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2019年1月30日 (水)

若林の墓所と計画道路(世田谷区若林)

淡島通りは若林陸橋を渡った先で道路が切れている。 もう何十年もここが淡島通りの終点である。 しかし計画道路と言うのは何十年経っても、事情が変わっても、役所の中では変わらないので、延伸計画はずっと進行している。 計画の実現が早いか、氷河期が始まって東京湾が干上がるのが早いか、競争していると言ったら大げさだろうか。

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そのどん詰まりの先にあるのは墓地。 墓石を見る限り根岸家の墓所のように見える。 根岸家というのは、この辺り若林の名家であったが、近年はほとんど名前を聞かない。 江戸時代は若林村、明治2年(1869)に品川県になり、明治6年(1873)には東京府となった。

当時の人口は232人、世帯数は46戸というのが若林村の規模。やがて明治22年(1889)になると池尻村、三宿村、太子堂村、若林村、下北沢村、代田村、経堂在家村、世田谷村の8村が合併して新しい世田谷村になった。その時の村役場がこの墓所のすぐ北側にある若林小学校の隣りであった。若林小学校は明治35年(1902)に太子堂から今の場所に移転してきた荏原尋常小学校が前身である。

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この墓所にはたくさんの石仏が並んでいる。 名前はないので墓石ではないようだ。 時代的には天和年間(1681~1684)、元禄年間(1688~1704)、宝永年間(1704~1711)、享保年間(1716~1736)、寛保年間(1741~1744)、寛政年間(1789~1801)の石仏があり、東京の都心近くにこんな風に残っている事自体奇跡的なものを感じた。

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時代の真ん中あたりが宝永年間というと、過去最後に富士山が大噴火した時代である。ということはこの石仏たちの半分近くは宝永大噴火の火山灰を被った経験を有しているということになるのだ。

江戸時代の根岸家は若林村の村役人を務めていたという記録がある。明治末期の辺りの資料を見ると、この辺りには小学生相手の文具店があり、根岸菊蔵という方のお宅だったようだ。 辺りでは根岸家は名主も務めたと伝わっている。また平成に入ってからも根岸家の方が町会長を務められたりしているようだが、墓所との関係は分からない。

昨今こういう歴史的に価値の高い史跡をなくしてしまう開発が多いので、ここはしっかりと歴史を掘り返して保存してほしいものだと思ってやまない。

場所  世田谷区若林5丁目37-17

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