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2019年4月 6日 (土)

豪徳寺滝坂道の地蔵堂(世田谷区豪徳寺)

江戸時代、滝坂道は調布仙川で甲州街道と分岐し、渋谷道玄坂で大山道と出合うまでの街道だった。 江戸時代以前は甲州街道はまだなく、国府のあった府中と青山を結ぶ主要幹線が滝坂道だった。 この滝坂道は豪徳寺北部でクランク状に曲がっている。江戸時代以前ここには松原宿という滝坂道の宿場があった。現在の豪徳寺1丁目と梅丘2丁目の境に松原宿はあった。クランクの前後は奇妙なS字カーブになっている。

これは吉良氏が世田谷城主の頃、滝坂道を重要街道としながらも防御の観点から街道の松原宿部分をクランクにしたと伝えられる。世田谷城は北に北沢川の湿地帯、南に烏山川の湿地帯が広がり、東西を抑えればかなり強固な防御を行うことが出来る立地になっている。東には駒場東大前の近くに多聞寺砦という出城が築かれ、西には閑村にもかかわらずいくつもの寺社がある。これらも防御のためである。

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現在はというとほぼ路地の道幅だが、クランクの西側の角に地蔵堂がある。30年ほど前からこの滝坂道は私にとって環七、甲州街道、世田谷通りの渋滞を回避するための抜け道だった。当時は昔の街並みが多く残っていたように思う。下見板張りの大正昭和の家屋はもう僅かしかのこっていない。

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地蔵堂の裏手(実際は角地)には二百坪はあろうかという昭和の邸宅があったが2018年から建替えられている。しかし地蔵堂を守っていただけたようで喜ばしいことである。地蔵の造立は宝暦6年(1756)、また見落としがちだが堂宇の向かって右手脇に小さな馬頭観音がある。こちらは明治42年(1909)のものである。

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滝坂道は環七以西は細街路だが、地元の古老の描いた手書き地図を見ると、この地蔵の角を曲がる滝坂道はバス通りと書かれている。昭和の初期まで滝坂道は重要なバス路線でもあったようだ。当時は舗装もされていなかっただろう。まさに田舎のバスが砂利道を走る風景が100年前にはここにあったという訳である。

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