富士見坂(北区赤羽西/桐ヶ丘)
富士見坂を主たる名前とする坂は都内に14ヶ所。 その中で一番北にあるのが、赤羽台地にある富士見坂になる。 赤羽八幡神社の下から西に向かって八幡坂の通りが伸びているが、1.2㎞程西進すると善徳寺前の交差点。 そこから少し下り、再び上る、浅い皿を横断するような坂が赤羽の富士見坂である。
赤羽台は複雑な地形をしているが、支流の沢のひとつはこの辺りが源頭で、ここからかなくさ坂のある島下公園、区立赤羽自然公園と流れ、亀ヶ池弁財天の近くにあった亀ヶ池に水を貯め、赤羽駅から東に向かい、荒川に注いだ。 流域は江戸時代、赤羽の豊かな田んぼであった。 富士見坂はその沢の源頭が作り出した窪みをわずかに感じられる坂といえる。
この道が今の状態になったのは本当に最近のこと。 北側には広大な桐ヶ丘団地が広がっていたが、この道は何年か前にやっと拡幅が終わったところ。 桐ヶ丘団地は昭和の象徴のような団地で、UR(元住宅公団)ではなく、1957年から東京都が開発した団地。 146棟からなり、5,000世帯が暮らしていた。 最近は老朽化に伴い1997年から建て替えが始まり、建設はまだ続いている。 平和な住宅地だが、明治大正時代は陸軍の火薬庫だった場所である。
坂の東側に御影石の説明書きがあった。
「この坂を富士見坂という。このあたり、昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。江戸時代の「遊歴雑記」には、「左右只渺茫(ただびょうぼう)たる高みの耕地にして折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る、此景望又いうべき様なし」と記されている。 かつてこの近くに周囲500余メートルといわれる 大塚古墳(円墳) があったが、いまは見られない。」
坂の傍にある善徳寺は関東大震災の後に馬喰町から移転、隣の大恩寺も明治になってから根津神社の傍からここに移転してきた。 江戸時代は寺もなく、田んぼと畑だった場所で、この道筋が小豆沢村と稲付村の村境で、赤羽から小豆沢への主要な道だった。
坂の西側には末広稲荷があるが、ここの石碑に明治以降の歴史が書かれている。 稲荷は明治5年から昭和20年まで旧陸軍内の稲荷であった。 明治5年に陸軍の火薬庫が完成すると、その火薬庫の災難除けに京都の伏見稲荷大明神を勧請して置かれたもの。 戦後はこの桐ヶ丘は引揚者や戦災者のバラックの住居に転用された。 後に団地が作られるときに稲荷は小さくされ今の場所に収まったという。
photo: 2018/9/18
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