和田の坂(練馬区石神井台/石神井町)
石神井公園の真ん中を抜けるバス通りが、石神井公園を過ぎて南に上る坂が和田の坂である。 道の東側にはボートの浮かぶ石神井池、西側には自然豊かな三宝寺池があり、和田の坂の東側に練馬区石神井公園ふるさと文化館がある。 ここで何冊かの出版物を入手した。 その中に『古老問書』というのがある。 農村地帯だった練馬の昔を語り継ぐ貴重な本だ。
石神井川はこの二つの池の南側を流れている。 池の豊富な湧水は山下橋で石神井川に合流している。 とりわけ三宝寺池は沼沢植物群落を形成し、国の天然記念物になっているほどである。 昭和30年代までは冷たく澄んだ湧水に満ちていた。 今は湧水量も減少し、かつての澄んだ水面からは程遠い池になりながらもかろうじて堪えている状態。
和田の坂については、『古老問書』の中で、次のように語られている。
「富士街道のことを、ここらでは道者街道といった。この道に沿って今の石神井中学がある四つ角を、石神井図書館の方へ行く道がある。その途中に三宝寺池とボート池の間から上り勾配になったところがあって、昔は和田の坂と呼ばれていた。
その頃は中央線に出るためにこの坂を通らなければならなかったが、今よりももっと狭く急であった。そして両側は山で茅が一面に繁っており、よくおいはぎが出た。この道は現在石神井農協の前をまっすぐ井草高校の方へ伸びているが、これは新しい道で、昔は石神井小学校の西側を通り、松ノ木橋を渡って石神井川の南の斜面の急な坂を通っていた。」
和田の坂を上りったところで、道者街道は丁字路にぶつかっていた。 そこから小学校の西側に向かってクランクするようにして石神井川に下っていくのが昔の道ということになる。
三宝寺池の南には三宝寺と道場寺という二つの大きな寺がある。 三宝寺は池の名前にもなっており、応永元年(1394)に開山。 三宝寺池の南側の小山はかつての石神井城の城址で、周辺を治めていた豊島氏の居城であった。 三宝寺は豊島氏から帰依を受けていたが、後の時代には北条氏、徳川氏からも保護された。 本尊が不動明王なので、石神井不動尊とも呼ばれる。
石神井城は平安末期から室町中期まで現在の東京都の城北部を支配していた豊島氏が築いた城の一つで、城は鎌倉時代の築城。 1477年に太田道灌に攻められ落城、最後の城主豊島康経は現在の上中里の平塚城に逃げた。 そこでも道灌に再度攻め込まれて、神奈川に逃げているが、その時の平塚城の戦いで道灌が攻め入ったルートが「攻め坂」→「蝉坂」と転訛した上中里駅からの坂道である。
photo: 2018/12/5
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