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2019年1月30日 (水)

代沢滝坂道の地蔵(世田谷区代沢)

駒沢地蔵尊の西側の道路が目黒区と世田谷区の区境になっている。 ここから西へ僅か100m余りで再び地蔵堂がある。 堂宇に入っている石仏は二体、右の庚申塔は欠けていて年代不詳、塔型もわからないが、青面金剛像と三猿は確認できる。 左側の大きい地蔵立像はかなりの年代物のようだ。

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地蔵の向かって左前面に彫られている造立年は天和元年(1681)である。 駒場地蔵尊の古いほうの地蔵が1692年だったので、こっちの方が少し古い。駒場地蔵尊は目黒区と世田谷区の区境になっているが、江戸時代に遡っても同じ場所が上目黒村と下北沢村の村境だった。 そして滝坂道よりも南側一帯は、村域ではなく幕府の駒ヶ原御用屋敷で将軍の鷹狩場であった。

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世田谷区側の地蔵は規模では目黒区側の駒場地蔵尊に劣るが、こちらの地蔵も地元の人が丁寧に世話をされているのがよく分かる。 江戸時代の滝坂道を下北沢村に入って少し進むと北沢川の支流を渡る。 水路としては北沢川溝ヶ谷支流という名前だが、現在は川はなく地形の高低差と道に痕跡が残るだけである。

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淡島交番前という小さな交差点の横断歩道の北側にある歯医者さんの脇に細路地がある。 舗装もされていない。 これが溝ヶ谷支流の痕跡である。 この辺りの民間伝承に「ヤマメの恩返し」という話がある。(以下は『ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・代田・大原・羽根木)』に掲載されている民話の引用)

今の代沢2丁目2~3番地辺りは明治の頃は下北沢村字「会の辻」と称され、ここに南北に長い大きな池があった。 池に流れ込む小川の上流が「池の上」で、池の南端が「池尻」である。 この池に長さ1尺余りの大きな魚が一尾いた。滅多に水面に姿を見せず、たまに見かけた人は山女魚に似ていたと言う。松之助は日頃父から、「あれは池の主だからいじめたりしてはならん」と戒められていた。

淡島のお灸(*後記参照)が行われた夏の日のこと、東京の人が淡島通りと森厳寺の間を三々五々行来していた。松之助がいもうとのふみをおんぶしていると、浴衣姿の若い衆二人が池に石を投げつけたり笹竹を突っ込んだりしていた。 近づいてみると大山女魚を見かけたので行方を捜しているようだ。

「大きな魚は池の主だからいじめちゃいけないんだよ」 と松之助がたしなめると、一人が、「何だと!このガキ!」と言うなり、顔を殴りつけ、松之助が転んだ途端、ふみが大声で泣きだした。若い衆は泣き声に慌てて、淡島通りへ去っていった。

その夜、松之助は池の主の夢を見た。 山女魚の顔が近づいてきて囁いた。

「今日は助けてくれてありがとう。あそこも棲みにくくなったので近く北沢川の水底の洞穴に移る。 秋に大水が出てこの辺一帯が水浸しになる。その時に…」

翌朝飯を食いながら松之助が父に夢の話をした。 父が村人に大水を予告したので、何十年ぶりと言われた北沢川の氾濫の時もこの村の被害は少なくで済んだという。

*淡島のお灸: 江戸時代初期の慶長13年(1608)に森厳寺が開山、境内には初代住職清誉上人(セイヨショウニン)が勧請した淡島明神が祀られた。 ここで淡島の灸というお灸が始まりご利益があると大流行、お灸のために人々が二日三日も順番を待つほどだった。

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東京の渋谷と下北沢の間に伝わる明治の話で尺ヤマメというのも驚きだが、私たちが何も考えず暮らしている東京の街もつい100年前には山里と変わりない様子だったのである。

地蔵堂の向かいに利根川食品という面白い八百屋がある。たまに休んでいるが、その時に上のような張り紙がされていた。その下にある近所の方の付箋がまた洒落ている。 明治以前の粋な人々の息吹が感じられるようだった。

場所 世田谷区代沢1丁目2-4

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