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2019年2月22日 (金)

多武峯内藤神社と駿馬塚(新宿区内藤町)

江戸時代の新宿御苑は、長野県信州高遠藩内藤氏の下屋敷であった。 広さは67,000坪。これは現在の市ヶ谷防衛省の敷地7万坪の徳川御三家尾張名古屋藩屋敷に匹敵する広さだが、尾張名古屋藩は62万坪であるのに対して、内藤氏は3万石余りと20倍の差がある。にもかかわらずこれだけの屋敷を持つことが出来たのには理由がある。

内藤氏は関ヶ原の戦い以前から徳川に仕えていた。 秀吉に江戸に追いやられた家康に付随して江戸に内藤家の二代目清成もやってきた。 家康が鷹狩りに新宿辺りにやってきた時に、内藤に、「この辺りを馬で一周してみろ。その土地はすべてお前にやろう。」と言い出した。 内藤清成は四谷、千駄ヶ谷、代々木、大久保を回った。 力を使い果たした愛馬は命尽きてしまったが、家康は内藤家にこの敷地を与えたという。

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その内藤家が勧請して立てられたのが多武峯内藤神社。 主祭神は藤原鎌足なので、奈良の春日神社からいくつかの祭神を勧請している。 もとは現在の新宿御苑内にあったが、明治19年(1886)に今の地に移転した。

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本殿の東側に駿馬塚がある。 内藤清成は屋敷を与えてくれた愛馬を大きな樫の下に埋めて弔ったが、後の内藤家の森林管理役たちが文化13年(1816)にその樫の木の下に塚を作り駿馬の碑を建てた。 この駿馬塚は明治5年(1872)に現在の場所に移されているので、駿馬塚が先に動き、14年後に本殿が移転したことになる。 藤原鎌足には悪いが、駿馬が主役なのである。

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内藤屋敷の場所は江戸にとって極めて重要な場所にある。 その北西角には玉川上水の引込みの四谷大木戸があった。 神田上水では不足した江戸の水道を、玉川上水が大きくカバーし江戸100万人都市の礎となった。 実際の位置はもう少し四谷寄りの四谷四丁目交差点辺りだったようだ。

四谷四丁目の交差点に今もあるビルから、アイドルの岡田有希子さんが飛び降り自殺をしたことを覚えている方も多いだろう。 この交差点に来るたびにそれを思い出す。

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江戸時代の玉川上水の水量はとても多く、昭和に入っても太宰治が入水自殺できるほどの水量があったことは今思えば驚きではあるが、100万人分の水道ということを考えればそれくらい水量がないとだめだろう。

江戸時代の水道は大木戸から都心は木管の暗渠になっていた。 しかし大木戸手前であふれた水は開渠の状態で内藤家の敷地内を流れ、玉川上水余水路を通って青山方面に流されていた。 その開渠跡が今もまだかなりの距離で残っている。 明治になってここで水車を使ってこの水を利用したのが、日本最初の鉛筆工場であった真崎鉛筆だった。 真崎鉛筆は後に三菱鉛筆となった会社である。

上の写真の左側、水路が直角に折れてトンネルに入っていくところがあり、この先にも石の欄干が残っていて、街歩き趣味を煽るものがある。

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