給田坂(世田谷区給田)
仙川を挟んで仙川坂と対峙するのが給田坂である。 仙川の大川橋からカーブを描いて東に上る坂道で、かつての甲州街道の一部。 江戸時代から明治時代にかけては樹木の生い茂る暗い街道だったようである。
給田の地名は中世の荘園の時代に遡る。 給田というのは貴族が日本を支配していた時代に、荘園領主が地頭ら現地の管理者に与えた田んぼのことであった。 世田谷区の西の端のこの辺りは江戸時代に天領の時期が長かったので、地名がそのまま残ったのかもしれない。
寛永12年(1625)に三代徳川家光が「武家諸法度」を改正し、参勤交代制度を確立すると、給田村は助郷としての役を強いられるようになった。 助郷というのは『殿、利息でござる』を観るとよくわかるのだが、参勤交代のサポートに労役とお金を納めるもので、その助郷では大いなる負担を強いられるのである。 さらにこの辺りは将軍の鷹狩り場でもあり、将軍が鷹狩りに来るとなると鳥の餌の虫を集めるなどの労役も課せられた。
鷹狩りというのは、高度経済成長期の社長接待ゴルフを大規模にしたようなヤラセだったから、将軍を満足させるために、村人はひどい労役を与えられた。 もっともそれだけ自然がいっぱいの環境だったわけで、今の街の姿からは想像できない。
photo : 2018/11/10
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