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2019年4月30日 (火)

平川庚申尊(世田谷区下馬)

道標の角柱型庚申塔の次の路地の入口にあるのが平川庚申尊。 これほど近くに別々の庚申塔があるのは珍しい。 前を走る野沢通りの江戸時代の呼び名は馬引沢村道。 この辺りを里俗姥ヶ谷と呼んでいた。前述の道標庚申塔が上目黒村と下馬引沢村の村境だったということは、どんどん焼などもこの辺りで行われていたのだろう。

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しっかりとした塀に囲まれた堂宇の中に庚申塔がある。昔の地名の姥ヶ谷というのは、世田谷公園付近から下馬1丁目47にあった弁財天(姥ヶ谷弁財天)を経て蛇崩川に注いでいた沢の名前でもあった。その注いだ地点は葦毛塚の辺りである。

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堂宇内の庚申塔は、舟型光背型、青面金剛が邪鬼を踏みつけ、その下に三猿がある。造立年は元禄7年(1694)とかなり古い。

ちなみに庚申尊の少し西側、野沢通りを迂回するように細路地がお椀型にあるが、ここにかつての姥ヶ谷の沢が横切っていた。野沢通りは戦後拡幅されるまで、この細い路地が道筋だった。

場所  東京都世田谷区下馬1丁目10−5

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2019年4月29日 (月)

蛇崩の道標庚申塔(世田谷区下馬/目黒区上目黒)

野沢通りという通りは渋谷区鉢山町から旧山手通り(三田用水跡)をくぐり、LDL(Exileの事務所)脇の交差点で山手通りと交差、そこから坂を上って蛇崩交差点を過ぎ環七野沢龍雲寺までの道で抜け道になる準幹線道路である。蛇崩というのは近くを流れていた蛇崩川(暗渠)に由来する名前だが、ちょうど目黒区と世田谷区の区境になる路地の入口に道標付の庚申塔が立っている。 この庚申塔は知らなければまず気づかない、それほど目立たない場所にある。

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まるでかくれんぼをしている子供のような感じで立っているのだが、正面には「奉納庚申供養」とあり、間違いなく文字塔型山型角柱の庚申塔である。造立年は明和3年(1766)で田沼意次が老中となる数年前、世界的にはアメリカ独立戦争より少し前である。「武州荏原郡世田谷領下馬引沢村」とあり、四面に東西南北の行先が書かれている。

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正面には、東 登戸道、左側には 南ゆふてんじ(祐天寺)、裏には西 せたがや道、右側は北 かみめぐろ道とある。下の黒い部分には施主の名前がいろいろ彫ってあるようだ。明治時代の地図を見ると、この路地は蛇崩で野沢通りと分岐した五本木通りへショートカットするようについた道で、蛇崩橋手前で五本木通りに合流する。その先には葦毛塚もある。

場所  世田谷区下馬1-10-6

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2019年4月28日 (日)

東山の馬頭観音(目黒区東山)

目黒区東山という場所、現在は広い公園と中層のマンションが立ち並び、裏手には自衛隊の駐屯地や自衛隊中央病院がある。実は幕末期に駒場野演習場を広げようとしたところ、周辺農民の一揆が起こり、幕府は止む無く拡張を取りやめた。しかし明治政府は国民にものを言わせず軍事力強化のためにここに練兵場を開発した。

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その東端の坂の途中にきれいな堂宇に守られた馬頭観音が祀られている。周辺はかつて駒沢練兵場で、陸軍近衛第一師団5,000人の将兵と、1,300頭の軍馬が訓練に励んでいた。この傾斜地での訓練は、馬に大砲を牽かせて坂の上り下りを繰返すという過酷なものだったという。この馬頭観音は一兵卒が訓練に倒れた2頭の軍馬の供養に建てたものだという。背面には、「苫良号、腰椎骨折、大正11年没、福富号、急性伝染性貧血、大正11年」と彫られているようだ。堂宇を築いているのは、目の前の東山中学校の生徒や地元の人々らしい。

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ここにある相当高価なマンションは実は日本最大級の公務員宿舎で、賃料は3DK(65㎡)で4万円、駐車場は平置きで5,650円と、一般市民を馬鹿にしたような値段。周辺の相場は同じくらいの面積だと25万~30万程度、駐車場は4万円程度なので、一般の人々の6分の1(15%)しか払わずに生活できるということである。入居資格は国家公務員であることとある。それでいて公務員の給与水準は民間を超えているのだから、税金泥棒と言われても仕方がない。マスコミではこういうことこそしっかりと報道してもらいたいと思う。

いい話と悪い話を同時に知った散策となった。

場所   目黒区東山1-24

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寿福寺の石仏(目黒区上目黒)

玉川通り(国道246号線)と駒沢通りの間の野沢通りにある寿福寺は天台宗の寺院。 新清山観明院寿福寺という。創建は元和元年(1615)。近くの宿山にある烏森稲荷は、寿福寺の境内にあった稲荷社を移したものである。しかし境内にある鎌倉時代の板碑から、本当の創建はもっと昔である可能性もあるという。

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野沢通りの入口からまっすぐな雰囲気のある参道を進む。この参道に植えてあるのはオカメ桜という種類の桜で開花時にはライトアップもされ、中目黒の目黒川の桜よりもはるかに素晴らしい夜桜を見ることが出来る。オカメザクラはカンヒガンザクラとマメザクラの交配種なので、花期は早く2月下旬から3月上旬。

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参道を進むとやがて山門になる。この山門の両脇に地蔵と庚申塔が並んでいる。 寿福寺は、享保年間(1716~1736)には上野寛永寺子院の護国院の末寺となって栄えた。もとは中目黒八幡神社の別当であった。最近は目黒不動龍泉寺の末寺となっている。

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向かって右の2基の地蔵尊は相生地蔵と呼ばれる。右側の地蔵は、明和2年(1765)の造立で、正面には「奉建立地蔵尊」、背面には「上目黒邑五本木願主…」とあるので、五本木あたりにあったものだろうか。いずれも寿福寺の銘が刻まれている。

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もう一つの小さめの地蔵は、宝暦9年(1759)。こちらの願主は宿山組とあり、寿福寺の周辺の願主のようである。こちらにも寿福寺の当時の住職の銘が彫られている。

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左端は庚申塔である。造立年は寛文6年(1666)。舟型光背型の青面金剛像で、像の浮き具合が素晴らしい。またこの像は剣を持っている。通常は合掌している姿のものが多い。庚申塔の右隣りは座像だが、よく分からない。勉強不足である。

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野沢通りを挟んだところに寿福寺の飛地の墓地がある。実はこの墓地、江戸時代の切絵図を見ても野沢街道の反対側に墓地があるので、江戸時代からここは寿福寺の墓地だったわけだ。その奥に古い馬頭観音がある。右側は古そうだが造立年は不明、駒型浮彫座像で迫力がある。左側は造立が安政2年(1855)とあり、角柱型の文字塔である。馬頭観音は江戸時代なら古いほうに入る。多くは明治大正期である。

場所   東京都目黒区上目黒5-16-6

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池尻庚申堂(世田谷区池尻)

池尻稲荷神社と古畑病院の間の道は古い道筋で、三宿神社から現在の中目黒へ抜ける道だった。大山道をさらに東南に進むと小さな坂の途中に鳥居が見えてくる。 池尻庚申堂である。

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地元の人が守り続けている素晴らしい庚申堂で、堂宇の中には2基の庚申塔がある。鳥居をくぐると右手には猿の石像が狛犬ならぬ狛猿の役割で迎え入れてくれる。 

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この猿の土台は塔は常夜灯になっている。塔には大正元年(1912)建立とある。 その後ろには法華経関係の石塔が並んでいるが、その手前にぽつんとある小さな三猿の庚申塔が気になった。造立年などは全く分からない。

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堂宇の中の庚申塔だが、施錠されていて小さな穴からの撮影になってしまった。どちらもきれいに保存されているが、右側のやや大きいほうが板碑型で、造立は延宝8年(1680)と古い。 左側の板状駒型の庚申塔は元禄5年(1692)でこちらも年代物である。

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堂宇の左側(道路側)には新しい屋根の下に地蔵菩薩立像が立っている。 こちらは宝永元年(1704)の造立。こちらもきれいに保存されている。

池尻から東山にかけては、旧石器時代・縄文・弥生・古墳~近世の複合遺跡になっている。都内でも有数の遺跡で、何千年もの間人々が生活をしてきた豊かな土地だったことが証明できる。

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2019年4月27日 (土)

池尻稲荷神社(世田谷区池尻)

池尻稲荷神社は池尻大橋と三軒茶屋の間、玉電時代は池尻電停のすぐ目前の場所にある。現在の田園都市線が開通したのは昭和52年(1977)だから私が上京した翌年である。昔の玉電の駅(電停)は渋谷、道玄坂上、大坂上、大橋、池尻、三宿、太子堂、三軒茶屋と駅間は近かった。 しかし玉電の記憶は残念ながらない。というのも玉電は昭和44年(1969)に廃線になっていたからで、記憶では渋谷から二子玉川に行くのに自由が丘経由で不便だということと、まだ二子玉川園があったことだろうか(昭和60年(1985)閉園)。

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玉電が開通したのは明治40年(1907)で、それまでは裏を走る大山街道側が入口だった。玉電の電停が出来てから、現在のように国道246号側が玄関のようになった。従って社殿は大山街道側から入る方が表参道になっている。池尻稲荷神社の創建は明暦年間(1655~1657)、江戸時代初期である。しかし昭和の初め頃までは地域の小さな産土神に過ぎなかった。大きくなったのは昭和になってからである。

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神社の渋谷側には古い川の痕跡が残っている。大山街道裏手から流れて数百mで目黒川沿いの湿地帯に流出していたと思われる沢である。しかしこの沢のお陰だろうか、神社の手水舎の水は「薬水の井戸」と呼ばれ、いかなる時も枯れることのない井戸として昔から大切にされてきた。街道筋の名水となれば神社があっても不思議はない。

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しかしこの水路が水線だったのは江戸時代末期あたりまでで、それにもかかわらず今にまでこの暗渠でございます!という痕跡が残っているのは何故なのだろう。ただ大半は自転車の放置場所になってしまっている。

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こちらが大山街道側の入口である。やはり旧街道というのは歩いて楽しいものがある。入口に在るカゴメカゴメの子供の銅像は創作モノだが、昔はこんな風に奉公の子供たちがちょっと水汲みついでに遊んでたのかな?などとイメージが湧く。枯れずの井戸は現在、地下水をポンプで汲み上げているが、これは東京に関しては致し方ない。おそらく明治大正期から比べると湧水は数十分の一に減少しているはずである。何しろ、コンクリートとアスファルトで覆われた台地と、地下開発のために、かろうじて残った湧水は宝石並みの価値がある。

場所  東京都世田谷区池尻2丁目34-15

 

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2019年4月26日 (金)

三軒茶屋ピーコック裏の庚申堂(世田谷区三軒茶屋)

世田谷通りと環七通りの立体交差点は若林交差点だが、その立体交差の橋は常盤陸橋という名前、どうも行政としては決めきれない人間模様がありそうに思えてしまう。その三軒茶屋側の角に20階建てのタワーマンションが建ったのが2004年、この辺りは戸建の密集したエリアだったが地上げでまとめたのだろうか。1階にはピーコック(スーパーマーケット)が入っている。この高層マンションの裏手にひっそりと残された庚申堂がある。

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堂宇の中には庚申塔が2基、写真手前には馬頭観音、堂宇の裏手には力石や富士講碑などいろいろ集まっている。堂宇も立派なもので、小ぶりな神社といってもいいくらいである。よくぞこの一角に残してくれたと、有難みを感じる。

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堂宇の左手に立っている大きめの石仏は馬頭観音像、造立は新しく大正13年(1924)。馬頭観音は概ね新しいものが多く、明治から戦前にかけて軍馬が多く使われていたので軍で祀ったものも多い。 この像は台座に馬頭観世音とあり、大きめの馬頭観音が載っている。眉の形などは新しさを感じさせるデザインである。右面に建立者の名前が根岸新蔵とある。

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堂宇内右手の庚申塔は傷みが少ない板状駒型のもの。 造立年は延宝8年(1680)と古い。青面金剛像と三猿のものだが、とても丁寧な造りである。青面金剛像の彫りも深く、腕のいい石工の作品だろう。

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堂宇内左手は少し小ぶりの庚申塔。こちらもとても丁寧な造りをしている。造立年は寛延2年(1749)と少し新しいが、庚申塔としては普通の年代。 青面金剛像の下の三猿の彫りがいい。青面金剛像が踏みつけているのは邪鬼だろうか。

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堂宇の裏手にある三角の石碑は富士講の三十三回登山を記念して立てられたものである。写真では分かりにくいが「冨」の上に富士山の山型が描かれ、「平」の字は丸で囲まれている。下北沢村、馬引沢村の人々による丸平講という富士講の33回登山大願成就の祈念碑。

富士山に対する信仰は原始的な山岳信仰として奈良時代からの記録があるが、庶民の間に富士信仰が盛んになったのは富士の行者である食行身禄が現れて庶民救済の教義を提唱した18世紀以降のこと。食行身禄の弟子たちは独立して講を結成し、さらにそこから多くの枝講が生まれた。こうして富士講は19世紀の初頭にその隆盛期を迎え、「江戸八百八講」と呼ばれる程の発展を遂げた。

場所   東京都世田谷区三軒茶屋2丁目56−9

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2019年4月25日 (木)

駒留八幡神社(世田谷区上馬)

常盤塚のところでも書いた駒留八幡神社。(常盤塚のページ)現在の住所は上馬だが、上馬、下馬というのは省略された地名。 江戸時代の初め頃は馬引沢村という一つの村だった。天正18年(1590)に徳川家康が江戸入城すると村は徳川氏の直轄地となった(後に井伊家・大久保家に拝領)。寛永年間(1624~1643)に村は上馬引沢村と下馬引沢村に分割。さらに上馬引沢村から中馬引沢村が分かれた。もっともそれ以前から村は上郷、中郷、下郷という三地区で成り立っていたという。ちなみに江戸時代の馬引沢村は三軒茶屋から駒沢までの広い村だった。

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駒留八幡神社は鎌倉時代の徳治3年(1308)の創建。駒留というのは馬が止まる意味で、地頭であった北条左近太郎が八幡宮を勧請しようとして馬を放ち留まったところを鎮座の地とすると馬がここで留まったという伝説による。またこの神社は常盤姫の悲話と関連が深い。

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常盤姫伝説というのは現在ではほぼ創作話だろうということになっているが、何百年もの間土地の人々が信じてきた物語である。常盤の身体に身籠っていた胎児の霊を吉良氏がこの神社に祀ったことから、若宮八幡とも呼ばれる。

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境内の奥には厳島神社の社があり、ここに常盤弁天が祀られている。その傍には常盤橋と彫られた橋の欄干が無造作に置かれている。本物かどうかは分からないが、暗渠を歩いていると稀に同じタイプの古い欄干を目にすることがあるので、あながち否定はできない。

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境内に1基だけ古い角柱型の庚申塔があった。女塚社の後ろにひっそりと立っているが、造立年は天和3年(1683)と古いもの。正面は青面金剛像と二猿、右側面と左側面にそれぞれ一猿というレアなタイプである。

場所  東京都世田谷区上馬5丁目35

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2019年4月23日 (火)

弦巻のいぼとり地蔵(世田谷区弦巻)

このいぼとり地蔵は地元の人々にとても親しまれている地蔵尊である。 現在の地、常在寺の山門の向かいに移転してきたのは2013年9月。 それまでは常在寺の反対側のやや南の辻にあった。

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常在寺は日蓮宗宝樹山常在寺、言い伝えでは世田谷城主吉良氏の愛妾である常盤が開基となっている。開山は永生3年(1506)で、常盤姫がその末期に際し、常在寺の井戸に投げ込んだものが寺に安置されている鬼子母神像だということになっている。

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いぼとり地蔵の名前はここではいぼ地蔵尊となっているが、真新しい堂宇にゆったりと収まっている。説明板によると、寛延4年(1751)弦巻村の女人21人がお金を出し合って造ったもので、昔からいぼとり地蔵として地域に親しまれてきたという。いぼが出来た時、台座の前にある小石を借りて患部をなでるといぼが取れると信じられていた。また全快したら小石を倍にして返す習わしであった。

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気になったのは堂宇の右手の奥に庚申塔が1基、ぽつんと祀られていたこと。その裏手には自然石の庚申塔がもう1基。 造立年は最初の文字が削れてしまい二文字目が暦なので、おそらくは宝暦年間(1751~1764)であろう。年数はかすかに七と読めるので、宝暦7年(1757)だろうか。三猿は台石に埋まってしまっている。

場所  東京都世田谷区弦巻1-21

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2019年4月22日 (月)

成城1丁目の庚申堂(世田谷区成城)

余程気を付けて周辺を観察するか、あらかじめここに庚申堂があることを知っていなければ発見できないと思う。世田谷通りの北側の崖線の樹木に隠れているからである。階段を上ると、左側に杣道が付いていて、その先に堂宇がある。

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堂宇の裏手には小さな稲荷神社の祠がある。その周りは畑らしく畝がきれいに耕されている。とても東京都しかも成城という場所には思えないほど農村感のある場所。そしてここは国分寺崖線。 何千年も人々が生活をしてきた場所である。

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階段の上部で木陰から見えてくる景色が特に良い。 右側に地蔵菩薩像、左側に庚申塔が並んでいる。地蔵菩薩は享保4年(1719)の造立。野田の地蔵講中30人によるものとある。 野田というのは昔この辺りが喜多見村だった頃の字名で、現在小田急線と並んで野川を渡る道の橋名が上野田橋、世田谷通りが中野田橋(現在はなぜか略されて中ノ橋となっている)で、この辺りは野川に加えて次太夫堀が整備され民家も多かったので、この辺りの人々が地蔵講で造ったものであろう。

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左の庚申塔は享保7年(1722)の造立。青面金剛像と三猿の板状駒型庚申塔。古い喜多見村の地図ではここに富士講の塔があったと書かれているが現在はない。

この周辺は嘉留多遺跡が広がっている場所で、旧石器時代から縄文、奈良・平安まで様々な遺跡が出土している。それ以外にも古墳も多く、考古学には特別な場所らしい。そう思うと300年前というのは大したことないように思えてくるから、国分寺崖線恐るべしである。

場所  東京都世田谷区成城1-6

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2019年4月21日 (日)

大蔵庚申神社(世田谷区大蔵)

環八から世田谷通りの旧道に入る。サミット裏口の地蔵様からゆっくりとくねりながら下る旧道を進むと、急なカーブが現れる。左の分岐に入ると横根稲荷神社。その路地の角にある民家の一角にあるのが大蔵庚申神社である。この旧道を挟んで北側が砧、南側が大蔵になる。

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昔の道路は川を渡るときには直角に橋を架ける。この旧道もまた然り、谷戸川を越える橋を直角にするためにこういう道筋になっていると考えるのが自然である。そして橋の東側の民家の敷地に大蔵庚申神社がある。神社というよりも庚申堂が3棟、そのうち庚申塔が入っているのは1棟だけである。

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庚申塔があるのは真ん中(上の写真の右側)の堂宇である。 造立年などは分からない。青面金剛+三猿の板状駒型の庚申塔である。見た感じはそれほど時代を遡る石肌ではない。

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ただしこの大蔵庚申神社から横根稲荷神社を経て南への道も古道で、古い鎌倉街道のひとつだったと言われる。現在では砧公園になってしまったが、谷戸川沿いに下っていった街道だったのだろう。前述の横根村は明治8年に大蔵村に編入されて、稲荷神社は大蔵氷川神社に合祀された。ところがそれ以降この地で天災や疫病が続いたので、人々はお稲荷さんの祟りだと恐れ、現在の場所に稲荷神社を戻したといういきさつがある。

場所   東京都世田谷区大蔵1丁目6

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三本杉の地蔵様(世田谷区砧)

環八通りと世田谷通りの立体交差点を三本杉陸橋と呼ぶ。かつての登戸道(世田谷通り)はサミットの南側を通り、NHK放送技術研究所前で現在の世田谷通りの筋に戻っていた。三本杉の地名はこの旧道から南に行った横根稲荷神社に由来するらしい。

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小さな神社だが以前から旧小字横根の鎮守として稲荷講の信仰を集めていた。 この神社に昔あった杉の木は、根元部分に大きな空洞があり、上部は三又に分かれていたので、三本杉のお稲荷様と呼ばれていたという。 他にも三本杉に関しては説があって特定できないが、古い街道筋だけに杉の大木の三本位はあったのかもしれない。

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この辺りの世田谷通り旧道は写真のようにくねっていていかにも旧道らしい。緩やかな坂を下ると谷戸川という小河川を渡る。谷戸川は祖師ヶ谷大蔵東側から流れ、砧公園を縦断して、岡本静嘉堂文庫下で丸子川に注ぐ。丸子川というのはいわゆる次太夫堀で、江戸時代初期に掘られた用水である。

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世田谷通り旧道が環八に出る手前にサミット砧店の駐車場の裏入口があるのだが、そこに地蔵堂が立っている。説明板も何もない上に、区の資料にも載っていない。 造立年も、もしかしたら裏側に掘られているのかもしれないが、全く分からない。

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しかし『ふるさと世田谷を語る』の砧のところに、古老への聞き取り内容が資料として残されていた。 まさにこのブロックにお住いのY氏でおそらく大正末年生まれくらいの古老の話と手書きの地図を見ると、この場所に「お地蔵様」と書かれている。 昭和9年頃と地図には書かれているので、この地蔵は当時から間違いなくここに鎮座していたもの。

古老の語りでは、三本杉は200mくらいの間に、団子屋、めし屋、花屋、篭屋、床屋、駄菓子屋、八百屋、製粉工場などが立ち並び、三本杉というバス停もあって渋谷と国領を結んでいたという。道路北側には欅の大木の並木があり、根が張っていて、人々はそれに腰を下ろして休憩していたらしい。残念ながら現在はケヤキは1本も残っていない。

場所  東京都世田谷区砧1-1

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宇山路傍の庚申塔(世田谷区桜丘)

世田谷通りのトヨタディーラーから一方通行出口を入り少し進むと畑が広がる。この先の丁字路を右折すると久成院と宇山稲荷神社がある。これらの細道はすべて江戸時代からの村道で、少しくねった道筋が昔の道であることを物語る。環八通りができる遥か昔、登戸道(世田谷通り)が東西に走り、南北に何本かの村を結ぶ道があった。この道は廻沢村、船橋村から岡本村、用賀村へ繋がる道である。

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丁字路には農家の直売所がある。 その脇に野ざらしの庚申塔が立っている。造立年は享保4年(1721)、駒型のこじんまりとした塔で、青面金剛像と三猿が描かれている。下部に願主の8人の名が彫られているが、すべて名字がなく伊左衛門、半兵衛、徳右衛門などの名前だけでそれがむしろ微笑ましい感じがした。

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こういう野仏は早々に取り払われることが多い中で、まだ農地が残るエリアだからこそ現代まで存続しているのはとてもありがたい。

場所   東京都世田谷区桜丘4丁目14−14

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2019年4月20日 (土)

久成院と野仏(世田谷区桜丘)

現在の世田谷区桜丘はかつての横根地区と宇山(ウザン)地区からなる。宇山地区は世田谷通り以南、環八以西の一部も含んでいた。宇山という字名の由来については、二子玉川の北側、東名高速以南の地域を今も宇名根と呼ぶが、その宇名根村の人がこの地域に入植して開墾したため、宇名根山屋という村名で呼んだのが起こりだという。宇山地区の鎮守は宇山稲荷神社だが、もともと小さな稲荷だったようだ。

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宇山稲荷神社の向かいにあるのが久成院(クジョウイン)。 南照山久成院東耀寺が正式な寺名だが、地元では久成院で通っている。創建年代は不明だが、開山したと伝えられる良尊法師の没年が元和6年(1615)ということから、江戸時代初期の開山と思われる。宇名根から入植した関係で、宇名根にある観音寺の末寺と言われる。また宇名根の観音寺は深大寺の末寺なので、本山は深大寺。

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久成院の山門を入るとすぐ左側に庚申塔の堂宇がある。三基並んでいるが、中央は地蔵立像で、左右が庚申塔である。


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真ん中の地蔵立像は念仏講によるものだろうか、造立は天和2年(1682)と彫られている。五代徳川綱吉が生類憐みの令を発する少し前、江戸もかなり安定した時期で、世田谷のこの辺りも江戸に野菜等を供給する農村として人口が増え始めた時代である。

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左側の庚申塔は青面金剛を三猿が支える典型的なもの。板状駒型で造立年は地蔵立像と同じ天和2年(1682)である。右側の庚申塔も板状駒型で似ているが、造立年は宝暦4年(1754)と時代が少し新しくなる。

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本堂の右手に回り込むと六地蔵がある。宇山(宇名根山屋と彫られている)の念仏講中によるもので、宝暦13年(1763)の造立。周辺には多数の石像石柱石仏があり、周辺が開発されるにつれてここに移設されたものたちなのだろうかと推察してしまう。

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昭和初期の馬頭観音などもあり、戦前までは牛馬による農村生活があったのだろう。上の写真の右側の石仏は道標の上に地蔵が載っているもので、この地蔵は首なし地蔵と呼ばれてかつては桜丘小学校(筆者自宅の最寄り小学校)の傍らにあったもの。「左 村中道 右  府中道」とあり、昔小学校の真ん中を府中道が通っていた時代のものであろう。地蔵の造立は寛延元年(1748)とある。

久成院はかつての農村の姿を現代に残してくれる貴重な存在である。

東京都世田谷区桜丘4丁目13 

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2019年4月19日 (金)

けこぼ坂庚申塔(目黒区上目黒)

目黒区役所は現在上目黒にある。中目黒駅から近く、東急東横線の東南の駒沢通り沿い。ここは高度経済成長期まではアメリカンスクール、そこに1966年(昭和41年)に千代田生命の本社が建てられた。その優美な建物をそのまま利用して、2003年から目黒区役所になっている。私がこの駅寄りの目黒銀座に住んでいたのは1976年~1978年だから、認識の上では完全にここは千代田生命の広大な本社敷地だった。

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目黒区役所の駒沢通り側の緊急車両出入り口脇に大谷石で組まれた荘厳な堂宇に包まれた1基の庚申塔がある。 けこぼ坂庚申塔と呼ばれている。この駒沢通りの坂道がけこぼ坂と呼ばれるのは、坂の傾斜を緩やかにするために切通しの工事を行ったが、両側の土手の赤土がむき出しになり崩れやすくなったという。こういう赤土を土地の方言で「けこぼ」といい、それがそのまま坂名になったもの。

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庚申塔の造立年は元禄8年(1695)とある。舟型青面金剛+三猿のオーソドックスなもの。駒沢通りは江戸時代から上目黒村と中目黒村の村境であると同時に、碑文谷村に向かう街道でもあった。さらに祐天寺までは江戸町奉行の管轄で、江戸の範囲内とされた特別な地域。 坂下の正覚寺辺りには正覚寺や祐天寺詣でをする江戸っ子のための水茶屋があったりもしたそうである。詳しくは坂道『けこぼ坂』のページにて

場所 東京都目黒区上目黒2丁目10

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2019年4月18日 (木)

中目黒八幡神社(目黒区中目黒)

目黒川周辺の住居表示は目黒、中目黒、下目黒、上目黒とあって、目黒川の上流東横線付近が上目黒、そこから下流に向かって、中目黒、目黒、目黒通り以南が下目黒となる。明治時代までは上目黒村、中目黒村、下目黒村、三田村とあり、現在の住所の目黒は三田村を含んでいる。この辺りでは三田が最も古い地名かもしれない。田町の三田はかつては御田とも書き、江戸時代は町奉行領で、目黒の三田は大名屋敷の拝領が多かったが、ルーツは同じ武蔵国の御田郷である。

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現在の中目黒は駒沢通以南、田道までを中目黒という。寺社を見る場合、江戸時代や明治以前の村境を意識するとそのテリトリーが分かりやすいが、上目黒、中目黒、下目黒はほぼ江戸時代の村域に近い。中目黒八幡神社はとても古い神社で古くから中目黒村の鎮守として村の中心になっていた。ここは目黒川右岸の河岸段丘にあたり、鳥居前の標高が11mに対して社殿の標高は21mと10mの高低差がある。この先は500m南西の祐天寺でも標高25mだからなだらかな台地の端である。

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そういう地形なので境内には神泉と言われる湧水もある。 現在は水脈が枯れてしまい、井戸水を深いところから汲み上げているが、昔はこの崖線にはあちこちに湧水があった。崖があって高低差がある周辺は高級住宅街になっていて、SMAPの某メンバーの豪邸もすぐ近くにある。昭和の頃はそんな高級住宅街ではなかったのだが、平成に入った頃から中目黒は人気の街になってしまい、古くからあった目黒銀座などの人情風情は消えてしまった。

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境内の階段脇にさざれ石がある。『君が代』の詞に出てくるあのさざれ石である。意味としては「小さな石」だが、火山の噴火で石灰岩が分離してまた集積し凝固した岩石で、全国のあちこちでこれを祀る神社がある。地質学上では石灰質角礫岩という。現在は採掘禁止の石材らしいが、戦前の法制化以前に入手したため無事神社の宝としてここに鎮座している。

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境内には多くの巨樹がある。そのため、都会の中の鎮守の森という雰囲気を味わえるところになっている。森も水も豊かという土地であることから、境内では縄文時代の土器なども発掘されており、「八幡神社裏遺跡」と名付けられている。

場所  東京都目黒区中目黒3丁目10−5

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2019年4月16日 (火)

めぐろ歴史資料館前の庚申塔(目黒区中目黒)

めぐろ歴史資料館は分かりにくい場所にあるが、かつての目黒区立第二中学校の跡地で建物をそのまま利用した施設である。2006年に生徒数減少のため統合され廃校になった。今世紀に入って消え去った東京都心の小中学校は極めて多い。校舎の中程が資料館の入口になる。昔ながらの赤ポストがあったりしてレトロ感を出しているが、2008年に作られた比較的新しい資料館である。

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外観はほとんどかつての中学校である。しかしこういう廃校利用の施設はあちこちにある。いいことだと思う。中に入ると、右手に資料館の入口がある。大昔の目黒、古代、中世、近世と展示が並ぶ。これは他の区の資料館とほぼ同じ。いっぽう前庭には五輪塔や道標などの石造物が展示されている。中の展示と違ってこちらは本物である。

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屋外展示は道標が多い。田道橋道標など大正期という新しいものもあるが、宿山組道標は寛政11年(1799)の造立で江戸の中期にあたる。これは道標であるが、青面金剛像があることから庚申塔である。

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庚申塔の正面下部には、北 ほりの内 あわしま 道、右側には せたヶ谷道、左側には 江戸 あさふ 道、裏には ゆうてん寺 めくろ 道とある。以前の所在地は不明だが、資料館では上目黒1丁目あたりと推察している。個人的な見解だが、目黒川が蛇行して入り組んでいた上目黒村と中目黒村の村境あたりにあったのではないだろうか。現在でいうと中目黒日比谷線事故慰霊碑のあるガードだというのが私の推理である。ここは確かに上目黒1丁目、当時すぐ裏手には目黒元富士という富士講の富士もあり、新坂(といっても江戸時代の坂)が目切坂から分かれてこの辻に下りてきている。 ここは村境でもあり、交通の要所でもあったのである。

場所  東京都目黒区中目黒3丁目6−10

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大鳥神社の庚申塔(目黒区下目黒)

大鳥神社境内の大聖院寄りに8基の石塔が並んでおり、その中に4基の庚申塔がある。整理された印象で、目黒村のどこかから集められたものであろう。どれも江戸時代前期から中期にかけてのものである。

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真ん中の注連縄のある自然石型の石碑の右に3基の大型の庚申塔、すぐ左手に小さな庚申塔がある。

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一番右の庚申塔は唐破風笠付の角柱型青面金剛と三猿のもの。造立年は元禄元年(1688)とある。 下部には8人の施主の名前が刻んである。

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右から二番目は、駒型の青面金剛像+三猿の庚申塔。造立年は宝永元年(1704)と彫られている。

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右から3番目の庚申塔は中でも最大のもの。青面金剛像+三猿は同じ。 造立は一番右と同じく、元禄元年(1688)とある。

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最後は左側にある小さな庚申塔。 駒型文字庚申塔で三猿のみのようだ。 しかし造立年はこれが最も古く、延宝3年(1675)である。

周辺の主な寺社仏閣の創建年を比べると、目黒不動龍泉寺が大同3年(808)、大鳥神社も大同3年(808)と同じ年になっている。目黒不動の開基は円仁(慈覚大師)という天台宗の名僧で、全国に多くの寺を開いた。比叡山延暦寺をはじめとして、山形山寺の立石寺、中尊寺、毛越寺など700余りの寺を開いている。大鳥神社が同じ年に創建しているのがたまたまなのか、あるいは円仁に関係しているのか興味の湧くところである。

場所  東京都目黒区下目黒3丁目1−2

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大鳥神社(目黒区下目黒)

山手通り(環状6号線)と目黒通りの立体交差点角にあるのが大鳥神社。アンダーパスになっている大きな交差点名も「大鳥神社」で、江戸時代から今日までずっと下目黒のランドマークである。神社の由緒は日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征にゆかりがあるそうで、創建は大同元年(806)と目黒区では最古の神社らしい。目黒通りを挟んだ西側には昔、金毘羅大権現があったが明治時代に廃寺となった。大鳥神社交差点から西側の目黒通りは緩やかな坂になっており、この坂の名前が金毘羅坂と呼ばれ、今でも名前の痕跡として残る。⇒金毘羅坂のページ

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幹線道路が拡幅されて境内は狭くなってしまったというものの江戸時代から境内はそれほど広くはなかったようだ。しかし11月の酉の市は東京でも有数の賑わいを見せ、酉の市としては都内で最も古いものと言われる。江戸時代は、目黒三社(目黒不動、大鳥神社、金毘羅大権現)は特別な賑わいの行楽地だった。

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古江戸9社というのは、根津神社、湯島天神、神田明神、牛嶋神社(向島)、王子神社、金王八幡宮(渋谷)、赤坂氷川神社、築土神社(飯田橋)とここである。古江戸の時期は、太田道灌が江戸にはいった長禄年間(1457~1461)の頃をいうが、実はあまり明確ではない。大鳥神社は江戸名所図会にも描かれており、それによると目黒通り沿いには小川が流れていたようだ。 

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大鳥神社の狭い境内にある御神木がアカガシである。樹木の前に説明板がなく、離れたところに立っているが、玉垣で囲まれた枯れた巨木が元都指定天然記念物のオオアカガシである。通常のアカガシとは異なるものとして貴重なものだそうだ。平成に入ってからは枯死していることが確認され、ついに平成24年に天然記念物指定が解除された。それでもまだ石碑は「都天然記念物大鳥神社のオオカガシ」と彫られて立っている。

場所  東京都目黒区下目黒3丁目1−2

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目黒の切支丹燈籠(目黒区下目黒)

目黒区の寺社を歩いていて面白いものに出合った。切支丹燈籠である。最初に禁教令(バテレン追放令)をを発したのは、天正15年(1587)の豊臣秀吉だった。ただしまだ取り締まりは緩かったようである。江戸時代徳川の世になり、最初は不況は黙認されていたが、慶長17年(1612)になると幕府は江戸・京都・静岡での布教を禁止、ここから10年くらいの間でかなりの迫害が行われた。それでもこっそりと信仰をするものもいて、燈籠の竿(柱)にキリスト教の像らしきものが彫られた切支丹燈籠が作られた。東京都内で十数基のみという希少なものだが、大鳥神社とその別当寺大聖院に4基がある。

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大聖院の入口にあるのが3基の切支丹燈籠。これらは織部式燈籠とも呼ばれる。もとは権之助坂の上にある三田千代が崎にあった旧島原藩松平主殿守の下屋敷(後に大村伯邸となる)の林の中の小祠内にあったが、大正15年(1925)にここへ移された。これらは徳川幕府の弾圧を受けた隠れキリシタンが庭園の祠に礼拝物として密かに隠しておいたものだと言われている。とてもレアなものなのである。

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旧島原藩松平家の下屋敷は地図の右上、朱線を引いた部分である。そして大鳥神社と大聖院は左下の朱で囲んだ部分。目黒のこの崖線には島原藩の他、現在の雅叙園周辺を熊本の細川家、上の古地図の中央の緑部分は後の時代には久留米藩の下屋敷となっており、九州の大名の下屋敷がここに集まっているのは何か切支丹との関係があるのだろうか、などと想像してしまう。

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大鳥神社にはもっと燈籠っぽい形の切支丹燈籠がある。これも同じく島原藩屋敷にあったものらしい。時代はキリシタン弾圧が激化した、寛永(1624~1644)・正法(1644~1648)・慶安(1648~1652)から江戸初期~中期にかけて造られたものと推定されている。品川駅からプリンスホテル脇の柘榴坂を上ると、坂上には江戸の殉教者顕彰碑がある。「江戸の大殉教」と言われ、1623年に徳川家光によって、外国人宣教師を含む50人を市中引き回しの上、高輪の丘で火あぶりの刑にした。それに続いて女子供の区別なく、タレコミなどでばれると処刑され、江戸全体では2000人が殺されたという惨い事件である。

大聖院  東京都目黒区下目黒3丁目1−3

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蟠龍寺の石仏たち(目黒区下目黒)

山手通り沿いに参道があるお寺。特に立派な山門があるわけではないので見落としがちだが、山手七福神の弁財天を祭る寺である。門からは車も人と一緒に侵入する。入口の石柱には、「岩屋辨天」と彫られているが、それは山手七福神の弁財天のこと。

蟠龍寺は慶安元年(1648)に称明院として行人坂近くに開かれ、後の宝永6年(1709)に増上寺の僧が称明院蟠龍寺として現在地に改名再建した。江戸時代から大鳥神社から目黒不動への道すがらにあり、参詣者も多かっただろう。

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山手通りから門をくぐり少し進むと数段の石段、その脇にこじんまりと佇むお地蔵さんは荷葉地蔵。造立は元禄11年(1698)。台座の下に過度の丸い石があり、その下の台座が六角形で、上面に荷葉(蓮の葉)がの彫刻が付いているために荷葉地蔵と呼ばれる。

そのまま奥の本堂手前まで進むと、いかにも寺院の庭という雰囲気の池があり、その裏手におしろい地蔵と呼ばれる地蔵が堂宇に守られている。(堂宇は最近作られたものらしい)

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この地蔵は、関東大震災で被災をしたため、浅草からここに移されたもの。顔が欠けているお地蔵様だが、その昔、顔に痘痕(あばた)のある娘が、そのために人並みの結婚が出来ず悩んでいた。ところがこのお地蔵様に願掛けをしたところ痘痕が消え、幸せな生涯を送ることができたという。

江戸時代には歌舞伎役者がおしろいに含まれる鉛の害に苦しみ、おしろいをお地蔵様の顔に付けて願を掛けたと言われ、その風習が現在まで続いている。顔だけでは幸せになれないもので、逆にそのことを諭しているという理解の方が教えらしい気がするが。

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さらに奥の本堂裏手に進むと洞窟があり、窟屋弁天が祀られている。これが山手七福神のひとつ。もっとおどろおどろしい洞窟かと思ったが、綺麗で明るい洞にちょっと落胆。弁財天だけに境内の池が関係しているのだろうかと思い調べたが明確な資料はなかった。ただ、目黒不動の湧水や羅漢寺川跡の湧水など、目黒川右岸にはいくつかの湧水や湧水跡があり、「日本地下水学会」の資料には蟠龍寺の湧水という記述もあったので、元々はここに湧水があり、それで弁財天が置かれたと思われる。

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蟠龍寺の境内にはあちこちに年代物の石仏がある。本堂前にポツンと置かれている上の地蔵尊は彫られた文字を読んでみると、寛文13年(1673)とある。寛文年間は9月21日に延宝に年号が変わっているからその年の前半だろう。

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また草むらにぽつんと置かれていたこの石仏は、貞享年間(1684~1688)。これ以外にも300年超えの石仏があちこちに置かれている。寺の説明板には境内には元禄11年(1698)の地蔵尊があると書かれているが、それ以前のものもいくつも存在する。1709年にここに移転してきたときに周囲から集められたものなのか、それ以降にここに移されたものなのかはわからない。

しかし石仏をじっと眺めている不審人物にうつりはしないか一抹の不安を持ちながら、それでも眺めていると結構なタイムスリップができるのである。ちなみに蟠龍寺は江戸名所図会にも描かれていて、それは ⇒こちら。

 

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成就院の庚申塔と地蔵(目黒区下目黒)

蛸薬師成就院の山門脇に地蔵や庚申塔が並んでいる。歴史のあるお寺なのに意外と数は少ない。

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真ん中の背の高い台に載っている地蔵は橋和屋地蔵と呼ばれる。蓮花台の上にやさしい顔のお地蔵さまがある。金剛宝地蔵菩薩、不動の門前にあった橋和屋という料亭の主人が、若くして他界した愛娘を偲んで天保10年(1839)に建立したと伝えられる。橋和屋は江戸時代末期、ハリスの通訳をしていたオランダ人ヒュースケンを殺害した尊王攘夷派の7人の薩摩藩士たちが秘密会議をした場所である。ヒュースケンは万延元年(1860)外国人襲撃事件の初めての犠牲者となった。

ヒュースケンは麻布中ノ橋付近で殺害された。大江戸線の赤羽橋駅付近である。墓所は天現寺ランプの傍の光林寺にある。古川の五の橋が近い。光林寺にはヒュースケン墓所までの案内図も掲げられている。

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左手にあるのが庚申塔。高さもあり、保存状態も良い。江戸時代中期、元禄9年(1696)造立の、笠付青面金剛に三猿の立派な庚申塔である。またこの庚申塔は正面上部にアーンクの種子(ジュシ)が模られ、屋根の造詣も細かい。アーンクとは梵字(サンスクリット)で、密教では神仏を表現するための特殊な文字のひとつ。私にはよく分からないが、うちの仏壇の掛け軸にもそれらしき文字が書かれていた。

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蛸薬師成就院のお静地蔵(目黒区下目黒)

江戸時代の西の大行楽地目黒不動の参道に面して興味深いお寺がある。通称蛸薬師、天台宗成就院である。蛸薬師の呼び名は、本尊が三匹の蛸が支える蓮華座にのる薬師如来像であるため。開山は古く天安2年(858)慈覚大師によるものとされる。目黒不動も慈覚大師の開山と伝えられ、そちらの開山は大同3年(808)らしいから、成就院は50年遅れて開かれたことになる。慈覚大師(円仁)は794年~864年に生きた人なので、若くして目黒不動を開き、老いて成就院を開いたことになる。目黒不動は14歳の時だから、本当だろうかと考えてしまう。彼が最後の遣唐使として二度の失敗の後、唐に漂着したのが838年(30歳)と昔の偉人は早熟かつアクティブだったのかもしれない。

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境内は比較的こじんまりとしているが、見どころは満載。本尊の蓮華座の蛸も慈覚大師の遣唐使のエピソードを反映している。中でもお静地蔵は最も有名。お静というのは、徳川二代将軍秀忠の側室。彼女が我が子保科正之の栄達を祈念してお静地蔵を奉納したもの。保科正之は後に兄弟である三代将軍家光の計らいで、信州高遠城主、山形城主、会津藩城主と国替えをしながら最後は23万石の殿様となった。

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地蔵は普通六地蔵なのだが、ここは7体。真ん中の一段と高いのが阿弥陀如来。あとは右側に観音が3体(十一面観音、聖観音、准胝(ジュンチ)観音)、左の3体は地蔵(金剛願地蔵、金剛幡地蔵、金剛宝地蔵)。年代は不詳だが、お静の方の奉納ということから江戸時代初期ではないかと思われる。お静の方は秀忠の寵愛を受けて子供を授かることを祈願して、まず右の観音像3体を奉納、めでたく男子が産まれると、左の地蔵3体をを奉納したという。後にその子が保科正之として大名になると、真ん中の阿弥陀如来像を大願成就として奉納した。

 

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2019年4月15日 (月)

比翼塚(目黒区下目黒)

小泉・ブッシュの居酒屋会談や、映画『Kill Bill』で一躍有名になった西麻布の権八。 店名の由来は江戸時代の人物として歌舞伎に登場する白井権八だそうだが、実はこの白井権八はとんでもなく悪いやつであった。ところがこの権八の話はいろいろと広がっていく。歌舞伎のための創作なのか、どこまでが史実なのかはわからない。わからないが面白い。

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目黒不動尊の立派な山門(仁王門)前に小さな比翼塚がある。比翼塚というのは、愛し合って死んだ男女、心中した男女、あるいは仲睦まじかった夫婦を一緒に葬った塚のことである。この比翼塚は、「権八・小紫の悲話伝える比翼塚」という説明板が立っている。彼らはここには眠っておらず、後に歌舞伎の演目で有名になり、行楽地の目黒不動の門前に築いたものである。

その話は、目黒不動から少し東にある禿坂(かむろざか)の小さな遊園地にも書かれていた。

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今から300年ほど前の話、数々の悪事を重ねた鳥取藩の武士、平井権八郎直定(歌舞伎では白井権八)が鈴ヶ森で処刑され、目黒の冷心寺の僧に引き取られ葬られた。かねてから権八と相愛であった吉原三浦屋の花魁の小紫は目黒へ急ぎ向かい、権八の墓前で自害してしまった。三浦屋の主人は小紫を心配して、小紫のかわいがっていた娘を迎えに行かせた。(花魁の付き人である少女はおかっぱ頭にしていたので禿:かむろと一般的に呼んでいた。)

かむろが目黒に着くと、すでに小紫は息がなかった。泣きながらかむろが帰途につき、桐ケ谷近くに差し掛かった時、突然暴徒に襲われ逃げきれず、目の前にあった二ツ池に飛び込んで死んでしまった。それを見た村人はかむろを哀れに思い、丘の中腹に丁重に葬り、かむろ塚と呼んでいた。その話が現代にまで坂名として残っているのである。

個人的には、権八と小紫の悲話よりも、かむろの悲話の方がよっぽど可哀想だと思う。権八は金に困り、辻斬りをして稼いでいたお尋ね者で、現代でいうと通り魔連続殺人犯である。同情には値しない。なお、比翼塚が現在の場所になったのは最近のことで、昭和中期までは商店街の道を林試の森公園方向に50mほど西進したところにあった。また権八を引き取った寺は目黒不動の参道にあったが明治初年に廃寺となった東昌寺。現在は痕跡もない。

 

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2019年4月14日 (日)

青木昆陽の墓所(目黒区下目黒)

  青木昆陽の名に初めて出会ったのは小石川植物園だった。園内の中央に甘藷試作跡という石碑があった。享保20年(1735)に青木昆陽がサツマイモの栽培を試みた場所である。日本橋の生まれだと言われるが、京都に行き儒学を学んだ後、儒学者として江戸に戻った。南町奉行所の大岡越前守忠相に取り立てられ、時の将軍徳川吉宗からも重用された。そんな青木昆陽の墓所が目黒不動の裏手にある。

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目黒駅から行人坂を下って太鼓橋を渡り、目黒不動、青木昆陽墓所へは高低差のある道のり。勿論目黒川が長い年月をかけて武蔵野台地を削った結果なのだが、不思議なのは目黒駅側の台地の標高と、青木昆陽墓所・目黒不動の標高が10mほど違う点である。これは同じ武蔵野台地でも形成された時代が異なるためで、目黒駅側は約15万年前~7万年前に形成された地質で、目黒不動側は7万年~1万8千年前と新しい。東京23区の地質はこの2種類と、川によって運ばれた土砂堆積地質の3種類でほぼ形成されている。

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山手通りから路地を入ると、急に丘になり階段で上る。この階段道は目黒不動尊の裏手の道になる。青木昆陽墓所にはもう一つ、五百羅漢寺店前から上る南ルートもあるが、こちらも長い階段になる。この五百羅漢寺前の道は高度経済成長期前までは羅漢寺川という川が流れ、太鼓橋下流で目黒川に合流していた。青木昆陽墓所のある目黒不動の墓地は川に削られた岬にあたる場所なのである。そのため青木昆陽の墓所はとても見晴らしのいい場所にある。

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青木昆陽は通称甘藷先生と呼ばれて親しまれている。近しい人々からは文蔵と呼ばれた。儒学者となって江戸に戻ってからは強力なバックボーンを得て、書物方となり、書物奉行まで上った人物だが、吉宗の命で蘭学も学びマルチな能力を発揮した。享保20年(1735)に『蕃薯考』を書き、享保の飢饉以降の食物飢饉への対策を進言した。その結果、後の天明飢饉や天保の飢饉の際にも餓死者を防ぐことが出来、世間からは甘藷先生と呼ばれて尊敬された。

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甘藷先生は目黒不動でも厚く祀られている。上の写真は目黒不動尊の裏口だが普段は閉鎖されている。しかし毎月28日は解放される。そして10月28日には「甘藷祭り」が、青木昆陽を偲んで現在も行われている。以前は命日である10月12日に行われていたが、戦後から毎月28日の目黒不動の縁日に合わせて変更された。

ちなみにサツマイモが日本に入ってきたのは江戸時代になってから。琉球を経て、鹿児島に伝わったので、サツマイモという訳である。

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2019年4月13日 (土)

大円寺境内の庚申塔(目黒区下目黒)

大円寺の境内には様々な魅力的な石造石塔がある。その中ではほどんど見向きもされていないと思われる3基の庚申塔だが、保存状態も極めて良好で、かつとても大きい。素直な感想としては、補修されているような気がしなくもない。人間でいえば整形手術である。江戸時代初期の野仏でこれだけきれいなものはまず見たことがない。

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山門を入ってすぐ、右に首を振ると一般的な庚申塔の数倍の大きさの立派な庚申塔が3基並んでいる。手前の黒御影石の説明石柱はごく最近のもの。庚申信仰が天台宗のもののように書かれているが、あくまでも民間信仰なので違和感がある。一番右の板碑型庚申塔は造立が寛文8年(1667)の三猿のみのもの。

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真ん中の笠付は貞享元年(1684)の造立。もっとも大きな左側の庚申塔は、寛文7年(1667)とある。あまりの状態の良さにつくづく驚くとともにどうすればこんな状態にできるのかを知りたくなった。

ちなみに庚申塔の脇には高い石塔があり、「行人坂敷石造道供養碑」とある。高さは164㎝、行人坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々のために目黒不動や浅草観音に参詣し、人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、安全な道にしたという碑文が記されている。行者の代表は西運である。

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2019年4月12日 (金)

大円寺(目黒区下目黒)

目黒の行人坂にある大円寺については、これまで行人坂の項目や目黒川架橋供養製紙菩薩石像の項目でも書いたが、ここでは大円寺そのものについてというテーマでまとめてみたい。 行人坂は数ある東京の坂道の中でも代表格の坂だろう。 江戸時代は目黒不動への参詣道として江戸庶民ならだれもが知る坂道だった。

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天台宗松林山大円寺の由緒は、江戸の初期、元和年間(1615~1624)に山形湯殿山の行人、大海法印が建てた道場としての大日如来堂に始まると伝えられる。境内に入ると、真ん中の本堂を挟んで、右手に阿弥陀堂、左手に釈迦堂と3棟が並ぶ。右の阿弥陀堂には、弥陀三尊が祭られ、お七地蔵の木像も安置されているそうである。本堂は大黒天を祭り、山手七福神の一つとされている。釈迦堂には重要文化財である寺の本尊釈迦如来像が安置され年に数回のみ御開帳となる。

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境内で目立つのは向かって左手の崖の斜面一面に並ぶ五百羅漢の石像であろう。目の前に圧倒する五百羅漢はそれぞれに表情が異なり、いつまで見ていても飽きることがない。520体ほどあるというこの石仏は、行人坂火事の犠牲者の供養のために石工により50年をかけて造られたと伝えられている。江戸の街は焼けることを前提に造られた街だった。 それでもここで出火した火事が神田から千住までを焼き尽くすとは恐ろしいことである。昨今、磯田道史氏らの活躍で災害の歴史から学ぶ姿勢が進んでいるが、高層ビル化が進んでも意外と災害には脆いのではないかと思う。過去から学ぶ姿勢を忘れてはならないだろう。

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五百羅漢の手前に面白い地蔵がある。とろけ地蔵という。江戸時代品川沖で漁師の網にかかって出現された地蔵尊で、庶民の悩みを解消してくれるご利益があるという。この手の地蔵はしばしば幽霊地蔵として祀られることが多いが、ここでは見た目のままを表現した呼び名になっているのが面白い。脇には摩尼車(まにぐるま)という念仏車のピカピカの新品がある。1回回すとお経を一遍読んだのと同じご利益があるとされているが、これだけ新しいと疑問を感じるから不思議である。

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前述の寺の本尊である釈迦如来像だが、「旧国宝」の重要文化財となっていた。どう見ても格下げにあったように思えてしまうが、それについての説明は見当たらない。この本尊は、建久4年(1193)に造られた寄木造りの釈迦如来像で重文指定は昭和32年となっているから、国宝は戦前の話であろうか。

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2019年4月11日 (木)

目黒川架橋勢至菩薩石像(目黒区下目黒)

行人坂を下ったところにある目黒川に架かる橋は太鼓橋というが、現在は何の味気もない普通の橋。 しかし江戸時代は魅力的なアーチ石橋で、これを渡って人々は目黒不動参りに行った。「太鼓橋」というテーマで過去に記載した通りである。 太鼓橋に下る行人坂の途中に江戸三大火事の行人坂火事の火元である大円寺がある。

この火事は別名明和の大火とも呼ばれ、明和9年2月29日に放火により大円寺から出火した火事は、南西からの風にあおられ、麻布・京橋・日本橋を襲い、武家屋敷を焼き尽くし、神田・千住まで広がった。死者は14,700人、行方不明は4,000人を超えた災害だった。被害規模としては明暦の大火に次ぐ大火事である。

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大円寺の坂上(実際は大円寺の敷地らしい)に勢至堂がある。中には目黒川架橋勢至菩薩石造が祀られている。造立年は宝永元年(1704)で、菩薩像自体は52㎝程の高さだが蓮座、台座を含めると169㎝になる。なかなか立派なお堂で、後ろの壁の上部には板書きが掲げられている。板書きには勢至堂菩薩の延喜が延々と書かれている。

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台座にも同様の延喜が彫られている。要約すると、大円寺の名僧西運が目黒川に橋を架けるのに、目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、その途中で人々の施しを受け、これを基に目黒川の両岸に石壁を造り、アーチ式の太鼓橋(石橋)を架けたとある。時代を遡った天和年間に火事の避難先の本郷駒込の円林寺で寺の若僧の吉三に恋をした八百屋お七が、避難から帰宅したのちも彼を忘れられず、火事になればまた会えると放火をして捕まり、市中引き回しの上鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられてしまった。

この話は様々な方面で取り上げられ、中でも井原西鶴の『好色五人女』や数々の歌舞伎のお七シリーズが有名である。この吉三はお七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国巡礼し、江戸にもどってからは目黒川の架橋を祈願して念仏行を続けたという。お七の事件は1670年代で、行人坂火事は1772年だから100年も時代が違うが、火事繋がりで江戸っ子にはウケたのだろう。

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堂宇の外にも新しめの石像が立っている(何の像かわからない)。菩薩とは、悟りの段階の高さで「天部」「明王」「菩薩」「如来」と上がっていく三番目の仏の姿である。菩薩のひとつである勢至菩薩は、阿弥陀如来の脇侍として観音菩薩と対になるように控える菩薩。菩薩にはいろんな種類があるが、例えば文殊菩薩は智慧、虚空蔵菩薩は記憶力など。 勢至菩薩は強い智慧で無知な衆生が地獄道・餓鬼道・畜生道に落ちないように救う役割を果たすものと信じられている。

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2019年4月10日 (水)

茶沢通り村田屋横の庚申堂(世田谷区北沢)

小田急線が地上を走っている時代は開かずの踏切で使い物にならなかった茶沢通りが、小田急地下化に伴って抜け道になり、多くのタクシーや営業車が走るようになって久しい。スズナリ横丁の先の交番前の踏切(跡)を過ぎると茶沢通りがなぜかクランクしており、その真正面に「傘履物 村田屋」という看板の商店と庚申堂がある。1980年頃この庚申堂の裏手の一角に私は住んでいた。だからとても懐かしいのだが、当時村田屋は下駄屋として営業していたが、最近は開いているのを見たことがない。とうの昔に廃業してしまって看板だけが残っているのだろう。

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ならびにある庚申堂も昔のままである。このクランクは不思議だが、江戸時代古地図でもクランクになっている。 おそらくは江戸時代からここには庚申堂があったのだろう。30mほど東側には森厳寺川が流れていた。高度成長期までは開渠だったが、東京五輪前後に暗渠化された。それ以前はこの庚申堂より東側は湿地帯で、大正期までは田んぼでもあった。森厳寺川の東側は下山谷という小字、西側はなぜか薩摩という小字だった。江戸時代から明治にかけての呼び名だが、慶長11年(1606)から元禄7年(1694)まで薩摩藩の抱屋敷がここにあったという記録がある。ここから南は現在は下北沢駅を中心とする大密集繁華街だが、数日前に書いた南口商店街出口の北沢庚申堂までは江戸時代初期には全く民家がなかったというから信じられない。

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堂宇には3体の庚申塔が祀られている。向かって左の角柱型の庚申塔は延宝5年(1677)のもの。シンプルだが青面と両横に猿が彫られている。右側の庚申塔は上部が欠損してしまっている。青面金剛像に三猿のオーソドックスなものだが、元禄5年(1692)とこれも古い。

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真ん中の庚申塔は不思議で、裏面に掘られたのは明治32年(1899)とずっと時代が先になる。板状駒型の庚申塔である。しかし正面に刻まれているのは元禄5年(1692)なのでどちらが正しいのかは不明だが、おそらくは修繕されたのが明治でオリジナルは元禄なのだろうと思う。これら3基とも江戸時代初期に薩摩藩抱屋敷のあった時代のものということで、300年を遥かに超えた時代を教えてくれているようだ。

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この庚申堂の裏の村田屋の増床部分がまた何とも昭和っぽくてうれしくなる。下見板張りの外壁は素晴らしい技術だと思う。気温差の少ない潮風の吹く島の民家などは塩の影響が少ない為か多いように思う。デザイン的には令和の時代にもむしろノスタルジック・モダン的に支持されるのではないかと思う。さて、いつまでこの景色がみられるでしょうかねえ。

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2019年4月 9日 (火)

大原一丁目の地蔵と庚申塔(世田谷区大原)

環七を挟んで西側の羽根木と相対するのが大原、その南が代田。東松原駅前から環七の羽根木交差点を抜け笹塚に至る道は、地元では羽根木道あるいは代々木道といわれた古くからの街道で鎌倉道中ノ道と言われる。羽根木から来て環七を渡ると大原だが、すぐ南は代田で、大原と代田の町境にあたる道に地蔵と庚申塔が並んで堂宇に収まっている。細街路だが、どの道も明治初期からある古道。その三角辻にある。

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この辺りに家が立ち並び始めたのは関東大震災以降のことである。それ以前は畑地で、北沢川の支流の谷の谷頭にあたる場所だった。湧水もあったようで、地蔵の場所の標高が41mほど、その下の40m以下のエリアには水田もあった。この沢は流下すると、京王井の頭線新代田駅の東側を抜け、下北沢南口商店街の南出口辺りで北から流れてきた森厳寺川と合流し、代沢小学校のところで北沢川に注いでいた。そんな谷頭にあるのは、ここで昔から農業が営まれていたからであろう。

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向かって左手は青面金剛像と三猿の庚申塔。元禄6年(1693)の造立である。右手の地蔵立像も同じく元禄6年(1693)の銘が彫られている。こういう農村由来の野仏は過去の記録がなく、いろいろなことを想像して楽しむしかない。参考になるのは古い地図と、東京なら1m単位で標高のわかる地形図、明治後期以降だがどこに水田があり、どこが畑で、どこが林だったかが克明詳細に判り、当時の風景を想起するのに役立つ。

 

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2019年4月 8日 (月)

羽根木の子育地蔵尊(世田谷区羽根木)

羽根木は京王井の頭線・京王線・環状七号線に囲まれた地域の住居表示だが、戦前は小田急線梅ヶ丘駅の北側まで羽根木町であった。 梅丘というのは新しい地名で、小田急線の梅ヶ丘駅ができてから付けられたものである。なので、羽根木公園の住所が梅丘なのに何故羽根木公園なのかという疑問に対しては、昭和に入ってから地名が羽根木から梅丘に代わったためだと言えるのである。

ちなみに梅ヶ丘駅に対する地名の梅丘という違いについては理由が不明である。梅丘の地名の由来については、小田急の社史によると、世田谷代田(昔の名前は世田谷中原)と豪徳寺の間の新駅である梅ヶ丘駅が出来た時に駅名を考えた。その中で辺りはもともと北沢窪という地名で、かつて一基の古墳があり、梅ヶ丘は埋ヶ丘に因む命名とする説と、この地の大地主(相原家)に梅の古木があり、家紋も梅を模ったものだったことに由来するという説があった。大地主宅を訪れていた関係者が相原家の家紋を見て、これに因んで梅ヶ丘というのはどうかと同意、小田急に提案して採用されたという話がある。

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梅ヶ丘駅から羽根木公園の西側を北上、松羽稲荷神社前を抜け、京王井の頭線東松原駅、環七羽根木交差点と繋がる曲がりくねった道が、鎌倉時代の鎌倉道中ノ道という古道である。その鎌倉道沿いの羽根木もまた古くからの地名で、言い伝えでは、昔から樹木が多く茂っていて、いろいろな鳥が飛んできて止まるので、鳥の羽根と合わせて羽根木になったと言われる。

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東松原駅から450mほど北上したところにきれいな囲みをされた地蔵堂と数基の庚申塔が祀られている。羽根木の子育地蔵と呼ばれている。地蔵の造立は、明和6年(1769)で羽根木村念仏講中とある。敷地の端に立て札があり、そこに地蔵の説明書きがある。しかし別説では享保18年(1733)という造立年も伝えられ、どちらかはよく分からない。

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この子育地蔵尊の謂れは、今から約300年前の享保年間(1716~1735)に遡る。永年に渡って天候が悪く、米、麦、粟などの穀物が不作で食べるものも少なく、その上疫病が流行して農民たちが苦しんでいた時のこと、ある夜、地蔵菩薩が一人の老人の夢枕に立って言った。「私を石橋のほとりに祀りなさい。そうすれば困ることのないようにしてあげよう。」というお告げであった。その後もお告げは毎夜続いた。

当時この石橋の近くには宇田川家があって、その裏の杉林辺りからは清水が湧き出し、松原方面へ流れていた。老人はさっそく村人と話し合い、当時沼地で葦が生繁っていた一里塚の傍に地蔵尊を祀った。村人が一生懸命にお参りを続けるうちに、天候も安定して豊作となり、疫病もなくなって安心して暮らせるようになった、と言い伝えられいる。

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地蔵堂の向かって左手には、3基の石仏があり、一番左の小さな馬頭観音は表面が欠損しているが、造立は明治31年(1896)のもの。地元の宇田川家が死んだ馬の供養のために建てたと言われる。残りの2基は庚申塔。真ん中の舟形光背型の庚申塔は寛文11年(1671)と彫られている。右の一番大きな舟形光背型の庚申塔は貞享4年(1687)の造立である。

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堂宇右手には笠付の庚申塔が2基並んでいる。ともに唐破風型笠付の庚申塔。 右側の庚申塔の造立は宝永3年(1706)、左側は天和元年(1681)である。羽根木村はよくこれらの庚申塔を守ってきたものだと感心するが、名家宇田川家の尽力も大きかったのだろう。梅ヶ丘駅の南側でも広い敷地のお屋敷で宇田川家を見かけた。世田谷の宇田川家は吉良氏の家臣が土着したものと思われる。

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2019年4月 7日 (日)

梅丘の稲荷と庚申塔(世田谷区梅丘)

2013年9月に数十年来の計画道路が一部開通した。世田谷通りの東急世田谷線世田谷駅前から梅丘へ抜ける道で、工事期間だけでも20年近くかかっている。世田谷区にはこういう道路が多い。新道が通ると旧道がぶった切られるわけで、この新道は滝坂道を横切って南北に走っている。滝坂道は尾根筋の街道で、交差点の梅丘二丁目からは南方向も北方向も下り道である。

昨今、魔の交差点と言って狭くて信号が付かないという話が出るが、テレビで放送される程度の交差点は世田谷区なら結構信号が付いている。単なる公安委員会の言い訳ではないかと思うのだ。

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さて南側の下り坂の途中から西に入る路地に稲荷神社と庚申堂が並んでいる場所がある。いずれ開発による撤去が起こるかもしれないような場所である。庚申塔は一基のみ。 板状駒型で青面金剛像に三猿の典型パターン。 造立は宝永5年(1708)とある。富士山の宝永大噴火の翌年の造立である。

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路地奥で南北に走る路地に合流するが、この南北の道を北に進むと滝坂道を横切って杓子稲荷神社に達する。従って、この南北の細路地は江戸時代以前の鎌倉道だと考えられる。 今はほぼ完全に住宅街だが、鎌倉時代から室町時代にかけては、街道の交差する交通の要衝だったはず。また室町時代に世田谷を支配していた吉良氏の世田谷城の地形上の東の端はこの辺りになる。曲がりだらけの路地を歩いていると、室町時代の記憶が刻まれているのを感じることが出来る。

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2019年4月 6日 (土)

豪徳寺滝坂道の地蔵堂(世田谷区豪徳寺)

江戸時代、滝坂道は調布仙川で甲州街道と分岐し、渋谷道玄坂で大山道と出合うまでの街道だった。 江戸時代以前は甲州街道はまだなく、国府のあった府中と青山を結ぶ主要幹線が滝坂道だった。 この滝坂道は豪徳寺北部でクランク状に曲がっている。江戸時代以前ここには松原宿という滝坂道の宿場があった。現在の豪徳寺1丁目と梅丘2丁目の境に松原宿はあった。クランクの前後は奇妙なS字カーブになっている。

これは吉良氏が世田谷城主の頃、滝坂道を重要街道としながらも防御の観点から街道の松原宿部分をクランクにしたと伝えられる。世田谷城は北に北沢川の湿地帯、南に烏山川の湿地帯が広がり、東西を抑えればかなり強固な防御を行うことが出来る立地になっている。東には駒場東大前の近くに多聞寺砦という出城が築かれ、西には閑村にもかかわらずいくつもの寺社がある。これらも防御のためである。

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現在はというとほぼ路地の道幅だが、クランクの西側の角に地蔵堂がある。30年ほど前からこの滝坂道は私にとって環七、甲州街道、世田谷通りの渋滞を回避するための抜け道だった。当時は昔の街並みが多く残っていたように思う。下見板張りの大正昭和の家屋はもう僅かしかのこっていない。

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地蔵堂の裏手(実際は角地)には二百坪はあろうかという昭和の邸宅があったが2018年から建替えられている。しかし地蔵堂を守っていただけたようで喜ばしいことである。地蔵の造立は宝暦6年(1756)、また見落としがちだが堂宇の向かって右手脇に小さな馬頭観音がある。こちらは明治42年(1909)のものである。

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滝坂道は環七以西は細街路だが、地元の古老の描いた手書き地図を見ると、この地蔵の角を曲がる滝坂道はバス通りと書かれている。昭和の初期まで滝坂道は重要なバス路線でもあったようだ。当時は舗装もされていなかっただろう。まさに田舎のバスが砂利道を走る風景が100年前にはここにあったという訳である。

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2019年4月 5日 (金)

宮坂1丁目の庚申堂(世田谷区宮坂)

滝坂道は現在の渋谷と調布市の滝坂を結ぶ甲州街道の裏街道であった。その一部が淡島通りになっているが、他は概ね古道のまま道幅をちょっと拡幅した程度で残っている。滝坂道は豪徳寺の裏手から経堂駅に抜けていくが、その途中の辻に庚申堂がある。特に名前はないので宮坂1丁目の庚申堂としておく。

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上の写真の右側の道が滝坂道だが、実は滝坂道はここで北の道と南の道に行ったん分岐する。左の南ルートが旧村道で、右の北ルートが滝坂道ということになっている。経堂駅の北で再び合流するが、両方の道筋にいくつかの野仏が残っている。世田谷区は広いので区役所の支所もこういう路地に民家に混じってひっそりとあるのだが、経堂支所もまた同様に右側の道筋の途中に消防署と近接してある。 引っ越してこられた方などは探し当てるのも大変だろう。

堂宇の向かって右には庚申塔、左には地蔵らしき石像が並ぶ。左の地蔵は実は大乗妙典の供養塔。法華経の経典を祭ったものらしい。造立は宝暦11年(1761)とある。

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右手の青面金剛像は下に三猿を描いた庚申塔。 時代は正徳元年(1711)である。道の分岐点だが道標的な内容は彫られていない。願主の名前は12人ほどあるが、名字が小川4人、大場2人、蓑口2人であとはばらばら。室町時代の世田谷城に近いが街道筋なので各地から集まっている可能性もありそうだ。大場家は名家で昔は代官、最近では世田谷区長を輩出している。中世世田谷城主吉良家の重臣で、吉良家滅亡後は土着帰農している。世田谷代官屋敷にある茅葺古民家は大場家である。

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2019年4月 4日 (木)

経堂天祖神社(世田谷区経堂)

神社の系統は多様である。稲荷神社が最も多く、次に八幡神社、天神(天満宮)、神明社、諏訪神社、春日神社、八坂神社など様々だ。その中で天祖神社というのも意外に多いように思う。地域の一宮の場合を除いて、だいたい本社があり、天祖神社の場合は伊勢神宮内宮である。 同じ伊勢神社を本社とするのは神明神社で、祭神やお使いも同じなので兄弟社としていいだろう。

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自宅から二番目に近い神社がこの経堂天祖神社。 小さな神社であるが歴史は古い。 実は神社の宮司の娘さんがうちの長女の友人だったりする極めてローカルな話だ。創建は室町時代後期と伝えられる。天祖神社だが経堂在家村の村社で、稲荷神社、北野神社を合祀している。土地に伝わる話では、永正5年(1507)の創建となっていた。

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本殿もこじんまりとしている。昭和51年までは茅葺屋根の社殿があった。元の社殿は現社殿の左側にあるが、参道をまっすぐに進むと元の社殿が正面になる。以前からなぜ参道が折れ曲がっているのか不思議に思っていたが、社殿の建替えによるものだった。この経堂天祖神社、ふと気が付くと神社のホームページを持っている。なかなか出来のよいサイトで、訪問される場合は一度見てみると良い。

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経堂天祖神社で必見なのは境内左奥にひっそりと祀られている胞衣塚(えなづか)。胞衣というのは赤ん坊が産まれる時のおくるみを紙などでくるんで納めたもの。 明治時代の終わりころまで各地で普通に行われていた。さらに昔には胎盤なども納めたという。文京区の根津神社は徳川6代将軍家宣の生まれた場所に築かれた産土神で、胞衣塚がある。

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2019年4月 3日 (水)

北沢庚申堂(世田谷区北沢)

下北沢は昨今、駅の地下化で行くたびに街が大変貌している。3ヶ月行かないと変わっているほどの急激な変化である。しかし、駅から少し離れると意外に多くの野仏が残っている。これは昭和からの街の変貌を知る者にとっては驚異的ともいえる奇跡である。戦後の焼け野原から闇市などで復興してきた下北沢。 私がここを本拠地にしていたのは1970年代後半で、ビルもせいぜい3階どまりの時代。開かずの踏切前には、バックスバニーでヴォーカルをしていた金子まりさんの実家の葬儀屋。その向かいには太陽神戸銀行。開かずの踏切を渡って北口に行くと戦後バラックに好き勝手に店が開かれていた。Cimg2127 一方の南口商店街はかつての下北沢本村への道に開かれた商店街。 その出口に北沢庚申堂がある。 この庚申堂の前に餃子の王将があるが、そこは昔、北沢湯という銭湯だった。その上のマンションに当時住んでいたのが、金子まりさんと同時期に人気だったロッカーに変貌したカルメン・マキ。もう少し道を下っていくと下北沢ロフトがあり、シュガーベイブ(山下達郎・大貫妙子ら)がしばしばライブをしていた。Cimg2133  昭和時代のこの街はそんな若者のエネルギーに満ち満ちた熱い街だった。 もちろんこの庚申堂はその頃からここにあったし、それまでもずっとここにあったはず。浮かれて徘徊する自分をこの庚申様は見ていたのだと、今になって思う。堂宇は立派なもので、注連縄があり、その下には北沢庚申堂と書かれた扁額もある。ただ迷惑行為の絶えない街なのできちんと施錠はしてある。Cimg2132 この堂宇の中の庚申塔だが、私が庚申塔に興味を持って巡り始めた中でも極めて珍しいタイプのものである。 燈籠型というのだろうか、赤い布の下は数段の宝塔のようになっているが、どちらかというと登山道に積んであるケルンのようで、平たい石を重ねてある。区の古い資料によると、元禄・享保の頃、道標として重宝がられ、道中の安全を祈るものだったという。造立年は不明だが、元禄だとすると1688年~1703年、享保だとすると1716年~1735年、どうしてその間の宝永年間や正徳年間でないのかが気になるが、300年程度ここにあるのは間違いない。 堂宇脇の石柱が気になったが一体何なのかは不明。ただしこの石柱も昭和時代からここに同じようにあり続けている。

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2019年4月 2日 (火)

北澤八幡神社(世田谷区代沢)

代沢にあるのに北沢八幡神社とはこれ如何に? とはいっても現在の住所(住居表示)は昭和後期に決定されたもので、土地の記憶をとどめていないものが多い。元々は下北沢村だったのが南北に分かれて、それが昭和39年の大幅な住所変更で北沢と代沢になった。森厳寺と北沢八幡の辺りは室町時代からの本村で台地の端、東西に流れる北沢川に北から2本の沢が合わさり森厳寺のすぐ南で 合流していた。Cimg2111 森厳寺の東側にある北沢八幡はさらに台地の上に建っている。創建はおよそ500年前の文明年間(1469~1484)、世田谷北部の守護神として当時の世田谷城主吉良氏が勧請した。正式な名称は本殿の扁額に書かれていて、「七澤八社随一正八幡宮」という。七澤というのは何だろうと思ったがよく分からない。Cimg2114 現在の拝殿は大正期に建替えられたもの。後ろの本殿は嘉永5年(1852)、神楽殿は明治26年(1893)と火災などで焼失した関係でまちまちになっている。村の鎮守で本殿脇にはいくつもの境内社がきれいに保たれている。産土社は池の上から池尻にかけてあった大池の主の龍神を祀ったもの。七澤八社のうちの多くをここに集合しているようだ。Cimg2119 拝殿前には富士山遥拝所として江戸時代に富士山から運ばれてきた溶岩を積み上げた富士塚が盛られている。この脇から西の低地を望むと、彼方に富士山が見える。訪問時は気温が高くかなり霞んでいたが、朝方であればかなりくっきり見ることが出来る。Cimg2122 実はこの北沢八幡宮の神職を務めていたひとりに、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之がいる。1980年代後半のことらしく、私が下北沢をテリトリーにしていた時代から10年ほど後のことである。彼ならずとも、この台地の境内から富士を望めば心が洗われる。 神社というのはどこも絶妙な立地にあることに毎度感心する。

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2019年4月 1日 (月)

森厳寺(世田谷区代沢)

下北沢村は室町時代開墾当時は民家が3軒しかない野原だった。大正期まで代沢の一角の小字に三軒家という地名があった。世田谷城主吉良家の家臣膳場氏が土着し開墾したと伝えられる。 今では若者が原宿並みに集まるエリアになっているが、昔は閑村だったのだ。 その代沢に森厳寺が開山されたのは慶長13年(1608)。徳川家康の次男秀康の位牌所として建てられた寺である。Cimg2101山門は意外にも質素な造り。 この寺の開基とされる徳川家康の次男結城秀康は家康と於万の方の子で、於万の方は正室築山殿の女中だった。兄が亡くなり本来ならば徳川家を継ぐ立場だったが、戦略上小牧長久手の戦いの和解条件として、秀康は10歳で豊臣家に養子に出されてしまう。その後、豊臣秀吉に実子が誕生すると、婚姻で茨城県下総国結城家の家督を継ぎ、徳川家の下で戦乱を戦った。上杉景勝の牽制に成果を上げ、関ケ原の合戦後越前67万石の藩主となるも、34歳で他界した。その時の遺言で江戸の地に一寺を建立し位牌所とするよう願ったのが、秀康の死後森厳寺となって具現化された。Cimg2104森厳寺の本堂は意外に質素で、二度の火災に遭い、現在のものは昭和39年(1964)に建てられたものである。山門と本堂の間に2本の大銀杏がある。 この銀杏は開山当時からある樹齢400年の古木で、世田谷区の保存樹木というだけではもったいないくらいだ。 境内のレイアウトはこの銀杏を中心に造られているという。Cimg2102銀杏の木の傍には淡島の灸で名をはせた淡島堂がある。境内に勧請された淡島明神でのお灸が人々の間に「淡島の灸」として広まり流行、お灸をしてもらうために二日三日も順番を待つほどだったという。『江戸名所図会』にも描かれている。現在も最初の写真にあるように、山門に淡島の灸の木札が取り付けてある。境内にはその他、不動閻魔堂、針塚、弁財天などがある。Cimg2108上の写真は淡島堂。灸と針供養で有名なお堂で、この建物は境内内で最も古いもので、天保7年(1876)築。裏手の墓所には昔、富士塚があったが、現在は東隣にある北沢八幡宮に移設されている。この富士塚の調査は今世紀に入ってから本格的に行われ、森厳寺富士塚と呼ばれたが、実はただの盛土でできた山で富士塚ではないという研究結果も報告されている。そうすると北沢八幡宮の境内にある溶岩でつくられた富士塚は一体何だということになる。その辺は民間信仰でもあり、あまりこだわりすぎても面白くないし正しくない。 若干のミステリーがあるくらいで丁度いいのではないかと思う。

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