淡島の厄除地蔵(世田谷区三宿)
渋谷から世田谷区若林の間のバス通りを淡島通りと呼ぶ。 この通りは古道滝坂道にほぼ沿っている。徳川家康が江戸にやってきて五街道を整備するのだが、それ以前から当然道はあった。中世以前は府中が武蔵国の国府で、江戸と府中を結ぶ道のひとつがこの滝坂道だった。江戸時代には甲州街道に繋がる道で「甲州道中出道」と呼ばれたが、調布の滝坂で甲州街道と合流したので「滝坂道」とも呼ばれていた。
写真は渋谷から2.5㎞程西進した淡島交差点近くで、旧道筋が分離するところ。 街道歩きはこういう分岐を見つけて、旧道筋で昔の痕跡を探すことが楽しみのひとつでもある。 この先で北沢川の暗渠と交差するが、そこにあった橋が「大石橋」。旧道脇に大正3年(1914)の親柱が残っている。 大正期まではこのすぐ下流には江戸時代から続く水車小屋もあった。
かつてここに流れていた北沢川(北沢用水)は水量の多い流れで、天明年間(1780年代)まで橋も架かっていなかった。 たまたま通りかかった藤助と名乗る行者が、村人の難渋を見かねて橋を架けようと言い出し、自らのお金に加え当時の代田村名主から寄附を受けたりして天明9年(1789)ここに橋を架けた。 行者は橋が完成するとまた旅立ってしまったという。 この大石橋の10mほど先の辻に地蔵堂がある。
堂宇の中には庚申塔と厄除地蔵があるが、この地蔵が墓石のような立方体の石。 これは珍しいが、かつては地蔵だったと思われる。 代田村の言い伝えによると、代田村には東西南北4つの厄除地蔵があり、ここは東向き地蔵で村の境を守っていたという。 南向地蔵と西向地蔵は世田谷代田駅近くの円乗院に移設保存されている。 北向地蔵は代田橋駅近くに現存するが、ここにあった東向地蔵は残念ながら戦災で破壊されてしまったという。 現在の石柱は戦後作られた名残りの石柱なのである。
堂宇の外にある右手の「日本廻國供養之石塔」は、代田村の村人たちが前述の藤助という行者への感謝と旅の安全を願って建てた石塔で、もとは天明年間((1781~1789)に建てられた。昭和になって戦災で失われてしまったが戦後ここに復活したもの、 天明の年号が入っているのは、大石橋の言い伝えの年代を表している。現在の塔は昭和27年(1952)の再建である。可能性としては天明2年(1782)が最も高い。
また左手には三界萬霊塔があるが、この由緒は分からない。ただ、三界萬霊というのは仏教の輪廻転生に関わる言葉で、欲界・色界・無色界を表す。 欲界(ヨッカイ)とは本能的な欲望が強い物欲の世界、色界(シキカイ)は形質だけの世界で、欲望は解脱したもののまだ形には捉われている段階、無色界(ムシキカイ)は欲望も物質も超えた精神世界というとされる。代田村の光明真言講中、庚申講中、女中念仏講中が協力して建てたもの。この塔の造立年は不明だが、左面に壬寅年とあるので、1722年、1782年、1842年のどれかであろう。
無色界の中に「有頂天」という状態があり、我を忘れるほど精神が高まった状態をいうらしいが、ここまではまだ人間界のことで、三界を超越したところに仏の世界があると言われている。 とても到達できそうにもない。
場所 世田谷区三宿2丁目38 map
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コメント
「天明年間(1780年代)まで橋も架かっていなかった」との参考文献は何になりますでしょうか。探してますが今のところ見当たりません。ご教示頂けますとありがたいです。
投稿: かが | 2024年9月 9日 (月) 00時14分
かがさん、コメントありがとうございます。データソースですが、世田谷区で出版している『ふるさと世田谷を語るー代田・北沢・代沢・大原・羽根木ー』の代田・代沢の章にあります。堂宇脇の回国供養塔の由緒も書かれていました。
これからもお読みいただけると幸いです。
投稿: ぼのぼのぶろぐ管理人 | 2024年9月 9日 (月) 12時11分