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2019年1月 7日 (月)

日本橋(中央区日本橋/日本橋室町)

地形のキワ(際)にはいろいろなものがある。 坂道がそうだったし、海岸も、川も地形のキワである。 台地と低地を結ぶものが坂道ならば、此岸と彼岸を結ぶものは橋である。 人生最難関の橋はきっと三途の川に架かる橋かもしれない。いずれにせよ、橋には向こう側とこっち側の関係が少なからずあるものだ。

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最初の橋は迷うことなく日本橋。 大阪にも日本橋という場所があるが、あちらは「にっぽんばし」と発音する。 江戸の日本橋は「にほんばし」であることは言うまでもない。大阪の日本橋は道頓堀川に架かる。 江戸の日本橋は・・・と書いて、川名に困ってしまった。 現在の川名は日本橋川である。 川になったと言えるのは明治33年(1900)に江戸時代には埋め立てられていた、飯田橋から西神田までが再び水流を取り戻し外濠川として復活した。

正式に日本橋川になったのは昭和39年(1964)である。 八重洲口から北へ行くと「呉服橋」という交差点がある。その北側には一石橋という本物の橋がある。さらにその北側には復元工事中で当初は2019年完成予定だったが、難しそうな感じもあった。この三つの橋の真ん中に濠の十字路があり、西には道三堀が江戸城に向かって繋がっていた。

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この濠の十字路は江戸城側の武家の町と反対側の町人の町の境でもあったのだが、その東側に日本橋がある。 だから日本橋は町人の町である。 江戸時代は一石橋の東が日本橋。 日本橋は東海道五十三次の起点でもあるが、江戸時代の決まりでは五街道の起点でもあった。 ここから中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道もスタートしていたのである。

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現在も日本橋の車道の真ん中には道路元標がある。 歩道にあるのはそのレプリカである。 この日本橋沿いの室町側は江戸時代の魚市場(魚河岸)。 当初は家康が大阪から連れてきた佃島の漁師が中心になって市を開き、すぐにあちこちの魚がここに集まるようになった。 江戸で最も賑わった街だったようだ。

しかし大正12年(1923)の関東大震災以降は築地に移り、東京都中央卸売市場となった。主な理由は舟運から鉄道への移り変わりである。日本橋魚河岸は底の平たい平田舟で魚を運んでいたが、大正から昭和にかけては鉄道乗入れが可能な築地が主役となったのである。それが昨年2018年に豊洲に移ったわけだが、築地から豊洲に変わってどれくらい流通のメリットがあるのかはいささか疑問である。まして、最新設備などはすぐに古くなるものだ。 さて、50年後の豊洲がどうなっているか、おそらく日本はもっと産直を考えた方がいいだろう。 全国の市場が活況を呈した方が、国全体の経済は必ず良くなると思う。

という訳で、橋の最初は日本橋だが、あまり日本橋そのものを深く書いていないので、いずれ「さらに日本橋」なんて表題で追記するのかもしれない。

(2018/1/7)

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