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2019年3月31日 (日)

代沢の女中念仏講(世田谷区代沢)

下北沢の南のエリアが代沢である。 環七の都心側、東西に淡島通りと梅丘通り、南北に茶沢通りが走る。淡島通りと梅丘通りの間の茶沢通りに面して一体の地蔵立像の入った堂宇がある。狭い歩道にありつい見逃してしまいそうなロケーションのため、「倉田プロモーション」の看板を目安にするとわかりやすい。

茶沢通り筋は江戸時代から北沢川と烏山川を渡る南北の道だった。勿論今のようなまっすぐな道ではない。淡島通り(滝坂道)と下北沢の森厳寺を結ぶ道の途中で、北沢川の右岸に広がる水田を越え尾根に登る途中の畑の道に女中講地蔵が建てられた。Cimg2095 地蔵の造立年は天明元年(1781)で、女中念仏講の地蔵ということになっている。願主も治左衛門の母とある。なかなか出合うことのない女中講の地蔵尊なので女中講とはなんぞやと考えてしまった。調べてみると、江戸時代の地蔵信仰は小さな村単位で講を作り、そのグループで寄り合って結成した信仰集団であった。大々的なものは伊勢講、富士講、大山講、御嶽講、榛名講などで、それらは御師というプロモーターが寺社の檀徒信者を勧誘して広がっていったもの。 Cimg2090 それに対して地域性の強いのが庚申講、月待講、念仏講などである。江戸時代の庶民の生活は精神的には豊かだったようで、男社会と思いきや、女房衆で講を形成したりして子育地蔵などを祀り(子安講)、今でいうママ友集団のようなものもあったようだ。 その集団によって造立された地蔵が現在まで残っていることはもっとクローズアップされていいように思う。

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2019年3月28日 (木)

若林天満宮と若林稲荷神社(世田谷区若林)

世田谷区若林の地名の由来は、烏山川流域の新田(田んぼ)に由来するという説がある。環七を走ると、世田谷通りから下りになり、東急世田谷線を過ぎると上りになる。 その先若林陸橋を越えると再び下りになる。これは烏山川の谷を越え、滝坂道の尾根に登り、北沢川に向かって再び下る地形の痕跡である。なので若林は南北を断面にするとU字型の地形をしている。Cimg2050世田谷通り(登戸道)から谷を下ったところに若林天満宮がある。正式名称は若林北野神社。環七沿いにひっそりと鎮座している小さな神社だが、創建は相当古い。 応永8年(1401)にはここにあった記録があるので、鎌倉から室町時代の創建だろう。環七が出来る前はここに若林村の主要な村道が南北に走っていた。北野神社の北側にある若林橋と松蔭神社近くの松蔭橋が烏山川を渡る数少ない橋だった。Cimg2052 社殿はこじんまりとしていて境内は狭い。これは環七によってかなり削られたためである。川の南北に集落のあった若林村の南の守り神だったのだろう。若林村の中心(本村)は川の北側である。橋を渡った先には大正時代まで水車もあった。この水車のところから東へ向かって用水路が開かれ(大正時代まで存在)、その用水路沿いの道から北の斜面を上ったところが若林稲荷神社であった。Cimg2074 参道下から急に崖を登るような階段になっている。 神社は崖の斜面に開かれた。 この稲荷は正式には福寿稲荷神社というが、社殿の扁額には稲荷神社・天祖神社と並んで記されている。創建は江戸時代の初期から中期にかけて、おそらく新田が烏山川沿いに開発され、民家ができるようになってから建てられたのではないだろうか。Cimg2083 こちらの境内はまずまずの広さ。明治時代は樹木の鬱蒼とした林の中の神社だった。昭和20年に戦災で境内が焼け、現在はきれいな社殿が建てられている。 もともとは若林には若林鎮守三社といって北野神社、天祖神社、稲荷神社があり、お祭りなどは持ち回りで三社合同で行われてきた。(現在はこの福寿稲荷神社の祭りに統合されている)

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2019年3月27日 (水)

若林橋(烏山川/世田谷区若林)

世田谷線若林駅の北側で環状七号線を横切るかつての烏山川。 昔からあったのは言うまでもなく烏山川で、戦後環七が開通し若林橋が架けられた。環状七号線は昭和2年(1927)に東京市が計画したが、開通したのは東京オリンピックの前の1960年で、駒沢競技場が会場になったため最後は加速して開通した。川は少なくとも2000年は流れているだろうから、100歳の老人と2歳の幼児くらいの時間差がある。Cimg2072   烏山川は千歳烏山北を源頭に世田谷区を流れ、北沢川を合わせて目黒川になる。昭和中期以前はしばしば洪水を引き起こした小河川である。現在は全面暗渠になって大部分が遊歩道化されている。この川を環七が渡る橋が若林橋で、昭和35年の欄干が残されている。この時代はコンクリートの柱に鉄パイプの欄干が多かった。Cimg2044 中央の遊歩道部分が切られて撤去されているが、数mの川幅はあったようだ。現在の遊歩道はほぼまっすぐに近い流れになっているが、関東大震災以前はくねくねと蛇行した川だった。昭和になって世田谷も徐々に開発が進み、河道も直線化された。一説によると若林という地名の由来は新田(新しい田んぼ)の意味だという。戦前は烏山川流域には水田が広がっており、この一帯も一面の田んぼだった。現在の環七沿いの喧騒からは想像もできないのどかな風景が広がっていたのである。

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2019年3月26日 (火)

若林イエローハット裏の地蔵堂(世田谷区若林)

環状七号線には東急世田谷線の踏切がある。面白いのは電車が信号待ちをすること。勿論電車側が青になれば道路側は赤になり車は止まる。若林踏切と呼ばれるこの踏切は世田谷線が先にあり、戦後環状七号線が通された時系列の関係と、このすぐ北側に北沢川が流れており、環状七号線もその地形の影響を受けたために現在までこの面白い形が残っている。Cimg2043若林踏切の南側にイエローハットがある。その南側の路地は実は江戸時代からの古い道である。明治時代、この辺りは若林西山谷と呼ばれた。以前に書いた常盤塚の常盤橋が架かる細流が谷を形成し北沢川に流下していた。その谷に下る道がこの路地である。地蔵堂はイエローハットの裏手にあり、地元の河野さんという方が大切に守っておられる。Cimg2069数百坪の敷地の中にここを残していただけたことは本当に素晴らしいことである。中には4体の野仏が保存されている。一番右にある地蔵は享保6年(1721)の造立。若林村の地蔵講中によるもの。右から2番目は庚申塔。地蔵菩薩像の下に三猿がある。 こちらの造立は延宝9年(1681)。Cimg2062 左から2番目の地蔵は、かなり溶けた感じになっている。造立年などはよく分からない。もしかしたら4基の中では最も古いかもしれない。 最後の一番左は庚申塔。青面金剛像の下に三猿、元禄10年とあるので1697年の造立である。折れたのを修復した跡がみられる。いつまでも大切にしていきたい路傍の野仏である。

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2019年3月12日 (火)

経堂駅近くの地蔵(世田谷区経堂)

小田急線経堂駅の西北側にはお地蔵さんが2体ある。 かつて経堂駅は小田急線の車両車庫が広がる基地駅だった。 1970年代に入って駅の北口に14階建の小田急経堂ビルが建ち、当時は世田谷にはほとんどビルがない中で、富士山のように独立峰の姿を誇っていた。

広い車両基地の敷地は現在小田急のプロジェクトで次々に中層のビルに代わっている。 そんな激変の経堂駅北口のコルティ(駅ビル)の傍に地蔵が立っている。 駐車場入り口の向かい側、コンビニの角の一角の奥まった植込みにあるのは子育地蔵。

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年代は比較的新しいようだが、中に入れないので台座の文字などは読むことができない。また区の石仏調査の資料にも出てこないので、詳細は不明である。 小田急が高架化する以前、経堂駅には新宿側の開かずの踏切と共に、それより多少開きやすい踏切が地蔵の前にあった。 なので当初は踏切地蔵かと思っていたが、どうも子育地蔵らしい。

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コルティ前の地蔵からそのまま西へ向かいすぐに斜めに分岐した道に入るとその先でまた斜めに分岐する地点、自転車店の角にまた子育地蔵がある。 ここは経堂在家村で南北に分かれた滝坂道の南側のルートが北に向きを変えて、北ルートに近づく分岐点。江戸時代からの分れ道である。

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堂宇は施錠はされていないが、閂が掛けられていて、さすがに開けて撮影するほど大胆ではないので格子越しに撮影した。 この地蔵は造立がはっきりしている。 正徳5年(1715)に建てられたもの。 当時の経堂在家村の地蔵信仰の講中48人が村のこどもの将来を祈って造立した記録がある。当時の地名は武蔵国荏原郡世田谷領経堂在家村。経堂の地名については福昌寺の経堂(お経を納めたお堂)説が有力だが、在家の方は出家の意味を表し、当時この地を治めていた松原氏が敷地内に寺を建立し仏教を信仰していたことから、家にいるまま仏教に帰依したという意味合いの在家らしい。

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2019年3月11日 (月)

桜丘1丁目庚申塔(世田谷区桜丘)

我が家の近所の庚申塔。 昔からなぜこんなところにこんな石塔があるのだろうと思っていたが、20年余り前に長男の夏の課題で地元のことを調べるというのに付き合って初めて庚申塔というものだと知った。この時にいろいろ調べたことが今の自分に繋がっている感がある。

東京農業大学の裏手には東西に走る二本の古道がある。大昔は府中道と呼ばれた道である。 またここには南北に走る用賀二子道という古道があり、この場所はその辻になっていた。 この用賀二子道は関東大震災後に陸軍自動車学校が出来て消滅し、後にその敷地が現在の東京農業大学のキャンパスになった。

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台座は後に設置された大きなもので、合わせると2mほどの高さがある。道標も兼ねているので情報量満載の庚申塔になっている。 上部には青面金剛像、下半分は願主の名前と共に「西 府中道四里」とある。実際に府中の武蔵国府跡までの道のりは16㎞程である。

また裏面には「東青山道 二里半」、南面には「南大山道 二子川迄一里余」、北面には「四ツ谷道二里半余」とある。 東は世田谷ボロ市通りを経て三軒茶屋で大山道に合流し青山一丁目まで10㎞、南二子玉川は4.3㎞と正確な道のりが刻まれている。 北の四ツ谷道も羽根木から甲州街道に出て四谷まで11㎞だから感心する。

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造立は安永7年(1779)だから庚申塔としてはそれほど古いものではないが、ずっとこの古道の辻にあったのだろうか傷みは激しい。文字刻の下には三猿が小さく描かれている。地元の古老の話では、この庚申塔から南側への道は大正5年まであったという。

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大正期の地図の中央下にこの庚申塔がある。 南に下ると現在の世田谷通りで登戸道と出合ったのち品川用水を渡り(北沢橋)、用賀方面に向かっている。現在でも周辺は江戸時代からの道がたくさん残っていて、それと新しい道がうまくリンクしていないので、世田谷はタクシードライバーでも迷うというのはあながち大げさではない。

ただ、古道の道筋を理解すると、全体の道のつながりがすっきりとわかるのもまた面白い。

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2019年3月10日 (日)

北沢4丁目三田用水脇の庚申塔群(世田谷区北沢)

三田用水は笹塚駅の南で玉川上水から分水されていた。 しばらく玉川上水と並んで流れた後、井の頭通りの大山交差点近くで南に流れを変え、現在の都道420号線沿いに渋谷区神泉に向かって流下していた。 その大山交差点のすぐ南に、かつての三田用水跡が都道に合流する地点に庚申堂がある。

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草が伸びまくっているが定期的に地元の方が草木を剪定しておられるので、これだけ生い茂っている時期は多くない。 真ん中を突っ込んでいくと、草の後ろは空間があり、「やきとりこん平」の看板の屋根の下に4基の野仏が並んでいる。

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左端は如意輪観音座像、造立は貞享3年(1686)と保存状態に比べて時代が古い。 その右側の地蔵立像の方が左肩が欠けていて石の感じも古そうだが年代は書かれていなかった。真ん中の小さな石塔には「祖関禅定門」とあり年号は書かれていないが、禅定門というのは江戸時代の戒名によく使われた表現らしく、墓石の一部かもしれない。

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更に右側に目を向けると、右の2基は庚申塔である。 一番右のものは唐破風笠付角柱の文字刻みの庚申塔で天和元年(1681)の造立。 年代からしてこれもなかなかきれいな状態で残されている。

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右から二番目の青面金剛像と三猿の庚申塔が一番状態がよさそうに見えたが、貞享元年(1684)と他のものに遜色のない古さであった。 彫られた名前にはこの近所にお住まいの同姓の方と同じ苗字があり、ご先祖かもなどど想像してしまった。

この庚申堂の西側をかつては三田用水が流れていたことは前述したが、現在でもこの通りが渋谷区と世田谷区の区境になっている。しかも、この場所は代田橋から玉川上水の南側を経てきた世田谷村の村道と東の代々幡村から玉川上水沿いに走ってきた村道の合流地点でもあった。 野仏がいつからここにあるかは分からないが、道の辻、村の境という条件で、まさにここにないはずはないという地点なのである。

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2019年3月 4日 (月)

経堂の馬頭観音(世田谷区経堂1丁目)

馬頭観音は結構いろんなところにある。 自然石のもの、文字塔、三面六臂の像など様々な形をしている。 三面六臂の数違いのバリエーションもあるが、基本的な馬頭観世音の姿というのは三つの顔を持つ菩薩の化身。 牛馬に関係する職業の人々が動物の供養のために建てたものや交通安全を祈願したものが多い。

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古道滝坂道は経堂辺りで南北二つのルートがあるが、南ルートと北ルートの間を繋ぐ道があり、その辻に建っているのがこの馬頭観音である(経堂1-22-14)。 江戸時代はこの辺りがもっとも民家が多かった地区。 東西は滝坂道だが、南へのルートもあり菅刈庄という水田地帯を抜ける村道が繋がっていた。

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造立年は不明だが、馬頭観音は明治以降のものも多く、石の傷みを考えるとかなり後の時代のものだろうと思われる。 正面には西 ふちう道(府中道)、右面は南ふたこ道(二子道)、左面は北たかいど道(高井戸道)とあるが、古い地図を見ても交通の要所というほどの辻ではない。

もっとも経堂の南側には烏山用水(烏山川)が流れており、辺りは菅刈荘と中世から呼ばれた一面の田んぼだった。烏山川を渡る南方面の橋は二つ、経堂農大通りの経堂大橋と、現在の千歳郵便局近くの新道橋。 昭和に入って小田急線が開通すると、経堂駅周辺は急速に住宅開発が進んだが、南側の烏山川流域は戦後までのどかな田園地帯だったが、高度経済成長期から開発が加速し、その風景はもう見られない。

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経堂農大通りの庚申塔(世田谷区経堂)

東京農業大学の最寄駅は経堂駅となっているが、千歳船橋駅の方が実は徒歩3分ほど近い。 それでも農大祭りは経堂駅の南に延びる農大通りで行われ、大根踊りが有名である。この経堂農大通りは実はとても古い道。 現在の経堂駅周辺でかつての滝坂道は南北に二つのルートがあった。 北側がメインルートだが、北側には人が住んでおらず、南側には民家があって便利だったのだろう。この南ルートから厚木街道の用賀に繋がる道があった。 その辻に道標を兼ねた庚申塔が立っており、現在も大切に守られている。

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場所は世田谷区経堂1-12-5。 農大通りはここでわずかに南北の道がオフセットされている。南から来るとこの庚申塔が正面になるのである。 これは北側の道が後に出来たことを表している。 江戸時代は福昌寺に繋がる脇道だった。

南へ伸びる用賀への道は、現在の東京農大キャンパスの真ん中を南北に走り、さらに馬事公苑の真ん中を突っ切っていた。 今でも庚申塔や品川用水の橋の痕跡などが残る。

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庚申塔の造立は文化9年(1826)である。青面金剛像の下に三猿が彫られている。その下には、正面に南二子道、東側に青山道、西側にふちうミち(府中道)とある。渋谷の道玄坂上で厚木街道と滝坂道が分かれてからちょうど一里半(6㎞)の位置になる。 この辺りで小休止をする人もいたことだろう。

経堂在家村は元禄時代から幕末まで天領として幕府の直轄地だった。 石高はあるものの人口は少なかった。 村の寺は福昌寺だが、鎮守はかなり西に離れた天祖神社。

経堂の地名の由来は面白い。 福昌寺は江戸時代の初期の開山だが、当時この土地を所有していたのは松原弥右衛門という人で、彼が僧を迎えて開基したのが福昌寺と言われる。 この松原弥右衛門は幕府の御殿医(お抱え医者)として中国から帰化した人物で、書物を沢山持っていた。 当時の人々は読み書きができなかったので、本=お経と思い込んでおり、松原弥右衛門が屋敷内にお堂を建てて書物を保管していたので、近くの人々はこれを経堂と呼ぶようになり、それが地名になった。(諸説あり)

経堂から千歳船橋周辺には松原姓が極めて多いが、この松原弥右衛門の関係者が大半である。

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三田用水の石橋供養塔(目黒区青葉台)

東京で有名な江戸時代の用水と言えば玉川用水だが、その玉川用水を笹塚駅南で分水して白金までは開渠、それ以降三田(泉岳寺付近)までは伏樋で水を送った用水路が三田用水である。1664年に開削され、1974年に完全廃止された。 用水だから尾根筋を流れる。 東北沢から東大キャンパス北側を流れた後、道玄坂上を南下して西郷山から代官山へ流れる途中、滝坂道のために架けられた石橋があった。

 

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地図の左の青線は駒場野から流れる空川で谷筋を流下、しかし右の青線の三田用水は尾根を流れているのが分かる。 現在の石橋供養塔があるマンションの住民が供養塔を守ってきたので、赤い★の場所に供養塔がある。

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供養塔が造立されたのは文化9年(1812)である。下部には、中目黒村、白金村、北品川村など13か村の名が刻まれ、右側には滝坂道沿いの若林村、経堂村、上祖師谷村などの地名が彫られている。 当時の石橋は、水が出るたびに流される木橋から飛躍的な安全性を目的に大変な費用を使って築かれた。

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旧山手通りから、旧滝坂道を見ると上り坂になっておりその先で急に下り坂になる。 この尾根部分が三田用水の痕跡である。 ここに石橋があった。 もともと灌漑用水だった三田用水の恩恵によって恵比寿にビール工場ができたり、中目黒付近に海軍の火薬工場が出来たりした。

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駒場から青葉台にかけては、三田用水の痕跡の細道が比較的明確に残っている。 なおかつ渋谷区と目黒区の区境にもなっていて痕跡を追いやすいのだが、恵比寿付近まで行くと極めて分かりにくくなる。 上の写真の辻がまさに石橋があった場所である。

Webページ上でこの石橋供養塔が松見坂下の遠江橋にあったとする説が多いが、ここでは目黒区教育委員会説と地元の方の話から、三田用水の石橋と断定した。

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2019年3月 3日 (日)

成子天神と富士塚(新宿区西新宿)

富士講については様々な研究がなされているが、簡単に言うと江戸時代に富士山信仰が関東を中心に起こり、各地で講中ができ代表者が富士登山をするという民間の信仰である。当時富士山は女人禁制だったので、主に男性のみが御師というコンシェルジュの世話になり富士登山詣でをした。

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行けなかった人や女性たちは江戸市内に数多築かれた人工の○○富士に登ったりして、富士信仰に参加した。 このミニ富士は23区内にも100山以上あったが、そのうち現存するのがなんと9割もある。 23区内で高さが最も高いグループの中に成子富士がある。 人工の山なので高さを競うのに意味はないが、そういう単純なことに江戸っ子は力を注いだりしたのだろう。

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12mほどの高さがあるが、至近で見上げるとなかなかの山である。山麓には浅間神社の祠があり、頂上には浅間神社の祭神である木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメ)の像もある。 これほどの富士を築いたのは、柏木・角筈地区(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心とした丸藤成子講で、富士講の富士の中では末期に築かれたもの。 もともとここには天神山という小山があったのに富士山の溶岩を重ねて大正9年(1920)に構築したようだ。

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江戸時代から明治にかけては東京の西の外れだった西新宿だが、成子天神社の前には青梅街道が通っていて、歴史は古い。創建は平安時代の延喜3年(903)で、菅原道真の訃報を聞いた家臣が建てたという。

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江戸時代になると、周辺の柏木村はマクワウリの特産地となり、成子ウリとしてブランド商品となった。 徳川家が元和年間(1615-1624)に岐阜県美濃の国の真桑村から農民を呼び寄せ、この地と府中の是政の二ヶ所でマクワウリの栽培をさせたのが始まり。小型のウリで甘みがありメロンに近い種類のようだ。

西新宿の高層ビルの一角にこういう神社があることでホッとする。

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2019年3月 2日 (土)

淀橋咳止地蔵尊(新宿区北新宿)

西新宿の高層ビルの一角に地蔵尊がある。 こういうコントラストは粋である。 大手町の清正の首塚のようなおどろおどろしいものではないが、すぐ近くにある成子天神の巨大な富士塚やこの淀橋咳止不動尊は時代を超越しているようで、心が洗われる。

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この場所に地蔵尊がやってきたのは平成18年(2006)。 それまでは現在の新しい都道302号線の南側、新宿フロントタワーが建っている敷地の一角にあったが、道路開発とビル開発による立ち退きで現在の地に、地元の地蔵講の方々が移したもの。

高層ビル開発が始まるまではこの辺りは柏木と呼ばれ、比較的のどかな街だった。木造家屋が立ち並び、路地のある雰囲気のいい庶民の街だったのである。 それがあっという間に変わっていった。 新宿の変化は恐ろしいものがある。

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淀橋咳止地蔵尊の造立は宝永5年(1708)。富士山の宝永噴火の翌年である。 噴火によって胸を患った人が多かったのだろうか。 それで咳止となったのではないかと考えてみると面白い。 堂宇の裏には巴講睦と彫られた石柱もあり、鎧神社の氏子である巴講の人々が協力して、旧柏木地区としての協力のもとに移転が成立したようだ。 21世紀の西新宿エリアにまだ講中があったことにも感動した。

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2019年3月 1日 (金)

杓子稲荷と古道(世田谷区梅丘)

渋谷と調布仙川の甲州街道を結ぶ滝坂道は、環七で分断されるが道筋は続いている。 環七から西に進むと、三又になる。 合流する道は江戸時代からの古道だが村の中の道。 その三又に2012年頃まで馬頭観音があった。

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写真のバイクと自転車のところに左上のような堂宇があり、馬頭観音が祀られていた。 風化してかなり傷んでいたが、明治31年(1898)の造立で100年余り経ったものだった。 明治時代から昭和初期にかけてはまだ馬車で都心に農産物を運んでいたので、あちこちに馬頭観音が立てられた。 この馬頭観音には滝坂青山道と彫られていたと聞く。 こうして野仏が一つずつ消えていくのは時代の流れで致し方ないことだが、個人的には寂しい思いがする。

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滝坂道をさらに西に進み、住宅街の路地(梅丘1丁目60と59の間)を北方向に入ると杓子稲荷がある。 珍しい名前の稲荷神社である。 神社の前の路地は4mに満たない部分もあるが、実は滝坂道よりもさらに古い道である。 しかも古道の中でも重要な鎌倉街道のひとつだった。 今では小田急線にも阻まれて、住宅街の私道のようになっているが、ここから羽根木を経て中野方面に続く主要道だったのである。

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杓子稲荷の創建は不明だが室町時代に世田谷城主の吉良氏が勧請したと伝えられるので、600年ほどは経っていると思われる。 町内できれいに建替えており、境内も整理されているので古い雰囲気は皆無だが、付近では最も古い神社の一つである。

境内には最近建て垂れた奉供養庚申と書かれた庚申塔がある。 私が見た中で最も新しい庚申塔である。 造立は昭和55年(1980)。世田谷区内でも断トツの若さで、次に古い庚申塔は大正、3番目が明治、4番目に古いのはもう江戸時代。 老人ホームの中に赤ん坊がいるような感じがする。

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