上きわめてシンボリックな場所なのである。

オセド山と呼ばれるこの独立丘陵は、昔から縄文時代早期の土器破片が多く出る場所として知られていた。昭和26年、ここを通りかかったある中学生が、この栗橋新道の切通し断面の関東ローム層(赤土)中より、黒曜石製の石器と礫群の露出を見つけた。

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この発見が元で、その年に明治大学と武蔵野郷土館が共同で、関東ローム層中に残された、旧石器文化(先土器文化、岩宿文化とも呼ばれる)の発掘調査を行った。その結果茂呂型ナイフと呼ばれる特徴的な石器の存在が明らかになり、日本の旧石器文化研究の端緒となった岩宿遺跡(群馬県)と並び、考古学研究史上特筆される成果が得られた。

最初の発見者である中学生(瀧澤浩くん)はのちに考古学者となったというのも微笑ましいストーリーである。

Photo:2018/4/8

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2018年10月10日 (水)

すて場坂(板橋区小茂根)

えんが堀は昭和中期まで流域の灌漑用水として重要な役割を果たしてきたが、宅地化が進むと家庭排水による水質悪化が急速に進み、さらに石神井川が増水するたびに、流れが逆流して氾濫を繰返したため、1969年~1972年に暗渠化が行われた。 大谷道(現在の大谷通り)は西光寺から地蔵坂を下り、えんが堀を越えて小茂根に続く道で、地蔵坂に相対する坂がすて場坂である。

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整肢療護園(心身障害児総合医療センター)前を上っていく比較的長い坂。 この坂下に昔、牛馬の捨場があったので付いた名前らしいが、江戸時代にそのような場所があったということにいささか驚いた。調べてみると、天武天皇の御代(7世紀後半)に牛馬犬猿鶏の肉を喰うのを禁じられ、明治になるまで日本人は牛馬を食べることはなかった。そのため厄介なことではあるが、労役を終えた牛馬はどこかへ捨てられていたわけである。

勿論時代の統治者から認められたものが牛馬の処理権を持っていたようだが、実際の作業という視点からするとそこに士農工商以下の民の存在が現れる。なかなか奥の深いテーマである。

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坂上近くに整肢療護園の門がある。1942年に身体の不自由な子供の施設として開かれたが空襲で焼失。 しかしながら戦後関係者の苦労で再建されて現在に至る。 四肢のみならず、心身障害に関しても貢献の大きい病院らしい。

坂上一帯は根ノ上遺跡、縄文時代から平安にかけての住居跡が出ている。えんが堀が石神井川に合流する肥沃な土地の傍にある台地の上である。 概ねこういう場所には何千年も前から人間が住んでいる。辺りは昭和40年(1965)まで根ノ上町という地名だった。辺りには、小山町、茂呂町という字名があり、これらを合わせて小茂根となった。

Photo : 2018/4/8

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2018年10月 9日 (火)

地蔵坂(板橋区大谷口)

えんが堀はいくつかの細流を集めて石神井川に注いだ小川。 源頭のうちの大半は千川上水の水が地下を通って湧水となったものと言われるが、その支流のひとつが有楽町線千川駅のある要町三丁目交差点の北側の湧水から流れ出ていた。 現在は大谷口ガーデンマンションD(大谷口2-35-13)になっているところに湧水の池があったが埋められた。しかし現在もマンション前の坂の下に暗渠がある。向原団地前でえんが堀と合流。 そこは地蔵坂の坂下にあたる。

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地蔵坂の由来は坂の途中にあった地蔵堂による。 坂上の辻には2基の庚申塔があり、左が延宝5年(1677)、右が貞享2年(1685)と相当古いもの。 時代に対して大変保存状態のいい庚申塔である。

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この坂道に民家が建ち始めたのは昭和中期で、それ以前は切通しの寂しい坂道だった。 この道は江戸時代からある古道で、現在の大山(当時は下板橋宿)から氷川台(当時は下練馬村)への主要道で、坂上には真言宗の西光寺がある。 西光寺は1650年代に開山した古刹で、坂の途中にあったというしろかき地蔵(苗代地蔵)が保管されている。

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西光寺のしろかき地蔵の民話は当時の風景に導いてくれる。

その昔、大谷口村に信心深いお百姓さんがいた。村一斉の田植えの前の日、お百姓さんは一所懸命代かきをして間に合わせようとしたが、薄暗くなってもまだ半分も終わらない。途方に暮れていると、どこからともなくお坊さんが近寄ってきて、やさしく話しかけてくれたかと思うとついぞどこかに消えてしまった。

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諦めたお百姓さんが翌朝田んぼに来てみると、広い田んぼはすっかり代かきが終えられて、朝日が田んぼに反射して輝いていた。びっくりしてあたりを見回すと、田んぼの泥が点々と田んぼから丘の草原に続いている。泥の跡を辿ると丘の上の小さなお堂にまで続いていた。不思議に思い、お堂の扉を開くと、お地蔵様の体は腰のあたりまで泥だらけだった。

そのお地蔵さんを見て、300年前の人もこれを見てうなっていたんだと思うと、何とも言えないものがあった。

Photo:2018/4/8

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2018年10月 8日 (月)

だらだら坂(板橋区向原)

小竹向原駅は1983年に営団地下鉄有楽町線の駅として開業、後に西武の乗入も始まったが、都内でもかなり後発の駅である。駅周辺は石神井川の支流、えんが堀の流域。 もともとの名前は江川とも言われる。江古田駅北側と南長崎辺りを水源とした小川だが、1970年前後に暗渠化された。従って小竹向原駅は相対的な低地にある駅になる。

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駅の南側に出て、向原小学校と向原ゴルフセンターの間を上る。 ここがだらだら坂である。 傾斜地にある小学校のプール脇の道で、この塀も例の耐震補強工事のなされていない壁のように見える。 このプールの壁の手前がえんが堀の暗渠。傾斜はだらだらというには勾配がある。

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このだらだら坂の道は古道で、上板橋村から長崎村へのメインルートだった。のどかな農村でまばらに家があるような風景が昭和の中期まで続いた。鉄道の開設からもわかるように、この地域に家が立ち並び人口が増えたのは1980年代である。 小学校の開校は1963年だが、やはり1980年代に校舎を増設して人口増加に対応している。

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板橋区の資料によると、だらだらと長いのでだらだら坂と呼ばれたとある。またこの道は台道道と呼ばれ、北に行けば石神井川の台橋を渡り川越通りに出る。南は江古田通りに出る、とある。

photo : 2018/4/8

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2018年10月 7日 (日)

岩の坂(板橋本町)

中山道は江戸五街道のひとつ、江戸と京都・大阪を往来する東海道が川に阻まれるのに対して、比較的スケジュール通りに歩けた中山道を使う旅人も多かった。 女性が多く利用したので別名姫街道とも言われた。 現在も国道17号線と並行して付いたり離れたりした旧街道が残っている。

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板橋宿に入る手前、平尾追分で川越街道と分かれた中山道は板橋宿の半ばを過ぎると石神井川を渡る。 ここに架かるのが板橋。 板橋の地名は鎌倉時代に始まる。 ここの橋は板を渡しただけの粗末な橋でそれが板橋の由来という説がある(諸説あり)。 この板橋を渡ると緩やかな上り坂になる。 これが岩の坂。

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かつて坂の左側に榎の大木が聳え奥に第六天社があった。今は反対側に移され縁切榎と呼ばれる人気の社になっている。昔は坂の両側から覆いかぶさる樹木により昼なお薄暗く不気味な坂であったので「いやな坂」が訛って「いわの坂」と呼ばれた。 これが岩の坂の由来のようだ。 江戸時代にはこの辺りは水茶屋のような風俗っぽい店が多かったようで、そっちの歴史の方も掘り下げると面白そうである。

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縁切榎の歴史の中で、幕末の皇女和宮が江戸幕府第十四代将軍家茂の正室となった時に中山道を京都から江戸まで降嫁の行列で向かった。 行列の長さは50㎞もあったという。その行列がこの縁切榎を避けて迂回したという話が残っている。 板橋あたりの石神井川は流れを直線化したもので、板橋の位置も昔は少し江戸寄りだった。 橋の脇に残っている細長い公園がかつての川跡。 江戸から板橋を渡ると岩の坂を上って、そこからは前野村に入る。

Photo : 2018/4/1

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2018年10月 6日 (土)

長徳寺の坂(板橋区大原町)

長徳寺は真言宗の寺院。 開山は鎌倉時代の初期と伝えられるが、江戸時代以前の詳細は不明。 運慶作の大日如来が本尊とされていたが、慶長5年(1600)大火に遭い、次いで昭和20年(1945)の戦災により焼失してしまった。これより前は明治32年(1899)に大改修が行われた。戦後から現在にかけては、昭和38年(1963)に本堂が再建され同55年(1980)に山門が再建され今日に及ぶ。 江戸時代の絵図には長徳寺大日堂とあり、大日如来が信仰されていたことがわかる。

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長徳寺の坂はこの門前を寺の塀に沿って首都高速池袋線下から中山道に向かって上る。 高速下は出井川の流れだった筋。昭和の中期まで川が流れていた。 江戸時代からの道は中山道からここを通り、上板橋村へと繋がっていた。 また門前から東に緩やかに上る栄道があり、この道は現在の本蓮沼駅(中山道)に出るが、この道もまた江戸の痕跡を残している道である。

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坂名は長徳寺の前を通る坂であるため,この坂名になった。前野の古い道の一つに「お大日道」があり,練馬道(富士見街道)から分れ出井川の谷に下り, 長徳寺の南側の坂になる。 こ/のお大日道はおそらく長徳寺の大日堂に因むものだろう。

Photo:2018/9/18

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2018年10月 5日 (金)

寺坂(板橋区小豆沢)

魚籃坂を下っていく。坂の右手(東側)に急勾配で上る坂がある。名前はないが「全力坂」では小豆沢四丁目の坂という名で何度も登場している近年の名坂である。この道が地図に載っているのは昭和の中期から。 勾配は魚籃坂との相対で強調されているが名坂である。

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この小豆沢四丁目の坂を上るとその先には小豆沢神社がある。 康平年間(1058~1065)の源義家の勧請というのが伝わる起源。 小豆沢村の鎮守として親しまれてきた。御神木のスダジイは幹が空洞化して傾斜しているがまだ健在の区指定天然記念物である。狭い路地だが神々しいオーラがある。

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小豆沢神社の周辺は十二の入江があったため、江戸時代には十二天社と称して、小豆沢村の鎮守社であった。明治2年(1869)に小豆沢神社と改称。 もうすぐ千年という古い神社であることは確かである。

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東隣の龍福寺は、室町時代末に袋村(現北区赤羽)の真頂院の僧運珍が隠居寺として創建したといわれており、建長7年(1255)以降の数多くの板碑や、小豆沢地名由来の伝承が残されている。当寺薬師堂の本尊薬師如来は、当寺北側の御手洗池から出現したと伝えられている。 龍福寺の東側から寺坂はカーブを描きながら下っていく。

御手洗池は崖下の公園にある小さな池。江戸時代には富士講の信者たちが旅立ちの前にここで禊ぎをしたと伝えられる。

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寺坂は龍福寺や小豆沢神社のある台地から下る坂。この先の荒川(新河岸川)には,江戸時代から舟運で栄えた小豆沢河岸(別名大根河岸)や,対岸の浮間とを結ぶ浮間の渡し場があった。坂は崖線の巨樹の間を下っていく。 途中のケヤキも優に200年は経っている巨木である。

Photo:2018/9/18

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2018年10月 4日 (木)

石坂(板橋区成増)

石坂はまっすぐな坂道だが、戦前は現在の道とはかなり違うルートを取っていた。この上の成増台最北西端の台地は俗称「ドヤマ」の台地と呼ばれた。ドヤマの由来は分からない。ただ建物がない時代をイメージするにはすぐ近くの崖線にある成増四丁目緑地を見ていると浮かんでくる。

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その台地の南に流れる小井戸川に架かる橋から菅原神社(成増5-3)のある台地に上るのが石坂で、この坂の名の由来は,成増村になる前の地名が石成村の小字成増であったので関係しているのかもしれない、と「郷土 板橋の坂道」にある。

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菅原神社の創建年代は不詳ながら、延宝7(1679)江戸末期には「山王社」と号して成増村の鎮守社だったと伝えられる。明治2年(1869)には天神社と改称、明治7年(1874)菅原神社として村社となった。御祭神はその名のとおり菅原道真。 江戸時代には青蓮寺が別当となっていた。

Photo:2016/11/5

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2018年10月 3日 (水)

権現坂(板橋区成増)

成増台の北西端の台地にある坂のひとつ。 旧白子川の田島橋から台地に上るのが権現坂である。 坂の東側の高台には特別養護老人ホームの音羽レジデンスがあり、その擁壁の石垣が美しい。 この老人ホームは2008年に建替えられたものだが、それ以前は三園ホームという施設だった。三園ホームは1986年から30年ほど、それ以前はのどかなハケ(崖)の林に包まれていた。

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権現坂は坂の曲がり具合、傾斜、石垣の景色と三拍子そろった美しい坂である。 ただ坂上で道が止まっているのが不足点。 しかし、この道は意外に古道であるという説明がある。この辺りは明治、大正時代まで松木と呼ばれた地域で、この道は松木道という道だったという。

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坂の途中で振り返ると、成増五丁目アパートが見える。 成増五丁目アパートは建て直された都営住宅。 高島平団地に代表されるように板橋区は高度成長期には東京の人口を支えるベッドタウンとして爆発的に増える人口を受け入れてきた。 建て替えは建ぺい率を下げて、4階建を10階建てにしたもの。

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坂はまだまだ曲がりながら上っていく。 坂の高低差は20mある。 権現坂の坂名の由来については、板橋区の資料によると、「旧白子川分流の田島橋から成増の台地に上がる坂で古道の松木道が通っていた。この坂の途中に「木椎熊野大権現」(成増4-21)が祀られていたので権現坂と呼ばれた。この権現神社は赤塚3-9地先に移されたが今は廃社になっている。」とある。

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古い地図を確認するとこの坂は坂上で北に進み、青蓮寺に抜けている。その道が松木集落の真ん中を通っていたので松木道と呼ばれたのだろう。三園通りが開かれる前はこちらが主要道だったようだ。 

板橋区は昭和の初期まで村だった。昭和7年(1932)に2町7村が合併して板橋区が誕生し、戦後は一部が練馬区に変わった。 古道周辺にはまだわずかに古い町並みが残っている地域だけに、散策は面白い。

Photo:2016/11/5

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2018年10月 2日 (火)

おなかや坂(板橋区成増)

青蓮寺の門前から東へ下る坂道がおなかや坂である。 小井戸川と徳丸久保の間の台地上に青蓮寺がある。 坂下の三園通りが徳丸久保の川筋があった谷地形になっており、三園通り沿いは小井戸川程度の溝のような沢が流れていたと思われる。

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坂下から見上げると青蓮寺の擁壁が迫る。 坂下と坂上では10mほどの高低差がある。おなかや坂の坂名の由来は、写真の辺りに屋号を「おなかや」と呼ぶ田中家があったことが由来だという。

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坂上の青蓮寺は真言宗の寺院。本尊は平安時代の薬師如来坐像、開山は不詳。 江戸時代初期は徳丸ヶ原の弁天塚(現在の新高島平駅そば)にあったが水害でここに移転したと伝えられる。 移転は江戸時代中期。

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青蓮寺の先代住職の藤崎光淳氏は戦前から昭和の成増周辺の写真を撮り続けてこられた。 写真は2005年に板橋区に寄贈され、公開される機会もあるようだが、ぜひ拝見する機会を得たいものである。この写真資料は2009年に区の登録文化財となっている。

Photo: 2016/11/5

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2018年10月 1日 (月)

太郎坂(板橋区成増)

上赤塚公園脇から流れ下っていた小井戸川の川筋が推定できれば、その右岸の坂ということで位置関係をつかむことが出来る。 しかし、この坂は区画整理が進み、ただの住宅地の路地になってしまっているので、情報なしには分からないだろう。

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小井戸坂の一本北側を走る道は成増の百々女木坂から続く道(成丘通り)である。成増ヶ丘小学校裏から北上、小さなパン屋さんの脇を入る小径が小井戸川の暗渠だが、太郎坂はここから始まる。

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二つ目の路地を左折する。 成増4丁目26と24の間を入る道が太郎坂の続きである。 坂の傾斜は極めて緩やかなので、これが名前のある坂か?と疑問に感じる。 100m足らずで道は右に折れるが、この辺りまでが太郎坂とされている。パン屋さんから坂上までの高低差は5mほどしかないが、小井戸川の規模を考えるとよく側溝のような川がここまで台地を削ったものだと感心することもできる。

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坂名の由来はわからないが、北東を走るバス通り(三園通り)周辺は徳丸久保と呼ばれる窪地で、その間の台地に南から上るのが太郎坂である。明治時代の地図を見ると成丘通りも三園通りも当然なく、小井戸川を渡ったところからカーブを描きながら青蓮寺に向かって上っていく太郎坂が見て取れる。

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