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2019年1月31日 (木)

常盤塚(世田谷区上馬)

東京は永遠に未完成な都市である。 計画都市とはまったく逆のこの東京を歴史上もっとも理解して開発したのは徳川家康であった。 現代の政治家やディベロッパーの誰もが家康に比べるとビジョンの点で天と地の差がある。 山の手と下町の地形地勢を理解して向こう300年安寧に暮らせる街になることはもうないだろう。

道路計画もすべてが中途半端。 放射状道路と環状道路の組み合わせも遅々として進まず、戦後70年掛けてもまだ道半ば。 何年か前虎ノ門に戦後マッカーサー道路と言われた環状2号線が出来たとはしゃいでいたが、馬鹿の祭りである。 僅か1.4㎞の区間で、事業費は2,700億円、地上げ立ち退きで苦しんだ住民を尻目に、関係者の懐が潤っただけのことだ。

そんな中でもっとも完成形に近づいているのが環状七号線。 私はよく利用する。 トラックが多いものの、そこそこ流れて首都高速よりも便利な場合が多い。 その環七と世田谷通りが交差するのが常盤陸橋。 都内でも有数の交通量がある。

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環七は昭和の道路だから街をぶった切っていて道路の秩序を壊している。 しかし世田谷通りはかつての矢倉沢往還、何百年もの間、甲州街道、大山街道の間の西に向かう主要道だった道で街にしっくりと馴染んでいる。 江戸時代この交差点の少し南に流れていた(現在は暗渠)蛇崩川の支流に架かっていた常盤橋という小橋があった。

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『江戸名所図会』に「常盤橋」として描かれているが、軽く跳び越せるくらいの橋に見える。 しかし名所図会の本文には、「二子街道中 馬引沢村、世田ヶ谷入口 三軒茶屋の往還角の所より、向こうへ三丁許(バカリ)入りて、小溝に渡す石橋をしか名づく。」とある。 小さいながらも謂れのある橋なのである。その橋の欄干だったかもしれない石が近くの駒留八幡神社に残っている。

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境内にある弁天(以前は常盤弁天とあったが現在は厳島神社とある)の前に無造作に常盤橋の一部が置かれている。 溝っ川に掛かっていた小さな常盤橋がここまで土地の歴史上残されているのは「常盤姫の伝説」による。

「江戸時代以前の天文年間(テンブンとよむ:1522~1555)、この辺りは世田谷城主吉良頼康の領地だった。 吉良頼康には12人の側室がいたがとりわけ寵愛していたのが家臣の奥沢城主大平氏の娘である常盤姫だった。 やがて姫は懐妊したが、それを妬んだ他の側室たちが頼康にデマを吹き込み、あの子供は家臣との不義密通の子であると信じさせた。頼康は疑念から常盤姫の殺害を命じた。 姫はひどく悲しみ、飼っていた白鷺の足に辞世の句を結んで、実家の奥沢城に放った後死んだ。

ところがたまたま奥沢城 近くで狩りをしていた頼康の矢がその白鷺を射落とし、その足に結ばれていた常盤の辞世の句を詠んで、姫の無実を知り、城に戻ったが姫は胎児と共に事切れていた。 胎児は男児だった。頼康は側室たちを成敗するとともに、常盤姫と息子の鎮魂のために駒留八幡宮に若宮と弁財天を祀った。」

という伝説。 常盤が死んだ場所がこの常盤橋と言う場所で、それが現在の常盤塚の近くだったという。 また白鷺が落とされた場所に生えたのが鷺草という言い伝えから、今でも世田谷区の花はサギソウとなっている。

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常盤塚の場所は世田谷通りの若林三丁目バス停から入ったところだが、そこだけ異空間のように静かに感じられる。 もちろん石碑などは後年のものだろう。 また話も、後の江戸時代になって『名残常盤記』というサギソウ伝説の物語に脚色されて出来上がったもののようだが、今も常盤塚をきれいに保っている地元の方がいらっしゃるのはありがたいことである。 こういう心を日本人は忘れてはならないと思う。

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塚は昭和58年に世田谷区の指定史跡になった。 塚の南にある駒留八幡神社はその物語から若宮八幡宮と呼ばれた。 胎児の霊を八幡宮に祀り、境内には常盤姫を祀る弁天もある。 そして当時奥沢城だった現在の九品仏にある浄真寺にはサギソウが群生している。

かつて常盤塚の石碑の脇には当時の松に替えて、桜の巨樹があったが、それも枯死し今は新しい桜の木が植えられている。

場所   世田谷区上馬5丁目30-19

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