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2019年2月18日 (月)

太子堂 円泉寺(世田谷区太子堂)

世田谷の三軒茶屋駅北側の地名を太子堂という。 この地名の起こりが円泉寺にある太子堂らしい。 円泉寺の草創は南北朝時代と言われるが、安土桃山時代末期の文禄4年(1595)に、賢惠(ケンケイ)という僧が、奈良の久米寺から聖徳太子像を懐に抱いて東国の旅に出て、この地に一泊したところ、夢に聖徳太子が現れて、この地にとどまるべしと告げたという。 賢惠はここ円泉寺を中興し、翌年には太子堂や本堂を再建した。

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太子堂は境内に入って右側の一段高いところにある。 しかし、この地域は南北朝時代から太子堂村という地名であったようだ。 草創時は太子堂が先にあり、後に本堂が建ったという説もある。

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江戸時代になると太子堂村は江戸へ野菜を供給する農村として発展し、庚申供養塔が立てられている。 山門前の通りは江戸時代以前の鎌倉道と言われており、ケヤキの巨木が並んでいるが、もっとも東側のケヤキの幹の空洞の中に庚申塔が収まっている。 巨樹の幹の庚申堂はなかなかの風格がある。

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右手の板碑型青面金剛像は寛文13年(1673)とあり、左板碑型青面金剛像三猿は延宝4年(1678)とある。  最初から欅の空洞にあったのか、後にここに配置したのかを考えてみたが、おそらく後者だろうと思われた。 後で寺のことを調べてみると、もとは門前に安置されていたのを、大欅を切ったのちに納めたということだった。

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境内に入って左側に、可愛い道祖神に囲まれて子育地蔵尊が堂宇に収まっている。 この地蔵尊は寛政3年(1791)の造立なので、庚申塔よりも100年以上も後だが、それでも200年以上も昔である。 縁日本尊として庶民信仰を受けていた地蔵尊だったが、昭和43年(1968)に三軒茶屋からここに移されたもの。玉川六地蔵の第四番らしいが、ここ以外の地蔵が不明。江戸時代にはあったのだろうか。

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子育地蔵の脇にあるのが六地蔵。 こちらは寛政11年(1799)の造立。 寺の墓地の入口には六地蔵を配置するところが多い。世田谷区の六地蔵では桜上水の密蔵院、深沢の医王寺、豪徳寺が1700年以前で古いものだが、ここは比較的新しいほうである。

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実はとても気になったのが社務所の前にある六面塔地蔵。 お寺には聞けなかったが、あまり多くあるものではない。 一塔で六地蔵と同じご利益があると考えられているのだろうか。 いちおう全国にあるようだが、資料が極めて少ない。

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