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2019年4月10日 (水)

茶沢通り村田屋横の庚申堂(世田谷区北沢)

小田急線が地上を走っている時代は開かずの踏切で使い物にならなかった茶沢通りが、小田急地下化に伴って抜け道になり、多くのタクシーや営業車が走るようになって久しい。スズナリ横丁の先の交番前の踏切(跡)を過ぎると茶沢通りがなぜかクランクしており、その真正面に「傘履物 村田屋」という看板の商店と庚申堂がある。1980年頃この庚申堂の裏手の一角に私は住んでいた。だからとても懐かしいのだが、当時村田屋は下駄屋として営業していたが、最近は開いているのを見たことがない。とうの昔に廃業してしまって看板だけが残っているのだろう。

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ならびにある庚申堂も昔のままである。このクランクは不思議だが、江戸時代古地図でもクランクになっている。 おそらくは江戸時代からここには庚申堂があったのだろう。30mほど東側には森厳寺川が流れていた。高度成長期までは開渠だったが、東京五輪前後に暗渠化された。それ以前はこの庚申堂より東側は湿地帯で、大正期までは田んぼでもあった。森厳寺川の東側は下山谷という小字、西側はなぜか薩摩という小字だった。江戸時代から明治にかけての呼び名だが、慶長11年(1606)から元禄7年(1694)まで薩摩藩の抱屋敷がここにあったという記録がある。ここから南は現在は下北沢駅を中心とする大密集繁華街だが、数日前に書いた南口商店街出口の北沢庚申堂までは江戸時代初期には全く民家がなかったというから信じられない。

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堂宇には3体の庚申塔が祀られている。向かって左の角柱型の庚申塔は延宝5年(1677)のもの。シンプルだが青面と両横に猿が彫られている。右側の庚申塔は上部が欠損してしまっている。青面金剛像に三猿のオーソドックスなものだが、元禄5年(1692)とこれも古い。

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真ん中の庚申塔は不思議で、裏面に掘られたのは明治32年(1899)とずっと時代が先になる。板状駒型の庚申塔である。しかし正面に刻まれているのは元禄5年(1692)なのでどちらが正しいのかは不明だが、おそらくは修繕されたのが明治でオリジナルは元禄なのだろうと思う。これら3基とも江戸時代初期に薩摩藩抱屋敷のあった時代のものということで、300年を遥かに超えた時代を教えてくれているようだ。

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この庚申堂の裏の村田屋の増床部分がまた何とも昭和っぽくてうれしくなる。下見板張りの外壁は素晴らしい技術だと思う。気温差の少ない潮風の吹く島の民家などは塩の影響が少ない為か多いように思う。デザイン的には令和の時代にもむしろノスタルジック・モダン的に支持されるのではないかと思う。さて、いつまでこの景色がみられるでしょうかねえ。

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