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2018年12月30日 (日)

東京23区の坂道を振り返って

年の瀬である。ようやく東京23区の名のある坂を網羅できた。 地形と遊ぶのは面白い。 NHKのブラタモリが高視聴率を得ている。 地形学、地学、地質学などが陽の目をみることになり、これはタモリ氏の貢献は極めて大きい。

最初のブラタモリは明治神宮から始まった。明治神宮内の御苑から流れる水路が、原宿駅をくぐり竹下通りへ。 少年少女の足元を流れたのちブラームスの小径を流れ、そのところどころに痕跡を覗かせるのを見つけて、タモリ氏と涌井氏が喜ぶという、きわめてマニアックな初回であった。

その少し後、私は山野勝氏の本に出会った。 それ以前から暗渠や水線を歩くのが好きで、代々木八幡・参宮橋の「春の小川」などを辿って楽しんでいたが、谷があれば丘があり、その間には坂道がある。 この坂道を歩いて見るのも面白そうだと思った。

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地形(土地の記憶)は隠しきれないものだが、東京の開発は大規模なものが多く、地形すらぶっ壊してしまうものが出てきた。 近年では玄碩坂を葬った六本木ヒルズ開発がその例だし、間もなく麻布台1丁目の大部分を占める我善坊谷を埋めてしまおうという森ビルの計画が進んでいる。

上の写真はその我善坊谷を三年坂の坂上から眺望したもの。 崖上の歴史ある逓信の建物もなくなりそうである。東京は江戸時代から、丘に身分の高いものが住み、谷にはそれを支える庶民が住んでいた。出世すると標高も上がっていくようなところがあった。

坂は東京(江戸)の文化の骨格だと思う。 タモリ氏はいつも「キワが面白い」というが、キワというのは土地の骨格であり、そこが変わると土地全体の性格が変わるのである。そこには数多の物語がストラタ(地層)の如く積み重なり、掘ればいろんなものが出てくる。

838坂を歩き終えて、埋もれたものが忘れ去られることは、祖国が無機質な、冷たいものになっていく原因だと思うようになった。タワーマンション、高層ビル、商業施設、どれもうたかたの消えゆく泡である。 土地の記憶という生き物を、表面だけ取り繕った文明で覆ってはいけない。

自分にできることは、その土地の記憶を書き留めて残すことかもしれないという思いと共に幾多の坂を上り下りしてきた。 その記憶を何度もオーバーライトするために、これからもまた上り下りするのだろう。

2018年12月30日

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2018年12月29日 (土)

円山坂(渋谷区円山町)

江戸時代の俗は聖の傍にあった。 有名な神社や寺社仏閣の傍には遊郭や岡場所(娼婦の集まる街)があった。 戦後になり、赤線を廃止し、売春など社会の裏側をクリーンにしようとしてきたが、やっているのが人間なので巧くいくはずもない。 歌舞伎町を浄化しようと都庁の輩が躍起になると、渋谷が一大風俗空間として発展してしまう。 昔は、表裏を合わせてバランスを取っていたが、そのバランスを取れない人間が主導するのでどんどんおかしな社会になっていくように思う。

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円山坂はそんな渋谷の恥部的な場所にある坂道。 通りの半分はラブホテルである。なるべく人に会わないようにと時間を選んだが、それでも数組が出入りする脇を歩く羽目になる。坂下の入口に在った円山坂の表示は、道路の拡幅時に取り払われてしまったので、現在はここが円山坂という認識を持った人はほとんど皆無である。

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坂下の向かい角はかつての「松涛温泉シエスパ」、爆発事故を起こした会員制温泉施設である。その裏手は日本でも最高地価の住宅地松涛。 渋谷の混沌の街からも目と鼻の先で、邪悪な空気に包まれた気がしなくもない。

かくいう私もこの街で働いていたことが有る。 まったくカオスな街である。当時は平気だったが、現在は1秒でもそこに居たくない街になってきた。なので、この坂が東京23区の名前のある坂838坂の最後の坂としてやむを得ず再確認に訪問したわけである。

photo : 2018/12/28

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車坂(北) (台東区上野)

「上野のお山」と時代劇で言われるのは、現在の上野公園から鶯谷駅あたりまでの広い地域を指している。 天海が徳川家の庇護のもと築いた寛永寺の寺域は皇居(江戸城)に匹敵する規模であった。

そして現在上野駅は20本程度の線路が走っているが、その駅構内全体には寛永寺の塔頭(たっちゅう)が並んでいた。その塔頭は崖の下になるので、上野のお山と往来するための坂道が通っていた。

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その坂のうち最も鶯谷側にあったのが信濃坂でこれが写真の車坂(北)の場所よりも少し鶯谷寄りの江戸時代の坂である。信濃坂のすぐ都心寄りにあったのが屏風坂。これが現在の車坂の跨線橋(両大師橋)部分とほぼ同じ位置になる。

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現在の橋は1970年頃に架け替えられたもの。 それ以前は明治中期以降何度か架け替えられている。しかし坂名のように車が通れる斜路まで作られたのは昭和に入ってからのようだ。 現在の車坂を歩く人は意外にいて驚いた。しかし歩くと結構長い距離になるので、やはりJRの公園口から上野公園に行くのが良い。

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坂下の歩道橋から見るとなかなかセクシーな曲がり方をした坂道である。モナコGPやマカオGPのコースを思い起こさせる。道路わきの謎の巨大コンクリート建造物が気になって仕方がなかったが、東北新幹線に覆いかぶさるように立っているので新幹線関連の施設なのだろうか。

坂下の町名は現在は上野だが、以前は下車坂町といい、都電の電停「下車坂町」があった。昔の町名は素晴らしい。それに比べて現代の町名は情けないほどセンスがない。役所が管理しやすいのと、人々が暮らしやすいのは違う。 どうも前者に傾いてばかりいるようなところが多すぎる。

photo : 2018/12/28

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渡邊坂(新宿区天神町・中里町)

神楽坂の早稲田通りがヘンテコな曲がり方をしている交差点が牛込天神町。 このカーブ部分とそこから北方向へ下る坂道は地蔵坂だが、途中から渡邊坂に名前を変える。 坂の途中には何の区切りもない。 坂は北野神社の参道辺りで水平になる。

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数十mの距離に地蔵坂の標柱と渡邊坂の標柱があるのに坂は同じ坂という紛らわしいところだ。 坂を下ると山吹町のバス停だが、その辺りを昔は小川が流れていた。 その手前(南側)に渡辺源次郎(源蔵)という千石の旗本の屋敷があったので、渡邊坂と呼ばれるようになった。

江戸時代の道は山吹町に下る手前でクランクになっていたので、それより下を渡邊坂、上を地蔵坂と呼んでいたのだろう。

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緩やかな坂である。渡邊坂の部分の高低差は2m、地蔵坂部分は傾斜があって8mほど高低差がある。地蔵坂上は矢来町。 小浜藩10万石酒井家の下屋敷があり、39,000坪の屋敷内には素晴らしい庭園があった。 三代将軍徳川家光は好んで小浜家を訪問し、庭を楽しんだという。 この屋敷が警備のために竹囲い(矢来)で囲まれていたのが矢来町の地名の由来になった。

10万石39,000坪の酒井家を差し置いて、千石1,750坪の旗本の名が坂名として残るとは、大したことだと思う。

photo : 2018/12/28

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大木戸坂(新宿区四谷)

靖国通りの富久町西交差点から南に下る都道418号線は一旦下ってから、再び上りになり新宿通りの四谷大木戸前である四谷4丁目に至る大通り。 ここは通称外苑西通りで、富久町で計画道路が切れている。しかし少しずつ部分開通しており、環状4号線として富久町以北も延伸事業中。できるのは何十年先か分からない。

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この道は戦前から幅の広い道だったようだが戦前の地図を見ると道幅が一定ではない不思議な道路である。 一番低い場所の交差点が「大木戸坂下」交差点。 実はここで斜めに交差している道が古くからの道である。江戸時代は、御苑の大木戸門から北に麹屋横丁(きくやよこちょう)という通りがあり、大木戸坂下で外苑西通りを越え、富久町に下ってから東へ市ヶ谷方面に繋がっていた。
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坂下から富久町西交差点を望むとそこそこの傾斜を感じる。4mほどの高低差がある。大木戸坂はこの区間を指すのだが、四谷4丁目交差点に向かっては薬研状の坂道になっている。 この窪みがなぜ出来たのかは、瓶割坂で出てきた紅葉川に起因する。

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標高は富久町西が32m、坂の低い部分が26m、そして四谷4丁目が33mである。 紅葉川は新宿御苑の玉藻池(最も東側の池)から北に流れ、大木戸坂下から富久町交差点に流下、そこで北から流れてきた饅頭谷を合わせて東へ流れ市ヶ谷で外堀に注いだ。 饅頭谷は現在の富久さくら公園とイトーヨーカドーの間辺りから、富久町交差点に向かって流れていた沢筋である。関東大震災以前の地図にはまだ水線が残っている。

富久町交差点に成女学園があるが、その入り口に小泉八雲旧居跡の説明書きがある。ここには明治中期に5年間住んだ。この辺りは当時自然の豊かな地域だったが、開発が進むと小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は西大久保に転居したという。西大久保というのは、現在の区立大久保小学校の辺りで、現在は小泉八雲終焉の地として石碑と説明書きがある。私が中学生の時に読みふけった怪談物が懐かしい。

photo : 2018/12/28

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瓶割坂(新宿区新宿)

靖国通りは新宿大ガードから新宿三丁目を経て九段下に至る大通り。 しかし戦前までは細路地だった。 伊勢丹パーキングのある新宿五丁目交差点を過ぎると、次の信号である新宿一丁目北辺りからわずかな上りになる。 高低差は2mちょっと。 遠目に見ると上り坂になっているのが分かる程度である。

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この道は戦後開かれた道。 新宿五丁目東から新宿御苑入口までの南北の都道305号は別名を柳通りとか、花園通りとか、はたまた御苑大通りとか言われるが、定着しない。 ここだけ違和感のある広い道になっているのは都電が新宿通りからこちらへ南下して、新宿通りで東に向かい四谷方面へ走っていた名残りである。

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新宿五丁目東から東に進むと南側に寺が並ぶ。 大通り側は成覚寺と正受院だが、すこし南の太宗寺が有名である。 明治時代までこの太宗寺の池から川が北に向かって流れ、蟹川となって早稲田大学の大隈講堂から脇の庭園を経て、神田川に注いでいた。 成覚寺の西側には蟹川の橋が架かっていて、この通りはそこから東に向かって上り坂だったのである。

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上の写真は東側から見たもの。 歩道橋があるところがかつての新宿厚生年金会館の前になる。 そこが最高地点になって、向こう側(西側)は蟹川に向かって下り、手前(東)側は大木戸から流下していた紅葉川の水域である。 つまりこの微高地は分水嶺になっているわけである。

瓶割坂については、横関英一氏が著書の中で詳しく論説しているが、このお椀を伏せたような形をいうらしい(別説もあり)。

photo : 2018/12/28

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2018年12月28日 (金)

さくら坂[玄碩坂](港区六本木)

記憶では19歳のころ、1970年代の後半、友人の一人に社長の息子がいた。 どんな家業だったかは覚えていない。 一度彼の家に遊びに行った。 六本木通りの麻布警察署先の日産の辺りから下り坂を下りて行った。 スリバチ状の地域にあった家は豪邸で地下室もあり、そこでは映写機やピアノ、ドラムセットなどが置いてあった。 しかし彼の父は戦後まもなく安い時期に買った家だと言う。 昭和20年代前半に数百万で購入した土地に家を建てたらしい。

後になって気づいたのだが、そこは現在の六本木ヒルズの一角、けやき坂とさくら坂の間あたりだった。 現在ではそこに建つマンションの1カ月の賃料が百万円を超す。 しかし、当時は、谷底で六本木の喧騒からは離れているがいささか湿っぽいところだなあ、という印象だった。

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六本木ヒルズは谷を盛土して埋めた開発地である。 おそらく数m以上は盛土をしてあるのではないだろうか。 南側のさくら坂の途中には「さくら坂公園」がある。 ヒルズには外国人セレブが多いので、日中は外国人の親子が公園で遊んでいる。 日本人は少なく、ここが日本であることを忘れてしまいそうになる。 しかし、この公園は元長州長府藩の大名屋敷の中、藩士の長屋があった場所で、乃木希典が誕生した地である。

開発以前は公園も北日ヶ窪公園という名前で、文字通り窪地にあった。 さくら坂公園は低い場所を走るさくら坂と一段高い場所を走る内田坂の間にある。 昔の町名は麻布北日ヶ窪町と呼ばれた。 内田坂と昔あった玄碩坂を結ぶ路地が公園の近くに残っている。

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不揃いの階段は内田坂側から下ってくると、途中から土の中に埋まる。 この階段の下はまだ玄碩坂へ下る途中に過ぎない。かつてはここからさらに下って玄碩坂に降りていたのである。

当時の六本木にタイムスリップしたいときは、二村さんという方が作られているHP『東京 -昭和の記憶-』に行くと良い。 とても懐かしく楽しめるHPである。

photo : 2018/11/19

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2018年12月27日 (木)

安鎮坂(新宿区南元町/港区元赤坂)

安鎮坂は東宮御所(赤坂御所)の北側沿いの道の坂。 昭和61年(1987)頃、ここで皇太子(現在の天皇)が東宮御所の正門から車で出発されるのに出くわした。 当然車は通行止めになっていたが、私は徒歩だったので、しばらくの間足止めを食らっただけだった。

周辺の警察官に緊張が走り、異様な雰囲気になったのちに門から黒い乗用車(センチュリーだったかプレジデントだったかは覚えていない)が前後を警察車両に護衛されて出てきた。数分後、通行止めは解除された。安鎮坂はまさに東宮御所の正門前の坂道である。あとでニュースを見ると、その日は沖縄国体に向かって出発された日だった。

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安鎮坂の別名は権田原坂という。 その他に権田坂、権太坂、権太原坂、安珍坂、信濃坂など多くの別名がある。 歩道の標柱には次のように書かれている。

「付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって権太原坂ともいう。」

権太原坂の方の由来は、幕府の代官権田隼人の屋敷があったとか、権田丈之助、権田小三郎の屋敷という説など諸説があって定まらない。

『新撰東京名所図会』には安鎮坂とあり、安鎮僧都の碑があるからとなっている。『江戸名所図会』の説明は権太原坂だから、江戸と明治で違っている。

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坂を下りきったところが、かつて鮫河橋があったところ。 それより先は鮫河橋坂である。 江戸時代、東宮御所は徳川御三家の紀伊和歌山藩の屋敷だった。

この坂下の窪みは赤坂川という川が台地を削って出来たもの。赤坂川は新宿区須賀町の円通寺あたりを源頭に若葉町の商店街沿いに流れ東宮御所内の池でいったん水を溜め、そこから溜池に注いでいた。 江戸時代坂下の谷沿いには岡場所があり、私娼が多くいたという記録がある。 この坂は最高位と底辺の人々が共存した場所になる。

photo : 2017/11/3

(追記:2019/1/2)

外苑東通りと安鎮坂の交差点の名前が「権田原」とある。 そして赤坂御所の住所が「元赤坂」である。 何気なく通り過ぎる交差点や地名に歴史が含まれている。

権田原というのは標柱にもあったように、江戸時代に権田某という人物の屋敷があったからという説が有力だが、切絵図にはほぼ御先手組の大縄地(今でいえば警察官の官舎敷地)が占めている。 権田(権太)についての考察は、時代考証家の大石学氏の『坂の町 江戸東京を歩く』に書かれている内容が詳しく興味深い。

元赤坂については、現在の赤坂と言えばTBSの周りを云うが、江戸初期の赤坂は赤坂御所周辺の地名だった。 そのため「元」がついて元赤坂という訳である。

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2018年12月26日 (水)

梅林坂(皇居東御苑)

皇居江戸城本丸跡に上るルートは5つ。 正門ともいえるのが百人番所前の中之門、その北側には二の丸から上る汐見坂、さらに北側には不浄門といわれた平川門に続く梅林坂(うめばやしざか)がある。 一方西側は狐坂を上る西桔橋門(にしはねばしもん)、北には北桔橋門(きたはねばしもん)がある。

狐坂のある西桔橋門は皇居乾通り一般公開の時にしか通れないので、狐坂は当分の間踏破できない。北桔橋門から北の丸公園への出口は断崖のような高さがある。

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平川門からの道と、二の丸からの道が出合う辻からの上り坂が梅林坂。  いろいろな樹木が二重三重に重なっていて、季節感を感じられる道である。 いささか通用口感があるが、旧天守閣に裏手から上がる。

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梅林坂にも説明板がある。 文明10年(1478)に太田道灌が川越から天神社を勧請し祀った時に、百株の梅の木を植えたのが由来(説明板には数百株とあるが、『江戸名所図会』には梅樹百株とある)。 以前には平川天神の坂と呼んでいたが、道灌が梅を植えてからは梅林坂と呼ばれるようになった。 家康もここを梅林坂と呼んでいたのかもしれない。 もちろん樹齢400年の梅は残っていないので、植え替えられたものばかりである。

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江戸時代半ばから人々は桜を愛でるようになったが、もともと花見と言えば梅の花であった。 戦前くらいまで梅の花見は盛んで、各地で梅が楽しまれていた。 大田区の梅屋敷もそうであるし、二子玉川も元々は将軍が鷹狩りと鮎と梅の花を楽しむ場所だったらしい。

ちなみに読みは「うめばやしざか」だが、「ばいりんざか」とも呼ばれていたという記録がある。

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2018年12月25日 (火)

汐見坂(皇居東御苑)

2018年12月23日は平成最後の天皇誕生日であった(実はまさにその日にこれを書いている)。齡(よわい)を重ねるにつれて、皇室の報道に心穏やかになるという感覚が出てくるようになった。細かいことは抜きにして、2000年近くも続いた国は地球上には皆無に近い。勿論縄文時代が1万年続いたことがそれ以上の奇跡なのだが、皇室の歴史もまた同様の奇跡だろう。

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パレスホテル前の大手濠と桔梗濠の間にある大手門から皇居東御苑へ入城することが出来る。入場は明るい時間帯のみだが無料。丸の内にあるにも関わらず、大手門をくぐるとそこは都会の喧騒をかき消したような別世界になる。

すこし上り坂を上ると広場に出る。 百人番所が長さ50mを超える姿を見せる。江戸時代の検問所で、与力・同心が常時100人詰めていたことから百人番所と呼ばれるようになった。

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百人番所前には見事な石垣が迫っている。 番所を背にして、左側の石垣の切れ目が本丸へ入る中之門、右側の切れ目が東御苑へ行くルート。東御苑は素晴らしい庭園として人気があるが、その西側には白鳥濠が水面を静かに湛えている。白鳥濠の先の巨大な石垣の間を上る坂が汐見坂である。

石垣の脇に説明板がある。

「汐見坂:本丸と二の丸をつなぐ坂道でした。その昔、今の新橋から皇居前広場の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることが出来ました。坂の上には、汐見坂門が設けられていました。」

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汐見坂を上りきると江戸城天守跡が目に飛び込んでくる。江戸城は太田道灌の城を基に、徳川家康が1606年に建立したが、天守の場所は南側の富士見多聞の辺りだった。二代秀忠から三代家光にかけては現在の天守台跡の位置に日本最大の天守閣を築いた。しかし、明暦の大火(1657)で焼失。 そのあと加賀藩前田家の普請で再建させた天守台が現在のもの。しかしこの天守台に天守閣が築かれることはなかった。城を示して権勢を誇らずとも、江戸幕府はすでに天下を統一し安定政権となっていたことも大きな理由のひとつであろう。

photo : 2016/12/3

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2018年12月24日 (月)

清水坂(千代田区紀尾井町/麹町)

千代田区の清水坂は、坂下で紀尾井坂、清水谷坂と交差する。 坂上は新宿通りの麹町本通り郵便局から入る路地。 上智大学の東側をなめるように下っていく。 この坂の名前については諸説あるが、個人的には横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』の「江戸の念仏坂二つ」に含まれる考証を支持したい。

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念仏坂考証の中では、天保元年(1830)に出た『江戸独案内』という古書の中に、麹町にあった江戸の坂として貝坂、紀尾井坂、念仏坂、清水坂が紹介されており、この念仏坂が何処にあったかという点を横関氏は考察している。 その余話ともいえる部分で、清水坂を上智大学の東側の道と確定しているのである。

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写真の白いギリシャ風デザインの擁壁の上は上智大学のキャンパス。 『麹街略誌稿』という古書に、「清水坂、九丁目尾州公表門前より清水谷へ下る坂を云ふ」とあり、まさにこの坂が清水坂だと念押ししている。 尾州公表門前というのは尾張家屋敷の表門をいうが、江戸の切絵図は大名屋敷の正門の場所が分かるように描かれており、それによると紀尾井坂側が正門。しかし、元禄以前の絵図では、現在四ツ谷駅がある四谷見附の側が表門だったことが分かっているので、上智大学東路地が清水坂であるという説は間違いないだろう。

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この坂を下ると清水谷に出る。 清水谷は大久保利通が暗殺された場所である。この場所はその昔から湧水の川が赤坂見附の弁慶濠に流れていた。 辺りは昔から湧水の豊富な場所だった。

清水谷公園には巨大な大久保利通の哀悼碑だけでなく、湧水池や江戸時代の石枡とも木管もある。 大木戸で地下化された玉川上水の幹線が、麹町通りの拡幅工事で発見されたもの。 数十センチ角の木管を通す精巧な石枡の大きさは、人の背丈ほどもあり、江戸時代の土木技術には驚かされる。 これだけのものを無造作に公園に置いているのは、それだけ東京には多くの遺跡や出土品があり、野ざらしにしてもいいと考えられているのかと思わざるを得ない。

photo : 2017/12/8

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2018年12月23日 (日)

桜上水駅前の坂群(世田谷区桜上水)

桜上水駅の南側一帯には名前の付いた坂が5坂ある。 桜上水5丁目の自治会が「道の会」を結成し名付けたもので、2009年に出来た坂名。 きっかけは防災訓練だったそうだ。 防災訓練を実施した時に、相互で場所を伝えようとしたが、なかなか伝えることが出来なかった。商店があるわけでもなく、普通の住宅街だったためである。

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自治会のメンバーはこれではいざという時に困る、という危機感から議論を重ねた結果、住民から坂と通りの愛称を公募した。 そして5つの坂と通りの名前が決定されたのである。 生まれたばかりの坂名が公募であるという点で、取り上げるほどの意味を感じないが、これはこれで平成の坂名としては良いのではないかとも思った。

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東の改札口寄りを南北に走るのが駅南(えきみなみ)坂。 その名の通り、駅の南口から下る坂だからである。 高低差は2mほどしかないが、この坂は北側が坂下で南側が坂上になる。

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西隣の坂は細道坂。 坂名がつけられた中でもっとも道幅の細い坂道である。 この坂も北が低く南が高くなっている。 街路はどれも戦前の耕地整理によって出来た道なので、この道のように細い道が出来たのであろう。 現在では2項道路と呼ばれ、建て替えの時にはセットバックが義務になる。(4mの道幅を確保するための法律)

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その西側はそよ風坂。 この坂も北が低く、坂名は駅に向かって下っていくとそよ風を感じるというのが命名の由来。 ただ、この坂はほとんど高低差がない。 線路に近づいたところで若干下り、1mほど低いだろうか。

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西から2番目の坂はタッピング坂。 この坂の名前を見た時に、誰かがタップダンスで歩いたとか、タッピングねじを作る工場があったとか、そういう由来を想像したのだが、見事に外れた。 戦前から高度経済成長期の頃まで、この坂には3階建ての洋館があり、そこに通訳をしていたアメリカ人のヘレン・タッピングさんという方が住んでいたのが由来だそうである。

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最西の花火坂は花火工場があった…のではなく、この坂上から二子玉川や川崎の花火大会の花火がきれいに見えることから付けられた。 というのも西側のタッピング坂と花火坂は、北が坂上で南が低くなっていて、東側の坂と反対になっている。 これは目黒川支流の北沢川と支沢がこの町の南と北に流れていて、その間の小高い地域に町があるからである。

南側の低地は北沢川の本流筋の源流が削ったエリア。 北側の低地は現在も駅前踏切近くに沢のわずかな半開渠(薄い蓋をしただけ)が残っている。 鉄道が出来る以前は旧甲州街道近くまで沢があったようだ。 水道道路を越えると北側の沢は暗渠になり、松沢中学校、松原高校の脇を流下、日大桜丘高校と緑が丘中学校の間あたりで本流に合流していた。

実は私もこの坂名を付けた自治会のサポートをした世田谷トラストまちづくり(財)の個人会員になっている。 この坂の話はごく一部で活動範囲は広い。 その他の自然保護など、なかなか素晴らしい多様な活動をしている。

世田谷トラストまちづくり(一財)ホームページ

photo : 2016/10/22

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2018年12月22日 (土)

ウテナの坂(世田谷区南烏山)

京王線蘆花公園前駅前から南に下る道がある。 そのまま南下するとウテナ本社前を通り世田谷文学館へ、やがて粕谷村地蔵尊の変形交差点で千歳通りに合流する。 ウテナ本社前から世田谷文学館に向かってやや下りになっていて、これがウテナの坂。

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写真は坂下から望んだもので、文学館の和風の塀が長く続いているが、その向こうには有料老人ホームが塀の中にある。 ただここは次元の違う老人ホームで月額数十万円~200万円の入居料で、限られた人(もしかしたら万人に1人とか)でないと入居できない。 ちなみに近くにある区立老人ホームは食費を含めて月間10万円程度。 こういう常識外れに高価な老人ホームを世田谷区の公共施設と共に建てていることに大いなる疑問を感じざるを得ない。

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さて、ウテナの坂だが、もちろんウテナ本社が坂名の由来である。 大正時代末期(1923)に漢方薬の製造を手始めに化粧品会社に発展したウテナの工場があった。 化粧品第1号は「ウテナ液」という肌を白くするものであった。 私が子供のころの記憶ではウテナ男性クリームやお子様クリームの記憶が残っている。

昭和初期にはウテナの坂も相当急な坂だったという古老の話だが、実際は坂上と坂下で3mほどしか高低差がない。 このかすかな低地は烏山の鴨池(高源院)を水源とした烏山川の源流のひとつが削った低地。 この川は下っていくと池尻大橋で目黒川となり、天王洲で東京湾に注いでいる。

photo : 2018/11/10

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2018年12月21日 (金)

給田坂(世田谷区給田)

仙川を挟んで仙川坂と対峙するのが給田坂である。 仙川の大川橋からカーブを描いて東に上る坂道で、かつての甲州街道の一部。 江戸時代から明治時代にかけては樹木の生い茂る暗い街道だったようである。

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給田の地名は中世の荘園の時代に遡る。 給田というのは貴族が日本を支配していた時代に、荘園領主が地頭ら現地の管理者に与えた田んぼのことであった。 世田谷区の西の端のこの辺りは江戸時代に天領の時期が長かったので、地名がそのまま残ったのかもしれない。

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寛永12年(1625)に三代徳川家光が「武家諸法度」を改正し、参勤交代制度を確立すると、給田村は助郷としての役を強いられるようになった。 助郷というのは『殿、利息でござる』を観るとよくわかるのだが、参勤交代のサポートに労役とお金を納めるもので、その助郷では大いなる負担を強いられるのである。 さらにこの辺りは将軍の鷹狩り場でもあり、将軍が鷹狩りに来るとなると鳥の餌の虫を集めるなどの労役も課せられた。

鷹狩りというのは、高度経済成長期の社長接待ゴルフを大規模にしたようなヤラセだったから、将軍を満足させるために、村人はひどい労役を与えられた。 もっともそれだけ自然がいっぱいの環境だったわけで、今の街の姿からは想像できない。

photo : 2018/11/10

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2018年12月20日 (木)

仙川坂(世田谷区給田/調布市)

甲州街道はところどころで国道20号線から分かれた旧道を残している。 上高井戸(環八通りとの交差点)から仙川までは3㎞近く旧道を残しており、その最も西にあるのが仙川坂である。 仙川坂は、仙川に向かって調布側から下っていく坂道で、周辺は甲州街道沿いでも変遷の激しい地域だが、旧道沿いはマンションが増えたものの、道筋は昔の姿を比較的とどめている。

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この坂が世田谷区と調布市の境界になっており、坂の北側は調布市仙川、南側は世田谷区給田。 仙川に架かる橋の名前は大川橋。  仙川は決して大川と呼べるような川ではないのでいささか違和感がある。 かつては地元の人が氾濫を繰返す仙川と付き合いながら住んでいた。 現在の大川橋は昭和10年代に架けられたコンクリート橋だが、それ以前は石橋であった。

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石橋は御影石で築かれており、その上に盛土をして荷馬車が滑らないようになっていたという。 江戸時代は急坂だった仙川坂や対岸の給田坂も、石橋を架ける時に盛土して緩やかになった。 明治までのこの甲州街道は両側に樹木が繁る暗い道だった。

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仙川の西で甲州街道に滝坂道が合流していた。 滝坂道は渋谷道玄坂から調布滝坂を繋ぐ古道。 甲州街道は内藤新宿を出ると次の休憩宿は高井戸。 そして布田五宿(国領、下布田、上布田、下石原、上石原)が民家の多い場所で、高井戸と国領の間にある仙川辺りはほとんど民家のない寂しい場所だったようである。

photo : 2018/11/10

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2018年12月19日 (水)

馬場坂・たぬき坂・縄文坂・西坂(上井草)

上井草碁盤坂の最後の4坂。 この辺りは井草川の源流部になる。 大昔の井草川源流は青梅街道井草八幡前交差点辺りだろうか。 井草八幡宮が善福寺川と井草川の分水嶺になっている。

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道灌坂の西側にあるのは馬場坂という坂。 この坂も真ん中で井草川暗渠と交差するため薬研状になっている。 暗渠を挟んで南側には都立農芸高校の上井草農場の馬場があるので馬場坂と名付けられた。 しかし2018年訪問時は整地をしていたので、馬場がどうなるのかいささか心配になった。 改修工事のお知らせには、建物を建てる工事ではなく圃場改修工事とあったので、新しくなるだけだろう。

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馬場の北側に暗渠が走り、その北側は農業試験場になっている。 そのため辺りは自然豊かな緑に囲まれた良い環境の坂道である。 北側の坂上から農場を回り込むように西側に向かう。 農場にはいろいろな果樹が植えられている。

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西側の道路に回り込むと谷はかなり浅くなっていて、薬研状ではあるものの、お皿の断面のような緩やかな傾斜。 この坂はたぬき坂という。 「田抜け」から転じたということだが、「田抜け」がどういうことかよく分からない。 もっともこの辺りでは最近まで狸が出ることが有ったというので、たぬき坂というのは動物の狸に因むのかもしれない。

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杉並工業高校の西側は縄文坂。 別名がどき坂(土器坂)。 写真の中央右側の銀杏の樹の辺りが井草遺跡で、そこから井草式土器が出土したことに由来する。 ここは旧石器時代から江戸時代までの複合遺跡で、縄文前期(約9000年前)の土器が出土、標準の土器となり「井草式土器」という名でよばれるようになった。 井草川源流域と善福寺川源流域は特に旧石器時代から縄文時代の遺跡が多い地域。 1万年以上の昔から人が暮らしてきた土地と思うと、最近設定された「上井草碁盤坂」も土地の記憶再発見の一役を担っているのではないだろうか。

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最後の坂は縄文坂の北側にある西坂。 この坂だけが少し北東に傾いた坂。 西の山にかかる短い坂という上井草碁盤坂の説明だったが、この坂の西側の巨大な庭のお屋敷の主が西山家なので、それに因んだのではないかとも考えられる。 それだけ大きな屋敷で、巨樹が何本も生えていた。

個人宅なので中には入れないが、西山家穀櫃は杉並区の登録文化財になっている穀物貯蔵庫で天保15年(1844)に作られたもの。

photo: 2018/11/23

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2018年12月18日 (火)

ころころ坂・桜坂・茅坂・道灌坂(上井草)

上井草駅の南側には広々としたスポーツ施設(上井草スポーツセンター)が広がっている。 この一部、グラウンドのある所は1936年~1959年の間、東京球場という名前の球場だった。 西武鉄道の開発した土地だったが、水道橋の後楽園球場のインパクトを受けて、衰退した。ただ、終戦後神宮球場が米軍に接収された1946年から数年間は、ここで東京六大学野球が開かれていた。

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上井草スポーツセンターの南側に区立井草中学校がある。 中学校の東側の坂道がころころ坂と呼ばれている。 坂を下り、井草川暗渠を越えた先にあるどんぐり山公園に因んでころころ坂と名付けられた。

中学校の正門前に「千川上水忌要」の説明板があった。 千川上水は、ここではなく上井草駅の北側を流れていた玉川上水の分流。 上水の廃止は昭和42年(1967)だが、それを無念に感じた当時の校長が惜念をもって上水を偲んだものの様である。

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中学校の西側の坂道が桜坂。 学校の生垣に何本かの桜が植えられており、卒業や入学の頃の印象から桜坂と付けられた。 坂下は井草川までは行かず、丁字路で坂が終わる。 井草川暗渠の南側には三谷小学校がある。

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桜坂下を西に進むとすぐに北への道。 この一角には設備工事業者があって、中型のダンプトラックの往来が多いのがいささか五月蝿い。 この坂道は茅坂という。 昔は茅場だった場所だからである。 家々が茅葺屋根の頃、その屋根材としての茅の群生しているところを茅場と呼んだ。 辺りは井草川よりも若干高い土地だが、傾斜地だったので、田んぼには適さず、大正以前は茅場にされていたのであろう。

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茅坂の西側は水道局の上井草給水所。 その西側はバス通りで西荻窪と石神井公園を結ぶ主要道。 環八の井荻トンネルができる以前は、この道で関越自動車道に向かったものである。 坂を下りきったところを井草川暗渠が横切っている。 そこにあった橋が道灌橋という橋だったので、坂名が道灌坂となった。 暗渠に向かって下り、再び上る。 そのまま南下すると青梅街道に出る。

昔はこの橋の辺りで塞ノ神祭り(ドンドン焼)を行っていた。 ドンドン焼は地区の外れの村境で悪いものが入ってこないようにと行われていた祭りで、ここは上井草と今川の境の橋だったから祭りの場所となったのだろう。

photo: 2018/11/23

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2018年12月17日 (月)

広坂・お見合い坂・秀五郎坂・長坂(上井草)

上井草碁盤坂の第2弾、すみれ坂西隣、井草向山公園を挟んだ通りが広坂である。 坂名の由来は道幅が広いからだとのことだが、実際は5m道路で決して広い道とは言えない。 とはいえ路地としてみれば広いといえるかもしれない。

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広坂は短い坂だが、西隣のお見合い坂は比較的長い坂。 というのもお見合い坂は坂の真ん中が暗渠との交差場所で、北向き坂と同じように下って上る薬研状の坂道であるためにとても長く見える。 井草川の暗渠より南側は昔は瀬戸原という字名。 今もまだ、南に瀬戸原緑地という小公園が残っている。

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お見合い坂の坂名の由来は、坂の形が薬研状の為、向こうから来る人とこちらから行く人の顔が見えることから付けられた。 北向き坂とこのお見合い坂は比較的早めに開かれた坂で、大正時代の地図には道が描かれていた。 耕地整理以前からある農道だったのだが、当初からまっすぐな道筋だったから、耕地整理初期のものと考えた方がいいかもしれない。

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その西側の坂はバス通り。 坂の名前は秀五郎坂という。 北に進むと下井草駅の踏切を越える道になる。 昭和10年の井草村による耕地整理を主導したのは当時の村長の内田秀五郎という人であった。 その人に因んで秀五郎坂という坂名になった。

内田秀五郎氏の足跡は近辺に多く、80年前にすでに都会化への環境悪化を懸念しそれをコントロールすることを考えた先進のリーダーであった。 善福寺公園に秀五郎氏の像がある。

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秀五郎坂の西隣は長坂という坂で、名前の通り長い坂。 この道も遠くまで望める坂である。

坂好きとしては、耕地整理後のまっすぐな坂よりも、江戸時代から続く時代を重ねた坂の方が魅力的なのだが、碁盤坂周辺には大正時代以前にあった道は全くと言っていいほど残っていない。 その中で井草川の暗渠道だけがくねくねと走っていて、魅力的な印象を与えている。

photo: 2018/11/23

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2018年12月16日 (日)

四宮坂・こども坂・北向き坂・すみれ坂(上井草)

ごく最近の坂にも触れてみたい。 街並みに坂がある地区で、街づくりの一環として坂名を設定している地域がある。 その中からまずは「上井草碁盤坂」を取り上げる。

昭和10年に当時の井草村の村長が手掛けた区画整理事業で、碁盤目に区切った街区が後に住宅開発に貢献した。 地域の中央には東西に井草川が流れていた。 井草川は妙正寺川の支流だが、妙正寺池すぐ下流に注ぐ点では、実質の妙正寺川と考えても良いだろう。 その井草川は杉並工業高校あたりを源頭に東流し、そのおかげで一連の碁盤坂ができた訳である。

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もっとも下流になる東の坂は四宮坂という。 坂上標高47mで坂下とは4mほどの高低差。 この坂下の北側を西武新宿線が走り、井草川は少し上流で北流して線路を越えているので、この坂と暗渠は接していない。 四宮坂と隣のこども坂の間には四宮森公園があり、四宮坂の名前はその公園に因んでつけられたもの。

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西隣のこども坂は、四宮森公園脇にある児童館(杉並区四宮森児童館)にちなんでつけられた坂名。 坂下には早稲田大学ラグビー部の合宿所などがあり、上井草がスポーツ施設の街であることを感じさせる。 児童館の脇を井草川の暗渠が遊歩道として東西に走っている。

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井草川はこども坂では坂下を流れているが、西隣の北向き坂では少し南側に流れがあるために、北向き坂は下って上る薬研状(お椀の断面の形)をしている。 写真の一番低くなったところで井草川の暗渠が交差しているのだ。 北斗七星が美しく見える坂なので北向き坂と名付けられたが、北斗七星は時間と共に方位が変わるので、まあほぼ北を向いているという意味であろう。 しかし、上井草の坂はすべて南北方向の坂だから、ここだけ北向き坂というのはいささか無理を感じる。

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北向き坂の西隣はすみれ坂。 坂上の植込みに「すみれ坂」と書かれた木柱が立っていた。 上井草碁盤坂の中で、坂名の表示があるのはここだけ。 坂道に野スミレが咲くことが坂名の理由だそうだが、坂下の上井草向山公園に咲くのだろうか。 どうも花が咲きそうな土地はないように思われた。

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上井草碁盤坂の設定は2011年で、相当新しい。 しかしこういう試みが広がると、道という存在が光を浴びて、旧道や街並みが大切にされるのではないかと期待している。

「上井草碁盤坂マップ」

photo: 2018/11/23

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2018年12月15日 (土)

和田の坂(練馬区石神井台/石神井町)

石神井公園の真ん中を抜けるバス通りが、石神井公園を過ぎて南に上る坂が和田の坂である。 道の東側にはボートの浮かぶ石神井池、西側には自然豊かな三宝寺池があり、和田の坂の東側に練馬区石神井公園ふるさと文化館がある。 ここで何冊かの出版物を入手した。 その中に『古老問書』というのがある。 農村地帯だった練馬の昔を語り継ぐ貴重な本だ。

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石神井川はこの二つの池の南側を流れている。 池の豊富な湧水は山下橋で石神井川に合流している。 とりわけ三宝寺池は沼沢植物群落を形成し、国の天然記念物になっているほどである。 昭和30年代までは冷たく澄んだ湧水に満ちていた。 今は湧水量も減少し、かつての澄んだ水面からは程遠い池になりながらもかろうじて堪えている状態。

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和田の坂については、『古老問書』の中で、次のように語られている。

「富士街道のことを、ここらでは道者街道といった。この道に沿って今の石神井中学がある四つ角を、石神井図書館の方へ行く道がある。その途中に三宝寺池とボート池の間から上り勾配になったところがあって、昔は和田の坂と呼ばれていた。

 その頃は中央線に出るためにこの坂を通らなければならなかったが、今よりももっと狭く急であった。そして両側は山で茅が一面に繁っており、よくおいはぎが出た。この道は現在石神井農協の前をまっすぐ井草高校の方へ伸びているが、これは新しい道で、昔は石神井小学校の西側を通り、松ノ木橋を渡って石神井川の南の斜面の急な坂を通っていた。」

和田の坂を上りったところで、道者街道は丁字路にぶつかっていた。 そこから小学校の西側に向かってクランクするようにして石神井川に下っていくのが昔の道ということになる。

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三宝寺池の南には三宝寺と道場寺という二つの大きな寺がある。 三宝寺は池の名前にもなっており、応永元年(1394)に開山。 三宝寺池の南側の小山はかつての石神井城の城址で、周辺を治めていた豊島氏の居城であった。 三宝寺は豊島氏から帰依を受けていたが、後の時代には北条氏、徳川氏からも保護された。 本尊が不動明王なので、石神井不動尊とも呼ばれる。

石神井城は平安末期から室町中期まで現在の東京都の城北部を支配していた豊島氏が築いた城の一つで、城は鎌倉時代の築城。 1477年に太田道灌に攻められ落城、最後の城主豊島康経は現在の上中里の平塚城に逃げた。 そこでも道灌に再度攻め込まれて、神奈川に逃げているが、その時の平塚城の戦いで道灌が攻め入ったルートが「攻め坂」→「蝉坂」と転訛した上中里駅からの坂道である。

photo: 2018/12/5

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2018年12月14日 (金)

工兵坂(練馬区常盤台)

練馬区には不思議な形の街区がある。 同心円状に広がる街区が平和台と常盤台の町境に広がっている。 こういう街区はヨーロッパやアメリカの街づくりにみられ、都内では田園調布の街区が同心円状である。 勿論これは近代以降に区画整理された町並み。 田園調布の場合は、大正12年からの土地分譲で開かれたことが「ブラタモリ #96」でも放送されていた。

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さて、この同心円街区だが、ある説によると、幹線道路計画が北東-南西、北西-南東の45度傾いたルートで計画・開発されたのに、街区は東西南北の道路計画でつくられた結果、幹線道路との交差角度が90度ではなく45度になったというもの。 土木屋や不動産屋は自分たちのビジネス上の価値と効率を求めるので(南向きを作りたがる)、こういうちぐはぐなことになるのだろうか。

気になったのは農地の時代の土地割。古い地図を見ると、東西南北など気にしてはおらず、地形に対して素直に土地割をしている。 それが本来の土地利用なのだが、都会の住宅開発や道路開発は自然や地形を無視したものが多く、そのため人間的な感覚では気持ちの良くない町割や道筋になってしまう。 昔の道でまっすぐなのは寺社の参道くらいのものである。

右上の青い線は石神井川支流田柄川の暗渠。 赤い線が工兵坂。 左半分が同心円型の街区。 その間にあるのが工兵坂。 区立仲町小学校の南側を上る坂道で、暗渠の標高が26m、同心円街区のセンターが33mあるので、小学校脇から西に向かっての上り坂になる。

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小学校前周辺はほとんど勾配がないが、小学校が終わった辺りから上り坂になっている。 実際の坂は緩やか。 この地域は江戸時代には下練馬村の一部で、坂の西側が「本村」とあるので、村の中心に近かったようだ。

この工兵坂の道筋は今神道という古道だった。 今神(いまかみ)というのは下練馬村の小字だった地域で、田柄川沿いの工兵坂の坂下周辺の地名。 そこから重現(現在の区立開進第一小学校辺り)に繋がる道が今神道であった。 昔は重現の方が人口が多かった。

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今神道の田柄川から重現への上り坂は悪路で、農民はかなり難儀をしたという。 大正15年にこの道の改修が行われ、それを施工したのは近衛工兵大隊だったことから、村人は工兵坂と呼ぶようになったと伝えられている。

重現には下練馬村の村役場や子供たちが通う開進小学校もあり、困っていた村人が大変助かったので工兵隊への感謝も兼ねてそういう呼び名にしたことは、坂名から現在にまで伝わるものとして微笑ましい。

photo: 2018/10/28

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2018年12月13日 (木)

静勝寺坂(北区赤羽西)

赤羽にある稲付城址は、武蔵野台地の北東端の一部の舌状台地先端上という自然地形を利用した中世の城館跡。 標高21mほどの台地上に現在は静勝寺が建っているが、ここが城の主郭だった。 東西と北側が崖になっており、南の一部だけが台地と繋がっていて、戦国時代の城のロケーションとしてはベストに近い。

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正面から静勝寺(稲付城址)に上る階段は稲付城址坂。 そして南側を回り込む坂道が静勝寺坂と呼ばれる。 坂上には静勝寺の山門。 寺には戦国時代の武将である太田道灌の木像があり、寺の前にあったという稲付城は太田道灌の築造とされる。

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太田道灌は1432年~1486年の人だが、寺の木像は1695年の製作なので、200年以上も後のものだと知ってちょっとがっかりした。

静勝寺坂は稲付城址の南側を急坂で下る道。 途中で北に折れ曲がっているが、さすがにこの傾斜なのでステンレス製の手すりが付いていた。

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手すりはクランク部分から下は鉄製塗装のものに変わる。 株の手すりは若干古そうである。 12mほどの高低差を15%の勾配で上る坂だが、ここは下りの方が怖い。 クランクから飛び出しそうな道筋だからかもしれない。

静勝寺は曹洞宗の寺で、創建は永正岩年(1504)に道灌の禅の師匠雲綱が道灌の菩提を弔うため、城址に道灌寺として建てたのが始まり。 のち、明暦5年(1655)に道灌の子孫が建立し静勝寺としたと伝えられる。

photo: 2016/9/18

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2018年12月12日 (水)

かなくさ坂(北区赤羽西)

赤羽西の富士見坂に源頭を発した沢がその下流で削った谷が島下公園周辺の地形として残っている。 南北に走る「味の素フィールド西が丘」の前の十条駅に続くバス通りは、盛土をしてこの谷を渡っているので気づきにくいのだが、島下公園から赤羽自然観察公園は確実に谷地形になっている。

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その谷あいの公園脇からバス通りに上るのがかなくさ坂。 坂下の標柱に説明が書かれていた。

「この坂は、島下公園(赤羽西6-10)の北側を東の方へ登る坂です。名前の由来については定かではありませんが、鉄分を多く含む湧水の影響で池土が赤錆色に染まったことを、かなくさ(金属の匂いや味がすることを金臭いといいます)と表現したのではないかという説が知られています。」

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実はこの坂上は南西から北東に向かって不思議な土地が続いている。 道路だったり、空き地だったり、マンションだったり、福祉施設だったりしながら、幅15mだけが周囲の街並みとは異なる向きになっているのである。 これはここにかつて鉄道の引込線があった痕跡。 味の素フィールド西が丘を含む一帯は軍の兵器庫であった。 その引込線「東京陸軍兵器補給蔽線」が赤羽八幡の傍から分岐してここに繋がっていた。 ここをブログに書いている人が意外に多いのには驚く。

1960-1970年代の鉄道の写真と資料

歩鉄の達人 

photo : 2018/9/18

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2018年12月11日 (火)

富士見坂(北区赤羽西/桐ヶ丘)

富士見坂を主たる名前とする坂は都内に14ヶ所。 その中で一番北にあるのが、赤羽台地にある富士見坂になる。 赤羽八幡神社の下から西に向かって八幡坂の通りが伸びているが、1.2㎞程西進すると善徳寺前の交差点。 そこから少し下り、再び上る、浅い皿を横断するような坂が赤羽の富士見坂である。

赤羽台は複雑な地形をしているが、支流の沢のひとつはこの辺りが源頭で、ここからかなくさ坂のある島下公園、区立赤羽自然公園と流れ、亀ヶ池弁財天の近くにあった亀ヶ池に水を貯め、赤羽駅から東に向かい、荒川に注いだ。 流域は江戸時代、赤羽の豊かな田んぼであった。 富士見坂はその沢の源頭が作り出した窪みをわずかに感じられる坂といえる。

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この道が今の状態になったのは本当に最近のこと。 北側には広大な桐ヶ丘団地が広がっていたが、この道は何年か前にやっと拡幅が終わったところ。 桐ヶ丘団地は昭和の象徴のような団地で、UR(元住宅公団)ではなく、1957年から東京都が開発した団地。 146棟からなり、5,000世帯が暮らしていた。 最近は老朽化に伴い1997年から建て替えが始まり、建設はまだ続いている。 平和な住宅地だが、明治大正時代は陸軍の火薬庫だった場所である。

坂の東側に御影石の説明書きがあった。

「この坂を富士見坂という。このあたり、昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。江戸時代の「遊歴雑記」には、「左右只渺茫(ただびょうぼう)たる高みの耕地にして折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る、此景望又いうべき様なし」と記されている。 かつてこの近くに周囲500余メートルといわれる 大塚古墳(円墳) があったが、いまは見られない。」

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坂の傍にある善徳寺は関東大震災の後に馬喰町から移転、隣の大恩寺も明治になってから根津神社の傍からここに移転してきた。 江戸時代は寺もなく、田んぼと畑だった場所で、この道筋が小豆沢村と稲付村の村境で、赤羽から小豆沢への主要な道だった。

坂の西側には末広稲荷があるが、ここの石碑に明治以降の歴史が書かれている。 稲荷は明治5年から昭和20年まで旧陸軍内の稲荷であった。 明治5年に陸軍の火薬庫が完成すると、その火薬庫の災難除けに京都の伏見稲荷大明神を勧請して置かれたもの。 戦後はこの桐ヶ丘は引揚者や戦災者のバラックの住居に転用された。 後に団地が作られるときに稲荷は小さくされ今の場所に収まったという。

photo: 2018/9/18

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2018年12月10日 (月)

地蔵坂(北区中十条)

最寄り駅はJRの東十条駅だが、地蔵坂のある河岸段丘の上の街区は中十条、線路から低地側が東十条になる。 地蔵坂は中十条と岸町の町境。 岸町は王子駅からここまでの主に崖線部分を占め、まさに河岸段丘の斜面が街区である。 地蔵坂の南にある芝坂も、台地上の中十条と斜面から下の岸町の町境の道になっていた。 坂というのは「キワ」であると同時に「境」でもある。

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今回は坂上から下ってみた。 坂上の標高は22m、約100mで坂下の海抜8mまでを下るので、14%という勾配のきつい坂である。 雪が降った時のためか、坂にはステンレス製の手すりが付いていたが、その道路側に電柱の支線(黄色いカバーの地面に結束してあるワイヤーロープ)があって邪魔。 東京はコストがかかってもきちんとインフラを地下化すべきではないだろうか。

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段丘の斜面には古い家が多くみられる。 坂途中にも懐かしい木製和風の板塀があってとても気持ちがいい坂風景だ。 火災には弱いかもしれないが、ブロック塀の倒壊で亡くなる人がいるのだから、狭い路地には板塀を増やすべきだと思う。 町並みもきれいになるし、取り換えも容易で、たとえ倒れても命を奪うようなことはない。

坂の途中に標柱があるが、以前のものとは文章が変わっていた。 以前のものは、

「地蔵坂は、この坂の上の三叉路で合流し、ここを通って下る坂道です。現在の中十条2-11-1地先付近までが崖で、坂道は崖の手前の地蔵同から続いていましたので地蔵坂と呼ばれていました。現在の地蔵堂は、東十条駅の開設にともなう跨線橋の設置や道路の拡幅により今の位置に移転したものです。」

と書かれていた。

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今のものは平成30年に新調されたもので、次のように書かれている。

「江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「地蔵坂 往還ヨリ東二丁程ニアリ」との記載が見えます。往還とは、日光御成道のことで、この坂を上っていくと日光御成道につきあたりました。坂名はこのあたりに地蔵尊があったことに由来します。現在の地蔵堂は、東十条駅の開設に伴う跨線橋の設置や道路の拡幅により、今の位置に移転したものです。」

坂下は線路にぶつかる丁字路。 上の写真の右側は線路を越える架橋の台地側の擁壁になる。 橋の途中に東十条駅の南口の橋上駅舎がある 。

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擁壁上の地蔵堂はかなり立派なもの。 お堂の前には庚申塔と花立が狛犬のように並んでいる。 庚申塔は寛政3年(1791)のもの。 昭和6年(1931)に下十条駅(現在の東十条駅)が開業、昭和12年に道路拡幅されたときにここに移転したとある。 大きいほうの地蔵は子育地蔵尊で、年代不明だが江戸時代にはすでに祀られていた。 正面の庚申塔は道標も兼ねており、右より練馬みち、左より豊島みちと彫られている。

photo: 2018/9/19

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2018年12月 9日 (日)

鳳生寺坂(北区赤羽西)

赤羽西には多くの坂がある。 太田道灌が戦国時代に築城した稲付城の台地の南の谷に下る坂道が鳳生寺坂。 坂下にある鳳生寺も太田道灌の開基と伝えられる曹洞宗の寺院である。

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鳳生寺の前に標柱がある。

「この坂は、鳳生寺門前から西へ登る坂で坂上の十字路まで続き、坂上の旧家の屋号から六右衛門坂とも呼ばれます。坂上の十字路を右(北)へ向かうと赤羽駅西口の弁天通り、左(南)へ向かうと十条仲原を経て環七通りへと至ります。名称の由来となった鳳生寺は、太田道灌の開基と伝えられ、岩淵宿にあったものを移したので、現在も岩淵山と号しています。」

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坂は途中から狭くなると同時に勾配を増していく。 道幅が狭い区間は11%の勾配があるが、広くなった坂下部分は緩やかな坂。 こんな道だが江戸時代からの道で、まっすぐなところが少ないのは古い道である証である。 坂の景色としてはなかなかのもの。

また、坂下の鳳生寺周辺には多くの古墳時代の集落遺跡が埋まっており、稲付公園遺跡とよばれる一帯になる。

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鳳生寺坂は坂上まで曲がりくねっている。 坂上をそのまま進むと王子町土地区画整理事業で、昭和の初期に耕地整理された碁盤目の街に入る。 大正末期から昭和初期、北区でも大震災後の復興で各地に土地区画整理事業が立ち上げられた。 王子町というのは旧町名で、開発されたのは現在の西が丘に当たる地域。 このエリアには軍施設が沢山あったので、集中的に被災した。 爆撃を受けて破壊された町が整理された町並みになり、戦火を免れた昔からの道が残る傾斜地には昔の街が残っている。

photo: 2016/9/18 & 2018/9/18

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2018年12月 8日 (土)

芝坂(北区中十条/岸町)

北区の岸町は地名通りの地形である。 王子駅から東十条駅に向かって崖線を上る急坂が何本も通っている。 その中には無名の坂も多いのだが、芝坂は王子稲荷の坂、三平坂ともに名坂といえよう。 線路脇が5~6mの標高なのに対して、崖線上は24mほどあるので、20m近い落差になる。

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岸町という地名は当然ながらその地形から発生したもの。 大昔は王子村(現在の王子周辺)は岸村と呼ばれていた。 隅田川(荒川)の右岸で、洪水が何度となく武蔵野台地を削って出来た崖だが、それ以前の縄文海進の頃は海食崖だったはず。 海食崖と河岸段丘がブレンドされているというわけである。

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芝坂はアルファベットの「T」に似た道筋の坂。途中で左の上りと右の階段道に分岐している。 この坂上に向かって左方向の坂も相当に急である。 勾配は16%ほど。 自転車では到底無理。 しかし右側の階段道の勾配は21%もあるので、こっち(左)がメインルートになるわけだ。

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芝坂の坂名の由来は何だろうと考えてみた。 北区のHPを見ても、

「旧坂である。古い坂であるが、あまりしられていない坂のようでもある。芝という名前の由来は不明。」

とあるだけ。 20年くらい前までは標柱が立っていたらしいが、何が書かれていたのかはわからない。

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芝坂の上からは高架の上を往来する新幹線を眺めることが出来る。 上越・北陸・東北各地・北海道への新幹線がひっきりなしに通る。 昭和中期までの地図には、この坂下の分岐点の北側に神社の印がある。 位置的には分岐の北側に当たる。 しかし何を調べてもここにあった神社のことは分からなかった。

この崖線には十条台遺跡群という広大な遺跡が地下にあり、縄文時代から人々が生活を営み続けた場所である。 そんな崖線にたくさんの家が立ち並ぶのを見ていると、何千年経っても人の住みやすい場所は同じなんだなとつくづく思う。

photo : 2018/9/19

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2018年12月 7日 (金)

らんとう坂(練馬区大泉町)

練馬区も大泉あたりまで行くとかつての農村の雰囲気が幾分か残っている。 白子川の削った低地とそれを囲む台地の間には河岸段丘があり、その崖線部分には点々と寺社仏閣が在る。 とりわけ大泉町1丁目から土支田4丁目にかけては、清水山憩いの森、稲荷山憩いの森と、崖線に沿った自然公園があって散策も楽しい地域である。

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白子川に架かる別荘橋を渡ると右手にこんもりとした林が見える。 八坂神社である。 このあたりは江戸時代、橋戸村と呼ばれた地で、八坂神社は村の鎮守であった。 創建は不明だが、いつからか京都の八坂神社(祇園社)の分霊を勧請して八坂神社となった。 祇園社の守護神は牛頭天王(ごずてんのう)で、ここの字を中里といったので、村人は「中里の天王様」と呼んだ。

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神社には都内でも最大級の富士塚があり、中里富士と呼ばれている。 頂上からの眺めは大したものであった。 高さは12m、明治初期に富士講中によって築造されたものだが、江戸時代から原型があったらしい。 練馬から板橋にかけてはこういう大きな富士塚がいくつも残っているので大切にしてもらいたいものである。

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八坂神社の前をそのまま進むと北大泉公園(もみじ山)のところから北に分かれる道がある。 こちらが長久保道の古道の道筋。 ここから上る坂がらんとう坂。 坂下の信号機に「らんとう坂下」とある。 らんとうというのは「卵塔」と書き、石の土台の上に卵型の石碑が立っている塔の名称。

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昔この坂の途中に卵塔があったので、らんとう坂と呼ばれるようになったが、当初は漢字で「蘭塔坂」としていた。 もみじ山の下一帯は昭和30年代はまだ田んぼが広がる農村地帯だったが、練馬、杉並、世田谷の昭和前期はどこもそんな感じだった。 私が東京に住み始めた昭和50年頃でも環八周辺はのどかだったのをよく覚えている。

photo : 2018/11/7

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2018年12月 6日 (木)

別荘坂(練馬区大泉)

東京都練馬区大泉町を流れる白子川に向かって土支田通りから下っていく坂道が別荘坂。 練馬台地を白子川は深く削り取っている。 歩道もある整備された道路で交通量も多い道。 坂の高低差は約10m、白子川を渡す橋が別荘橋と親柱に記されている。

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この道は長久保道という古道で、清戸道の旧宮田橋付近で北に分かれ、富士街道(ふじ大山道)を横切って光が丘をぬけ、笹目通りを横断、土支田通りと交差し、白子川の別荘橋を経て膝折(朝霞市)で川越街道と合流した。

清戸道の旧宮田橋付近というのは、おさる坂の坂下にある石神井川の道楽橋をそのまま北西に進んだ十字路あたりで(昔の石神井川の支流筋)、現在も宮田橋敷石供養塔が建っている。 長久保道はそこから北西にあった古道で、おさる坂とは同じ街道筋ということになる。

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江戸時代、この辺りに元禄時代まで村名主だった「荘」という姓の家があった。 のちに近くに別の「荘」さんが越してきたので「荘埜(そうの)」姓に変えたそうである。 そこからこの橋の名前が別の「荘」さんということで別荘橋となったというのが練馬区の伝説にある。 荘埜さんのお名前はレアで全国29,585位、およそ110人しかいない。 その中の何割かがご子孫なのだろう。 坂名はこの別荘橋に由来する。

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坂下の別荘橋の大欅のたもとに地蔵と庚申塔が祀られている。 左の小さいほうは嘉永3年(1850)の駒形の庚申塔。 右側は天明8年(1788)の地蔵立像。 地元の人に守られていることがお供え物や花でよくわかる。

長久保道の長久保というのは旧新倉村の字名だが、明治24年に東京府大泉村に吸収合併されて地名が消えた。 長久保道の起点は前述の旧宮田橋で、この古道沿いには石塔石仏が多く残っているので、いつかまた散策してみたい。

この坂の北隣にある「清水山の森」はカタクリの花が群生する都内の公園として知られる。 桜の花の咲き始めるころにあの可憐な紫の花が咲く。 園内には湧水があり、その周りにカタクリが群生している。

photo : 2018/11/7

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2018年12月 5日 (水)

おさる坂(練馬区貫井)

練馬区貫井は旧上練馬村の小字。 昔、弘法大師がこの地を訪れ、水不足に苦しむ村人たちの様子を見て、持っていた杖で地面を突いたところ泉が湧き出したという伝説があります。地面を貫いて井戸を出現させるたので「貫井」となった訳です。 もっとも弘法大師は日本全国で杖で地面を指して、水や温泉を出現させています。 本職は鉱山師で水銀などを探していたといいますから、ダウンジングで探し当てたとか(は冗談です)。 しかしあれだけの天才になると、すべてが本職でどれもが卓越していますので、いろんな才能を発揮したのでしょう。

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貫井にはいくつもの坂がありますが、どれも無名で、名前があるのはこのおさる坂くらいです。坂下は石神井川の道楽橋。 名前が気に入りました。流れの対岸である北側には高松八幡神社があります。 この道楽橋から南にくねりながら上っていくのがおさる坂です。

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坂の高低差は6mほど、以前この坂には草に埋もれた二基の庚申塔がありました。 庚申塔には三猿など猿が描かれているのもが多く、それがこの坂の名前になったのではないでしょうか。 ところが日本人は言霊を信じる民俗で、祝儀の花嫁行列はこの坂を通ってはならない、なぜなら「さる=去る」で縁起が悪いからという村の決まり事になりました。 離縁されては困るということです。

この道は古くは清戸道と言われる道で、文京区の関口辺りから清戸(現在の清瀬)に繋がる街道でした。清戸道はほぼ目白通り沿いを東西に走っていた道です。練馬の村々の人々が江戸に出るのには最も便利な道だったので、早朝から作物を運ぶ農民が行き来していました。当時の道は現在の目白通りからこの坂辺りで北に方向を変えていたようです。

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坂上に円光院という古刹があります。正式な名前は南池山円光院貫井寺。 天正13年(1585)の開山です。 古い石碑や地蔵が沢山ある寺で、門前から門内へこれら石塔石像を見て歩くだけでも手ごたえがあります。子ノ聖観世音が御本尊ですが、馬頭観世音として有名で、街道沿いの寺だからこそといえます。 本尊は12年に一度子の年、子の月、子の日に御開帳されます。 寺の建物は戦災に遭っており、昭和38年に建替えられたものですが、往年の雰囲気は再現されているのではないでしょうか。

photo : 2018/11/8

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2018年12月 4日 (火)

中の坂(練馬区向山)

向山庭園のあるどんぶり坂から200mほど西にあるのが中の坂。 この坂も薬研状の下って上る坂道ですが、坂を作った沢の名前は分かりません。 300mほど西にある暗渠筋は、暗渠の道も明確ではっきりしている向山ヶ谷戸支流(貫井川の支流)ですが、中の坂の沢は調査も空しく不明でした。 暗渠マニアでもここの沢の名を明示している人はいないようです。

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住居表示でいうと坂の北側は向山3丁目21、南側は向山3丁目6。小さい沢の窪地とは言え、底の部分は周辺より5mも低くなっています。小沢とはいえ水の力というものは感心するほど凄いものがあります。

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この辺りの住宅開発が進んだのは大正時代に入ってから。 明治時代には隣まで100mも離れているような農村地帯でした。 辺りは明治時代は向山ヶ谷戸という地名で、ゆっくりと開発が進み、大正13年には12戸の借地組合で結成された「城南住宅地」としてスタート、今でも閑静な郊外住宅の環境を保っています。ここが組合という民間の連携で100年もの間環境を守っていることは、この東京においては素晴らしいことです。

photo : 2018/11/8

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2018年12月 3日 (月)

どんぶり坂(練馬区向山)

豊島園の南を東西に走る下って上る薬研タイプの坂道があります。 地元の呼び名でどんぶり坂といいます。 単純に坂の形状をどんぶりに例えたものでしょう。真ん中がくぼんでいるということは、その昔ここに沢が流れていたということを示しています。 豊島園の園内を西から東に石神井川が流れていますが、その支流の沢です。

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今となっては川跡も暗渠もありませんが、戦前の豊島園にはこの沢筋に池が点々と残っていました。 豊島園は大正15年に日本庭園として藤田観光の藤田好三郎が開園したもの。その昔は豊島氏の居城である練馬城があった場所で、豊島氏の名前から園名を付けました。豊島園駅の開業は昭和2年、しかし昭和6年に昭和恐慌のあおりを受けて売却され、昭和16年に武蔵野鉄道(現西武鉄道)がここを所有していた会社を吸収、戦後になって遊園地は再開されました。

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練馬区なのに豊島園という名前なので、不思議に思う人もいるでしょうが、豊島区のとしまではなく、豊島氏のとしまなのです。水源のある坂の窪みの南側には向山庭園(こうやまていえん)があります。 誰か財閥の邸宅跡かと思いましたが、不動産会社がマンション用地として購入したのを住民が反対運動をして、結局練馬区が3億5千万で買取り日本庭園にしたものとのこと。池は古く、豊島氏時代の練馬城の濠跡と言われています。

photo : 2018/11/8

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2018年12月 2日 (日)

神戸坂(杉並区清水)

高田馬場で神田川に合流する妙正寺川の水源地は妙正寺池です。都会の川としては少なくなった、開渠が続く中小河川。水源の池周辺は緑豊かな公園になっています。 昔は豊富な湧水がありましたが、近年湧出量が減少したため、井戸を掘り地下水をくみ上げて合流させています。池の真ん中の中島がとてもいい雰囲気で、水鳥も多い公園です。

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池の南には1352年開山という古刹の妙正寺があり、これが池の名の由来。 湧水地点の標高は40mとやや高めなので開発のインパクトを受けて湧水量が減ったのかもしれません。この池の北側を東から西に上る道があります。 それが神戸坂(ごうどざか)です。

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昔、この地域は府中明神(大國魂神社)の神領でしたので神戸と付けられたといいます。坂上を神戸山(ごうどやま)といい、昔は妙正寺川の支流がこの山裾を回るようにして流れ、池の下で合流していました。 その暗渠は現在も辿ることが可能です。

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坂の途中に中瀬天祖神社があります。 この神社の記録に、「当社は井草八幡宮の境外神社で井草川の西岸神戸坂の上に在り、極めて古き社にして、神体は一大石剣なり」とあって、そこにのみ神戸坂の記載があります。

中瀬天祖神社由緒

奇妙な石の御神体
中瀬天祖神社
祭礼 10/15
祭神 天照大神
御利益 良縁、子宝、子孫繁栄

 井草川の流れは上井草から下井草に向ってゆるやかに東に流れ、区立中瀬中学の裏で西に流れをかえ南に直流する。

 そこに架かる道はとたんに急坂になる。世に言う押手を借りたい神戸坂である。坂を登りつめた左側に祀られているのが中瀬天祖神社で、この社の前身が子宝に恵まれる十羅刹様である。

 中瀬天祖神社の御神体は奇妙な男根状の自然石が祀ってある。伝説によると、昔、江戸へ手車で荷物を運んだ帰り道、空車だと車がはずんで引きづらいので重しのために石を二、三個積んできたと云う。

 ある時のこと、所沢か田無あたりのお百姓が江戸からの帰り道、神戸坂で急に腹痛を起し動けなくなり、その場に座りこんでしまった。近所の人がびっくりして妙正寺へかつぎこみ、和尚さんに祈祷してもらったところ、たちまち腹痛が治ったという。そのとき、ふと和尚さんが手車に乗せてあった男根状の石を見て、これは不思議な石だ、この地に安置されたいために腹痛を起こさせたに違いない、と申され、その石を十羅刹女(じゅうらせつにょ)が祀ってある神戸坂上の十羅刹堂に納めた。それから何十年か後のこと、青梅から江戸へ炭を運んでいた馬方が、いつものように馬の背の両側に炭俵をつけ、神戸坂に差しかかったとき、道端で男根状の石を見つけた。

 大きさが人の頭くらいなので、たいした荷物にならないから持ち帰ろうと、馬の背に乗せて鞍に結びつけ半丁(約50メートル)も行かないうちに急に馬が動かなくなったので、馬方が振り向いて見ると馬はびっしょり汗をかき、苦しそうに息をはずませている。

 馬方はびっくりして 「これはただの石ではない、さわらぬ神に崇りなしだ」 と石をもとに戻したという。すると馬はたちまち元気になり歩きだした。

 江戸の炭問屋に着いた馬方は、この不思議な出来ごとを問屋の主人や友達に話したところ、いつしか、その石の話が井草村にも伝わり、村の人達が集まって、その石を見ると 「十羅刹堂」 の小銅の床に安置してあった石であった。何かのはずみで両から道端へころげ落ちたに違いないと、村で一番の物知りといわれた組頭の四郎右衛門さんが、うやうやしくこの霊石を元どおり硝へ納め、「わしが若い頃に拝んだ時より、生気が満ち満ちていて大分大きくなっているようだ、この石と十羅刹様とを拝めば陰陽がかね備って子宝が授かる」 と話したという。

 その後、世継ぎの神様として霊験あらたかだと評判になったという。

 ここに「本尊木の立像三寸」の十羅刹様と「奇妙な石の御神体」の神明社、いまの天祖神社と結びついて陰陽がそなわったのである。

 そのころ子どもに恵まれますようにと神併を崇めた素朴な井草の人々の気持ちが、いまも伝わって来る。


photo : 2018/11/23

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2018年12月 1日 (土)

稲荷坂(杉並区下井草)

井草周辺の古道に石神道(しゃくじみち)・遍路道(へんろみち)という古道があります。 旧早稲田通りがそれにあたり、江戸時代から大正にかけての主要道でした。 早稲田通りから右折して稲荷坂を上り、下井草駅の手前(ユニクロの交差点)で北西に曲がります。練馬の長命寺(練馬区高野台)へお遍路さんが通った道でした。石神道は新青梅街道で曲がり西の石神井に向かう道で途中同じ道になります。

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稲荷坂は高低差が少ない坂ですが、妙正寺川から下井草駅に向かっては上り坂になります。 坂名の由来は、坂の途中東側に銀杏稲荷神社があることに由来します。昔は200坪の境内を有したと伝えられますが、今は数坪の敷地しかない屋敷神のような小さな神社です。

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道路から奥まった民家の間にあり、銀杏の木はありますが、上部が折れて数mの高さです。 この銀杏稲荷はかつては旧下井草村の鎮守で、神社の裏山には大きな銀杏の木があったそうです。創建は元和2年(1616)で、江戸時代は妙正寺の別当として管理されていました。 小さな稲荷ですが歴史あるだけに祭りは盛大と聞きます。

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稲荷坂と呼ばれたのは戦前までですがが、高度経済成長期にかけてはこの坂下の松下橋脇に牧場がありました。搾乳し、牛乳の販売までしていたらしいのですが、昭和30年代末には消えています。 とはいえ牧場はその昔、赤坂日枝神社の辺りにも、渋谷にもあって、開発と共に徐々に郊外に移転を強いられてきたのが歴史。今は練馬の小泉牧場が23区内唯一残る牧場となってしまいました。

photo : 2018/11/23

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