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2019年4月14日 (日)

青木昆陽の墓所(目黒区下目黒)

  青木昆陽の名に初めて出会ったのは小石川植物園だった。園内の中央に甘藷試作跡という石碑があった。享保20年(1735)に青木昆陽がサツマイモの栽培を試みた場所である。日本橋の生まれだと言われるが、京都に行き儒学を学んだ後、儒学者として江戸に戻った。南町奉行所の大岡越前守忠相に取り立てられ、時の将軍徳川吉宗からも重用された。そんな青木昆陽の墓所が目黒不動の裏手にある。

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目黒駅から行人坂を下って太鼓橋を渡り、目黒不動、青木昆陽墓所へは高低差のある道のり。勿論目黒川が長い年月をかけて武蔵野台地を削った結果なのだが、不思議なのは目黒駅側の台地の標高と、青木昆陽墓所・目黒不動の標高が10mほど違う点である。これは同じ武蔵野台地でも形成された時代が異なるためで、目黒駅側は約15万年前~7万年前に形成された地質で、目黒不動側は7万年~1万8千年前と新しい。東京23区の地質はこの2種類と、川によって運ばれた土砂堆積地質の3種類でほぼ形成されている。

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山手通りから路地を入ると、急に丘になり階段で上る。この階段道は目黒不動尊の裏手の道になる。青木昆陽墓所にはもう一つ、五百羅漢寺店前から上る南ルートもあるが、こちらも長い階段になる。この五百羅漢寺前の道は高度経済成長期前までは羅漢寺川という川が流れ、太鼓橋下流で目黒川に合流していた。青木昆陽墓所のある目黒不動の墓地は川に削られた岬にあたる場所なのである。そのため青木昆陽の墓所はとても見晴らしのいい場所にある。

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青木昆陽は通称甘藷先生と呼ばれて親しまれている。近しい人々からは文蔵と呼ばれた。儒学者となって江戸に戻ってからは強力なバックボーンを得て、書物方となり、書物奉行まで上った人物だが、吉宗の命で蘭学も学びマルチな能力を発揮した。享保20年(1735)に『蕃薯考』を書き、享保の飢饉以降の食物飢饉への対策を進言した。その結果、後の天明飢饉や天保の飢饉の際にも餓死者を防ぐことが出来、世間からは甘藷先生と呼ばれて尊敬された。

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甘藷先生は目黒不動でも厚く祀られている。上の写真は目黒不動尊の裏口だが普段は閉鎖されている。しかし毎月28日は解放される。そして10月28日には「甘藷祭り」が、青木昆陽を偲んで現在も行われている。以前は命日である10月12日に行われていたが、戦後から毎月28日の目黒不動の縁日に合わせて変更された。

ちなみにサツマイモが日本に入ってきたのは江戸時代になってから。琉球を経て、鹿児島に伝わったので、サツマイモという訳である。

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