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2018年11月30日 (金)

祥雲寺坂(豊島区池袋)

祥雲寺坂は豊島区池袋3丁目と西池袋5丁目の間を走る要町通りの坂。 池袋駅西口から西へ進むと、谷端川の暗渠を越えて要町に行きつきます。 この通りの谷端川暗渠までの下り坂が祥雲寺坂です。何しろ通りが広いので、殆どさかを感じられませんが、信号機の地名表示に「祥雲寺坂」とあります。

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谷端川は千川から椎名町へ南下し、そこで方向を今度は北に変えこの祥雲寺坂下を横切って、下板橋まで北上しています。 ずっと暗渠道があって歩いてもなかなか楽しい道です。坂下の交差点は要町一丁目交差点。交差するのは山手通り。 地下には首都高中央環状線が走っています。

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坂の名の由来となった祥雲寺は明治39年に移転してきた寺です。最初は江戸城の和田倉門内に駒込吉祥寺の末寺として永禄7年(1564)に創建。江戸時代には駿河台、文京区小日向、小石川と何度も移転を強いられ、明治末期にここにたどり着きました。 本尊は薬師如来。

photo : 2018/9/23

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2018年11月29日 (木)

さいとう坂(豊島区南大塚)

あさみ坂の坂下の道を南東に進むと高い墓地の塀が見えてきます。 東福寺というお寺の境内を囲む擁壁になっています。 塀沿いに緩やかに下っていく路は程よい曲がり具合で古道の感じがしますが、江戸時代の東福寺はもっと南西の矢端川までが境内だったようです。観光山慈眼院東福寺の創建年代は不明ですが、元禄4年(1691)に当地へ移転してきました。

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そのまま塀沿いを進むと階段と山門があります。両脇の石碑は道標にもなっています。「左 巣鴨庚申塚、向 巣鴨監獄道、右 大塚道」と彫られた明治37年のもの。巣鴨監獄道とは現在のサンシャインシティにあった巣鴨拘置所のことです。またその傍には「疫牛供養塔」もあり、これはこの山門と矢端川の間が明治から大正にかけて牧場だった痕跡です。

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山門を見上げるとここが矢端川の崖線だったことがわかりますが、その先の巣鴨小学校角の路地を巣鴨方面に上るのがさいとう坂です。曲がりながら崖線を上っていくさいとう坂の坂下には坂名の石塔があります(写真上右端)。 この坂は古い道っぽいのですが実は関東大震災以降に開かれた道でした。

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坂名の由来は、このあたりの土地所有者であった斉藤さんがその一部を寄付したおかげでこの坂が開通したことによります。坂名の石塔が立てられたのは昭和37年ですが、もちろん坂はそれ以前のもの。

坂下の標高は16m、坂上が27mで勾配は11%あります。矢端川の河岸段丘の崖線を感じられる坂で、東京の微地形の面白さがあります。

photo : 2018/9/19

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2018年11月28日 (水)

あさみ坂(豊島区南大塚)

大塚駅はJR山手線と都電が交差する昔ながらの雰囲気の残る駅前です。 とりわけ南口のロータリーは広く、その真ん中を都電が抜けていくのは見ていてノスタルジーを覚える景色です。 このロータリーの巣鴨寄りのところから少し下ってくねくねと曲がった道があります。 実はこの道はかつての矢端川(千川分水)の跡(暗渠)なのです(大塚三業通り)。

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矢端川は池袋の地名の由来ともなったエリアを水源としてお茶の水で神田川に流れていました。 源頭は千川用水から分水、粟島神社の湧水や池袋駅周辺の湧水を集めて南北にうねり、大塚を経て小石川を流れていました。 大塚駅近辺の三業通りが暗渠化したのは昭和に入ってからです。

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矢端川の道をしばらく進むと左手にホテルの並んだ坂道が現れます。この手のホテルはインターチェンジ周辺などにあるのが普通ですが、東京のこのあたりは結構な街中にあり驚きます。通りとしてはあまり知られていない通りですが、ホテルの間の坂があさみ坂です。

三業通りの「三業」とは、料亭・待合茶屋・芸者置屋の総称。いわゆる花街で、昭和中期まで都内のあちらこちらにありました。だからホテルがあっても何も不思議はありません。ただし、現在の通り名も大塚三業通りとなっているところが粋だなあと感じます。

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坂は10mほどの高低差で勾配は11%ほど。坂の上は巣鴨の台地で、山手線の車窓を見ていると切通しから高架になると大塚駅。 そして再び切通しになって巣鴨駅。 巣鴨駅から先は駒込まで切通しですが、駒込駅東口は高架で商店街を越えています。 山手線が台地と谷を同じ高さで切り抜けていることがわかります。 その台地と谷の高低差が約10mあるので、そういう車窓になるのです。

ちなみにあさみ坂の由来は単純で、近くに浅見という家が沢山あったからだといいます。江戸時代のこのエリアは巣鴨村、その中でもこの低地は熊野窪と呼ばれていました。

photo : 2018/9/19

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2018年11月27日 (火)

稲荷坂(大田区北千束)

大田区には3つの稲荷坂があります。石川町の稲荷坂、上池台の稲荷坂、そしてこの北千束の稲荷坂。 その中で、稲荷神社が現存するのはかろうじて上池台の玉倉稲荷のみです。 石川町の稲荷はその痕跡を見つけましたが、ここ北千束の稲荷坂の稲荷は跡形もありません。

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大田区のHPによると

「この坂道は古くからあり、道幅は9尺(2.7m)くらいであったが、耕地整理により4間(7.3m)に拡幅され、現在の道になった。坂の付近に稲荷社があったのが坂名の由来であると伝えられるが、大正ごろには稲荷社は既になかったといわれている。」

とあります。 明治時代の地図を確認してみたが、社の記号は見つかりませんでした。

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しかし、明治時代の地図には坂の途中に学校がありました。 江戸時代のこの辺りは石川村、明治になって馬込村になりました。坂沿いには洗足池に流れ込む沢があり、清水窪の湧水の沢と坂下で合流していました。 大正期の地図を見ると、この稲荷坂脇の窪地を狢窪(むじなくぼ)と呼んでいたようです。 そういう怪しいものが出そうな場所だったのでしょう。

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ちなみに洗足池にはもう一つ沢が流れ込んでおり、それは環七と中原街道の角にあるオリンピックの敷地にあった湧水池からの沢でした。 その湧水は大正時代に埋められてしまったようですが、北にある清水窪弁財天の湧水は今もこんこんと湧いています。ここは武蔵野台地の関東ローム層の湧水の典型的な場所で、標高30mの地層から水が湧いています。

photo : 2017/1/15

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2018年11月26日 (月)

雪見坂(大田区東雪谷)

東京に雪の付く地名は雪谷のみです。 東雪谷の雪谷八幡神社前の坂が宮前坂ですが、そこから少し南東に行くと、雪谷の雪見坂があります。 北国の人にしてみたら東京はちょっとの雪でもすぐパニックになる点でいささかお笑い種でもあるのですが、この坂道は雪が積もったら雪国の人でも登れないのではと思うほどの坂です。

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坂は石川台希望ヶ丘商店街からすぐに上りになりますが、少し進んだところから傾斜が強くなり、坂上で再び緩やかになっています。 しかし坂はそこからも高度を増していくのです。 急な部分の勾配は18%。 車やオートバイも慎重に昇り降りするくらいの傾斜です。 宅急便のトラックはサイドブレーキでは止まりきれません。 ギアをPに入れ、木製のストッパーをかませていました。

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坂上に近づくと遠くに武蔵小杉のビル群が良く見えてきます。 雪見坂の名前の由来は、かつてここから富士山の頂の雪が良く見えたためだといいます。 道は昭和初期耕地整理で出来た道。坂上は権現坂の坂上と交差しています。 坂上と坂下にある標柱には、昭和6年から9年の間に道路が整備されその後雪見坂と名付けられたとありました。

photo : 2018/11/26

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2018年11月25日 (日)

宮前坂(大田区東雪谷)

坂下は雪谷八幡神社。 創建は永禄年間(1558~1569)。雪ヶ谷村の鎮守でした。この神社にはいろんなものが集約されています。 境内の末社は、水神社、猿田彦神社、清正公、天神社、薬神社、大山祇神社と多数。 水神社は昔は南雪谷五丁目の水神公園のところにあり、今でもこんこんと湧水が出ています。

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宮前坂はこの八幡神社の大鳥居の前を上っていきます。 100mほど上ると標高は12m高くなり、勾配は12%という急な坂道。八幡神社前に木製の標柱があり、次のように書かれていました。

「八幡神社の前の坂であるため、宮前坂と呼ぶようになったという。坂下には呑川に掛かる宮前橋がある。」

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この坂道の勾配はそのまま神社境内では階段になっています。 境内の中でかなりの高低差があるのです。坂道は昭和初期の耕地整理以前は神社の裏手から上る農道のような道でしたが、90年余り前に現在のような道筋になりました。

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坂上からは武蔵小杉のビル群を遠望できます。 昨今東京23区内に限らず、高層ビルがタケノコのように増殖しています。 人口減少の局面に入っているのに大丈夫なのだろうかと心配になります。個人的には、あと10年もするとグローバル化は反転して、殆どの先進国では国内充実傾向が強まると考えています。 すでに日本はその波に乗り遅れているように思えてなりません。

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坂下の八幡神社には末社だけでなく、村内各所にあった庚申塔も数多く集められていました。 これはこれで歴史を守る重要な方法だと思います。 庚申塔は7基あり、天和元年(1681)から安政4年(1857)までいずれも駒形の庚申塔。雪ヶ谷村は池上本門寺が近いので、殆ど日蓮宗の信者だったので似たような石塔が並んでいます。

photo : 2017/2/28

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2018年11月24日 (土)

権現坂(大田区東雪谷)

大田区東雪谷には無名の坂を含めて魅力的な坂道が豊富にあります。というのもここは呑川水系が削り取った谷が切れ込んでいて、標高10mの低地と標高30mの台地とがはっきりと分かれているからなのです。 人々は台地に住み、低地の田んぼで米を作って生計を立てていました。当然台地と低地を結ぶ道は沢山出来るわけで、それは農業用地が宅地に変わってもそのまま残り、さらに坂道を増やしていくことになったという訳です。

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その中で権現坂は他の坂とは性格が違う坂道です。 というのも他の坂は低地と台地を繋ぐように通っているのですが、権現坂は斜面を斜めに上っていきます。 他の坂が北東に向かって上るのに、この坂は北西に向かって90度違った方向に上っていくのです。

これは東雪谷三丁目から四丁目の一部が湾のようにえぐれているからです。しかしこのえぐれがどうしてできたのかはわかりませんでした。

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坂の勾配を見れば権現坂よりも周りの無名坂の方が急です。 にもかかわらずここには権現坂という名前が付きました。 坂の標柱には次のように書かれています。

「この付近に、権現社があり、その地をもとは権現山とよんでいた。坂道は大正末期に行われた耕地整理によって出来たものであるが、地名に由来して名づけられた。」

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この付近にあったという権現の痕跡を探してみましたが皆目見当がつかず断念。明治大正の地図をじっくり見てみましたが、それでも何も手掛かりはありません。 何となくすっきりしない坂名でした。石川町の稲荷坂のような手掛かりが見つかると嬉しいのですが。

坂の高低差は10mほど、それを100mで上るので、平均勾配は10%ですが、標識には14%と書かれています。 しかしながら、そんなにきつい坂という印象はありません。

photo : 2017/2/26

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2018年11月23日 (金)

稲荷坂(大田区石川町)

神明坂の一つ南にある坂道を稲荷坂と呼んでいます。 目印は「石川町上の台公園」。 この公園は呑川の河岸段丘の斜面を利用して作られています。 公園内には稲荷坂をバイパスするように階段があり、階段上には展望台まで設置されていました。 この展望台からの夕日はとてもきれいですが、富士山が望めるかどうかは分かりませんでした。

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階段上の展望台辺りから公園をなぞるように稲荷坂が下っていきます。 坂の上下に木製の標柱があり、

「坂の由来は、坂の南に稲荷社があったことによる。この坂道は、もとは洗足池の脇から九品仏に通じた、古い道である。」

と書かれています。 確かに、江戸時代の絵図にもこの道が描かれていました。

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明治時代の地図を見ても確かにこの道はあり、石川村の中では当時から民家が多い地雨域だったようです。 おそらくは坂下の呑川流域が田んぼで、そこを仕事場にする農家があったのでしょう。この辺りの石川村と奥澤村の村境は、呑川ではなく若干西側にありました。そこから考えると、呑川の右岸も左岸も石川村の農民の田んぼだったのでしょう。

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大田区のHPには、

「石川町上の台公園の脇を曲がりくねって上る、狭く急な坂道。坂名の由来は、坂の南側に稲荷社があったことによります。この坂道は、もとは洗足池の脇から世田谷区の九品仏へ通じた古い道です。九品仏への道は、大正14年ごろ東京工業大学ができたことによりなくなったといわれています。」

とあります。 いったいこれがその古道なのかどうかわからない説明に感じます。 九品仏への村道はそののちに東工大が出来て変わってしまったということでしょうか。

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坂下周辺で稲荷の痕跡を探してみると、民家の裏手にそれらしい祠が朽ちていました。 そこにある桶や木箱もかなり年季の入ったものと見受けられます。果たしてこれがかつてあったという稲荷かどうかは分かりません。 しかしこういう社が朽ちているのは見ていてやるせない気持ちになります。これも時代の流れなのでしょうか。 そう考えるとこの国が良からぬ方向へ進みそうな気もしてしまいます。

photo : 2018/1/7

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2018年11月22日 (木)

神明坂(大田区石川町)

東京工業大学の南側を西川東へ上る坂道が神明坂です。 東工大のキャンパスは大岡山駅の西側一帯に広がっていて、キャンパス内を南北に呑川の河岸段丘が走ります。 神明坂もその河岸段丘を上る坂になります。 段丘の高さはおよそ10mほど。 それほどの段丘ではありませんが、ちょうど運動場の脇でかつては九品仏川が呑川に合流していました。江戸時代は呑川の東が石川村、西が奥澤村でした。

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神明坂の道筋は江戸時代からある古い道で東に延びており、道々橋村の花抜坂へ繋がっていました。坂下に木製の標柱があります。

「昔、坂のそばに、村の鎮守の神明社があったので、神明坂というようになったと伝えられる。神明社は現在の石川神社である。」

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石川神社は村の鎮守だったとは想像できないほど小さな神社です。 河岸段丘の崖線にわずかな平地を切り開いて建てられています。しかしながら正保年間(1644年~)開村以来の鎮守で、古くは石川村のみならず遠く品川界隅に至るまで崇敬者が多く、現在でも、除夜祭の際にお配りする御神箸を用いて食すれば忽に歯痛治まると云われています。

この神社と東工大の運動場の間に素敵な坂道がありました。

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階段坂なのですが、無名の坂で12mの高低差を50mで上るので傾斜は24%にもなります。 坂下の住民は大岡山駅に行くのに、ここを上ってキャンパス内を通って近道にしています。 この無名坂からはなんと富士山が望めるのです。 訪問時も地元のご婦人と「今日はよく見えますね」と話しながら富士を眺めました。

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都内で富士を眺められる坂は極めて貴重になりました。都心の富士見坂は全滅しました。 かろうじて世田谷の多摩川の河岸段丘にあるいくつかの坂が富士山を望むことが出来る程度です。 またこの坂の途中から石川神社の境内に出る細道があって、なかなかの無名坂でした。

photo : 2018/1/7

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2018年11月21日 (水)

洗足坂(大田区南千束・上池台)

洗足坂は中原街道の坂道です。 洗足池前から洗足坂上まで高低差13mを340mかけて上ります。 勾配は4%と大したことはありませんが、昔からの街道についてはほとんどの坂が勾配を緩やかにして拡幅されているので、ここも人馬の通う街道の時代はもっと急だったはずなのです。

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坂の途中に東京都が設置した銅製の説明板がありました。 かすれて読みにくいタイプですが、ここのものは比較的傷が少なく、次のように書かれていました。

「この道(中原街道)は、江戸から平塚の中原に通ずる街道で、江戸期には、東海道の脇往還としてさかんに利用された。明治期以後も産業の発達に伴い、東京への物資の輸送路として大きな役割を果たした。しかし、このあたりは坂が多く、重い荷車は難儀をした。昔の洗足坂は道幅も狭く、現在の坂より短い急な坂であった。大正12年になると道路が改修されて、ゆるやかな坂となり、その後さらに拡幅されて現在の道路となった。坂の下には、その改修記念碑がある。」

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洗足池は日蓮上人がここで足を洗ったのでそう呼ばれるようになったという説があります。また元からの地名は千束で、それが日蓮宗の言い伝えにより、洗足に変わっていった可能性が最も高いようです。

この洗足池からは洗足流れという呑川の支流が流出しています。 しかし元々は自然池ではなく、人工池で平安時代に沢を堰き止めて出来た灌漑用の池でした。

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池の東側には勝海舟夫妻の墓があります。 勝海舟はこの池の風趣を好んで、湖畔に別荘「洗足軒」を作りました。

中原街道は江戸から平塚の中原に通じる道のため中原街道の名が付いたのが由来です。 東海道よりも古い中世の街道で、現在の地名で言うと武蔵小杉、下川井を経て平塚の中原までが中原街道とされています。 江戸時代に東海道が整備されると、脇街道となりましたが、もともとは中原街道が東海道の役割を果たす街道でした。

photo : 2017/1/15

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2018年11月20日 (火)

夫婦坂(大田区北馬込)

夫婦坂の場所は、環七以北は大田区北馬込、以南は坂の東側が中馬込、西側が上池台である。 したがって環七通りの夫婦坂交差点は3つの町の町境ということになる。さらにこの交差点の南西側は鸛の巣流れの谷、北東側は内川源流の谷で、小さいながら分水嶺でもある。

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上の写真は北馬込側から見た夫婦坂で、綺麗な相生地形になっている。環七通りはちょうど青い道路標識に隠れた部分を横切っている。 内川の源流の一つはこの一番低い部分を流れていた。 中馬込側に標柱があり、「この坂は、北馬込1丁目品川境から環七通りを挟んで上池台4丁目地先に連なる坂で、その向い合うさまを夫婦にたとえてよぶようになったといわれている。」と書かれている。

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環七通りはこの坂道の途中を分断して開通したのである。 ただ地形としては環七も西に向けて上り坂のため、外回り車線では慢性的な渋滞が起こる。 トラックの多い平日はさほどでもないが、週末になり一般ドライバーが増えると必ず渋滞になる。 高速道路の自然渋滞と同じ原理である。

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大田区のHPによると、昭和初期までの夫婦坂は、今よりも道幅も狭く曲った坂道だった。また、このころまでの夫婦坂は、間を通る環状7号線もまだ開通せず、急な坂道で竹やぶ、雑木林などに囲まれ、昼なお暗い寂しい坂道であった。なお、この坂は品川道に通じていた。品川道は、洗足池から長原駅付近を通り、東は大井を通って品川へ通じた古い道。 今でもその道は商店街として伸びている。

photo : 2017/5/3

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2018年11月19日 (月)

庄屋坂(大田区上池台)

貝塚坂(旧学研通り)に接続する直角の坂の中で最も上流(北東)にあるのが庄屋坂である。 鸛の巣流れはこの辺りまでくると、学研通りから西にズレる。 そのためにバス通りから庄屋坂を見るとまるで薬研坂のように見えるのである。

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谷底あたりに右から左へ昔は小沢が流れていた。そのため実は手前の下り坂の勾配も庄屋坂に迫る急さである。 しかし昭和初期の耕地整理以前は学研通りはなく、東の尾根に旧目黒道、谷沿いには細い農道が通っていた。 ところがそんな古い時代にも東西の尾根筋から下って上る坂が古い地図には描かれている。 その最も上流の道がほぼこの庄屋坂に重なっている。

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坂の上下に木製の標柱がある。「坂の付近に、昔から庄屋の家があったと伝えられることから、この名がついたといわれる。」と書かれている。 その庄屋の名前や場所については大田区の調査でもわかっていないようだ。

現況はというと、急勾配を形成した鸛の巣流れはこの坂に達すると暗渠が消える。六郷用水関連の資料では鸛の巣流れはここからは道沿いにカクカクと曲がり上池台射水坂公園あたりが源頭と考えられる。

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上池台の地名の由来について調べてみた。 仲池上、池上、とあるが下池上と上池上がないなど、地名の疑問は尽きない。

洗足池をはじめとする多くの湧水池がありそれで池上という地名が生まれた。日蓮上人に仕えた池上氏もその地名由来の氏名だろう。 その「池上」というブランドを使いたいところだが、昭和43年(1968)の町名変更で上池上にしたい住民の反対を押し切って、上池台に決まってしまった。

「上池上」は江戸時代には上池上村という地名もあり古いもので、地域も上池台よりはるかに広かった。それを知っている関係者がここは台地の際だから「台」を使って上池台と決めたのではないかと思う。しかし今になってみると「台」が付くことで高級感が増す時代になってしまった。 とかく東京では「丘」「台」と付くと、自由が丘、麻布台、白金台、高輪台などを連想する人が多いのだろう。 ただし、そういう場所の大半は、江戸時代はド田舎である。時代変われば価値観も異なる。過去を知ることは未来を知ることに繋がる。 そういう点でも街歩きは面白い。

photo : 2017/11/3

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2018年11月18日 (日)

貝塚坂(大田区上池台)

坂上は旧学研通りの貝塚坂バス停から、坂下は同じく旧学研通りの稲荷坂バス停まで、まっすぐな耕地整理後の坂である。 坂の北東の続きは夫婦坂。 貝塚坂はまっすぐだが比較的勾配は少ない。 400mの距離をかけて16mの高低差だから勾配は4%しかない。 しかし長い。

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坂上は変則の六差路。写真左側の道は稲荷坂、大久保坂の坂上を経て猿坂に至る旧目黒道。右の道が貝塚坂で昭和初期の耕地整理によってできた生活幹線道路である。坂上バス停付近に木製の標柱が立っている。

「坂名の由来となった馬込貝塚を、『大森区史』は「馬込の根方に貝塚というのがある。石器時代の器物や矢の根石などがよく掘り出されたといっている。 今もなお好事家の尋ねて来るものが少なくない。」と記している。

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この坂の東側、旧目黒道周辺では貝塚だけではなく集落跡も見つかっている。時代は縄文後期で、約5,000年から2,300年前のもの。遺跡では極めて珍しい埋葬された犬が発見されている。大きさは現在の柴犬ほどの大きさで、このことから縄文時代にはすでに犬が家族として人間と共に生活していたことがわかる。

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大田区のHPには次のように書かれている。

「上池台四丁目と五丁目の境を上る、通称「学研通り」の坂道。この貝塚坂周辺は、貝塚を伴う集落遺跡のあったところで、坂名もそれにちなむもの。『大森区史』には、「馬込の根方ねがたに貝塚といふのがある。石器時代の器物や矢の根などがよく掘り出されたといっている。今もなほ好事家こうずかの尋ねて来るものが少なくない」と書かれている。大田区内の鵜の木、池上、山王とつらなる台地には縄文時代から古墳時代にかけての集落遺跡が多く、貝塚坂周辺にあったといわれる遺跡もその一つ。」

貝塚坂はただひとつ鸛の巣流れと並行して走る道である。 つまり谷底を滑るように下っていて、したがって左右に急な勾配の坂が連続しているのである。

photo : 2017/5/3

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2018年11月17日 (土)

鸛の巣坂(大田区上池台)

仲池上の旧学研通りの南北にある坂のうちで最も勾配のきつい坂の一つが鸛の巣坂である。 ライフ(旧学研本社)の交差点を中心に稲荷坂と相対しているが、鸛の巣坂の方が急坂である。 ライフの脇を進むと目の前に壁のように迫ってくる。

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高低差は坂の舗装が白い部分に限ると、距離80mで落差11mだから14%になる。 坂の上下に標柱が立っている。 そこには次のように書かれている。

「鸛(こうのとり)の巣があったということからこの付近を鸛の巣山と呼んでいた。坂名はそれに由来する。また、坂下に今でも残る水路は、鸛の巣流れと言われている。」

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坂を見上げていると冬が楽しみに感じられる。もし自分が少年だったら間違いなくそり遊びをするだろう。 鸛の巣流れは細流だが大したものである。 ただし現在の鸛の巣流れはすべて暗渠となっている。 農業が盛んだったころは用水路として働き、その後は排水路として働いてきたが、現在は下水道の役割に甘んじている。

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道がまっすぐで耕地整理後の坂かと思いきや、江戸時代からある古い道である。 関東大震災以前は坂下は田んぼがあり、坂周辺の斜面は果樹園と広葉樹という風景だったようである。関東大震災後、東京の西側に宅地が急速に造成されたときに耕地整理され、坂周辺の斜面と台地はほぼ民家で埋まったが、谷の向こう側には昭和中期まで自然が多く残っていた。

photo : 2017/5/3

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2018年11月16日 (金)

蝉坂(大田区上池台)

上池台の蝉坂の道筋は江戸時代からの古道。  池上本門寺から長原まで続く道で、崖線下の低地をなぞるように北上してきた後、蝉坂で崖線を始めて上る。 昭和に入ってからの耕地整理で道幅は広がったが、大正時代以前の地図でも切通しで等高線の詰まった崖線を上る様子が見て取れる。

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大田区のHPには次のように書かれている。 「耕地整理以前からの古い道。坂名は、付近一帯が「池上村蝉山」と呼ばれていたことから名づけられたものと思われる。上池台三丁目41番と42番の間の「洗足流れ」という水路にかかる橋は蝉山橋と名づけられているが、これも蝉山の地名によるものだろう。」

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上の写真はその水路だが、これは洗足流れではなく、そのまた支流の鸛の巣流れである。 小さな支流だが暗渠ははっきりと極楽寺先までついているが、その先で不明になる。坂下のバス通りを昔は「学研通り」と呼んだのだが、学研がなくなって道の名前も消えた。 その学研通りは谷筋にあり、その谷を削ったのが鸛の巣流れである。

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蝉坂はカーブしたのちに勾配を増す。 坂下が12mで坂上が32m、それを200mで上るので勾配はおよそ10%ということになる。 近辺では蝉坂から北側の坂はほとんど勾配が二桁%でどれも見事な坂道になっている。 鸛の巣流れという数十センチの幅の水流がここまでの谷を形成するのは驚きであるが、都内にはそういう谷が多い。

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坂上と坂途中に標柱がある。 「この坂の付近一帯を、もとは蝉山と言っていた。坂名の由来はこれによったらしい。付近に蝉山橋もある。」と書かれている。 蝉山橋というのは2枚目の写真の場所に架かっていた橋の名前である。

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蝉坂の北にもう一つの谷がある。 谷の源頭は小池公園といい、広い池に水鳥が沢山いる市民の憩いの場になっている。かつては洗足池を大池と呼びこちらを小池と呼んだのが名残り。ここから細流が流れているが、大半は暗渠。 景色のよい坂道もあるがどれも無名である。

photo: 2017/5/3

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2018年11月15日 (木)

稲荷坂(大田区上池台)

環七通りの夫婦坂交差点から南へ下ると貝塚坂、その坂下にスーパーマーケットのライフがあるが、ここは以前学習研究社(学研)の本社だった場所である。 昭和30年代生まれの人は学研のおばちゃんが学校に月間の『科学』と『学習』という児童雑誌を販売に来たことを記憶している方も多いだろう。 ここには昭和32年(1957)から2008年まであり、その後組織再編して五反田に移転した。このライフの交差点にあるバス停名は「稲荷坂」。ここから南東に上るのがその坂である。

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稲荷坂はほぼ直線の坂。 125mの距離で12m上るのでおよそ10%の勾配。 坂が開かれたのは昭和初期の耕地整理によるが、それ以前から坂上一帯には民家が多く、いくつもの農道のような坂はあったらしい。夫婦坂を通って池上に抜ける目黒道が坂上を南北に走り、南に行くと猿坂に至る。

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坂上近くには児童公園もあり、稲荷坂を覆う樹木がかつての農道時代の雑木林に囲まれた景色を想起させる。 坂下と公園前に標柱があり、次のように書かれている。

「坂上の上池台5丁目14番の南側角地に、玉倉稲荷という上谷戸(かみやど)の稲荷神社が祀ってあるので稲荷坂と名づけられたという。この坂道は耕地整理により出来たといわれている。」

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玉倉稲荷の場所は坂道から少しだけ離れている。 このことから推察すると、元の農道はくねりながら稲荷の近くに上っていたのではないか。 稲荷坂の南に途中で曲がった坂道があるが、そっちが主要農道だった可能性が高い。明治時代の地図を見るとこちらには道が描かれている。 そしてそのまま坂上は玉倉稲荷に通じるのである。

いささか気になるのは、岡崎清記氏の『今昔東京の坂』には、「坂上に玉倉稲荷の祠があり、その一角だけがこんもり茂っている。」とある。今はそんな様子はないのだが、かつての稲荷はもっと大きな敷地だったのではないだろうか。 稲荷の路地に家が建ったのは戦後、しかし昭和20年代でも周りは数軒の民家とあとは畑が広がっていた。 その頃はまだ稲荷の周囲には林があったようだ。

photo : 2017/5/3

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2018年11月14日 (水)

花抜坂(大田区東雪谷)

大田区東雪谷を南北に走る花抜坂の道筋は古道である。 現在は1本東側のバス通りが荏原病院前を通り、中原街道に抜ける生活幹線になっているが、江戸時代から大正時代までは花抜坂が南北の主要道路だった。 坂下近くには地元の人々にきれいに管理された庚申塔が真新しい小さな堂宇(お堂)に守られている。

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左側の庚申塔は正徳2年(1712)のもの、右側は享保7年(1722)である。右側の庚申塔には、「右瀬田ヶ谷村道、左九品仏道」とあるので、左は呑川沿いに進み奥沢から九品仏浄真寺への参詣道、右は尾根に上り洗足池を経て世田谷へ向かう道という意味で、昔は花抜坂の坂下にあったのではないかと思われる。

一方南側はやがて多摩川に至る鎌倉時代からの道だった。 この尾根は、西側を呑川に、東側をその支流の洗足流れに削られた二つの谷の間の台地である。 その台地の尾根の南端で低地に下る坂が花抜坂という訳である。

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花抜坂以南はというと、道は久が原を抜け鵜の木を経て、そこからは矢口渡に行く道と平間の渡しに行く道に分かれていた。 平間の渡しは現在の下丸子と川崎の鹿島田を結ぶガス橋辺り、矢口渡は国道1号線の多摩川大橋あたりの渡し場である。

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花抜坂の東側にある長慶寺は日蓮宗の寺院として慶長3年(1598)に碑文谷に開山、のちにここに移転した。坂下の標高が9m、坂上池雪小学校辺りが23mで、10%ほどの勾配がある。 江戸時代尾根一体は雪ヶ谷村、尾根の東側は池上村、南側は道々橋村と3村の境になっている。 その地名は新幹線をくぐった南側の交番名に「道々橋交番」という名で残っている。

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坂上からは遠く池上本門寺の大堂の巨大な屋根を望むことが出来、かつて本門寺に参詣し目黒世田谷方面に帰る人々は振り返りその長めに旅の余韻を覚えたのだろう。 坂の上下の標柱には、「『大田区史』に載せられた伝説によると、この付近は野花が美しく咲き乱れ、日蓮聖人が思わず手折ったので、以来「花抜き(花の木ともいう)」の地名でよばれるようになったという。坂名はこの地名に由来する。」とある。

また、大田区のHPには、「東雪谷五丁目12番と13番の間を池雪(ちせつ)小学校脇に向けて上る坂道が花抜坂です。坂名は、日蓮が洗足池から池上へと向かう途中、この付近に野花が美しく咲き乱れ、思わず手折ったので、以来花抜(花の木)の地名で呼ばれるようになったという伝説に由来します。伝説のとおり、この坂は古い道で、中原街道から別れて矢口の渡しまで通じる道でした。昔は現在のようなまっすぐな坂道ではなく、曲った坂道で、両側は高い崖になっていたといい、坂下は竹やぶであったようです。」とある。

photo : 2017/2/26

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2018年11月13日 (火)

大久保坂(大田区上池台)

夫婦坂交差点から南に下るバス通りの大東園前バス停脇から東に上るのが大久保坂。 なぜここのバス停が「大東園前」なのかがわからない。 大東園という不動産会社が貝塚坂の坂上にあるが、バス停の名前が不動産屋というのはあり得ない。 上池台で育った芥川賞作家の加藤幸子さんが地元の講演で下のように言っている。

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「私は1967年から大田区上池台に住んでいて、大田区を大変気に入っています。50年近く前のある時、大好きな野鳥のコジュケイに林の中で出会いました。コジュケイは「チョットコイ」と鳴きます。大田区のイメージは町工場が多いという感じだったので、東京都の中に野鳥のコジュケイがいることに驚き、すっかり魅了され、大田区に住むようになりました。 昔は野原や空き地が沢山あって、湿地になっていました。そこにザリガニや水中昆虫がいて、大東園の林があり、笹が下草として生い茂っていました。遊園地とか児童公園ではなくて、町の中に自然がありそこで子供たちが遊びました。今は整備され面影がなくなりましたが、絵のようにいい思い出として刻まれています。」

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坂の北側に巨大なマンションライオンズヒルズ上池台があるが、このマンションを含む一角は自然林が広がる雑木林だった。 開発されたのは昭和の終わりころで、それまでは自然豊かな林が広がる子供たちの天国だったのである。おそらくその所有が大東園だったのではないだろうか。

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坂上は右に折れて猿坂から上ってきた旧目黒道に突き当たる。 坂上と坂下にある標柱には次のように書かれている。「昭和初年の耕地整理によって出来た坂道で,坂の名は,大久保氏の屋敷跡であったということに由来するという。」

しかし明治初期の地図を見てみると大久保坂の道筋に杣道がある。 大正時代の地図にも破線で道が描かれているので、道はあったのだろう。坂名はこの付近に昔大久保氏の屋敷があったことから名づけられたといわれているが、その大久保氏が何者なのかはわからない。

photo : 2017/5/3

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2018年11月12日 (月)

猿坂(大田区上池台)

呑川の分流に洗足流れ、さらにその分流の鸛の巣流れという沢があった。 この鸛の巣流れの谷から馬込の台地に上る坂道が猿坂である。 この道は江戸時代からある古道で、池上本門寺から子安八幡下を通り夫婦坂に至る道だった。 坂下の辻には祠があり、馬頭観音が祀られている。

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祠はブロック塀に囲まれ立派なものだが、中にある馬頭観音はかわいいものだった。 天保9年(1838)のもので180年前になる。 昔はもっと坂下を南下した、の道路脇に立てられていたが、品鶴線の土地買収により現在位置に移動した。 昔は猿坂が主要道だったが、大正時代から昭和初期にかけて耕地整理が行われて、並行したバス通りが出来るとこっちの道はあまり使われなくなった。

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この道は目黒道とも呼ばれる。 池上本門寺と目黒不動を結ぶ参詣の道でもあった。 坂の上下に木製の標柱があり次のように書かれている。

「『新編武蔵風土記稿』の林昌寺の項に、「境内墓所の側に坂あり、猿坂と呼、昔山林茂りて猿多く往せし故是名あり」と記されている。
おそらく、古くから知られた坂道であろう。」

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坂は墓地の脇をくねりながら上っていく。 この道の曲がり具合がいい。 いかにも古道という風景である。 坂の高低差は20mほどある。 古道だからなるべく勾配が緩やかになるように崖線を斜めに上っていく道筋なのである。

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大田区のHPには、「昔、子安八幡神社、林昌寺(仲池上一丁目14番)からこの猿坂にかけての台地は森林が続き、猿が多く生息していたともいわれ、坂名はそれにちなむものなのでしょう。また、この坂を通る道は、池上本門寺前から仲池上の根方ねがたを通り、猿坂を通って台地に上り、馬込の夫婦坂を経て荏原町に達する古い道です。」とある。

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坂上の民家にもひっそりと庚申塔が立っている。 祠と塀の加工はかなり手の込んだもので、頭が下がる。 享保8年(1723)の庚申供養塔。この道が池上本門寺をお参りしたのちに、目黒不動から江戸に帰る行楽客、参拝客で賑わった道だったことが想像できる。

photo : 2017/5/3

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2018年11月11日 (日)

相生坂(大田区仲池上・上池台)

相生坂という名前の坂は東京23区内にいくつかある。 新宿区東五軒町にある相生坂は二つの坂が平行に並んでいる。 文京区湯島聖堂の前の坂も相生坂だが、これは神田川の対岸の淡路坂とペアにした平行の相生坂、あと五反田駅から白金に上る国道1号線の坂も相生坂だが、これは1本の坂。 しかし実は白金台から下る坂と御殿山から下る坂を並べて相生坂と呼んだのが由来。

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つまり平行に二本の坂が並んでいる場合に相生坂と呼ぶケースが多いということになる。 この相生坂ももちろん新幹線の線路を挟んで対になっている。 坂下の標高が8mで坂上は28mと20mの高低差がある。 しかし北側の坂は途中から北に折れているので12mほどの高低差しかない。

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坂上の標柱には次のように書かれている。

「新幹線を挟んで両側に、二つの坂が並んでいる所から、この坂を 相生坂 という。昭和初年耕地整理により出来た坂である。」

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標柱は北側の坂にも同じものがある。 遠くに武蔵小杉のビル群が見える。ちょっと広い土地があるとすぐに高層ビルを建てたがる街づくりは近視眼的だと思う。 人口も減っていくのだし、もっとサステイナビリティを考えた街づくりをした方がいい。 コンクリートは木造の半分しか持たないことは多くのインフラを見れば明らかなこと。 こうして地形を感じながら街歩きをしていると、そこが気になって仕方がない。

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新幹線が開通したが1964年。 それ以前はどうだったのだろうと調べてみた。この新幹線と横須賀線が平行した路線は1964年以前からあり、昭和4年に品鶴線(ひんかくせん:品川-鶴見)という貨物線として敷設された。旅客線化されたのは1980年で横須賀線が走るようになり、2001年からは湘南新宿ラインも走り始めた。 大正時代には道はあったものの相生ではなかった。北側の坂下が途中で線路から離れていくのはそれが昔の道筋だからである。

photo : 2017/2/26



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2018年11月10日 (土)

八幡坂(仲池上)

子安八幡神社は慶元元年(1256)に当地武蔵池上郷の地頭(領主)だった池上宗仲が、鶴岡八幡宮の分霊を勧請して創建したのち、池上本門寺に場所を譲って現在の地に遷座した。 池上本門寺の日蓮が身延山から常陸に向かう途中で死去したのは今の本門寺である池上宗仲の邸でのことだった。 宗仲は日蓮に帰依した熱心な信者だったので、自分の勧請した八幡を本門寺に寄進して移転したのである。

 

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池上本門寺は武蔵野台地の最南端にある重要拠点だが、仲池上の八幡神社の場所もそのすぐ北側の台地、崖の上にある。参道の階段は急で長く、標高7mから24mへ一気に登る。 本門寺の高低差には負けるがここも砦や神社には最適な場所である。

 

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八幡坂は神社の北側を上る急坂である。 当然、八幡神社の脇なので八幡坂と呼ばれた。 坂下には六郎坂と同じ流れ(呑川の分流)があり、そこには子安橋が架かっていた。 鸛の巣流れと洗足池からの流れを合わせた沢である。

 

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八幡坂は江戸時代の切絵図ではその道筋がない。しかし明治初期の地図にはあるので、もしかしたら江戸時代からあった道なのかもしれない。 訪問時坂上では猫が見事に横断歩道を渡っていた。 ただし八幡神社の境内が終わってもまだ坂は上っている。坂の最上部は28mあり、高低差は21mとかなり落差のある坂道。

 

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坂上の台地を切通しで東海道新幹線と横須賀線が分断する。 江戸時代は池上村。 池上の地名の由来は諸説あって、かつてこの辺りは湿地帯や池が多く亀が沢山いたので、池と亀で「イケガメ」→「イケガミ」に転化したという説や、蒲田駅と池上駅の間にある蓮沼駅の周辺が大きな池で、その先(上)にあったので池上となったなどという説がある。

 

大昔から最近まで多摩川は相当な暴れ川だった。そして田園調布以南の多摩川の都心側は低地が広がる。暴れ川の多摩川が池上の辺りに三日月湖のような河跡湖を残した可能性は極めて高い。 池上氏が統治したからだという説もあるが、藤原氏の末裔がこの地で池上を名乗った時にはすでに池上という地名はあったようだ。地名の由来は大部分が地形地質に由来するのがふつうである。

 

photo : 2017/2/26

続きを読む "八幡坂(仲池上)"

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2018年11月 9日 (金)

六郎坂(大田区仲池上)

仲池上1丁目の呑川の河岸段丘(左岸)にある坂で、大尽坂と八幡坂の間にある。坂下で丁字路になる道は、大尽坂下の庚申塔から続く道で、洗足・中根を経て杉並区堀の内まで行く古道。 六郎坂下のこの古道沿いには昭和中期まで川が流れており、丁字路にあった「六郎橋」を渡って六郎坂の上りになっていた。

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六郎坂、六郎橋の由来は、江戸時代後期に池上村のために尽くした海老沢六郎左衛門の屋敷が坂に沿ってあったからだという。 戦前までの呑川流域は大部分が田畑で、六郎坂付近も屋敷森に囲まれた数軒の農家が坂の東側にだけ建っていて、坂の西側(谷側)は畑という、のどかな農村風景だった。

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八幡坂との間にある林昌寺は文亀3年(1503)の開山という古い日蓮宗のお寺。 隣の子安八幡宮は康元元年(1256)の創建で池上の鎮守。相当昔から呑川の流域に人々が暮らしていた。 呑川は現在は汚い川だが、もともと飲み水の川の意の呑川でとてもきれいな川だった。 したがって六郎橋の下を流れていた呑川の分流も澄み切った水の川だったのだろう。

海老沢六郎左衛門について調べてみたがよくわからない。坂下の水路(川)は呑川に注ぐ支流だった洗足流れ(洗足池から下る)と鸛の巣流れ(夫婦坂から下る)を集めて、呑川左岸の池上村の農地を灌漑していたので、それに尽くした人なのだろうか。六郷用水の資料は沢山あるのだが、そこから外れるとほとんど資料がない。

江戸時代以前は農民の争いと言えばまずは水騒動(水の奪い合い)だった。あとは普請(工事)の負担に関するもめ事くらいで、江戸時代には水を原因とする多くの争いの記録がある。 おそらくは水関係の人だったのだろう。

photo : 2017/2/26

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2018年11月 8日 (木)

ガッカラ坂(板橋区上板橋)

川越街道は江戸と川越を結ぶ街道。 中山道と旧板橋宿の平尾追分で分岐し、川越城下に至る現在の国道254号線沿いの旧街道。室町時代に太田道灌が江戸城と川越城の間に開いた街道で、江戸時代は川越往還といい、川越街道という名は明治以降の呼び方である。東京都内の宿場は3つ、板橋宿、上板橋宿、下板橋宿だが、江戸から川越までは11里程なので、ゆっくり行って一泊、早足だと一日の旅程。 途中で一泊するなら朝霞の肘折宿あたりだろうから、もっぱらお茶休憩の宿場の要素が強かったのでは。

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新道の国道254号線に五本ケヤキという中央分離帯がある。かけていた1本が植えられ5本に戻った。 昭和初期、自動車道路の建設に新道(改正道路)が通された。 ここに上板橋村村長宅の屋敷林があり、ケヤキも伐採されることになったが、当地主の強い希望で一部残されることになり、現在の形になった。 今となってはイカしたランドマークになっている。

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旧川越街道は五本ケヤキの北側を平行に走っている。 現在は上板南口銀座商店街で、訪問時は子供御輿の祭りで賑わっていた。 ほぼ直線といえる旧街道で、坂上から西を遠望すると確かに下っているが、歩いていて坂道を感じるほどではない。

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縁日のある街はいい。 表参道や青山よりもずっといい。 直線のつまらない坂道でも人々の生活感ある賑わいがあると良い坂になる。

「郷土板橋の坂道」には、「川越街道の五本欅の東手前から斜めに入る道がある。これが旧川越街道で練馬北町に向かっている。入るとすぐに緩やかな坂になる。坂の中程に子育地蔵堂があるので地蔵通りと呼ばれる。 この通りは、埼玉や練馬・赤塚の農家の人たちが、朝は暗い内から野菜などを市場に運んだ道で、荷車が「ガラガラ」と音を立てて通ったので、ガッカラ坂と呼ばれた。また長い坂なので「ガッカリ」したといい、ガッカラと訛ってこの名が付いたともいう。」とある。

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中程にある子育地蔵堂は地元の人々によってきれいに管理されている。 地蔵菩薩は3体あるが手前脇のものはかなり最近のようだ。 奥の左手は安永6年(1777)のもの、右側の合掌している方は安永7年(1778)である。

説明書きによると、この2体の地蔵菩薩はもと栗原堰の一本橋(茂呂遺跡の北側の石神井川に架かる橋)にあったもの。 台座には貞享5年(1688)の年号もあるので、台座は使いまわしだろうか。 明治初年には駅前商店街との交差点に移設されたが、放置され倒された状態だったのを宝田豆腐店の店主が大正12年頃にここに祀った。当初は3体あったが、1体減っている。そのかわりが右手の新しい地蔵なのだろうか。

この地蔵を中心にして、4月から9月まで毎月七の付く日に縁日が開かれる。東隣の豆腐屋さんは数年前に廃業したようだが、地蔵菩薩に守られて幸せなリタイアだったのだろう。

photo : 2018/10/28

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2018年11月 7日 (水)

大尽坂(大田区仲池上)

大尽坂は大田区の坂道の中でも最も急峻な坂のひとつ。大田区の池上・馬込周辺は人口密集地帯だが、呑川と内川のそれぞれの支流が複雑に谷を形成しており、極めて高低差の激しいエリアである。 西馬込と仲池上の町境は内川(沢尻川)と呑川に挟まれた尾根筋の道で、道なりに北上すると環七通りの夫婦坂交差点に至る、江戸時代からある古道。

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都営浅草線の終点西馬込駅から大尽坂へ向かう道もまた少なくとも明治時代からの村道である。 大田区のHPでは、大尽坂は昭和初期に行われた耕地整理によってできた新しい道路ということになっているが、明治初期、明治末期の地図には大尽坂の道筋は道路として描かれていて、最も等高線の詰まったところを下っている。

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坂上は23m、坂下は8mの標高で、距離は140mなので、平均11%の勾配になる。 江戸時代の絵図ではこの崖上と崖下を結ぶ道は描かれていないので、杣道くらいしかなかったのだろう。 現在は舗装になっているが、この傾斜で土面の坂だったら雨の日は上れそうにない。

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坂の上下に木製の標柱がたてられている。「昔、大尽(財産をたくさん持っている人)が、このあたりに住んでいたということで名付けられたという。」と書かれていた。このお金持ちの大尽が誰なのかは不明のようだ。池上本門寺が近いのでそれに関係する人なのか、また昔は結構大きな農家があったようでその名主や庄屋だったのか。

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坂を下りきったところに庚申塔がある。右側に「池上めぐろ江道」、左側には「せんそくほりの内江道」とあり、旧目黒道と洗足から杉並区の堀の内への道が交差するところを示している。ここで堀の内かい?と思うのだが、目黒区中根の鉄飛坂にある帝釈堂の庚申塔にも「右ほりのうち、左池上」とあったので、同じ道筋であろう。 「めぐろ江道」というのは「江」は送り仮名の「へ」、つまり目黒へ行く道ということ。 江戸時代に目黒道と言われていた道はほぼ目黒不動への参詣道と考えてよい。目黒道を示す石塔は多く、品川区、目黒区、大田区、世田谷区にある。

大尽坂の北側に並行して崖線を上る二本の坂道があるが、どれも名坂である。 真ん中の坂は昭和に入ってからの耕地整理後の坂だが、北側の1丁目と1丁目の町境の坂は明治時代にはすでに開かれていた。

photo : 2017/2/26

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2018年11月 6日 (火)

番匠免の坂(板橋区赤塚)

番匠免という名前は珍しい。 ここ以外では埼玉県三郷市に番匠免という地名がある。番匠免というのは、「番匠」は大工を指して言う呼び名。「免」は免田=免税の田んぼ。また番匠免を「ばんしょうめ」と読んで王朝時代に諸国から京都に交代勤務した木工の称号という意味もある。 いずれにせよ木工や大工という意味。

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赤塚中央通りの大堂の坂を下りきり、写真の暗渠が残る前谷津川に架かる橋本橋を渡って南下すると再び道は上りになる。 これが番匠免の坂である。 この辺りの地名も以前は旧小字が番匠免であった。

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かつて広大な寺であった大堂を建てたり、維持にあたる番匠(大工)が住んでいた。 大工たちは租税を免除されていたという。 それでこの辺りを番匠免と呼ぶようになった。 坂上辺りの古い地名は地蔵塚。 元は篠崎家という家の守り神として祀られていた地蔵尊があった。 地蔵の前は普通の塚だったらしい。 そこに元禄12年(1699)に地蔵尊が建立され、嘉永2年(1849)には庚申塔も立てられた。

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篠崎家は現在マンションになっているが、その脇にひっそりと地蔵堂が残っている。その名は元塚地蔵尊。 これは後に赤塚中央通りが拡幅されたときにできた地蔵で、元の地蔵尊は松月院へ、庚申塔は大堂に移設された。 そう古くない言い伝えがある。

かつてここの家主が交通事故に遭い、ムチ打ちになって首が回らなくなった。その治療をしてくれた人から、「お宅に地蔵がなかったか?今そのお地蔵様は首がなくて困っていらっしゃる」という話を聞いた。 松月院に行ってかつての地蔵を見ると、なるほど首が欠けて立てかけてあった。首を作り直したところ、自分の首も治ったという話である。 そう昔の話ではないだけに、いささか疑問はあるが面白い。

photo : 2016/11/6

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2018年11月 5日 (月)

大堂の坂(板橋区赤塚)

東西に走る松月院通りと南北の赤塚中央通りの交差点である松月院前周辺は江戸時代はほとんど松月院の寺地で、現在も3,860坪の広さがあるが、江戸時代は15,000坪の敷地だった。 山門の南には赤塚八幡神社があり、かつて下赤塚村の鎮守であった。その傍には古墳があり、この上に建てられた松月院の阿弥陀堂が大堂で、板橋区内最古の寺とされ、1300年頃には極めて大きな寺院だったと言われる。

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松月院前の交差点から南へ下っていく坂道がある。大堂の坂と呼ばれる。大堂の東側を下り、前谷津川に架かる橋本橋を渡る古道である。 北豊島郡下赤塚村時代は前谷津川よりも北側は大門、南が番匠免という地名だった。

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広い通りは古道の道筋を拡幅したものなので、綺麗なカーブを描いて前谷津川に向かって下っていく。坂下暗渠手前の路地を西に向かうと赤塚八幡神社と大堂への参道になる。 松月院の山門が標高31m、前谷津川に架かる橋本橋が24mなので、それほど急な坂ではない。

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坂の東側は区立赤塚三中になっている。神社や古刹に囲まれているので古いかと思いきや、1960年の創立。 それ以前は農家が中心のポツンポツンと屋敷林のある民家が立つ村だったのが、高度成長期に開発され数字の名前の中学校になったのだろう。 中学校建設以前は辺り一面の畑だった。

photo : 2016/11/6

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2018年11月 4日 (日)

つるし坂(板橋区赤塚)

赤塚城址公園の池に注ぐ沢の源頭は区立赤塚体育館の北側である。 この沢はごく小さな沢だったが深い谷を形成して不動の滝を合わせ、赤塚溜池に達していた。 赤塚植物園の南側から暗渠がずっと上っている。 この谷を上谷津の谷という。

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つるし坂は下って上る薬研状の坂で、谷を越えて向こう側に通じる道。 現在は緩やかだが、それは中央部分がかなり土盛りされているからで、昔は急な坂だった。もっとも低い部分は橋になっていて、下を暗渠道が通っている。写真の民家は2階部分が映っているのである。坂の南側の台地上には東西に都道446号松月院通りが通っている。

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つるし坂の由来は、大正時代の地元の民謡に地名として残っており、「つる」は水の流れ、「し」は接尾語で、雨天時には雨水が集まってたくさんの水が流れるという意味である。また松月院通りの南側には前谷津川(暗渠)があり、そこを渡る古い橋の名が亀橋、そこから北に進むと再び沢を渡るこの橋の前後を鶴嘴(つるし)坂と呼んで、鶴と亀の縁起を込めたという。

photo : 2016/11/6

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2018年11月 3日 (土)

藪の坂(板橋区赤塚)

赤塚城址の南側は谷地形である。 千葉氏がこの地を主城に選択したのは自然なことで、赤塚城址は南西の角を除いてはすべて崖になっているからである。 四方が天然の要害になっている場所は城跡である場合が多い、逆をいうとそういう場所に戦国時代は城を築いている。その谷に降りられる細い階段道があって、宅地の造成跡があるのだが接道していないので段々畑のような空き地のままになっている。 そこで猫としばし戯れた。

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この谷に南にある東京大仏側から下って再び上る薬研状の坂道が藪の坂である。高さ13mの青銅製の大仏はその名も東京大仏だが世間には知られていない。 昭和52年の建立なのでそれも致し方ないだろう。 乗蓮寺は大仏建立の数年前に仲宿から赤塚へ移転したものの、江戸時代から続く寺院である。

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この辺りは谷底の竹藪笹藪だったようで、道の両側に深く生い茂る笹藪を由来として藪の坂と呼ばれるようになった。 今は多少の緑は残るものの、ほぼ民家に囲まれた細道坂となっている。 辺りは明治以前からバラパラと民家があった地域で、小字を石成という。石成村はのちに成増村と名を変えたという説がある。この辺りから西側が石成だった。

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坂の南側に赤塚植物園がある。 武蔵野の面影を色濃く残した丘陵地の植物園で、昭和56年(1981)の開園。 先を急いだので園内には立ち寄らなかったが、次回はぜひ入ってみたいと思う。 9:00~16:30開園で無料である。月曜と火曜は閉園であることが多い。

photo : 2016/11/6

<追記>

近年石仏探訪をしていて藪の坂の場所が間違っていたことに気づいた。上記の坂は東京大仏のある乗蓮寺の裏手の坂道で、公園内の階段を下ると赤塚不動の滝に出る道筋だが、正しい藪の坂は一本北にあるセブンイレブンと麺処ひびき庵の間を西に向かって上る坂道である。

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上の写真は坂下。右の階段は赤塚城址へ登る階段で、車道を進むと正面の家の先から上りになる。北側はずっと赤塚城址の斜面で藪といえば藪っぽい。

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坂上では城址と集落から下ってくる道が合流する。昔はひどい笹藪で、それが名前の由来だという。足掛け5年でやっと気が付いたミスである。これまでお読みいただいた方にはお詫びしたい。

再訪 2021年4月23日

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2018年11月 2日 (金)

出口坂(板橋区赤塚)

板橋区郷土資料館や板橋区立美術館のある赤塚城址公園は周囲800mほどの丘陵になっている。 自然の地形を生かして、戦国時代(1456年という説が有力)に千葉自胤の居城となった。詳しいことはほとんどわかっていないが、太田道灌と千葉氏は手を結んで勢力を広げたものの、力をつけた小田原の北条氏に従うことになり、その後秀吉が北条氏を滅ぼし、徳川が江戸入りしたころにはすでに廃城になったようである。

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山頂広場は野球ができるくらいの芝生広場になっている。芝生広場からいったん林に入ると急な下り坂になっており、ここが山のようになっていることがわかる。 東方向4㎞にある志村城の関係は、赤塚城が本城で志村城が支城。千葉氏が北条家の内紛に巻き込まれて落ちぶれたのを太田道灌が保護したという関係。 群雄割拠の室町末期から戦国時代、安土桃山時代はなかなか難しい。

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赤塚城の西側を北から南に上るのが出口坂。 坂上辺りが赤塚城の大手口にあたるので出口坂と呼ばれるようになった。現在は2車線の道路に拡幅されている。 明治時代、大正時代は小字を出口といい、出口は地名でもあった。

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緩やかにS字を描いているのはこの道が古い道だからであろう。 赤塚城は真北の荒川の早瀬を一望し、また武蔵北部から南部の下赤塚、江古田に至る鎌倉道でもあって、陸運水運をとらえる要衝であった。  鎌倉道というのはあちこちに言い伝えられており、何本もあるようだが、ここは間違いなく北関東から鎌倉へのルートのひとつだったと思われる。

photo : 2016/11/6

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2018年11月 1日 (木)

赤パッケ坂(板橋区赤塚)

首都高速5号池袋線が新大宮バイパスと合流するところは小山になっている。 岬の突端のような地形で、ここは塚なのだろうか?と訪問時は考えたが、資料を探してもその説は出てこない。 もっともこの辺りからは縄文時代以降の発掘物が出ているので、他の崖線同様に古くから人間の営みがあった場所であることは確かだ。

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バイパス側からアプローチするといきなり崖になっている。この崖を階段で昇り降りするのが赤パッケ坂である。「パッケ」というのは崖の意味の「ハケ」「バケ」の転訛だろう。そして赤は「赤土」を意味するので、赤土の崖ということになる。 坂下には赤塚城址があり、溜池のある赤塚溜池公園になっている。

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昔はこの溜池に南から沢が流れ込んでいたようで、その沢がこのパッケを形成したものであろう。戦前の地図にはこの水線がはっきりと記されている。 太古の源頭は赤塚体育館の辺りのようだが、沢として水線が出てくるのは現在の美術館入口辺りからである。 その少し南の赤塚不動の滝の場所には湧水があり、かつては滝のように流れていたという。

photo : 2016/11/6

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