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2019年2月10日 (日)

太鼓橋(目黒川、目黒区下目黒)

江戸時代の地図で「朱引」「墨引」という区分がある。 管理する「江戸」の範囲によって付けられたのだが、朱引というのが概ね寺社奉行の管理していた範囲で、墨引は町奉行の支配範囲となっている。 だいたい朱引のほうが外側で、町奉行の墨引はその内側であるが、目黒だけは異なっている。

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左下の出っ張りである。そこを拡大すると下のようになる。

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概ね目黒川を境に江戸の内と外に区分されるのだが、中目黒村と下目黒村だけが墨引に含まれている。 これはここに龍泉寺(目黒不動)があるためで、江戸っ子たちはこぞって目黒不動参りに行くのが、今でいうと千葉県浦安の東京ディズニーランドに行く感覚に似ていたようだ。 多くは江戸から行くので、そこまでは警察としての町奉行が管理するという発想なのだろう。

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目黒川から外へ出るのには太鼓橋という橋を渡った。 権之助坂が出来る以前は、行人坂を下り、この太鼓橋で目黒川を渡っていたのだが、行人坂があまりに急なので権之助が新しい坂を切り開いた。 江戸時代は権之助坂を「新坂」、その橋を「新橋」と呼んだ。 行人坂については、ブログでも以前に紹介している。 → 東京の坂 行人坂
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浮世絵は安藤広重の『名所江戸百景』の「目黒太鼓橋夕日の岡」である。左側が目黒駅で河岸段丘が見える。 この絵が描かれたのは安政4年(1857)だからまもなく明治維新という時代である。当時の雅叙園あたりはこんな感じだったはずだ。

太鼓橋は明和7年(1770)頃完成している。 宝暦14年(1764)に木喰上人が架橋に取り掛かり、江戸八丁堀の商人たちが支援して6年越しで橋が完成した。 この橋は江戸で初めての石橋で、橋脚を立てず両側から石を積んでアーチ型にして支えるという西洋的な方法だった。 当時長崎の眼鏡橋など、西洋や中国の技術が鎖国の中でも入ってきて国内に広まったという。 目黒不動への参詣客が数多往来する道筋にこの橋はさらに集客効果があっただろう。 その結果広重の『名所江戸百景』に描かれることになったのだから。

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今の橋はまことに味気ない。 もう少し何とかならなかったかと思われてならない。 それでも橋の西側から見上げると河岸段丘を感じられる。 森に見えるのは雅叙園と大円寺の樹木のおかげである。

行人坂は大円寺が火元になった江戸三大火事のひとつ「行人坂火事」が歌舞伎などで有名である。 雅叙園の入口にお七の井戸が残されているが、江戸のあちこちにお七の話が転がっているのでほとんどが創作話である。 白山の円乗寺にもお七の墓がある。

しかしここの大円寺は火元ということで76年間も再建を許されなかったという史実もあるので、お七の大円寺がここということは間違いないだろう。

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