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2019年2月28日 (木)

若林小学校前の庚申塔(世田谷区若林)

若林小学校は淡島通りが途切れるあたりにあるが、元々この地は若林村の中心で若林本村と呼ばれた場所。 小学校の北側を東西に滝坂道が走り、南側は滝坂道から分かれて上町や宮の坂へ向かう古い道筋である。 また小学校の東側を南北に走る通りも古道で、甲州街道と大山詣での厚木街道を結ぶ主要道であった。

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堂宇には2基の庚申塔が祀られている。 小学校の南西角の向かい側になる。 南北の古道と上町・宮の坂への道のの交差点に位置する。 右側の方が古く寛保元年(1741)の青面金剛像、駒型。 左の方は宝暦14年(1764)で、いずれも下に三猿がある。

右の庚申塔は願主了元井上久兵衛とあるが、明治時代にはこの辺りに井上家はない。左の庚申塔は村の講中で根岸氏が中心になって建てたように書かれている。

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江戸時代の半ばにはこの辺りの村は幕府の鷹場に指定されて禁漁区となり、さらに高井戸宿の助郷村となりかなり苦しい労役を強いられたという。 しかし明治以降は、烏山用水が周りの田んぼを潤して豊かな村になった。 小学校の北隣には若林村の村役場も建ち、賑わった辻だったのだろう。

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2019年2月26日 (火)

道玄坂地蔵尊と弘法湯碑(渋谷区円山町)

渋谷は俗の街である。 江戸時代から身分の高い者(武家など)は台地に住み、身分の低い者(町民など)は低地に住んだ。 とりわけ窪地や湿地の周りには岡場所(非公認の売春宿)が発達した。 おそらくは人間のもつ自然なものがそうさせるのだと思う。

上野や浅草は聖なるものに寄り添う俗だったが、渋谷は俗の吹き溜まりのような街として現代に至っている。 現在の駅の再開発をもってしてもおそらくは変わらないだろう。 そんな中で俗の斜面である円山町には幾多のラブホテルがある。 ところが聖なるものの傍に俗が集まるように、俗が集まった場所には聖なるものが出来ることもある。 その辺りはとても人間臭くて良い。

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ラブホテル街を神泉駅に向かって進むと路地裏に竹垣に囲まれた地蔵がある。 道玄坂地蔵尊と呼ばれている。 造立年は宝永3年(1706)で、当時は大山街道にあった。 場所は現在の地から一本表通りに出たところになる。 道玄坂上の交番の辺りだ。 当時は豊沢地蔵と呼ばれた。

明治時代までその場所は大山街道(厚木街道)と滝坂道の分岐点だった。 地蔵は戦後、現在の場所に移設された。 二度の火事で最初の地蔵本体は焼けてしまったが、その一部を今の地蔵の中に封じてあるそうだ。 焼けても滅しないので火伏地蔵とも呼ばれる。

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そしてこの場所は1997年に東電OL殺人事件のあった場所に近く、その被害者は裏家業でここに居たと言われているが、真偽のほどは分からない。 犯人とされたネパール人男性は後に冤罪が判明し釈放された。 しかし真犯人はいまだに分からない迷宮入りの事件である。警察の冤罪事件は相当数に上っているのに可視化が遅れているのは国民として恥ずかしい。

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地蔵から少し南西に行ったところに渋谷らしからぬ石塔がある。 明治19年(1886)に建てられた弘法湯碑(神泉湯碑)である。 ラブホテル街から神泉駅へは崖を下りるように階段が沢山ある。 かつては神泉谷(シンセンガヤツ)と呼ばれていた窪地で、豊富な湧水がありそれを利用した湯治の施設が出来た。江戸時代には旧豊沢村の共同湯となり、大山詣でや富士講登山をする旅人が利用した。明治になり昭和になっても銭湯は続いたが1976年に閉鎖、マンションに代わった。

ここから井の頭線踏切を越えて進んだところに温浴施設爆発事故(2007)松涛シエスパの場所がある。 道玄坂は昔も今もいろんなことが起こる場所である。

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2019年2月25日 (月)

津の守弁財天(新宿区荒木町)

東京のディープなエリアは徐々に消えていきつつある。 やれグローバルだの、東京オリンピックだのと盛り上がり、軽率早計な判断で再開発が進み、ひとつまたひとつと消えていく。 そんな中で多くの人が認めているディープエリアの一つが四谷荒木町である。 人口減少時代、新しいものを作り続けるのは、人の歴史を自転車操業にしてしまい、止まったらコケるものに変えてしまうことに他ならない。 今目にしているものにしか興味がない文化など文化ではない。 先達が何世代にもわたって築き上げたものを大切にして、質を高めることが文化なのである。

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東京スリバチ学会なるものがあり、代表の皆川氏がここを第一級のスリバチとしている。 なんとも不思議な地形で、四谷三丁目の裏にぽっかりと空いた穴のような場所。 ここは周辺よりも標高で10m以上低くなっている。 その底にあるのが策の池で、底に祀られるのが津の守弁財天である。

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策の池と書いてムチノイケと読む。 江戸時代初期、まだこの辺りには民家も少なく、鷹狩りの時に徳川家康がこの辺りの井戸で策(鞭の意)を洗った。 当時この池には高さ4mの湧水の滝があり、それ以降「策の池」と呼ばれるようになった。

天和3年(1683)になり、岐阜県美濃高須藩の松平摂津守がここに上屋敷を拝領、明治になってからは住民に開放された。 住民はそれ以降ずっとこの窪地の弁天様を津の守弁財天と呼んで親しんだ。

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今は直径数mの池だが、かつては長さが100mを超える広さがあった。 聖なるものの傍には俗が集まるという定石の通り、周りには花街が広がって賑わった。 当時、池の周りの花街と言えば新宿十二社、上野不忍池、井の頭池があったが、それに匹敵するものだったようである。

この窪地の北側で江戸時代の暗渠が発見されている。 外濠に注ぐ紅葉川の支流だったが、この北側の地形がどう見てもダムである。江戸以前にダムを築いたのか、あるいは崩れてダムになったのか、前者が定説のようだが、江戸初期以前の詳細な地図が存在しないので正確には分からない。 下記の資料に書かれている暗渠の発見はそれに関連したもので、極めて興味深いものである。..

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資料: 松平摂津守上屋敷跡下水暗渠(江戸東京土木遺産)

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2019年2月22日 (金)

多武峯内藤神社と駿馬塚(新宿区内藤町)

江戸時代の新宿御苑は、長野県信州高遠藩内藤氏の下屋敷であった。 広さは67,000坪。これは現在の市ヶ谷防衛省の敷地7万坪の徳川御三家尾張名古屋藩屋敷に匹敵する広さだが、尾張名古屋藩は62万坪であるのに対して、内藤氏は3万石余りと20倍の差がある。にもかかわらずこれだけの屋敷を持つことが出来たのには理由がある。

内藤氏は関ヶ原の戦い以前から徳川に仕えていた。 秀吉に江戸に追いやられた家康に付随して江戸に内藤家の二代目清成もやってきた。 家康が鷹狩りに新宿辺りにやってきた時に、内藤に、「この辺りを馬で一周してみろ。その土地はすべてお前にやろう。」と言い出した。 内藤清成は四谷、千駄ヶ谷、代々木、大久保を回った。 力を使い果たした愛馬は命尽きてしまったが、家康は内藤家にこの敷地を与えたという。

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その内藤家が勧請して立てられたのが多武峯内藤神社。 主祭神は藤原鎌足なので、奈良の春日神社からいくつかの祭神を勧請している。 もとは現在の新宿御苑内にあったが、明治19年(1886)に今の地に移転した。

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本殿の東側に駿馬塚がある。 内藤清成は屋敷を与えてくれた愛馬を大きな樫の下に埋めて弔ったが、後の内藤家の森林管理役たちが文化13年(1816)にその樫の木の下に塚を作り駿馬の碑を建てた。 この駿馬塚は明治5年(1872)に現在の場所に移されているので、駿馬塚が先に動き、14年後に本殿が移転したことになる。 藤原鎌足には悪いが、駿馬が主役なのである。

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内藤屋敷の場所は江戸にとって極めて重要な場所にある。 その北西角には玉川上水の引込みの四谷大木戸があった。 神田上水では不足した江戸の水道を、玉川上水が大きくカバーし江戸100万人都市の礎となった。 実際の位置はもう少し四谷寄りの四谷四丁目交差点辺りだったようだ。

四谷四丁目の交差点に今もあるビルから、アイドルの岡田有希子さんが飛び降り自殺をしたことを覚えている方も多いだろう。 この交差点に来るたびにそれを思い出す。

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江戸時代の玉川上水の水量はとても多く、昭和に入っても太宰治が入水自殺できるほどの水量があったことは今思えば驚きではあるが、100万人分の水道ということを考えればそれくらい水量がないとだめだろう。

江戸時代の水道は大木戸から都心は木管の暗渠になっていた。 しかし大木戸手前であふれた水は開渠の状態で内藤家の敷地内を流れ、玉川上水余水路を通って青山方面に流されていた。 その開渠跡が今もまだかなりの距離で残っている。 明治になってここで水車を使ってこの水を利用したのが、日本最初の鉛筆工場であった真崎鉛筆だった。 真崎鉛筆は後に三菱鉛筆となった会社である。

上の写真の左側、水路が直角に折れてトンネルに入っていくところがあり、この先にも石の欄干が残っていて、街歩き趣味を煽るものがある。

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聖橋(千代田区神田駿河台/文京区湯島)

JR中央線御茶ノ水駅の聖橋口にあるのがその名の通り「聖橋」である。都心部の神田川に架かる橋の中でもっとも象徴的な橋。 南側が千代田区神田駿河台、北側が文京区湯島、そして南側にはニコライ聖堂、北側には湯島聖堂がある。

橋が架かったのは昭和2年(1927)で、関東大震災(1923)の復興橋の一つとして架けられた。 聖橋の名前は一般公募で付けられたそうである。 おそらく二つの聖堂を結ぶので聖橋という考えが多かったのだろう。 長さが92mの鉄筋コンクリートの近代的な橋である。

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仙台藩伊達家の天下普請で彫られた神田川(仙台堀)の水面近くを地下鉄丸ノ内線が渡り、川岸にはJR中央線と総武線が崖にへばりつくように走る。上の写真はホームの反対側にあるお茶の水橋の上からのもの。 上京した40余年前から気に入っている東京の風景だ。

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一方、上の写真は秋葉原寄りにある昌平橋から撮影したもの。この水路はクルーズ船が沢山通る。 神田川に限らず、東京を川から見るのはいたって面白いので、徐々にブームに火が付いた感がある。 欧州では、都会の川をクルージングするところが沢山ある。 人間という生き物は水があると心が落ち着くらしい。 みんな童心に帰って風景を眺めている。

現在JRはこの聖橋側の駅を人工地盤を設置して大きく変貌させようとしている。 個人的には今の姿が好きなので、ちょっと嫌な気がしている。 無理して作った重ね張りのインフラが都市の成長を描いていて、そこに街の息吹を感じるからだ。 これを現代的なもので覆うようにすると極めてつまらない街になる。 渋谷駅も同様だ。 やっていることは1964年の東京五輪で臭いものに全部蓋をした稚拙な日本人から何一つ進歩していない。

西洋の先進国はすでにそういう街の歴史を大切にした街づくりになっているが、日本は本当に学ばない国である。 建設による経済効果でどれほどの取り返しのつかないものをなくすのかを考える人間が、財界政界に居ないからである。彼らには自分の足で街を歩いて、自分で舟をこいで川面から街を見てもらいたい。 そうすれば少しはまともな考えを持った人間が現れるだろう。

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2019年2月21日 (木)

宿山の庚申塔(目黒区上目黒)

昭和50年代に中目黒に住んでいた。 目立たない街だが渋谷に近く、下北沢、三軒茶屋に準ずる若者文化の息吹のある街だった。 ところがEXILEブームあたりから中目黒は薄っぺらい街に変わってしまった。人間のエネルギーを感じられない、金儲けの臭いのする街に落ちてしまった感じがする(個人的な見解です)。

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江戸時代以前、東京には多くの鎌倉街道が走っていた。 その鎌倉街道の辻にあるのが上目黒の宿山の庚申塔である。 環状七号線の野沢龍雲寺から中目黒、代官山を経て現在の青山学院大学のところで大山街道にぶつかる道は、蛇崩から北上すると、この庚申塔群のところで東寄りに折れ、小川坂を下って中目黒に。 そしてこの道が目黒川を渡る橋が宿山橋である。

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数基の庚申塔が並んでいて、壊れているものもある。 その中でも右から2番目の庚申塔は古そうだ。 かなり風化が進んでいる角柱型青面金剛で三猿が1匹ずつ3面に掘られている珍しいタイプ。 造立は元禄5年(1692)とある。 もともと傘付きだったが落ちてしまったらしい。

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もっとも左のバス通り側にある舟型青面金剛の庚申塔は宝永5年(1708)の造立。 青面金剛の下に三猿の彫られたオーソドックスなものだが、結構な大きさがある。脇には力石が無造作に置かれている。

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実はいちばん保存状態の良い中央の地蔵が最も古く、延宝3年(1675)のもの。 目黒区では唯一の地蔵庚申だという。

宿山という地名は大正時代までの地名である。 ここから東側は烏森、その先の小高い丘は諏訪山、目黒川沿いに下ると小川という字名だった。 小川坂の由来は坂下の町名だが、その先の目黒川の橋が宿山橋というのが不思議である。

諏訪山は中目黒では代官山に勝るほどの高級住宅地。 地形からすると城跡なのではないかと推測しているが、記録はない。諏訪山は遺跡としては、縄文時代~弥生時代の竪穴式住居や環濠集落が出ているが、それ以降のものが記録に出てこない。されど目黒川の北側には渋谷金王神社に渋谷氏の渋谷城があったから、ここも渋谷氏の家来かあるいは太田道灌の家来が守りを固めていたのではないか、などと想像すると楽しい。

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2019年2月19日 (火)

地元稲荷神社前の庚申と地蔵(世田谷区桜丘)

拙宅から駅までの間に毎日のように通る道に地蔵と庚申塔群がある。 桜丘の稲荷森(トウカモリ)稲荷神社の玉垣の外にあり、地蔵は堂宇にあるが、庚申塔は外に置かれている。江戸時代はこの地域は経堂在家村といった。 しかし辺りは世田谷村横根との境で、神社前の道が村境。 稲荷神社は江戸時代の地図では、経堂在家村に食い込んだ特別な土地という扱いであった。
中世の頃は、武蔵国菅刈庄(ムサシノクニ スゲカリノショウ)という大きな荘園の一部だった。 歴史は古い土地である。 江戸時代に経堂在家村だった地域が今も経堂4丁目になっていて、千歳船橋駅前なのに住所が経堂という江戸時代の村名を引きずったままになっている。

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稲荷神社の玉垣の脇にある4基の庚申塔と1基の地蔵は、毎日近所の方が掃除して花を供え、小さな木なども植えられている。 何十年もあまり気にせずこの前を歩いていたが、歳と共にここで一礼をすることが増えた気がする。

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堂宇の地蔵菩薩の造立年は延宝4年(1676)と古いが、形はしっかりと保たれている。この辺りの名家に岡庭家があるが、この地蔵もそのご先祖が主となって立てたものらしい。
前の道路は江戸時代には黒駒裏街道(甲州裏街道)と呼ばれていた道で、南側には熊本肥後の細川家が戸越に抱屋敷を拝領した折に、玉川上水から分水して品川まで引いた品川用水も流れていた。 品川用水は1663~1664年に掘られているので、地蔵はその少し後の時代。 このあたりにも品川用水の恩恵があり人口も増えたのだろう。 品川用水は昭和20年代に埋め立てられ千歳通りに代わった。
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一番道路側の庚申塔は、正徳3年(1713)と刻まれている。 富士山の宝永噴火のすぐあとである。 傘付きの角柱型で青面金剛の下に三猿がある典型的な図柄のもの。
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二番目の庚申塔は、同じく青面金剛に三猿だがこちらは顔が少し強面に描かれている。 造立年は元文4年(1739)と少し後の時代になる。
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三基目は再び破風の形の傘が付いたもの。 このトンガリ帽子タイプと隣の不動明王タイプの青面金剛の違いは何だろうかと思うがよく分からない。 造立年は安永6年(1777)とさらに新しくなる。 新しいと言っても250年ほど昔である。
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最も奥にあるのが小さめの駒型だが、造立年は延宝7年(1679)と地蔵に次いで古いものだった。 綱吉の生類憐みの令が1687年だからその少し前である。
稲荷森稲荷神社の創建は不明だが、吉良氏の時代と伝えられるので、1300年代ではないだろうか。 毎日歩く道を、荘園時代、江戸時代、明治大正と、いろいろな村人が歩いていたことを想像するのもまた面白いものである。

 

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2019年2月18日 (月)

太子堂 円泉寺(世田谷区太子堂)

世田谷の三軒茶屋駅北側の地名を太子堂という。 この地名の起こりが円泉寺にある太子堂らしい。 円泉寺の草創は南北朝時代と言われるが、安土桃山時代末期の文禄4年(1595)に、賢惠(ケンケイ)という僧が、奈良の久米寺から聖徳太子像を懐に抱いて東国の旅に出て、この地に一泊したところ、夢に聖徳太子が現れて、この地にとどまるべしと告げたという。 賢惠はここ円泉寺を中興し、翌年には太子堂や本堂を再建した。

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太子堂は境内に入って右側の一段高いところにある。 しかし、この地域は南北朝時代から太子堂村という地名であったようだ。 草創時は太子堂が先にあり、後に本堂が建ったという説もある。

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江戸時代になると太子堂村は江戸へ野菜を供給する農村として発展し、庚申供養塔が立てられている。 山門前の通りは江戸時代以前の鎌倉道と言われており、ケヤキの巨木が並んでいるが、もっとも東側のケヤキの幹の空洞の中に庚申塔が収まっている。 巨樹の幹の庚申堂はなかなかの風格がある。

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右手の板碑型青面金剛像は寛文13年(1673)とあり、左板碑型青面金剛像三猿は延宝4年(1678)とある。  最初から欅の空洞にあったのか、後にここに配置したのかを考えてみたが、おそらく後者だろうと思われた。 後で寺のことを調べてみると、もとは門前に安置されていたのを、大欅を切ったのちに納めたということだった。

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境内に入って左側に、可愛い道祖神に囲まれて子育地蔵尊が堂宇に収まっている。 この地蔵尊は寛政3年(1791)の造立なので、庚申塔よりも100年以上も後だが、それでも200年以上も昔である。 縁日本尊として庶民信仰を受けていた地蔵尊だったが、昭和43年(1968)に三軒茶屋からここに移されたもの。玉川六地蔵の第四番らしいが、ここ以外の地蔵が不明。江戸時代にはあったのだろうか。

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子育地蔵の脇にあるのが六地蔵。 こちらは寛政11年(1799)の造立。 寺の墓地の入口には六地蔵を配置するところが多い。世田谷区の六地蔵では桜上水の密蔵院、深沢の医王寺、豪徳寺が1700年以前で古いものだが、ここは比較的新しいほうである。

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実はとても気になったのが社務所の前にある六面塔地蔵。 お寺には聞けなかったが、あまり多くあるものではない。 一塔で六地蔵と同じご利益があると考えられているのだろうか。 いちおう全国にあるようだが、資料が極めて少ない。

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2019年2月16日 (土)

目青不動尊 教学院(世田谷区太子堂)

東京の地名に目黒と目白があるが、江戸には江戸五色不動(府内五色不動)というものがあり、目黒は江戸以前から目黒だったので、由来ではないが、目白の地名はそれに由来するという説がある。五色不動とは、目黒、目白、目赤、目青、目黄の五つ。 寛永年間(1624~1643)に三代将軍徳川家光が上野寛永寺の天海大僧正の勧めで指定したと伝えられる。 江戸幕府は様々な結界に寺院を置いており、その中の一群が五色不動。

目黒はもちろん目黒不動、目白はもとは椿山荘近くにあった目白不動が今は宿坂の金乗院に移設されている。 目赤は本駒込の南谷寺、目青不動が三軒茶屋駅近くのこの教学院最勝寺である。 目黄不動は二つあり、江戸川区平井の最勝寺と台東区三ノ輪の永久寺だが、これらで江戸城をぐるっと囲むように配置されている。

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目青不動は三軒茶屋の世田谷線の駅わきの踏切の北側の側道を数十m西進すると入口になる。 目青不動は明治の初期まで麻布谷町(現在のアークヒルズ裏あたり)の観行寺にあったが、明治15年(1882)に青山の教学院に移された。 現在でいうと青山通りと外苑西通りの交差点近くである。 その後明治41年(1908)、教学院が青山から太子堂に移転になったため、目青不動も現在の地に移転した。 もちろん江戸城からの方向はほとんど変わっていない。

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仏像は、大きく分けて4つに分類される。 「如来」「菩薩」「明王」「天部」である。「如来」は苦行して悟りを開いた釈迦の姿を現し、「菩薩」は如来の境地に至ろうと努力している姿、「明王」は如来の化身で、「天部」は釈迦の家来がモデルと言われる。

不動明王は大日如来の化身で、火中から子供を救い出そうとしている親の必死の形相で、怖い顔だがよく見ると目が潤んでいるといわれる。背には火炎が伸びており、戦闘能力は相当高そうに見える。 撮影はできなかったが、拝顔すると右手に剣を立て鬼かと思うような形相である。

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教学院最勝寺の門前には3基の馬頭観音がある。 これらはどれも大正期以降のもので、よく読むと軍馬を弔っている。 そういえば三軒茶屋から池尻大橋にかけては北も南も長い間軍の施設だった。 この馬頭観音はその中でも近衛大隊の馬のもの。 ちょうど今の駒場東邦高校と筑波大学付属駒場高校の敷地に近衛大隊があった。

その他境内には元禄時代の仏塔などがあるが、本堂の教学院最勝寺は慶長9年(1604)に現在の皇居内に創建、後に赤坂TBS裏、青山と移転している。 目青不動尊を境内に配するようになったのは麻布谷町の観行寺が廃寺となったためだった。 それだけ古い寺なので、江戸時代中期のものがあるのだろう。

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2019年2月12日 (火)

目黒川の暗渠部分(世田谷区池尻)

目黒川は烏山川と北沢川という二つの支流を集めて天王洲アイルで東京湾に注ぐ独立河川である。 勿論この二つ以外にも目黒川には、蛇崩川、空川、谷戸前川、羅漢寺川などの支流がある。

目黒川のこの辺りには昔は水車が沢山あった。 代表的なのは加藤水車という水車で、その対岸にも進藤水車という水車があった(明治初期)。大山道があり、物資の輸送が容易で、農業、工業に役立っていたという。

目黒川は玉川通り(国道246号線)の大橋から上流が暗渠になっているが、そこから遡上すると650mで烏山川と北沢川の分岐点になる。 目黒川としてはこの650mだけが暗渠区間である。 暗渠区間のほとんどは目黒区ではなく世田谷区になる。

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ただし池尻大橋駅そばの看板は目黒区の設置、だから暗渠部分は描かれていない。 このみどりの散歩道の地図はこの場所から暗渠を上るのには全く役に立たない。

もちろん川に蓋をした状態なので、舗道のタイルの下には目黒川が流れている。 紛らわしいのは舗道に沿って親水設備があることだ。 これは新宿区の落合水再生センターできれいにした再生水を、代沢せせらぎ公園(北沢川暗渠)の地下にある施設でさらに浄化したものを流している。

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この再生水の流れには、鯉、オイカワなどが泳ぎ、カルガモやコサギがやってくる。 周辺の住民もにこやかに散歩している。 水辺があると人は穏やかになるものだ。 ただ、リスクのない水辺はゲームと変わらない。 子供のことを考えるとリスクがあって、それを学べる水辺が必要なのではないかと思う。

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やがて暗渠は東仲橋という橋の跡に差し掛かる。 東仲橋で暗渠と交差する道は古道で、厚木街道(大山道)の池尻と滝坂道の代田を結ぶ道。 大山道の一つ上流の橋がこの東仲橋であった。ちょうどこの橋の北側が急な河岸段丘になっていて、台地上に上るための長い階段がある。

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この河岸段丘は暗渠緑道から13m高い。 眺めがとてもいい。 江戸時代はこの台地はすべて徳川家の鷹狩のための駒ヶ原御用屋敷だった。家光らはここから目黒川流域を眺めて、楽しんでいたのかもしれない。

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東仲橋から100mほどで北沢川、烏山川の分岐点に到着する。 北沢川の源流は上北沢あたり、烏山川の源流は千歳烏山を越えて久我山手前の高源院の烏山の鴨池と言われる。もっとも北沢川も烏山川も多くの支流を集めているので、源流が沢山ある。 なかなかすべてを巡ることは難しい。

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2019年2月11日 (月)

龍泉寺目黒不動尊(目黒区下目黒)

江戸時代から江戸・東京の庶民に親しまれてきた龍泉寺(通称 目黒不動尊)。 町奉行の区域(朱引)まで特別扱いにされていたほどの寺院だったが、現在でもその特別感は十分にある。 まず路線バスが境内にまで細路地を入ってくるのに驚く。 バスは仁王門(山門)の前までやってくる。 お年寄りには親切な環境である。

目黒不動尊は天台宗の寺院。 大同3年(808)年に慈覚大師が創建したと伝えられる。 最澄が比叡山延暦寺を開いたのが788年、空海(弘法大師)が高野山を築いたのが819年だから、その間の出来事になる。 本尊が不動明王なので目黒不動尊と呼ばれる。 江戸時代になって、三代将軍家光の強力な支援を得て、江戸有数の寺院になった。

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江戸時代は大人気の日帰り行楽地としても賑わった。 大半の参詣者は行人坂を下って、遠方の富士山を愛でながら、太鼓橋で目黒川を渡り、目黒不動尊へと向かう。 それは帰り道でも同じで、行人坂を上り一息ついたところで振り返ると西日の富士が見える。

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上の浮世絵は広重の『江戸自慢三十六興』の「目黒行人坂富士」である。 江戸時代の人々はこんな景色が見られたのかと羨ましくなる。 目黒川以遠はほぼ緑に包まれた里山のような環境である。

病弱だった三代将軍家光は目黒不動に深く帰依したが、同時に江戸の街には五色不動という5ヶ所のお不動様が信仰の対象となった。 目黒、目赤、目青、目黄、目白である。この五不動の話はまた別の機会にしたい。

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龍泉寺の本道は急な男坂の階段を上った先にある。 その台地よりもさらに高くなった本堂は民間のあこがれを集めるのに十分な威厳を感じさせる。 裏手には大日如来像もあり、本堂を一周してお参りする。 龍泉寺には他にも様々な見どころがあり、それぞれを紹介するのは大変なので別の機会にしたい。

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別の見どころの中でも男坂の階段下から近い前不動堂は戦災を受けなかった貴重な建造物として重要だ。 概ね戦災で焼けてしまったのだが、この前不動堂と勢至堂は焼けていない。 この前不動堂と勢至堂は江戸時代中期のものである。 昭和44年に修復され、きれいに塗られているので古い感じはしないが、土台の石や木材の状況を見てみると時代を感じられる。

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意外と人気なのが男坂の階段下にある水かけ不動明王。 慈覚大師が独鈷で示したのがここの湧水で「独鈷の滝」と呼ばれた。 斜面の竜頭から何ヶ所か水が出ている。 かつてはこの湧水池と滝は行者の水垢離(ミズゴリ)場だった。 江戸末期にはあの西郷どん(西郷隆盛)が領主の島津斉彬の病気平癒を祈願してここで水垢離をしたという。 やはり水というのは昔から聖なるものなのである。

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行人坂と同じく安藤広重の『江戸自慢三十六興』の「目黒不動餅花」である。餅花というのは、不動尊の祭りの屋台で定番だったお菓子で子供への土産になっていた。 目黒不動周辺には花街がないので、おかみさんたちは安心して亭主を目黒不動にお参りに行かせたという。 しかしそこは江戸っ子、帰りに品川によって遊んで帰るという、騙し合いが面白おかしく伝えられたりしている。

しかしこの広重の浮世絵の女性はなぜこんなに大きいのだろう。 そこが気になって仕方がない。

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2019年2月10日 (日)

太鼓橋(目黒川、目黒区下目黒)

江戸時代の地図で「朱引」「墨引」という区分がある。 管理する「江戸」の範囲によって付けられたのだが、朱引というのが概ね寺社奉行の管理していた範囲で、墨引は町奉行の支配範囲となっている。 だいたい朱引のほうが外側で、町奉行の墨引はその内側であるが、目黒だけは異なっている。

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左下の出っ張りである。そこを拡大すると下のようになる。

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概ね目黒川を境に江戸の内と外に区分されるのだが、中目黒村と下目黒村だけが墨引に含まれている。 これはここに龍泉寺(目黒不動)があるためで、江戸っ子たちはこぞって目黒不動参りに行くのが、今でいうと千葉県浦安の東京ディズニーランドに行く感覚に似ていたようだ。 多くは江戸から行くので、そこまでは警察としての町奉行が管理するという発想なのだろう。

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目黒川から外へ出るのには太鼓橋という橋を渡った。 権之助坂が出来る以前は、行人坂を下り、この太鼓橋で目黒川を渡っていたのだが、行人坂があまりに急なので権之助が新しい坂を切り開いた。 江戸時代は権之助坂を「新坂」、その橋を「新橋」と呼んだ。 行人坂については、ブログでも以前に紹介している。 → 東京の坂 行人坂
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浮世絵は安藤広重の『名所江戸百景』の「目黒太鼓橋夕日の岡」である。左側が目黒駅で河岸段丘が見える。 この絵が描かれたのは安政4年(1857)だからまもなく明治維新という時代である。当時の雅叙園あたりはこんな感じだったはずだ。

太鼓橋は明和7年(1770)頃完成している。 宝暦14年(1764)に木喰上人が架橋に取り掛かり、江戸八丁堀の商人たちが支援して6年越しで橋が完成した。 この橋は江戸で初めての石橋で、橋脚を立てず両側から石を積んでアーチ型にして支えるという西洋的な方法だった。 当時長崎の眼鏡橋など、西洋や中国の技術が鎖国の中でも入ってきて国内に広まったという。 目黒不動への参詣客が数多往来する道筋にこの橋はさらに集客効果があっただろう。 その結果広重の『名所江戸百景』に描かれることになったのだから。

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今の橋はまことに味気ない。 もう少し何とかならなかったかと思われてならない。 それでも橋の西側から見上げると河岸段丘を感じられる。 森に見えるのは雅叙園と大円寺の樹木のおかげである。

行人坂は大円寺が火元になった江戸三大火事のひとつ「行人坂火事」が歌舞伎などで有名である。 雅叙園の入口にお七の井戸が残されているが、江戸のあちこちにお七の話が転がっているのでほとんどが創作話である。 白山の円乗寺にもお七の墓がある。

しかしここの大円寺は火元ということで76年間も再建を許されなかったという史実もあるので、お七の大円寺がここということは間違いないだろう。

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大橋(目黒川、目黒区玉川通り)

玉川通り(国道246号線)が目黒川を渡る橋を大橋という。 最寄駅が東急田園都市線の池尻大橋である。玉川通りはかつての厚木街道。 江戸と厚木(大山)を結ぶ街道として多くの大山詣での人々で賑わった。 現在は首都高速に覆われた国道246号線が片側数車線で南北を分断する形になっているが、大橋の辺りは目黒川の氾濫でたびたび川筋が変わっているので、旧道は今の玉川通りではない区間が多い。

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地図は関東大震災前の大橋の周辺である。 この時にはすでに玉電を通すために直線的に道が通っているが昭和30年代までは片側1車線+軌道の狭い道だった。また目黒川の流程は現在とはかなり異なっている。地図の北側にあるのは駒場の陸軍、そして目黒川の南側は駒沢練兵場で、陸軍一色の街だった。昭和30年代になると、北側の陸軍大隊は警察(機動隊)や学校、病院になった。 南側はしばらくの間防衛庁が占拠していた。

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現在の大橋はいつ渡ったのかも分からないような状態になっている。頭上には大橋ジャンクションがあり、昼なお暗い。 ここは首都高でも有数の渋滞ポイントになってしまった。 全体計画を欠いた状態でパッチワークのように開通させても渋滞は永遠になくならないだろう。

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その大橋から上流の目黒川は完全暗渠になる。 ここから下流は河口の天王洲アイルまで開渠で、両脇に植えられたソメイヨシノが近年になって東京でも千鳥ヶ淵に並ぶ桜の名所になった。

私が中目黒に住んでいた1970年代は川沿いの桜はほとんど知られていなかった。 他にもっといい桜並木は五万とあるのになぜ目黒川がもてはやされるのかが分からない。 ただ、歩いて感じるのは、いろんな飲食店があって花見客の財布からお金を抜き出そうとしのぎを削っている。 商売になるからPRされる。 そうすると単純な花見客はすぐに寄ってくる。 金が落ちる。 さらに宣伝になる。 という循環ではないだろうか。
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大橋から上流は暗渠上の親水公園になっている。 水は落合水再生センターからの供給で、目黒川とは無関係の水である。 昔の目黒川はどこにもない。

『新編武蔵風土記稿』には、「大橋、目黒川に架す。土橋にて長さ七間、幅九尺、此の橋の傍らに水車在り。文化年中、村民勘右衛門と云う者願い上げて作れり。」とある。したがって江戸時代は川幅(橋長)12.7m、道幅2.7mの土でできた橋だったということになる。 洪水の度に流されて付け替えられたのだろう。 また水車は大正時代まであったようだ。

この大橋がちゃんとした鋼橋になった記録は昭和に入ってからである。 となるとそれ以前の明治40年に三軒茶屋まで玉電が開通した時はどうやって目黒川を渡していたのだろうか。 普通のコンクリート橋だったのだろうと考えている。

またこんな小さな橋を大橋と呼んだのは、かつての厚木街道の時代、大坂を下った先にある目黒川の橋は大坂の下の橋ということで大坂とセットで名付けられたという説がある。ただ 多摩川までの区間でもっとも大きな橋ではあっただろうから、地元の人々にとっては大橋だったのかもしれない。

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2019年2月 9日 (土)

千住大橋(荒川区南千住/足立区千住橋戸町)

徳川家康が江戸入城して隅田川に最初に架けられた橋が千住大橋である。 以降、江戸には350以上の橋が架けられてきたと言われる。 それだけ江戸には水路を整備したということにもなる。 その中でも隅田川に最初に架けられた千住大橋の意味合いは特別だ。
当時当然多摩川には橋はない。 もちろん昭和になって完成した荒川もない。 今の荒川は隅田川の放水路として赤羽から人工的に掘られた河川である。 隅田川は当時は荒川と呼ばれていた。 江戸の防御を考えると橋は架けない方がいい。 しかし街道を整備するのに、ここは日光街道、奥羽街道、水戸街道の要なので、渡しでは対応できなかった。
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最初の橋であったので江戸市民は単純に「大橋」と呼んだ。 そのために今の橋のプレートも「大橋」と書かれている。 両国橋などは落橋して大惨事になったが、千住大橋は文禄3年(1594)に架けられてから、明治18年(1885)まで一度も流失しなかったのはすごいことである。 もちろんその間に改修や補修は何度も行われている。
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橋の南にある荒川ふるさと文化館にある模型が江戸初期の様子を伝えてくれる。 木橋としては異常なほどの長寿命。 この橋を架けたのは伊奈備前守忠次で、彼は徳川家康に命じられて江戸周辺の大きな川の治水工事を行った。 東京湾に注いでいた利根川を、銚子方面に付け替えたのも彼の事業。 神田上水を開発した大久保主水と合わせて、江戸の街を作った主役である。 大橋の材には水腐れに強いイヌマキ(高野槙)の巨材を用いたりという工夫もあったようだ。 昔の工事レベルは本当に感心するものが多い。 ちなみに資材調達は伊達政宗が行った。
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今の鉄の橋は昭和2年(1927)に架けられた近代的なアーチ式の鋼橋で、イヌマキの橋杭はこの時まで使われたようだ。 元の木橋があまりに凄いので存在が霞みがちだが、この鋼橋も橋脚のない橋でなかなかの土木技術だと思われる。
松尾芭蕉の『奥の細道』もこの橋が旅立ちの地である。 北千住側に「奥の細道 矢立初めの地」という石碑がある。 ここから先は別世界というのはつい150年前の話。 江戸と東京はそれほど違う。
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橋の下に潜れるようになっている。 千住小橋という橋があって、そこにはここに浮く3つのブイの話が書かれていた。 このブイは木橋時代の橋杭がその下に埋まっていることを示している。 上を歩く人にはまったく気づかれないが、千住大橋にはたくさんの痕跡、史跡があって興味深い。
おそらく千住大橋について調べられることをまとめようとすると1冊の本になりかねないほどの橋であるが、その道の専門家ではないので、ここらへんで。

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