観音講の坂(板橋区徳丸)
西徳通りは東端を環八と接続し、西端は新大宮バイパス直前の民家手前で突然終わる。 計画道路としてはバイパスと接続するようだが、幹線道路の抜け道としてトラックが増えて、地元住民からの苦情が絶えなく、今後は便利を取るか、環境を取るかの争いになりそうである。少子化の時代なので、そのバランスが変化すべき時期に来ているのだが、行政も財界も近視的な決定が多く、まだまだ舵取りが行われているようには思えない。方策はいくつもあるのだが、権利を主張し義務を果たさない戦後の国民性が邪魔をしているような気がする。
そんな西徳通りは前谷津川の削った谷底を走っているので、地形に反響するトラックの騒音問題も避けて通れない。前谷津川はこの辺りでは西徳通りの北側を流れていたが、写真の道路沿いにはその支流の沢があって北野小学校辺りを源頭にしていた。この北側にある交差点のマンションの1階が黄金湯という銭湯になっていて、沢筋の名残りである。その沢に架かる橋の脇にあった庚申塔が今もまだ残っている。享和2年(1802)の庚申塔の前には道標もあり、右下練馬村、前赤塚役場、左志村赤羽と彫られている。
その先の特別養護老人ホーム マイライフ徳丸前から東に上る坂道が観音講の坂。 戦前の地図にはこのあたりの地名として観音講と書かれたものがある。
板橋区の資料によると、「徳丸5丁目から前谷の徳石橋を渡り、南の台地に向かうと、台地の裾から上にかけて旧小字観音講と呼ぶ一帯が広がっている。この地は谷を挟んで東西に分かれている。この東側を上がる坂を観音講の坂という。坂の下に観音堂(アゼッポのお堂と呼ばれた)があって、観音信仰の信者によりう結衆した家の多い地であった。このことから観音講と呼ばれるようになったという。」とある。
沢が削った突端が坂の南側に見える。 見事な鋭角の土地と擁壁が迫ってくる。 南北の道は戦後の開発で出来たもので、戦前は沢を上る道が東に曲がりこの観音講の坂のみだった。 観音の痕跡はないが、この地形は面白い。
坂下が12m、坂上が27mなので15mの高低差がある。昔はぬかるむと大変な坂だったのだろう。 観音講というものは現代社会ではかなり疎いものだが、私の祖母が信心深い人で稲荷と北向観音へのお参りを欠かさなかった。 子供の身体に具合が悪いところがあると観音様に祈願したりするのは、数十年前までは日本の普通の情景だった。
photo : 2016/11/12
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