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2019年4月 8日 (月)

羽根木の子育地蔵尊(世田谷区羽根木)

羽根木は京王井の頭線・京王線・環状七号線に囲まれた地域の住居表示だが、戦前は小田急線梅ヶ丘駅の北側まで羽根木町であった。 梅丘というのは新しい地名で、小田急線の梅ヶ丘駅ができてから付けられたものである。なので、羽根木公園の住所が梅丘なのに何故羽根木公園なのかという疑問に対しては、昭和に入ってから地名が羽根木から梅丘に代わったためだと言えるのである。

ちなみに梅ヶ丘駅に対する地名の梅丘という違いについては理由が不明である。梅丘の地名の由来については、小田急の社史によると、世田谷代田(昔の名前は世田谷中原)と豪徳寺の間の新駅である梅ヶ丘駅が出来た時に駅名を考えた。その中で辺りはもともと北沢窪という地名で、かつて一基の古墳があり、梅ヶ丘は埋ヶ丘に因む命名とする説と、この地の大地主(相原家)に梅の古木があり、家紋も梅を模ったものだったことに由来するという説があった。大地主宅を訪れていた関係者が相原家の家紋を見て、これに因んで梅ヶ丘というのはどうかと同意、小田急に提案して採用されたという話がある。

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梅ヶ丘駅から羽根木公園の西側を北上、松羽稲荷神社前を抜け、京王井の頭線東松原駅、環七羽根木交差点と繋がる曲がりくねった道が、鎌倉時代の鎌倉道中ノ道という古道である。その鎌倉道沿いの羽根木もまた古くからの地名で、言い伝えでは、昔から樹木が多く茂っていて、いろいろな鳥が飛んできて止まるので、鳥の羽根と合わせて羽根木になったと言われる。

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東松原駅から450mほど北上したところにきれいな囲みをされた地蔵堂と数基の庚申塔が祀られている。羽根木の子育地蔵と呼ばれている。地蔵の造立は、明和6年(1769)で羽根木村念仏講中とある。敷地の端に立て札があり、そこに地蔵の説明書きがある。しかし別説では享保18年(1733)という造立年も伝えられ、どちらかはよく分からない。

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この子育地蔵尊の謂れは、今から約300年前の享保年間(1716~1735)に遡る。永年に渡って天候が悪く、米、麦、粟などの穀物が不作で食べるものも少なく、その上疫病が流行して農民たちが苦しんでいた時のこと、ある夜、地蔵菩薩が一人の老人の夢枕に立って言った。「私を石橋のほとりに祀りなさい。そうすれば困ることのないようにしてあげよう。」というお告げであった。その後もお告げは毎夜続いた。

当時この石橋の近くには宇田川家があって、その裏の杉林辺りからは清水が湧き出し、松原方面へ流れていた。老人はさっそく村人と話し合い、当時沼地で葦が生繁っていた一里塚の傍に地蔵尊を祀った。村人が一生懸命にお参りを続けるうちに、天候も安定して豊作となり、疫病もなくなって安心して暮らせるようになった、と言い伝えられいる。

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地蔵堂の向かって左手には、3基の石仏があり、一番左の小さな馬頭観音は表面が欠損しているが、造立は明治31年(1896)のもの。地元の宇田川家が死んだ馬の供養のために建てたと言われる。残りの2基は庚申塔。真ん中の舟形光背型の庚申塔は寛文11年(1671)と彫られている。右の一番大きな舟形光背型の庚申塔は貞享4年(1687)の造立である。

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堂宇右手には笠付の庚申塔が2基並んでいる。ともに唐破風型笠付の庚申塔。 右側の庚申塔の造立は宝永3年(1706)、左側は天和元年(1681)である。羽根木村はよくこれらの庚申塔を守ってきたものだと感心するが、名家宇田川家の尽力も大きかったのだろう。梅ヶ丘駅の南側でも広い敷地のお屋敷で宇田川家を見かけた。世田谷の宇田川家は吉良氏の家臣が土着したものと思われる。

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