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2019年1月31日 (木)

常盤塚(世田谷区上馬)

東京は永遠に未完成な都市である。 計画都市とはまったく逆のこの東京を歴史上もっとも理解して開発したのは徳川家康であった。 現代の政治家やディベロッパーの誰もが家康に比べるとビジョンの点で天と地の差がある。 山の手と下町の地形地勢を理解して向こう300年安寧に暮らせる街になることはもうないだろう。

道路計画もすべてが中途半端。 放射状道路と環状道路の組み合わせも遅々として進まず、戦後70年掛けてもまだ道半ば。 何年か前虎ノ門に戦後マッカーサー道路と言われた環状2号線が出来たとはしゃいでいたが、馬鹿の祭りである。 僅か1.4㎞の区間で、事業費は2,700億円、地上げ立ち退きで苦しんだ住民を尻目に、関係者の懐が潤っただけのことだ。

そんな中でもっとも完成形に近づいているのが環状七号線。 私はよく利用する。 トラックが多いものの、そこそこ流れて首都高速よりも便利な場合が多い。 その環七と世田谷通りが交差するのが常盤陸橋。 都内でも有数の交通量がある。

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環七は昭和の道路だから街をぶった切っていて道路の秩序を壊している。 しかし世田谷通りはかつての矢倉沢往還、何百年もの間、甲州街道、大山街道の間の西に向かう主要道だった道で街にしっくりと馴染んでいる。 江戸時代この交差点の少し南に流れていた(現在は暗渠)蛇崩川の支流に架かっていた常盤橋という小橋があった。

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『江戸名所図会』に「常盤橋」として描かれているが、軽く跳び越せるくらいの橋に見える。 しかし名所図会の本文には、「二子街道中 馬引沢村、世田ヶ谷入口 三軒茶屋の往還角の所より、向こうへ三丁許(バカリ)入りて、小溝に渡す石橋をしか名づく。」とある。 小さいながらも謂れのある橋なのである。その橋の欄干だったかもしれない石が近くの駒留八幡神社に残っている。

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境内にある弁天(以前は常盤弁天とあったが現在は厳島神社とある)の前に無造作に常盤橋の一部が置かれている。 溝っ川に掛かっていた小さな常盤橋がここまで土地の歴史上残されているのは「常盤姫の伝説」による。

「江戸時代以前の天文年間(テンブンとよむ:1522~1555)、この辺りは世田谷城主吉良頼康の領地だった。 吉良頼康には12人の側室がいたがとりわけ寵愛していたのが家臣の奥沢城主大平氏の娘である常盤姫だった。 やがて姫は懐妊したが、それを妬んだ他の側室たちが頼康にデマを吹き込み、あの子供は家臣との不義密通の子であると信じさせた。頼康は疑念から常盤姫の殺害を命じた。 姫はひどく悲しみ、飼っていた白鷺の足に辞世の句を結んで、実家の奥沢城に放った後死んだ。

ところがたまたま奥沢城 近くで狩りをしていた頼康の矢がその白鷺を射落とし、その足に結ばれていた常盤の辞世の句を詠んで、姫の無実を知り、城に戻ったが姫は胎児と共に事切れていた。 胎児は男児だった。頼康は側室たちを成敗するとともに、常盤姫と息子の鎮魂のために駒留八幡宮に若宮と弁財天を祀った。」

という伝説。 常盤が死んだ場所がこの常盤橋と言う場所で、それが現在の常盤塚の近くだったという。 また白鷺が落とされた場所に生えたのが鷺草という言い伝えから、今でも世田谷区の花はサギソウとなっている。

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常盤塚の場所は世田谷通りの若林三丁目バス停から入ったところだが、そこだけ異空間のように静かに感じられる。 もちろん石碑などは後年のものだろう。 また話も、後の江戸時代になって『名残常盤記』というサギソウ伝説の物語に脚色されて出来上がったもののようだが、今も常盤塚をきれいに保っている地元の方がいらっしゃるのはありがたいことである。 こういう心を日本人は忘れてはならないと思う。

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塚は昭和58年に世田谷区の指定史跡になった。 塚の南にある駒留八幡神社はその物語から若宮八幡宮と呼ばれた。 胎児の霊を八幡宮に祀り、境内には常盤姫を祀る弁天もある。 そして当時奥沢城だった現在の九品仏にある浄真寺にはサギソウが群生している。

かつて常盤塚の石碑の脇には当時の松に替えて、桜の巨樹があったが、それも枯死し今は新しい桜の木が植えられている。

場所   世田谷区上馬5丁目30-19

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2019年1月30日 (水)

若林の墓所と計画道路(世田谷区若林)

淡島通りは若林陸橋を渡った先で道路が切れている。 もう何十年もここが淡島通りの終点である。 しかし計画道路と言うのは何十年経っても、事情が変わっても、役所の中では変わらないので、延伸計画はずっと進行している。 計画の実現が早いか、氷河期が始まって東京湾が干上がるのが早いか、競争していると言ったら大げさだろうか。

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そのどん詰まりの先にあるのは墓地。 墓石を見る限り根岸家の墓所のように見える。 根岸家というのは、この辺り若林の名家であったが、近年はほとんど名前を聞かない。 江戸時代は若林村、明治2年(1869)に品川県になり、明治6年(1873)には東京府となった。

当時の人口は232人、世帯数は46戸というのが若林村の規模。やがて明治22年(1889)になると池尻村、三宿村、太子堂村、若林村、下北沢村、代田村、経堂在家村、世田谷村の8村が合併して新しい世田谷村になった。その時の村役場がこの墓所のすぐ北側にある若林小学校の隣りであった。若林小学校は明治35年(1902)に太子堂から今の場所に移転してきた荏原尋常小学校が前身である。

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この墓所にはたくさんの石仏が並んでいる。 名前はないので墓石ではないようだ。 時代的には天和年間(1681~1684)、元禄年間(1688~1704)、宝永年間(1704~1711)、享保年間(1716~1736)、寛保年間(1741~1744)、寛政年間(1789~1801)の石仏があり、東京の都心近くにこんな風に残っている事自体奇跡的なものを感じた。

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時代の真ん中あたりが宝永年間というと、過去最後に富士山が大噴火した時代である。ということはこの石仏たちの半分近くは宝永大噴火の火山灰を被った経験を有しているということになるのだ。

江戸時代の根岸家は若林村の村役人を務めていたという記録がある。明治末期の辺りの資料を見ると、この辺りには小学生相手の文具店があり、根岸菊蔵という方のお宅だったようだ。 辺りでは根岸家は名主も務めたと伝わっている。また平成に入ってからも根岸家の方が町会長を務められたりしているようだが、墓所との関係は分からない。

昨今こういう歴史的に価値の高い史跡をなくしてしまう開発が多いので、ここはしっかりと歴史を掘り返して保存してほしいものだと思ってやまない。

場所  世田谷区若林5丁目37-17

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代沢滝坂道の地蔵(世田谷区代沢)

駒沢地蔵尊の西側の道路が目黒区と世田谷区の区境になっている。 ここから西へ僅か100m余りで再び地蔵堂がある。 堂宇に入っている石仏は二体、右の庚申塔は欠けていて年代不詳、塔型もわからないが、青面金剛像と三猿は確認できる。 左側の大きい地蔵立像はかなりの年代物のようだ。

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地蔵の向かって左前面に彫られている造立年は天和元年(1681)である。 駒場地蔵尊の古いほうの地蔵が1692年だったので、こっちの方が少し古い。駒場地蔵尊は目黒区と世田谷区の区境になっているが、江戸時代に遡っても同じ場所が上目黒村と下北沢村の村境だった。 そして滝坂道よりも南側一帯は、村域ではなく幕府の駒ヶ原御用屋敷で将軍の鷹狩場であった。

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世田谷区側の地蔵は規模では目黒区側の駒場地蔵尊に劣るが、こちらの地蔵も地元の人が丁寧に世話をされているのがよく分かる。 江戸時代の滝坂道を下北沢村に入って少し進むと北沢川の支流を渡る。 水路としては北沢川溝ヶ谷支流という名前だが、現在は川はなく地形の高低差と道に痕跡が残るだけである。

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淡島交番前という小さな交差点の横断歩道の北側にある歯医者さんの脇に細路地がある。 舗装もされていない。 これが溝ヶ谷支流の痕跡である。 この辺りの民間伝承に「ヤマメの恩返し」という話がある。(以下は『ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代田・大原・羽根木)』に掲載されている民話の引用)

今の代沢2丁目2~3番地辺りは明治の頃は下北沢村字「会の辻」と称され、ここに南北に長い大きな池があった。 池に流れ込む小川の上流が「池の上」で、池の南端が「池尻」である。 この池に長さ1尺余りの大きな魚が一尾いた。滅多に水面に姿を見せず、たまに見かけた人は山女魚に似ていたと言う。松之助は日頃父から、「あれは池の主だからいじめたりしてはならん」と戒められていた。

淡島のお灸(*後記参照)が行われた夏の日のこと、東京の人が淡島通りと森厳寺の間を三々五々行来していた。松之助がいもうとのふみをおんぶしていると、浴衣姿の若い衆二人が池に石を投げつけたり笹竹を突っ込んだりしていた。 近づいてみると大山女魚を見かけたので行方を捜しているようだ。

「大きな魚は池の主だからいじめちゃいけないんだよ」 と松之助がたしなめると、一人が、「何だと!このガキ!」と言うなり、顔を殴りつけ、松之助が転んだ途端、ふみが大声で泣きだした。若い衆は泣き声に慌てて、淡島通りへ去っていった。

その夜、松之助は池の主の夢を見た。 山女魚の顔が近づいてきて囁いた。

「今日は助けてくれてありがとう。あそこも棲みにくくなったので近く北沢川の水底の洞穴に移る。 秋に大水が出てこの辺一帯が水浸しになる。その時に…」

翌朝飯を食いながら松之助が父に夢の話をした。 父が村人に大水を予告したので、何十年ぶりと言われた北沢川の氾濫の時もこの村の被害は少なくで済んだという。

*淡島のお灸: 江戸時代初期の慶長13年(1608)に森厳寺が開山、境内には初代住職清誉上人(セイヨショウニン)が勧請した淡島明神が祀られた。 ここで淡島の灸というお灸が始まりご利益があると大流行、お灸のために人々が二日三日も順番を待つほどだった。

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東京の渋谷と下北沢の間に伝わる明治の話で尺ヤマメというのも驚きだが、私たちが何も考えず暮らしている東京の街もつい100年前には山里と変わりない様子だったのである。

地蔵堂の向かいに利根川食品という面白い八百屋がある。たまに休んでいるが、その時に上のような張り紙がされていた。その下にある近所の方の付箋がまた洒落ている。 明治以前の粋な人々の息吹が感じられるようだった。

場所 世田谷区代沢1丁目2-4

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2019年1月28日 (月)

駒場地蔵尊(目黒区駒場)

目黒区は北西に尖がった北海道のような形をしている。 その北海道で言うと稚内あたりになるのが駒場。  渋谷区と世田谷区の間にクサビを打つように食い込んだ駒場の突端は小田急線東北沢駅近くの三角橋だがそこには橋などない。 三角橋という地名はかつて三田用水が流れていた時代にあった橋の名前である。駒場の北境はこの三田用水沿いになっている。 三角橋あたりから取水して北沢川溝ヶ谷支流に分流していた。 この支流沿いには『ヤマメの恩返し』という民間伝承がある。

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淡島通り沿いは古道滝坂道である。 目黒区から世田谷区に入る交差点の角に駒場地蔵尊がある。 傍らに目黒区の立てた説明板が立っている。

「悪病も退散 〆切地蔵 … その昔、隣村で悪病が流行、大勢の人が死んだ。驚いた駒場の村人がこの地蔵様に祈ったところ、誰も病気に患らなかった。以来、悪病締め出し地蔵として、この名が付いたという。」

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一番右の地蔵は新しい。 二番目の地蔵菩薩は古く1692年のもの。 真ん中の大きな地蔵菩薩は1718年、左の小さめの聖観音菩薩は1674年でこれが一番古い。 地蔵信仰は鎌倉時代に民衆に広まり、江戸時代から明治辺りまで、鎮守とは別にまさにその土地のものとして育まれてきた。 最近あちこちで開発や新築時に「気持ち悪い」と言って、業者に破棄してもらうというケースが多いようだが、罰当たりな話である。

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左の間仕切り側にある地蔵についてはよく分からない。水子地蔵尊のようである。 それにしてもここの地蔵堂はしっかりと守られていて素晴らしい。

目黒世田谷には「駒」のつく地名が多い。 ここ駒場に始まり、駒沢、駒留とある。 駒というのは馬のことだ。 駒場というと馬が集う場所で牧場。 ここでは昔から良馬を産出したという。 馬が駆け回った野原ということで駒場野という地名が出来た。

駒沢というのはちょっと違って、上馬引沢村、下馬引沢村、野沢村、深沢村、弦巻村などが合併して明治時代に出来た地名。 しかし駒留には由来がある。 駒留八幡神社の由緒によると、1308年に駒留八幡神社を創建した領主の北条左近太郎入道成願が神社の土地を探す際に、馬が立ち止まったところにしようと決め、神社の場所で立ち止まったことに由来するという。

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江戸時代の駒場はまさに将軍の御鷹場だった。 現在の東大キャンパスの辺りには将軍用の御鷹場施設も作られた。 滝坂道は尾根筋を通っていたので、駒場野の風景は道すがら広大に広がっていた。 その絵図が『江戸名所図会』の「駒場野」に描かれている。

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この景色がつい200年前の景色である。 周辺は徳川将軍の御用屋敷の敷地内で、もともとは上目黒村の加藤家が開拓した土地だったが、江戸時代初期に加藤家は愛媛県の宇和島藩伊達家に献上、宇和島藩の下屋敷になった。 その後1718年に宇和島藩は幕府の鷹狩り場として差し出したといういきさつがある。

この辺りの鳥見役(鷹場の獲物を管理する公務員)の役金は20両だったというので、今の価値にして高いか低いかは何とも言えないが、相対的な生活レベルから言えば歴史学者の換算額はコンサバすぎるので、私の理解としては年収1000万くらいの感じだったのではないかと思う。

それに対して地元民は鷹番として身銭を切る負担を受けていたようで、名誉の代わりに労役を強いられていた。 いつの時代も、管理する側と現場で生活する側では経済的な物差しが違うのである。

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松見坂地蔵尊(目黒区大橋)

松見坂地蔵尊。山手通りと淡島通りの交差点脇にある地蔵堂に2体の石地蔵と三猿の庚申塔がある。堂宇の脇には明治32年の「とほとうみはし(遠江橋)」の親柱が残る。 もとはこの下った脇の小径が滝坂道で、地蔵から下ったところに遠江橋があった。 大正期になってから車道としてその上に直線的な新遠江橋が架かったようだ。

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地蔵は新しいもので、元の地蔵は戦災で破壊された。地蔵堂の西側は谷地形になっているが、ここには空川という川が流れていた。水源は東京大学駒場キャンパスの一二郎池と駒場野公園。 やや下流で目黒川に合流したが、昔の目黒川は今とは違いうねった流程だったので、合流地点は時代によって違っていた。

その場所はおおよそ山手通りの目黒橋辺りから、大橋ジャンクションのオーバル建築物脇の氷川橋あたりで変化した。 明治時代末期に川筋を固定して以降、このジャンクションの場所は昭和の中期までは玉電の大橋車庫だった。 また玉電廃止後は東急バスの営業所として使われていた。

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この辺りは明治中期以前は何にもない土地だった。江戸時代には遠くまで見渡せる野原だった。将軍がこの辺りに鷹狩りに来るので、鷹狩りの関係者が住んでいた。右側の2基の地蔵尊は1945年に戦災で破壊されたが、古い地蔵を下に埋めて、その上に現在の地蔵が置かれた。左側の三猿の庚申塔の下部については分からない。

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それよりも昔、地蔵堂の渋谷寄りには大きな松があり、山賊がその上から滝坂道を往来する旅人を狙っていた。約450年前その山賊の頭の名が道玄だった。それが道玄坂の名前の由来。大小さまざまな地蔵はその時代のいろいろな出来事や苦労を表しているのかもしれない。

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滝坂道は今の道玄坂上から神泉付近を通ってここで川を渡るために大きく迂回する。ここで何人の旅人が襲われ命を落としたか分からない。 古い地蔵と石を見ているとそんな情景が脳裏に浮かんでくる。

地蔵堂の前に置かれているとおとうみはし(遠江橋)の親柱は近隣村民が協力して文化9年(1812)に架けられた橋のものなのか、その後明治21年に駒場にあった陸軍施設に明治天皇が来るというので架け替えた石橋のものなのかはわからないが、1800年代のものであるのは間違いなさそうである。

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2019年1月27日 (日)

淡島の厄除地蔵(世田谷区三宿)

渋谷から世田谷区若林の間のバス通りを淡島通りと呼ぶ。 この通りは古道滝坂道にほぼ沿っている。徳川家康が江戸にやってきて五街道を整備するのだが、それ以前から当然道はあった。中世以前は府中が武蔵国の国府で、江戸と府中を結ぶ道のひとつがこの滝坂道だった。江戸時代には甲州街道に繋がる道で「甲州道中出道」と呼ばれたが、調布の滝坂で甲州街道と合流したので「滝坂道」とも呼ばれていた。

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写真は渋谷から2.5㎞程西進した淡島交差点近くで、旧道筋が分離するところ。 街道歩きはこういう分岐を見つけて、旧道筋で昔の痕跡を探すことが楽しみのひとつでもある。 この先で北沢川の暗渠と交差するが、そこにあった橋が「大石橋」。旧道脇に大正3年(1914)の親柱が残っている。 大正期まではこのすぐ下流には江戸時代から続く水車小屋もあった。

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かつてここに流れていた北沢川(北沢用水)は水量の多い流れで、天明年間(1780年代)まで橋も架かっていなかった。 たまたま通りかかった藤助と名乗る行者が、村人の難渋を見かねて橋を架けようと言い出し、自らのお金に加え当時の代田村名主から寄附を受けたりして天明9年(1789)ここに橋を架けた。 行者は橋が完成するとまた旅立ってしまったという。 この大石橋の10mほど先の辻に地蔵堂がある。

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堂宇の中には庚申塔と厄除地蔵があるが、この地蔵が墓石のような立方体の石。 これは珍しいが、かつては地蔵だったと思われる。 代田村の言い伝えによると、代田村には東西南北4つの厄除地蔵があり、ここは東向き地蔵で村の境を守っていたという。 南向地蔵と西向地蔵は世田谷代田駅近くの円乗院に移設保存されている。 北向地蔵は代田橋駅近くに現存するが、ここにあった東向地蔵は残念ながら戦災で破壊されてしまったという。 現在の石柱は戦後作られた名残りの石柱なのである。

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堂宇の外にある右手の「日本廻國供養之石塔」は、代田村の村人たちが前述の藤助という行者への感謝と旅の安全を願って建てた石塔で、もとは天明年間((1781~1789)に建てられた。昭和になって戦災で失われてしまったが戦後ここに復活したもの、 天明の年号が入っているのは、大石橋の言い伝えの年代を表している。現在の塔は昭和27年(1952)の再建である。可能性としては天明2年(1782)が最も高い。

また左手には三界萬霊塔があるが、この由緒は分からない。ただ、三界萬霊というのは仏教の輪廻転生に関わる言葉で、欲界・色界・無色界を表す。 欲界(ヨッカイ)とは本能的な欲望が強い物欲の世界、色界(シキカイ)は形質だけの世界で、欲望は解脱したもののまだ形には捉われている段階、無色界(ムシキカイ)は欲望も物質も超えた精神世界というとされる。代田村の光明真言講中、庚申講中、女中念仏講中が協力して建てたもの。この塔の造立年は不明だが、左面に壬寅年とあるので、1722年、1782年、1842年のどれかであろう。

無色界の中に「有頂天」という状態があり、我を忘れるほど精神が高まった状態をいうらしいが、ここまではまだ人間界のことで、三界を超越したところに仏の世界があると言われている。 とても到達できそうにもない。

場所  世田谷区三宿2丁目38-9

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2019年1月26日 (土)

十二社熊野神社(新宿区西新宿)

西新宿の高層ビル群の先にかつてはホームレスの集合地だった新宿中央公園がある。 その北西角にあるのが十二社熊野神社。 熊野神社は熊野三山を本社とする熊野神を祭神とする神社で、熊野社あるいは十二所(ジュウニソ)神社などと呼ばれる。全国には2~3千社あると言われているが、その地域は東北から九州までと広い。 特に関東中部地方に多いが、東京23区内には5社のみ。 板橋前野、志村、自由が丘、立石とここ新宿である。

熊野三山の信仰は熊野古道などでもわかるように有史以前からの自然信仰で、全国的に広まったのは平安時代から鎌倉時代にかけてである。 熊野三山とは、熊野速玉大社、熊野本宮大社、熊野那智大社を指す。

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十二社熊野神社(新宿)の創建は応永年間(1394~1428)に中野長者といわれた鈴木九郎が、故郷の紀州の熊野三山より勧請したと伝えられる。 新宿の総鎮守とされているが、今でこそ日本最大の街新宿も100年以上前はのどかな農村地帯であった。 神社の辺りは角筈村、北側が柏木村で、青梅街道と甲州街道に挟まれた近郊農業の田園地帯である。

江戸時代の風景は、『江戸名所図会』の「角筈熊野十二社」 に描かれている。 広い池は十二社の池で、江戸時代以降は元からの湧水に合わせて、玉川上水の水を落とした景勝地となり、花街が広がって賑わっていた。ただ淀橋の由来では守銭奴で金の隠し場所を知ったものを平気で殺す鈴木九郎という印象だったので、神社を勧請するという話とは少し距離を感じた。

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鈴木九郎の鈴木家は昔、熊野地方で熊野三山に仕えていた。 源義経について東国を巡り、九郎のときに中野に定着し、この地域を開発した。 その後、九郎は成功し財を成すようになり、応永10年(1403)には熊野三山の十二所権現をすべて勧請した。

江戸の景勝地となったのは、八代将軍徳川吉宗の頃で、鷹狩りの折に将軍も立寄るようになり、滝や池を配した大名好みの風景に人気が高まった。 最盛期には料亭や茶屋が100軒を超え、芸妓も300人以上いたという。

しかし十二社池は昭和43年(1968)にすべて埋め立てられてしまった。 今はビルが立ち並び、当時の面影を探すことは難しいが、一本裏路地に入った大銀杏のあるそば処福助や改装した旅館一直、またそば屋福助の南に残る料亭跡などがある。

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2019年1月25日 (金)

日枝神社(千代田区永田町)

江戸の三大祭りと言えば、神田明神、深川富岡八幡宮、赤坂日枝神社の祭りをいう。 しかし富岡八幡宮は江戸の祭りの中では若干後発で、江戸の初期は北の鬼門に対する神田明神、南の裏鬼門に対する日枝神社の二大祭りだった。 もっとも深川周辺は江戸時代初期は大半がまだ海の中で、後に埋め立てられていった地域である。 今でいうニュータウンの代表と言えるだろう。 しかし近年宮司による殺人事件が起こって大騒ぎになった。 どうも最近の富岡八幡宮は呪われている気がする。

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赤坂日枝神社は溜池の脇にある丸い島(山)に建っている。 もともとは太田道灌が江戸城を築いた文明10年(1478)に現在の皇居に勧請された鎮護の神社だった。 天正18年(1590)に徳川家康が江戸城に入城し、江戸の産神、総氏神としていたが、二代秀忠の時に、城内紅葉山から濠を越えた国立劇場付近に移された。 しかし明暦3年(1657)に江戸を焼き尽くした明暦の大火で焼失し、万治2年(1659)に四代将軍家綱が現在の土地に遷座させた。

丸い山なので、大鳥居が3つあってどれも存在の主張をするのでわかりにくいが、国会議事堂側の鳥居が正門。 上の写真の外堀通りと赤坂通りが接する山王下にある白い大鳥居は裏参道にあたる。 さらに少し見附寄りにはもう一つ西参道の大鳥居がある。多くの人は裏参道を使う。

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本殿はそれほど大きくない。境内からは背後にそびえるプルデンシャルタワーが空に突き出している。

祭神は大山咋神(オオヤマクイノカミ)で須佐之男神(スサノオノミコト)の孫にあたるというが、古事記の世界なので本当の関係は分からない。 大山咋神の守護は猿なので、日枝神社の本殿前は狛犬ではなく猿像が両脇に鎮座している。

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小山の上なので、表参道の階段上から男坂を見下ろすと結構な高さに驚くかもしれない。 脇の車道が女坂と呼ばれるが、車で上るとあっという間だから、同じ高低差とはとても思えない。本殿の標高は29m、表参道下が15mなので階段の高低差は14mほどある。 外堀通り側はもっと低いので山王下交差点とは20mの差がある。立派な山である。

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実は日枝神社の西参道から入ると、千本鳥居がある。あまり人も訪れない入口だが、この稲荷参道は都内でもかなり長い千本鳥居。 さらに高低差があるので、よりご利益を感じられる。 稲荷参道を上った先は本殿の向かって右手になり、そこには末社が並ぶ。

この地形は絶対城跡だと思ったら、やはり太田道灌の城で星ヶ岡城跡だったとある。 辺りの地形を利用して、江戸城の前城として築かれたようだ。 キャピトル東急ホテルの高まりと、日枝神社の山、そして日比谷高校の高台にそれぞれ城が作られ、神社と日比谷高校の間の切通坂は濠の痕跡である。

戦後ビートルズも宿泊したキャピトル東急ホテルを建設するときに、南側の山を崩してしまったので、現在の地形図では分からないが、首相官邸の近くまで山が迫っていたことは少し前の地形図に描かれている。

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2019年1月22日 (火)

淀橋(神田川 中野区中央/新宿区西新宿)

ヨドバシカメラの由来の淀橋である。 青梅街道が神田川を渡る歴史ある橋。 橋の中野区側にはかつて都電の淀橋電停があった。 現在の住所は中野区中央と新宿区西新宿の区境だが、昭和の地名では北東が柏木、南東が淀橋、西側が本町通りだった。 また関東大震災以前は北東が淀橋姿、南東が淀橋、北西が小淀、南西が本郷。

しかし大正時代以前の神田川はほぼ自然河川の流れで、この辺りも複数の流れに分流していた。南東から淀橋付近に合流してくる流れがあった。 「神田上水助水堀」と言われているが、それは江戸時代に玉川上水が出来てから、神田上水に補水する目的の人工水路の扱いだ。

しかしこの流れは地形を読む限り、間違いなく十二社の池から流下していた流れである。十二社あたりと淀橋では5mほどの高低差があり、この間を流れていた小川を利用して江戸時代に水路が開かれたのだろう。

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淀橋周辺には平成の間に高層ビルが林立した。 もっとも新しいのがパークハウスという60階建てのタワーマンションだ。 この脇にはかつて「けやき橋商店街」という素朴な昭和の商店街があった。

少し南にもかつて初台に通じる商店街があり、はっぴいえんどのファーストアルバム(通称ゆでめん)のジャケット写真になった風間商店という製麺所があった。 神田川笹塚支流を渡る商店街通りの橋「柳橋」の脇に、今もまだ古いアパート付き商店がシャッターを閉めたまま残り(風間荘)、これがゆでめんの場所である。

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青梅街道の神田川に架かる橋はいたってそっけないもの。 もっとも長さの何倍も道路幅があるので、車で通る人は橋を感じることはない。 しかし淀橋は徳川家康の江戸入城以前からある古橋である。

『江戸名所図会』にも描かれており、「淀ばしは、成子と中野との間にわたせり。大橋・小橋ありて、橋よりこなたに水車回転(マワ)れるゆゑに、 山城の淀川に準(ナゾラ)へて、淀橋と名付くべき台命ありしより、名となすといへり。大橋の下を流るるは神田の上水堀なり。」と記述されている。

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題名は『淀橋水車(ミズグルマ)』、左頁の木橋が淀橋である。 水車は左頁の最下部にある。右頁にある橋は神田川の分流に架かっていた小淀橋だろう。今は路地にその痕跡を感じることが出来る程度である。

橋の北東側に淀橋という名前以前の『姿不見の橋』についての物語が書かれている。

『淀橋』の名は、江戸時代の三代将軍徳川家光が名づけたといわれる。 古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」と呼ばれていた。中野長者といわれた鈴木九郎が、自分の財産を地中に隠す際に、他人に知られることを恐れ、手伝わせた人を殺して神田川に投げ込んだ。 九郎と渡るときに一緒にいた人が、帰るときにはその姿が見えなかったことから「姿見ずの橋」と呼ばれた。

江戸時代に鷹狩りに訪れた家光がこの話を聞き、「不吉な話でよくない、景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めよ」と命じたので、それ以降は「淀橋」と呼ばれるようになった。

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2019年1月18日 (金)

勝鬨橋 (隅田川 中央区築地/勝どき)

東京の近代化のシンボルでもあるのが勝鬨橋。 2018年11月に豊洲市場移転に伴う環状2号線の開通で築地大橋に隅田川の河口の橋の座を明け渡したが、存在感の点では築地大橋は到底勝鬨橋には及ばない。

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勝鬨橋が完成したのは昭和15年(1940)のこと。 日露戦争に勝利した結果、日本の世界的地位は高まり、国家的イベントして1940年の東京オリンピックと東京万国博覧会が計画されていた。 その東京万国博覧会のメインゲートとして、新たに埋め立てた現在の晴海と豊洲の万博会場と東京市内を結ぶ橋が勝鬨橋であった。 しかし戦争の足音とともに東京オリンピックも東京万博も幻と消えたのである。

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勝鬨橋は珍しい可動橋(跳開橋)である。 これは当時隅田川を通る大型船舶が多かったためで、陸運よりも水運に重点を置いていた時代であった。 橋が跳ね上がるのは9:00、12:00、15:00の一日3回、約20分間開いていた。 戦後、昭和22年(1947)には都電が開通し、開閉回数は徐々に減少し、ついに昭和45年(1970)に閉じたままになった。 ちょうど大阪万博開催の年というのも因縁を感じさせた。

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勝鬨橋が架かる以前はここに「勝鬨の渡し」があった。 渡しというから江戸時代からかと勘違いしそうだが、江戸時代現在の勝どき地区や晴海は海の中である。明治になり、佃島から沖合の浅瀬がどんどん埋め立てられ、月島に工場が立ち並ぶようになった。 明治25年(1892)から月島の渡しが聖路加ガーデン近くにあったが、到底輸送量不足となり、明治38年(1905)に京橋区民の有志が渡しを始め、後に東京市に渡船と渡船場を寄付し、勝鬨橋が出来るまで運行された。

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橋の築地側に「かちどき 橋の資料館」がある。開館は毎週、火、木、金、土曜日という変則、入場は無料。 訪問時は高齢者のボランティアと思える老人が受付におられた。 無料だが貴重な橋の遺産や資料が沢山あって興味深い。 資料館の裏手は、2018年に役目を終えた築地市場がガランとした空間を見せていた。

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2019年1月15日 (火)

柳橋(神田川、中央区東日本橋/台東区柳橋)

神田川の最上流は井の頭公園の水門橋、最下流は隅田川に合流する直前の柳橋である。 神田川が隅田川に注ぐ場所として最初は「川口出口の橋」と呼ばれた。 また近くに幕府の矢倉があったので、矢の倉橋・矢之城橋などとも呼ばれたという。 最初に橋が架けられたのは元禄11年(1698)だが、まもなく江戸時代中期正徳年間(1711~1715)頃には柳橋という名前が定着した。 定説では橋のほとりに柳の木があったからとされている。

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その後明治28年(1895)に鉄橋に架け替えられたが、関東大震災で落橋してしまった。 現在の橋は昭和4年(1929)のもの。 それでも90年経過している。 この妖艶な曲線は戦前のものだと最初に感じたが、果たしてその通りであった。 永代橋に似ていると思ったら、やはり永代橋のコピーとしてデザインされたものだった。 しかし永代橋など隅田川の橋が総崩れになっただけでなく、この柳橋のような小さめの橋まで崩れるとは、関東大震災がとんでもない地震だったことを再認識させられる。

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柳橋から上流にかけて数多くの屋形船が停泊している。 船宿もいくつかある。 柳橋脇にあるのは小松屋。 創業は昭和2年とあるが、実は明治15年に船宿として開業したという記録もある。 この辺りには江戸時代からたくさんの船宿があった。 粋な江戸っ子はこの辺りで船をチャーターし、宴会をしながら隅田川を上る。 やがて待乳山昇天の山谷掘に入り、日本堤から大門をくぐり吉原に入っていった。 この辺りで船に乗るのは、今でいえば修学旅行のバスに乗り込む直前の学生のようなものだったろう。

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上の写真は、上流の浅草橋から柳橋を望んだもの。 今もたくさんの屋形船がある。 ここの屋形船は橋が低いので、屋根が低く作られている。 川船と橋の高さは常に相反するのである。

江戸末期には、幕府の天保の改革などで岡場所が限られてしまい、柳橋に芸妓らが集まり一大花街を形成した。 明治になると、後発の新橋と東京の二大花街と言われるようになった。 その後関東大震災や戦争を乗り越えては復活した花街だったが、江戸の粋も21世紀になる前にはその灯を消してしまった。 それでもまだこれだけの屋形船が並ぶと風情ある景色に感じられる。 

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2019年1月14日 (月)

永代橋(隅田川、中央区新川/江東区永代)

隅田川の橋には歴史のあるものが多い。 江戸時代に4番目に架けられたのが永代橋。元禄11年(1698)に、幕府が伊奈忠順(イナタダノブ)を普請奉行に任命し架けたもの。

伊奈家は代々江戸の治水に大きな貢献を果たしてきた家柄。 利根川東遷事業の大河川改修を率い、伊奈家3代をかけて現在の銚子に流れる利根川の流れを築いた。もともと利根川は江戸川で海に流れ出していた川だったので、とてつもない大工事だった。 利根川東遷事業を行った伊奈忠次の玄孫が伊奈忠順である。

伊奈家は他にも多くの事業を果たした。 玉川上水の開削は玉川兄弟と水道奉行の伊奈忠克により成し遂げられた。 また永代橋を架けた忠順は富士山の宝永大噴火の被災で、ほとんど滅亡しかかっていた足柄地区酒匂川流域の農民への多大な援助を行い、事業半ばで他界したが、村人たちは須走に伊奈神社を建立し、忠順の菩提を弔った。

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現在の永代橋は大正15年に開通したアーチ橋で、夜間にはライトアップされたりして近代の橋ながら美しい橋である。 橋長は185m、幅は22m、アメリカの技術者の援助を受けて架橋した。

しかし江戸時代の永代橋はこの場所ではなく、150mほど上流の日本橋川合流地点の北側に架けられていた。 江戸時代の広重の『東都名所永代橋全図』 は箱崎側からの眺望を描いており、左手に永代橋、右手に日本橋川の豊海橋が見える。

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江戸時代の永代橋はもちろん木橋だった。 そして明治30年(1897)に鉄橋に架け直されたのだが、それはほぼ現在の位置だった。ところがその後大正12年の関東大震災で隅田川の橋はことごとく壊れてしまった。

参考) 江戸深川情緒の研究 驚きの「記録写真」たち―80年前の新旧永代橋

従って現在の橋は関東大震災後の大正15年(1926)に新たに架け直されたもので、間もなく100年になろうとしている。 この橋が今もまだ現役で、しかも美しさを保っていることは、明治から大正にかけての日本の土木建築技術の高さを物語っている。 その結果というべきか、永代橋は、土木学会選奨土木遺産、および国指定重要文化財に指定されている。

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江戸時代の文化年間にあった落橋事故では死傷者・行方不明者1,400人という大惨事になったことは有名。

幕府は財政難から永代橋の維持管理を困難として廃橋を決めたが、町人が自分らで負担して管理するからと嘆願し永代橋は残った。 1807年9月20日、富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼が行われた折、江戸市中から群衆が橋に詰めかけた結果、橋が重さに耐えきれず崩れ落ちた。後ろにいた人間には何が起こったかが分からないので、早く行けとばかりに押し合いへし合いするので、橋の上からどんどん人が落ちていくという悲惨な事故であった。

この話は落語にもなっているので、お時間のある折に30分ほどお楽しみください。

古典落語 『永代橋』 六代目三遊亭圓生

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2019年1月13日 (日)

二重橋(千代田区皇居)

皇居の橋で最も有名なのは言うまでもなく二重橋である。平成31年の新年一般参賀は、平成の最後として154,800人という史上最高の参賀者数となった。 平成2年は喪中で行われなかったが、平成3年~平成30年までの平均が75,793人なので、その倍が参賀したことになる。

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平成6年のピーク111,700人は前年の皇太子と小和田雅子さんご成婚後の一般参賀だったが、平成30年がそれを超えて126,720人となったのは前年末に天皇陛下が平成31年に退位の意向を発表したためである。そして平成31年は15万人超えとなった。

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一般参賀の入口がこの通称二重橋からである。東京に観光に来ると九分九厘この前で記念撮影をする。 一般には、マスコミでさえこの橋を二重橋という名前で扱っているが、実はこれは二重橋ではないことは知られた話。 ところが最寄りの駅名まで千代田線二重橋駅となっているので、大多数の人は疑いもなくこの眼鏡橋を二重橋と思っている。

皇居は皇居である以前に江戸城であったことを思い出すと、元々この橋は江戸城西の丸の登城口で、将軍らは本丸に居たので、西の丸は引退した前の将軍や世継ぎが住むところであるため、二重橋はメインルートではない。 長い江戸時代の間には何度か大火で城が焼けており、将軍が西の丸に住んだ時期もあるが、江戸の最後に近い1862年には本丸、西の丸ともに焼けてしまったので、1863年には西丸に仮御殿を建てこの通称二重橋が正門扱いとなった。その数年後に無血開城となったのである。

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通称二重橋は正式には「正門石橋」という。 その場所に建つと奥の小高いところにもう一本の橋がある。 江戸時代の橋の造りが二重に見える構造の木橋だったので、こちらを本来は二重橋と呼んでいたのである。 明治19年にドイツの会社に依頼してこの橋を架け替えて鉄橋となった。

手前の正門石橋も同年、木橋から石橋に改められた。 総花崗岩造りの美しい橋になった。 戦前はこの二つの橋を渡るのは天皇家、皇族、外国の貴賓と大使公使だけだったが、昭和23年から一般参賀が始まり国民も渡る機会を得ることになった。

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2019年1月10日 (木)

井の頭池・ひょうたん橋と水門橋(神田川)

東京には数千の橋がある。 橋の数え方は「本、基、橋(キョウ)」の三種があるが、河川に架けられるものは「本」を用い、建造物としてカウントする場合は「基」だそうだ。 坂の研究でも第一人者である故石川悌二氏が『東京の橋』というとてつもない書物をお書きになっている。 石川氏の調査のカウントではおよそ5,500橋となっているが、その踏破はさすがに真似できない。

それ以前にあまりの数の多さに、どれを選ぶかという悩みが付きまといそうである。 坂と違って、もちろん橋はまだ全踏破していない。 だから追々書き連ねていくしかないだろう。 日本橋の次はということで、その源流を今回は選んでみた。 神田川源流の井の頭池、その吐出し口に架かっている二つの橋、ひょうたん橋と水門橋である。

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井の頭池の北西奥の岸にある湧水が「お茶の水」、現在は湧水ではなく地下水をポンプで吸い上げている。 都内の自然湧水の多くは同じような状況である。 徳川家康が井の頭池の湧水を関東随一の名水と誉めてお茶を淹れたという伝説から「お茶の水」と呼ばれるようになった。

地下水の水位はかなり変動しているようだが、実は井の頭池の池底のあちらこちらから湧いている。 大雨が続いたりして地下水水位が上昇すると、ほぼ神田川の流量に匹敵する湧水が今でも湧く。 このお茶の水も地下水位さえ上がれば湧水が出てくるのである。

しかし昔と違って、現代は下水排水はすべて下水管に流され、地下に浸透することはほとんどない。 そのために地下水が減少しているといっても良いだろう。 多摩地区の住宅開発が進むにつれて、湧水量が減ったのは致し方ないことなのである。

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井の頭池の水が神田川に流れ出す手前にひょうたん池を通過する。 井の頭池と瓢箪池の間に架かっているのがひょうたん橋。  厳密には神田川の橋ではなく、井の頭池に架かる橋という扱いである。 しかしここで取り上げたのは、ひょうたん池の方が水門橋よりも見た目の雰囲気が良いからだ。

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水門橋は公式な神田川の起点なのだが、ちょっと味気ない造りの橋である。 しかし橋の脇には、石柱とともに説明板が立てられている。

「ここが神田川の源流です。 神田川は善福寺川、妙正寺川と合流して隅田川に注いでいます」 と書かれている。 神田川の全長は約25㎞程だが、東京の中小河川では珍しく、暗渠のない「全開渠」の川である。 神田川を全踏破したのは2015年~2016年にかけてであった。 区が変わると雰囲気が変わるという面白さもあって、おすすめの散歩ルートである。

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2019年1月 7日 (月)

日本橋(中央区日本橋/日本橋室町)

地形のキワ(際)にはいろいろなものがある。 坂道がそうだったし、海岸も、川も地形のキワである。 台地と低地を結ぶものが坂道ならば、此岸と彼岸を結ぶものは橋である。 人生最難関の橋はきっと三途の川に架かる橋かもしれない。いずれにせよ、橋には向こう側とこっち側の関係が少なからずあるものだ。

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最初の橋は迷うことなく日本橋。 大阪にも日本橋という場所があるが、あちらは「にっぽんばし」と発音する。 江戸の日本橋は「にほんばし」であることは言うまでもない。大阪の日本橋は道頓堀川に架かる。 江戸の日本橋は・・・と書いて、川名に困ってしまった。 現在の川名は日本橋川である。 川になったと言えるのは明治33年(1900)に江戸時代には埋め立てられていた、飯田橋から西神田までが再び水流を取り戻し外濠川として復活した。

正式に日本橋川になったのは昭和39年(1964)である。 八重洲口から北へ行くと「呉服橋」という交差点がある。その北側には一石橋という本物の橋がある。さらにその北側には復元工事中で当初は2019年完成予定だったが、難しそうな感じもあった。この三つの橋の真ん中に濠の十字路があり、西には道三堀が江戸城に向かって繋がっていた。

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この濠の十字路は江戸城側の武家の町と反対側の町人の町の境でもあったのだが、その東側に日本橋がある。 だから日本橋は町人の町である。 江戸時代は一石橋の東が日本橋。 日本橋は東海道五十三次の起点でもあるが、江戸時代の決まりでは五街道の起点でもあった。 ここから中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道もスタートしていたのである。

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現在も日本橋の車道の真ん中には道路元標がある。 歩道にあるのはそのレプリカである。 この日本橋沿いの室町側は江戸時代の魚市場(魚河岸)。 当初は家康が大阪から連れてきた佃島の漁師が中心になって市を開き、すぐにあちこちの魚がここに集まるようになった。 江戸で最も賑わった街だったようだ。

しかし大正12年(1923)の関東大震災以降は築地に移り、東京都中央卸売市場となった。主な理由は舟運から鉄道への移り変わりである。日本橋魚河岸は底の平たい平田舟で魚を運んでいたが、大正から昭和にかけては鉄道乗入れが可能な築地が主役となったのである。それが昨年2018年に豊洲に移ったわけだが、築地から豊洲に変わってどれくらい流通のメリットがあるのかはいささか疑問である。まして、最新設備などはすぐに古くなるものだ。 さて、50年後の豊洲がどうなっているか、おそらく日本はもっと産直を考えた方がいいだろう。 全国の市場が活況を呈した方が、国全体の経済は必ず良くなると思う。

という訳で、橋の最初は日本橋だが、あまり日本橋そのものを深く書いていないので、いずれ「さらに日本橋」なんて表題で追記するのかもしれない。

(2018/1/7)

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