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2019年1月15日 (火)

柳橋(神田川、中央区東日本橋/台東区柳橋)

神田川の最上流は井の頭公園の水門橋、最下流は隅田川に合流する直前の柳橋である。 神田川が隅田川に注ぐ場所として最初は「川口出口の橋」と呼ばれた。 また近くに幕府の矢倉があったので、矢の倉橋・矢之城橋などとも呼ばれたという。 最初に橋が架けられたのは元禄11年(1698)だが、まもなく江戸時代中期正徳年間(1711~1715)頃には柳橋という名前が定着した。 定説では橋のほとりに柳の木があったからとされている。

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その後明治28年(1895)に鉄橋に架け替えられたが、関東大震災で落橋してしまった。 現在の橋は昭和4年(1929)のもの。 それでも90年経過している。 この妖艶な曲線は戦前のものだと最初に感じたが、果たしてその通りであった。 永代橋に似ていると思ったら、やはり永代橋のコピーとしてデザインされたものだった。 しかし永代橋など隅田川の橋が総崩れになっただけでなく、この柳橋のような小さめの橋まで崩れるとは、関東大震災がとんでもない地震だったことを再認識させられる。

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柳橋から上流にかけて数多くの屋形船が停泊している。 船宿もいくつかある。 柳橋脇にあるのは小松屋。 創業は昭和2年とあるが、実は明治15年に船宿として開業したという記録もある。 この辺りには江戸時代からたくさんの船宿があった。 粋な江戸っ子はこの辺りで船をチャーターし、宴会をしながら隅田川を上る。 やがて待乳山昇天の山谷掘に入り、日本堤から大門をくぐり吉原に入っていった。 この辺りで船に乗るのは、今でいえば修学旅行のバスに乗り込む直前の学生のようなものだったろう。

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上の写真は、上流の浅草橋から柳橋を望んだもの。 今もたくさんの屋形船がある。 ここの屋形船は橋が低いので、屋根が低く作られている。 川船と橋の高さは常に相反するのである。

江戸末期には、幕府の天保の改革などで岡場所が限られてしまい、柳橋に芸妓らが集まり一大花街を形成した。 明治になると、後発の新橋と東京の二大花街と言われるようになった。 その後関東大震災や戦争を乗り越えては復活した花街だったが、江戸の粋も21世紀になる前にはその灯を消してしまった。 それでもまだこれだけの屋形船が並ぶと風情ある景色に感じられる。 

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