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2018年11月 8日 (木)

ガッカラ坂(板橋区上板橋)

川越街道は江戸と川越を結ぶ街道。 中山道と旧板橋宿の平尾追分で分岐し、川越城下に至る現在の国道254号線沿いの旧街道。室町時代に太田道灌が江戸城と川越城の間に開いた街道で、江戸時代は川越往還といい、川越街道という名は明治以降の呼び方である。東京都内の宿場は3つ、板橋宿、上板橋宿、下板橋宿だが、江戸から川越までは11里程なので、ゆっくり行って一泊、早足だと一日の旅程。 途中で一泊するなら朝霞の肘折宿あたりだろうから、もっぱらお茶休憩の宿場の要素が強かったのでは。

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新道の国道254号線に五本ケヤキという中央分離帯がある。かけていた1本が植えられ5本に戻った。 昭和初期、自動車道路の建設に新道(改正道路)が通された。 ここに上板橋村村長宅の屋敷林があり、ケヤキも伐採されることになったが、当地主の強い希望で一部残されることになり、現在の形になった。 今となってはイカしたランドマークになっている。

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旧川越街道は五本ケヤキの北側を平行に走っている。 現在は上板南口銀座商店街で、訪問時は子供御輿の祭りで賑わっていた。 ほぼ直線といえる旧街道で、坂上から西を遠望すると確かに下っているが、歩いていて坂道を感じるほどではない。

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縁日のある街はいい。 表参道や青山よりもずっといい。 直線のつまらない坂道でも人々の生活感ある賑わいがあると良い坂になる。

「郷土板橋の坂道」には、「川越街道の五本欅の東手前から斜めに入る道がある。これが旧川越街道で練馬北町に向かっている。入るとすぐに緩やかな坂になる。坂の中程に子育地蔵堂があるので地蔵通りと呼ばれる。 この通りは、埼玉や練馬・赤塚の農家の人たちが、朝は暗い内から野菜などを市場に運んだ道で、荷車が「ガラガラ」と音を立てて通ったので、ガッカラ坂と呼ばれた。また長い坂なので「ガッカリ」したといい、ガッカラと訛ってこの名が付いたともいう。」とある。

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中程にある子育地蔵堂は地元の人々によってきれいに管理されている。 地蔵菩薩は3体あるが手前脇のものはかなり最近のようだ。 奥の左手は安永6年(1777)のもの、右側の合掌している方は安永7年(1778)である。

説明書きによると、この2体の地蔵菩薩はもと栗原堰の一本橋(茂呂遺跡の北側の石神井川に架かる橋)にあったもの。 台座には貞享5年(1688)の年号もあるので、台座は使いまわしだろうか。 明治初年には駅前商店街との交差点に移設されたが、放置され倒された状態だったのを宝田豆腐店の店主が大正12年頃にここに祀った。当初は3体あったが、1体減っている。そのかわりが右手の新しい地蔵なのだろうか。

この地蔵を中心にして、4月から9月まで毎月七の付く日に縁日が開かれる。東隣の豆腐屋さんは数年前に廃業したようだが、地蔵菩薩に守られて幸せなリタイアだったのだろう。

photo : 2018/10/28

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