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2018年11月 2日 (金)

出口坂(板橋区赤塚)

板橋区郷土資料館や板橋区立美術館のある赤塚城址公園は周囲800mほどの丘陵になっている。 自然の地形を生かして、戦国時代(1456年という説が有力)に千葉自胤の居城となった。詳しいことはほとんどわかっていないが、太田道灌と千葉氏は手を結んで勢力を広げたものの、力をつけた小田原の北条氏に従うことになり、その後秀吉が北条氏を滅ぼし、徳川が江戸入りしたころにはすでに廃城になったようである。

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山頂広場は野球ができるくらいの芝生広場になっている。芝生広場からいったん林に入ると急な下り坂になっており、ここが山のようになっていることがわかる。 東方向4㎞にある志村城の関係は、赤塚城が本城で志村城が支城。千葉氏が北条家の内紛に巻き込まれて落ちぶれたのを太田道灌が保護したという関係。 群雄割拠の室町末期から戦国時代、安土桃山時代はなかなか難しい。

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赤塚城の西側を北から南に上るのが出口坂。 坂上辺りが赤塚城の大手口にあたるので出口坂と呼ばれるようになった。現在は2車線の道路に拡幅されている。 明治時代、大正時代は小字を出口といい、出口は地名でもあった。

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緩やかにS字を描いているのはこの道が古い道だからであろう。 赤塚城は真北の荒川の早瀬を一望し、また武蔵北部から南部の下赤塚、江古田に至る鎌倉道でもあって、陸運水運をとらえる要衝であった。  鎌倉道というのはあちこちに言い伝えられており、何本もあるようだが、ここは間違いなく北関東から鎌倉へのルートのひとつだったと思われる。

photo : 2016/11/6

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