花抜坂(大田区東雪谷)
大田区東雪谷を南北に走る花抜坂の道筋は古道である。 現在は1本東側のバス通りが荏原病院前を通り、中原街道に抜ける生活幹線になっているが、江戸時代から大正時代までは花抜坂が南北の主要道路だった。 坂下近くには地元の人々にきれいに管理された庚申塔が真新しい小さな堂宇(お堂)に守られている。
左側の庚申塔は正徳2年(1712)のもの、右側は享保7年(1722)である。右側の庚申塔には、「右瀬田ヶ谷村道、左九品仏道」とあるので、左は呑川沿いに進み奥沢から九品仏浄真寺への参詣道、右は尾根に上り洗足池を経て世田谷へ向かう道という意味で、昔は花抜坂の坂下にあったのではないかと思われる。
一方南側はやがて多摩川に至る鎌倉時代からの道だった。 この尾根は、西側を呑川に、東側をその支流の洗足流れに削られた二つの谷の間の台地である。 その台地の尾根の南端で低地に下る坂が花抜坂という訳である。
花抜坂以南はというと、道は久が原を抜け鵜の木を経て、そこからは矢口渡に行く道と平間の渡しに行く道に分かれていた。 平間の渡しは現在の下丸子と川崎の鹿島田を結ぶガス橋辺り、矢口渡は国道1号線の多摩川大橋あたりの渡し場である。
花抜坂の東側にある長慶寺は日蓮宗の寺院として慶長3年(1598)に碑文谷に開山、のちにここに移転した。坂下の標高が9m、坂上池雪小学校辺りが23mで、10%ほどの勾配がある。 江戸時代尾根一体は雪ヶ谷村、尾根の東側は池上村、南側は道々橋村と3村の境になっている。 その地名は新幹線をくぐった南側の交番名に「道々橋交番」という名で残っている。
坂上からは遠く池上本門寺の大堂の巨大な屋根を望むことが出来、かつて本門寺に参詣し目黒世田谷方面に帰る人々は振り返りその長めに旅の余韻を覚えたのだろう。 坂の上下の標柱には、「『大田区史』に載せられた伝説によると、この付近は野花が美しく咲き乱れ、日蓮聖人が思わず手折ったので、以来「花抜き(花の木ともいう)」の地名でよばれるようになったという。坂名はこの地名に由来する。」とある。
また、大田区のHPには、「東雪谷五丁目12番と13番の間を池雪(ちせつ)小学校脇に向けて上る坂道が花抜坂です。坂名は、日蓮が洗足池から池上へと向かう途中、この付近に野花が美しく咲き乱れ、思わず手折ったので、以来花抜(花の木)の地名で呼ばれるようになったという伝説に由来します。伝説のとおり、この坂は古い道で、中原街道から別れて矢口の渡しまで通じる道でした。昔は現在のようなまっすぐな坂道ではなく、曲った坂道で、両側は高い崖になっていたといい、坂下は竹やぶであったようです。」とある。
photo : 2017/2/26
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