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2019年2月25日 (月)

津の守弁財天(新宿区荒木町)

東京のディープなエリアは徐々に消えていきつつある。 やれグローバルだの、東京オリンピックだのと盛り上がり、軽率早計な判断で再開発が進み、ひとつまたひとつと消えていく。 そんな中で多くの人が認めているディープエリアの一つが四谷荒木町である。 人口減少時代、新しいものを作り続けるのは、人の歴史を自転車操業にしてしまい、止まったらコケるものに変えてしまうことに他ならない。 今目にしているものにしか興味がない文化など文化ではない。 先達が何世代にもわたって築き上げたものを大切にして、質を高めることが文化なのである。

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東京スリバチ学会なるものがあり、代表の皆川氏がここを第一級のスリバチとしている。 なんとも不思議な地形で、四谷三丁目の裏にぽっかりと空いた穴のような場所。 ここは周辺よりも標高で10m以上低くなっている。 その底にあるのが策の池で、底に祀られるのが津の守弁財天である。

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策の池と書いてムチノイケと読む。 江戸時代初期、まだこの辺りには民家も少なく、鷹狩りの時に徳川家康がこの辺りの井戸で策(鞭の意)を洗った。 当時この池には高さ4mの湧水の滝があり、それ以降「策の池」と呼ばれるようになった。

天和3年(1683)になり、岐阜県美濃高須藩の松平摂津守がここに上屋敷を拝領、明治になってからは住民に開放された。 住民はそれ以降ずっとこの窪地の弁天様を津の守弁財天と呼んで親しんだ。

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今は直径数mの池だが、かつては長さが100mを超える広さがあった。 聖なるものの傍には俗が集まるという定石の通り、周りには花街が広がって賑わった。 当時、池の周りの花街と言えば新宿十二社、上野不忍池、井の頭池があったが、それに匹敵するものだったようである。

この窪地の北側で江戸時代の暗渠が発見されている。 外濠に注ぐ紅葉川の支流だったが、この北側の地形がどう見てもダムである。江戸以前にダムを築いたのか、あるいは崩れてダムになったのか、前者が定説のようだが、江戸初期以前の詳細な地図が存在しないので正確には分からない。 下記の資料に書かれている暗渠の発見はそれに関連したもので、極めて興味深いものである。..

Google Map Link

資料: 松平摂津守上屋敷跡下水暗渠(江戸東京土木遺産)

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