らんとう坂(練馬区大泉町)
練馬区も大泉あたりまで行くとかつての農村の雰囲気が幾分か残っている。 白子川の削った低地とそれを囲む台地の間には河岸段丘があり、その崖線部分には点々と寺社仏閣が在る。 とりわけ大泉町1丁目から土支田4丁目にかけては、清水山憩いの森、稲荷山憩いの森と、崖線に沿った自然公園があって散策も楽しい地域である。
白子川に架かる別荘橋を渡ると右手にこんもりとした林が見える。 八坂神社である。 このあたりは江戸時代、橋戸村と呼ばれた地で、八坂神社は村の鎮守であった。 創建は不明だが、いつからか京都の八坂神社(祇園社)の分霊を勧請して八坂神社となった。 祇園社の守護神は牛頭天王(ごずてんのう)で、ここの字を中里といったので、村人は「中里の天王様」と呼んだ。
神社には都内でも最大級の富士塚があり、中里富士と呼ばれている。 頂上からの眺めは大したものであった。 高さは12m、明治初期に富士講中によって築造されたものだが、江戸時代から原型があったらしい。 練馬から板橋にかけてはこういう大きな富士塚がいくつも残っているので大切にしてもらいたいものである。
八坂神社の前をそのまま進むと北大泉公園(もみじ山)のところから北に分かれる道がある。 こちらが長久保道の古道の道筋。 ここから上る坂がらんとう坂。 坂下の信号機に「らんとう坂下」とある。 らんとうというのは「卵塔」と書き、石の土台の上に卵型の石碑が立っている塔の名称。
昔この坂の途中に卵塔があったので、らんとう坂と呼ばれるようになったが、当初は漢字で「蘭塔坂」としていた。 もみじ山の下一帯は昭和30年代はまだ田んぼが広がる農村地帯だったが、練馬、杉並、世田谷の昭和前期はどこもそんな感じだった。 私が東京に住み始めた昭和50年頃でも環八周辺はのどかだったのをよく覚えている。
photo : 2018/11/7
| 固定リンク | 0
コメント