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2019年5月31日 (金)

稲荷森稲荷神社境内の庚申塔(世田谷区桜丘)

以前、地元の稲荷森(トウカモリ)稲荷神社前の庚申塔について書いた。今回はその稲荷神社の境内にある庚申塔の話である。この稲荷神社の創立は不明だが、室町時代だと言われている。境内には横根三等三角点(標高43.06m)があり、現在は地中にGPS付の設備で埋設されている。同じ植込みの中に1基の庚申塔がある。

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角柱型の文字庚申塔で、造立は文政9年(1826)。道標を兼ねている。正面には「庚申塔」の文字、下部に念仏講中、南 二子道、とある。左面を見ると、西 登戸道、右面は 東 青山道、裏に回ると 北 高井戸道 とある。

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江戸時代の地図を見ると、神社の東側の細道が南北に走り神社の近くで四つ辻になっていた。神社の前の通りは昔は六郷田無道と呼ばれた街道。また東側の細路地は江戸以前の鎌倉街道の一つ、船橋ルートの一部になっており、その辻にあったものだろうと思われる。北に進むと滝坂道と交差して甲州街道方面へ抜ける。南側はほぼ村道になるが、品川用水を越えていくつもの道があったようだ。

場所  世田谷区桜丘2丁目9-3

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2019年5月30日 (木)

笹塚庚申堂と笹塚(渋谷区笹塚)

京王線笹塚駅の「笹塚」の地名の由来が駅前甲州街道を渡った先にあることを知る人は多くない。昔、この辺りの甲州街道の南北両側に、直径1mほどの塚があった。その上には笹(竹)が生い茂っていたことから、この地は笹塚と呼ばれるようになった。またその塚はある説によると、江戸時代の初め、慶長9年(1604)に大久保長安によって造られたという。大久保長安は元武田信玄の家臣だったが、後に家康に仕え、金銀の発掘や一里塚の整備、町間尺の里程標を構築した当時のトップ官僚である。1里=36町、1町=60間、1間=6尺という基準を全国に徹底させた人物。

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既に笹塚は残っていないが、説明板がタイムスパークの植込みに立っている。新宿(内藤新宿)の追分からちょうど1里(4㎞)の距離である。ただし他の街道の一里塚はかなり立派なものなのにここは残されていないのが残念である。文献では天保14年(1843)の時点では両側に塚があったとある。

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笹塚から200mほど西に進み、郵便局の手前の路地を入ると立派なお堂があり、庚申塔が1基祀られている。笹塚庚申堂である。駒型で青面金剛像と三猿が彫られている。造立年は元禄13年(1700)である。庚申講は概ね農民の民間信仰だったが、ここではなぜか商売の神様に仕立て上げられてしまった。今でも商売繁盛を祈願してお参りする人が多いという、不思議な話である。

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実はこの庚申堂の1本西の路地裏のアパートに1年余り住んでいたことがある。四畳半、共同炊事場、共同トイレのボロアパートで、家賃が13,000円だったと思う。大原交差点が近く、あまりに空気が悪くて病気になりそうなので短期間で引っ越した。1970年代の終わり頃のことである。当時もここには庚申堂があったはずだが、全く記憶にない。

場所  渋谷区笹塚2丁目20-1

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2019年5月29日 (水)

一本松の庚申塚(中野区南台)

中野区南台は幡ヶ谷の北、方南通り以南のエリアの住居表示。南台の南エリアを北東から南西に走る古道は江戸時代からの道で、その途中に一方万津の庚申塚がある。辺りの江戸時代の地名は雑色村。

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一本松の庚申塚の造立は、地元の言い伝えによると明和年間(1764~1771)に雑色村の人々が共同で庚申塔と地蔵尊を祀ったのが始まりと言われる。また区の教育委員会の資料によると『中野町史』によれば、数百年前に西国の武士が3人、この地で亡くなり、その供養のために塚が築かれたと記されているらしい。

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庚申塚は第二次世界大戦の時に空襲で焼け、原型を失ってしまったが、地域の人々の協力で昭和25年(1950)に同じ場所に再建された。堂宇の中に青面金剛像、邪鬼、三猿の庚申塔がある。隣には小さめの地蔵立像があるが、その土台にも原型を留めないほど破壊されたので再建したとある。

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堂宇手前に建つ自然石の板石(庚申塚と彫られている)は昭和45年(1970)に建てられたもの。どれもが新しくなっていることに戦災の凄さを感じてしまう。堂宇右手には、古い破壊された庚申塔の破片なのかどうかは分からないが、らしき石片が積み上げられている。

関東大震災以前にはこの辺りにはほとんど民家はなかった。それでもこの場所に庚申塚が築かれたのは、雑色村と幡ヶ谷村の村境が近く、西に行くとほんの数分で和田村だった。いわゆる村の外れで、そういう場所には野仏が置かれる。江戸時代はそんな場所だったはずである。

場所   中野区南台4丁目47-1

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2019年5月28日 (火)

神橋跡(渋谷区幡ヶ谷)

以前に西新宿の淀橋庚申堂の話に登場した「ゆでめん」の横の暗渠、神田川笹塚支流(和泉川)を上流に辿ると、渋谷区本町(幡ヶ谷駅北側エリア)で南北に分かれる。二つの水流はどちらも京王線代田橋駅付近を源頭にして東に向かって流れていた。細流だが侮れない。東京の地形は武蔵野台地をこういう細流が削って出来上がっている。北流と南流はその間に湿地帯(水田地帯)を形成しながら流下していた。

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前述の中幡庚申塔の前の道を東に進み最初の路地を北に進むと、道路が少し盛り上がっている。見ると両側に4本の親柱がひっそりと残っている。この道路の盛り上がりは橋をそのまま埋めて舗装したからであろう。この橋の下を流れていたのは北流である。

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神橋は「かみはし」と読む。和泉川北流で唯一残る橋跡である。橋の竣工は昭和4年とある。なぜ神橋なのかはわからない。親柱4本を残したのは工事費用が掛かるからで、理由の如何にかかわらず残してくれることはうれしいことである。

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暗渠側から見るとこんな感じ。暗渠マニアにはこっちが主役である。60mほど南の南流を200mほど東に進んだところに武の湯という銭湯があったのだが、数年前にマンションに代わってしまった。向かいのビルにコインランドリーが名残りとして残っているが、暗渠には銭湯という好例でもあったので残念である。

場所  渋谷区幡ヶ谷3丁目38-17

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2019年5月27日 (月)

中幡庚申塔(渋谷区幡ヶ谷)

神田川笹塚支流(通称和泉川)は京王線代田橋駅付近を源頭として、複数の流れを刻み西新宿で神田川に注ぐ。上流は2本の支流が南北に分かれて東へ流れ、渋谷区本町で合流し、以前に書いた西新宿の「ゆでめん」柳橋をくぐっていた流れである。渋谷区本町から上流で一ヶ所南北の沢が用水路で繋がれていたのが中野通りと水道通りの交差点「笹塚出張所前」の少し北で、ここには高度成長期以前には3本の流れが合流していた。

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その合流地点の右岸に当たるところに中幡庚申塔の立派なお堂がある。とても立派な堂宇なので期待して覗いてみると、庚申塔が一つだけ収まっていた。説明書きを読むと意外に新しく、明治5年(1872)の造立。青面金剛像に邪鬼が彫られ、全体のバランスがいささか漫画っぽい青面金剛である。

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やはり明治になると石工の度量が下がってしまったのだろうか。しかしかえってユニークで面白いという見方もできる。いずれにせよ、庚申講中の人々が真剣に信仰してきたものであり、類稀なほどきれいなお堂を立ててあることには感心する。このお堂は庚申塔造立120年を記念して平成5年(1993)に建替えられたものである。

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堂宇の脇にひっそりと馬頭観世音が祀られている。こちらは大正11年(1922)の造立で新しい。当時はまだ周辺は農村地帯で和泉川周辺には水田が広がっていた。関東大震災以前の地図を見るとこの辺りにはほとんど民家がない。戦前までの農家では牛馬を飼い農耕に使っていた。そんな家族同然の牛馬の霊を祀る意味であちこちに馬頭観音がある。昨今、多くの馬頭観音が無下に開発で消え去るのを見て悲しい思いである。

場所  渋谷区幡ヶ谷3丁目33-1

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2019年5月26日 (日)

相州大山不動明王(中野区弥生町)

川島通りの西の端、商店街を出てバス通りを横切った先の南側にお堂がある。門柱に「相州大山不動明王」とある。江戸時代の江戸の町では富士講や大山講という山岳信仰が盛んであった。後期になるとそれらは観光旅行の様相に代わっていったのだが、もとは農民の自然への敬いからくるものであった。大山は雨乞いの山として弥生時代から信仰を受けてきた。神田川流域の農民が大山信仰に入り、大山詣でをするのは、自然なことだったのだろう。

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この不動堂の創建は天保年間(1830~1844)で、場所はここではなく少し東の四つ辻にあった。昭和の初め頃、何らかの理由で現在の場所に移された。戦災で不動堂も不動明王像も被害を受けたが、後にお堂も像も再建されている。雑色村の人々の大山信仰は深く、昭和になっても大掛かりな大山詣でが続いた。モータリゼーションの時代になるとバス数台を連ねて夏の大山詣でに出かけたそうである。

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大山阿夫利神社の主祭神である不動明王を地元のお堂に再現して、毎日のように信仰する農民の気持ちが、昭和になっても続いていたことにはいささか驚く。富士講も大山講もそれぞれ御師というツアー案内係がいて、修験者などが里に下り、各地を回ってそれぞれの信仰をプロモートした背景がある(伊勢参りや出雲詣でも同様)。この地域の大山詣では正蔵院を中心に江戸時代から発展した大山講によるものである。

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堂宇の脇にかつて四つ辻に建っていたと思われる道標があった。程度が良いので再建されたものであろう。正面には「大山道東江戸」、右面には「北 中野 堀之内 道」、左面には「南 大宮八幡 道」とある。南は方南通りに出て西へ向かうとそのまま大宮八幡宮でこれは古道である。北へ行くと中野で青梅街道に出合うが、堀之内は真西に進むべきである。これでは都心で大宮と府中が同じ方角ということになってしまう。もっとも道は沢山あるので、途中で曲がればことはないのだが。

場所 中野区弥生町4丁目3-13

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2019年5月25日 (土)

神明氷川神社(中野区弥生町)

中野区には氷川神社が多い。北から、江古田氷川神社、中野沼袋氷川神社、上高田氷川神社、中野氷川神社、本郷氷川神社、神明氷川神社と6社もある。氷川神社は水の神様と言われる。本社は大宮氷川神社、かつての武蔵国には多くの氷川神社が広がった。氷川神社は荒川流域を中心にした比較的ローカルな神社群である。埼玉県162社、東京都59社、茨城・栃木県と北海道にそれぞれ2社、神奈川・千葉県に各1社という広がりである。

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大宮氷川神社の創建は嘘か本当か紀元前473年という伝承。そして中野区の最も南にある神明氷川神社の創建は文明元年(1469)。当時武蔵国を支配していた太田道灌が、大宮氷川神社から勧請した。神明氷川神社は江戸時代の雑色村の鎮守として別当寺である正蔵院とペアで村の礎になってきた。神明と付くのは、神明社と氷川神社の合祀となったためで、神明社はもとは少し北の神田川の畔(土手)にあったもの。神明神社は伊勢神宮の系列だが、江戸時代以前の日本はおおらかにいろんな神仏をごちゃまぜにしていたのである。

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本殿前や境内、そして町内にまで、「御鎮座550年」の告知がされていた。これから資金を集めて社殿等を回収する計画らしい。大宮氷川神社にはない狛犬(見る限り獅子である)が鎮座している。こじんまりとした神社だが、現在も中野区弥生町と南台を守る神社とされている。昔は神田川流域の農業における水の神様として深く信仰されていたのであろう。

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境内には古い庚申塔などはなかったが、百度石があり説明板があった。百度石は各地の神社などで時々見かける。昔の人は特に大切な願を掛ける時に裸足になって神社を繰り返し百度お参りした。この石の謂れは分からないが、この宗教観は日本人らしくて好きである。無論、昔から自助努力なしに願いだけしては成就はしないのは当然だっただろう。120%の努力尽力をしてさらに百度参りをする姿が脳裏に浮かぶ。

場所  中野区弥生町4丁目27-30

 

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2019年5月24日 (金)

正蔵院の庚申塔(中野区弥生町)

旧川島村の正蔵院(現在は中野区弥生町4丁目)は真言宗の寺院。天文元年(1532)の創建と伝えられる。寺としての名前は海章寺。以前は宝仙寺の末寺だった。また、明治になり神仏分離されるまでは、神明氷川神社の別当であった。神仏習合、神仏分離については省略するが、明治維新の悪政の代表格だったと思う。

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本堂左手にある2基の庚申塔は両方とも中野区有形文化財に登録されている。左側にある大きいものが板碑型で下部に三猿が描かれているが表面中央部は摩耗が激しくて読み取れない。この庚申塔の造立は延宝4年(1676)と古い。また右側にあるのは、舟状駒型の庚申塔で、摩耗は激しいが中央に青面金剛像、下に三猿が彫られている。造立年は元禄元年(1688)である。

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境内にある説明板にはこれらの庚申塔の説明はないが、川住行教の墓所というのがあり、江戸時代の愛知県西尾藩の役人で、明治維新でも活躍したというが私は知らなかった。ちなみに行教の息子が元陸軍中尉の川住程三郎という人物で、彼は「中野長者の伝説」を調べ上げた人物だということである。中野長者については淀橋の悪い話と熊野神社のいい話が両方あるが、かつて中野と西新宿を支配した有力者である。

これまでにブログに登場した中野長者の話、1)蜀江坂2)十貫坂、そして中野長者鈴木九郎の話は、中野区のHPに詳しく書かれている。

場所   中野区弥生町4丁目12-1

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2019年5月23日 (木)

正蔵院川嶋地蔵堂(中野区弥生町)

向台子育地蔵尊を西に進む道を川島通りという。古い商店街の通りで、間もなく南北に走るバス通りに出る。南は方南通りへ、北は青梅街道に繋がる。この交差点の名前は川島通り入口といい、正蔵院は少し北にある。辺りは江戸時代は雑色村の東の端で、本郷村と接していた。明治時代に雑色村も本郷村も合併して中野村になった。

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正蔵院の門前の参道脇に大きな地蔵堂がある。川島地蔵堂とある。六地蔵の真ん中に大きな地蔵菩薩が立っている。中央の地蔵尊は享保10年(1725)の造立。正面の台座には、川嶋村内の善男善女が一人も欠けず皆でこれを建てたとある。両脇の六地蔵は少し後の宝暦7年(1757)に川嶋村の地蔵講中が建てたもの。 以前は正蔵院の境内にあったようだが、平成10年(1998)に参道の入口に移されたとある。

いかにも地元の人々に大切にされてきていることがわかるきれいな地蔵堂である。雑色村は大宮八幡神社を建てた時、諸雑費(雑色)をまかない土地を与えられた人々が住んだ村と言われる。昭和7年になって、雑色町という住居表示が復活したが、昭和42年には名前が消えてしまった。

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地蔵信仰が盛んな雑色村には雨乞いの行事もかつて行われていた。武蔵野の台地は水の確保が大変な土地が多く、玉川上水をはじめとする多くの用水の開発によって江戸時代に田畑の面積は大きく増えたが、時には異常に晴天が続き日照りで凶作になることがあった。農民は神仏への祈りで何とかしようとして雨乞いが始まった。

日照りが続くと村人が相談し雨乞いのお触れを村の人々に出す。村の代表は歩いて井の頭弁財天に水をもらいに行き、一尺ほどの竹筒に水を頂いて帰途につく。休みなしに歩いて帰る途中、迎えの仲間がやってきてリレー形式で運び、三番迎えほどで弁天の水は村に到着。

水は一旦鎮守の多田神社に奉納、祈祷を上げたうえで、大きな桶に村の井戸の水を入れ、太鼓を鳴らして村の畑を練り歩く。戻ると水垢離(ミズゴリ)が始まる。神田川に下着だけになり入水、両岸に竹を立て注連縄を渡し、真ん中に弁天で水をいただいた竹筒を吊るす。人々は川に入って水を掛けあう。それが終わると多田神社に集まり酒を飲んで労をねぎらい合うというもの。資料によると大正末期まで行われていたそうである。

場所   中野区弥生町4丁目4-14

 

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2019年5月22日 (水)

向台子育地蔵尊(中野区弥生町)

中野区弥生町は高度経済成長期以降の地名。 古くは本郷村、青梅街道と甲州街道の間の農村で、神田川流域の豊かな田畑の村だった。本郷というのは古来、地域の中心地に付けられる地名で、その名の通り江戸時代以前には現在の東京西部の中心的な地であった。江戸時代以前は大きな枠から、「国」「郷」「村」と細分化されていたが、本郷村には郷司(今でいえば複数の村をまとめた郡の首都)もあったという。

弥生町は駅もなく(最寄りは中野坂上、中野新橋)新宿徒歩圏内なのに人気も薄いのだが、過去を紐解いてみると意外に栄えていたことがわかる。本郷の地名は神田川の北側にある広い「本二本郷やすらぎ公園」、山手通りの弥生町一丁目交差点から西に延びる「本郷通り」の名前に残っている。

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向台子育地蔵尊のある二又は左(南)へ行くと幡ヶ谷村、右(西)へ行くと雑色村という村道の分岐点にある。左へ下った幡ヶ谷村との村境には高札場があった。現在の方南通り本町4丁目バス停辺りである。明治時代から大正時代までは小向という小字、昭和になってからあたりは向台という地名になった。しかし向台という呼び名は江戸時代からあったようだ。

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この子育地蔵は、寛政8年(1796)に旧本郷村の念仏講の人々が、子供と旅人の安全を祈願して造立し、台座には「三界万霊本郷村念仏講中 右ぞうしき道 左はたがや道」とある。 地蔵信仰は中世から庶民の間に広がり、江戸時代にピークを迎えた。向台子育地蔵尊は現在まで地元のコミュニティの要になっている。

場所  中野区弥生町1丁目43-20

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2019年5月21日 (火)

淀橋庚申堂(新宿区西新宿)

伝説のバンドとなったはっぴいえんどの1970年のファーストアルバム、ジャケット写真から『ゆでめん』と呼ばれる。このゆでめんの場所が西新宿(旧町名淀橋)にある。風間商店という製麺所だったのだが、裏には川が流れていて、この川は神田川の笹塚支流(通称和泉川)というドブ川だった。現在は暗渠道路になっている。山手通りに「清水橋」という交差点があるが、この川の上流である。ゆでめんの脇には当時の欄干も残されていてとてもノスタルジックなエリアになっている。

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上の写真の右端にある低い塀のようなものが欄干の一部。 その脇には柳が植えてある。この橋は柳橋という橋で、当時の柳を復活しようと近所の有志が植え直した。柳橋の少し南側に旧商店街を進むと、道の分岐に淀橋庚申堂がある。

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地元で大切にされている庚申堂だが、中にある石仏は意外と新しい。中央の駒型青面金剛像で下に邪鬼と三猿を掘った庚申塔は、昭和29年(1954)のもの。私よりちょっとだけ長くこの世にいる。左の塔は摩耗と風化が激しくよく分からない。右の一猿の像も造立年はよめない。ただし真ん中の庚申塔は再建されたもの。庚申堂自体はもっと昔からあった。

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現在暗渠になっている笹塚支流は昭和になってから湾曲を付け替えた流れが残っているのであって、大正以前の流れはこの庚申堂の真裏であった。庚申堂裏から流れを120度ターンしてゆでめんのあった風間商店の辺りに向かって流れていたのである。そしてゆでめんの裏には水車があった。この庚申堂よりも東南は角筈村の本村(中心)で当時から多くの人が住んでいたのだろう。

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気になったのは堂宇の右手に並べてあった地蔵立像である。左の石仏は享保6年(1721)、中央が享保18年(1733)、右側が明和年間(1764~1772)のものとかなり古い。堂宇にあった説明書きを読むと、「当所の庚申塚は昭和6年の調べでは三基の石碑は寛文4年(1662)等の文字が刻まれていた。」とある。

江戸時代の切絵図を見ると、堂宇の場所は角筈村、ゆでめんの柳橋が本郷村、幡ヶ谷村、角筈村の三村境界だったようだ。本郷村というのは現在の丸の内線支線から中野坂上の南にかけての神田川流域の村。湿地帯と水田が入り混じる土地だったのだろう。

場所  新宿区西新宿5丁目23-5

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2019年5月20日 (月)

宇山の地蔵尊と馬頭観音(世田谷区桜丘)

世田谷通りを西進、環状八号線と交わる少し手前の北側エリア(現在地名は桜丘4丁目)を宇山という。宇山とは宇奈根山谷の略称で、昔宇奈根村からこの地に入植して開かれた土地である。世田谷通りはかつての登戸道。 関東中央病院前でガソリンスタンドの裏を回る道がかつての旧道。その先トヨタディーラーからは南斜めに入る道が旧道である。その二つの旧道の間、久成院に東から入る昔からある村道入口に地蔵尊と馬頭観音がある。

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右(奥)から小祠、地蔵、地蔵、馬頭観音の順に並んでいる。馬頭観音の造立年は不明。馬頭観世音とのみ彫ってある。その他の地蔵菩薩も時期は分からない。伝えられる話では、宇山に地蔵があった(この地蔵)、細い堀があり、堀には野菜の洗い場があったという。等々力渓谷を形成する谷沢川の源流が10mほど南を流れていた。現在も一部開渠の残る暗渠になっている。特定はできないが江戸時代からある地蔵尊だろう。そして馬頭観音は傷み具合から見て明治から大正あたりではないかと思われる。

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こういう地蔵尊を地元の人が大切にされるのは素晴らしいことである。 人形があるのとちょっと派手すぎるのが玉に瑕ではあるが、致し方ない。時には千羽鶴がぶら下がっていたり、まあ賑やかなお地蔵さんである。

場所  世田谷区桜丘4-1-11

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2019年5月19日 (日)

渋谷郷土博物館前の庚申塔(渋谷区東)

渋谷区に郷土博物館があることを知らない人も多いと思う。実は國學院大學のすぐ裏手に「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」という施設がある。考古学の世界ではその手前の國學院大學博物館が秀逸で素晴らしいのだが、渋谷区も細々と頑張っている。入館料は100円だが、館前の庚申塔は敷地に入れば見ることが出来る。館内は1階がイベント的な特別展示室、2階が常設展示で有史以前からをコンパクトにまとめているが、全体としては文学館の要素が大きい。

与謝野晶子夫妻も渋谷の大和田(現在のセルリアンタワー辺り)に住んでいたし、国木田独歩は宇田川町(現在のセンター街付近)に暮らし『武蔵野』を書いた。不動産ディベロッパーのCMで「ホタルの棲む渋谷」と謳っているが、100年前には蛍は多数飛んでいたのである。今の渋谷になってからまだ半世紀しか経っておらず、それ以前は比較的長閑なエリアだった。

しかし、渋谷にはあまり江戸時代の野仏などが多くないのは、谷である地形と、すぐそばまで大名屋敷が迫っていて、農民はもっと郊外に多く住んでいたからではないだろうか。現在の郷土博物館の辺りは、江戸時代は麻布村の西の外れで下澁谷村との村境。向かいには島津藩の下屋敷があった。

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二基の庚申塔はもともと桜丘町29番の斎(いつき)家にあったものを移設している。現在のセルリアンタワーの裏で、アーティストの学校が並んでいるところだ。 左の高い方は、山型角柱型庚申塔で造立年は寛文12年(1672)、右は舟型光背型で享保4年(1719)である。

都心が近くなると、路傍の野仏はほとんど絶滅している。開発の中でどんどん打ち捨てられていったのだろう。資料館のような場所に移設されると保存はしっかりとされるのだが、近所の人が花を手向けたり供物を供えたりすることがなく、なんだか庚申塔から命が抜けてしまったように感じる。見ていて寂しくなるのである。

場所  渋谷区東4-9-1

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2019年5月18日 (土)

上目黒氷川神社の大山道標(目黒区大橋)

国道246号線(玉川通り)と環状6号線(山手通り)の立体交差の傍、ほぼ首都高速道路に近い高さにある神社が上目黒氷川神社。大橋になるのに上目黒とはと思うが、江戸時代この辺りは上目黒村。従って神社の名前はそのまま村の名を取って上目黒氷川神社である。ここは台地の突端でもあり、東側の山手通り脇には目黒川支流空川の谷、南側には目黒川本流の谷がある。

かつての大山道は道玄坂上から一気に大坂を下り、空川を渡った後、この台地の突端を迂回するように三軒茶屋方向に走っていた。ここに昔からあったのが氷川社。ちなみに元の石段は文化13年(1816)に築かれたという。

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この崖の高さは10mを超える。国道の拡幅で敷地を削られて一段と階段が急になった。階段の左上には移設されてここにやってきた富士講の目黒新富士がある。文政2年(1819)に代官山の目切坂上に築かれた目黒富士だったが、明治11年(1878)に岩倉具視が別所坂上に別荘を建てることになり、目黒富士はこの地に移設された。その後目切坂上の富士塚は東武鉄道社長の邸宅改築のために取り壊された。

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階段下の左手に供養塔と道標がある。供養塔の造立年は不明。「武刕荏原郡古菅刈荘目黒郷」と書かれた供養塔は上部が欠損している。もしかしたら「目切坂再建供養塔」かもしれないが、わからない。 右側の角柱型の石塔は道標。 大山道という正面の大きな文字の下には、「せたがや通り 玉川通り」、右側面には「右 ひろう(広尾) めぐろ 池かミ 品川みち」。左側面には「左 青山 あさふ みち」とある。この道標はここにあったものではなく、玉川通りから目切坂へ向かう日向道(山手通りと並行した北側の道)が目切坂の上りを分岐する場所にあったものを、明治の末に移したという記録がある。

場所   東京都目黒区大橋2丁目16-21

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2019年5月17日 (金)

半田塚(世田谷区松原)

菅原天神通りと松原大山道の分岐を南から左の菅原天神通り側(凧坂)に進む。すぐに左手に「赤松ぼっくり庭園園地」という面白い名前の公園があり、その数十m先の右手にひっそりとネットに囲まれた半田塚がある。 この半田塚の名前から、この凧坂ではなく、一本東の松原大山通りを半田坂と呼ぶのが不思議でならなかった。さらに半田坂という名前は地元では閻魔坂と呼ばれていた方がメインで、かつてこの大山道沿いに閻魔堂があったという。その閻魔堂は現在は下北沢の森厳寺に移設されている。

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コンクリートの階段を数段登るが、昔はこんもり盛り上がった塚だったのだろう。入口に世田谷区教育委員会が設置した説明板が立っている。

文政9年(1828)に脱稿した新編武蔵風土記稿の松原村の項に「墳墓、半田塚、小名スナハチ半田ト云。コノ塚アルユヘニ地名モ起レリト云。高サ4、5尺、敷ノ径1間許。何人ノ墳ナリヤ ソノ来由ヲ伝ヘザレバ、詳ナルコトヲ知ラズ」「小名、半田、村ノ中央ニアリ。東西3丁バカリ、南北8丁余ノ地ヲ云。」とあり、赤堤村の項に「小名、半田塚、村ノ巽(南東)ノアタリヲ云。東隣松原村ニ半田ト呼ベル塚アリ。ソノ地続キナレバ此ノ唱アリ」と述べられている。(中略)

地元の古老の話では、大正年間には「大塚サマ」と呼んでいたという。(後略)

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長々と書かれているが、要はわからないということである。江戸時代の地図を見ると松原大山通り以東が赤堤村になっていて、以西が松原村となっている。明治初期の地図(フランス式の地図)でも同じである。これでは説明板の文章に納得がいかない。現在は周辺は松原で、南と西に赤堤が広がっている。世田谷区の『ふるさと世田谷を語る』にある地図は東が松原で西が赤堤ということで、私の結論は江戸期の一部の地図と明治初期の地図が間違っているということになった。困ったものである。

もっとも赤堤村は元禄時代に松原村から独立している。この辺りは江戸時代の前半に開墾された地域で、松原村の人が開墾すれば松原村になり、赤堤村の人が開墾すれば赤堤村になるというようなこともあった可能性がある。

半田塚の諸説の中である程度確かなのは、この塚が1,300年以上前からここにあったということと、塚の上には祠があったということだけ。但し諸説には、鎌倉時代に新田義貞の軍勢が川越城を攻め落とした後に、鎌倉を攻めたが、多摩川原の戦いで敗れて傷つき、その残党がここまでたどり着いて息絶えたのを葬ったというものがある。これもなかなか興味ある説である。

場所   東京都世田谷区松原6丁目20-8

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2019年5月16日 (木)

松原の馬頭観音(世田谷区松原)

小田急線の北側を東西に走る赤堤通りと甲州街道(国道20号)を結ぶ古くからある道。 豪徳寺駅から北上するとその道が途中で二つに分かれる。 東側が松原大山道、西側は菅原天神通りといい半田塚から菅原神社を経て甲州街道に出る。甲州街道では200mほどの距離で、二つの通りが昔から必要だった理由がよく分からない。

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その分岐点の鋭角な角の真ん中に小さな馬頭観音がある。左の道は半田塚があるのに「凧坂」と呼ばれ、右の道がなぜか「半田坂」(地元の呼び名はえんま坂)と呼ばれる。ただしその馬頭観音は昭和15年(1940)という新しいものである。道の歴史からすると古そうだったのでいささか拍子抜けした。

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ただ江戸時代の地図ではこの場所は死んだ家畜を捨てた「死馬捨場」と書かれている。表には馬頭観世音と彫られ、裏面には造立年と施主池田半助とある。私の考えではここには昔から馬頭観音があったが朽ちてしまったので、池田氏がこの石塔を建てたのではないだろうか。

大山道というのは、江戸時代に城北から大山詣でに行くのに大山街道まで南下する道として使われていた街道だったと思われる。この手の大山道は鎌倉街道に準ずるほど点々と都内に残っているが、名前が残っているものは少なくこの松原大山道というのは貴重な名前である。

場所  東京都世田谷区松原6丁目32-1

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2019年5月15日 (水)

駒沢交差点にあった庚申塔(世田谷区世田谷)

ボロ市で有名な代官屋敷の敷地にある移設された庚申塔のひとつである。 移設されてしまうと、多くは元の場所が分からなくなってしまう。 しかしこの庚申塔は素性がはっきりしている。現在は代官屋敷の奥、世田谷区郷土資料館の入口脇に多くの庚申塔や道標などと一緒に並んでいる。

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元あった場所は国道246号線(玉川通り)と駒沢公園通りの交差点(駒沢交差点)の北東側の角。駒沢2丁目17-1にあったものである。昭和60年に当地の加藤家から資料館に寄贈されたとある。造立は延享4年(1747)で、正面には「西は大山道」と大きく彫られている。右側には「東ハ赤坂道」、左側は「右めぐろ道」とあるが裏は読めない。

大山道は三軒茶屋で二手に分かれ、北は代官屋敷を経て用賀へ、南は上馬から桜新町を経て用賀へ、それ以外にも大山道は一本ではなく複数あったというのが分かっている。こういう庚申塔や道標は路傍にあって近所の人に守られているものがベストだと思う。寺社や資料館などへ移設されたものが多いが、素性が分かれば中級、分からないものはやはり残念である。私が知る限りでもここ数年でたくさんの野仏や石碑が撤去されている。何百年もの歴史を経たものをもっと大切にする文明になってもらいたいものである。

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2019年5月14日 (火)

上馬引沢村の馬頭観世音(世田谷区駒沢)

国道246号線玉川通りの北側にかつて品川用水の流路だった道がある。駒沢大学駅前の交差点から北上すると駒沢病院、その先の信号が自由通り(正式には国道246号線以北は自由通りとは呼ばない)とかつての品川用水跡の交差点になる。昔からの道はこの自由通りではなく、一本西の駒沢病院の裏を南北に走る路地である。 その道が品川用水を渡る橋のたもとに当たる場所にこの馬頭観世音の祠がある。

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正面には「上馬引沢村 惣村中」とあり、左面には「右り あわしまみち」とある。道標をちょっとだけ兼ねている。 江戸時代、大山道から北上し、ここで橋を渡ると道が左右にあり、左は世田谷代官屋敷への道、右は若林村を経て滝坂道(淡島通り)まで続いていた。それであわしまみちとあるのだろう。お堂は平成時代に建替えられている。

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造立年は文化13年(1816)とある。なかなか彫りのしっかりした素晴らしい馬頭観音である。この道は、六郷田無道であったという説がある。 六郷田無道は大田区の多摩川六郷土手から田無へと続く古道で、池上本門寺を経て北上し、現在の品川上水沿いでここまで来る。ここからは北に向かい代官屋敷方面へと続くのが六郷田無道だったとされる。 実は私もこの六郷田無道の一部を歩いて最寄り駅に行くというとても身近な道なのだが、周辺にはそれが古道であることを知る人はほとんどいない。

場所   東京都世田谷区駒沢2丁目4-12

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2019年5月13日 (月)

移設門と道標(世田谷区駒沢)

駒沢地区の品川用水跡は駒沢郵便局の東側で玉川通りと分かれて北へ迂回する。その用水跡はそのまま道路として残っていて、異様に道幅のある路地が上馬交差点近くまで続いている。その途中に駒沢小学校があるが、小学校の西側に洒落たメゾネットタイプのテラスハウスが並んでいる。ガーデンテラス駒沢という高級賃貸マンションである。

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メゾネットは2階建てで何棟も立ち並び、囲まれた中庭は素敵なガーデン(庭ではなく欧州風のガーデンである)になっている。その中庭への入口の一つが、なかなか古風な山門になっていて感心して見入っていると、その足元に石橋供養塔があるのに気づいた。どうみてもこれは本物だと思ったので植込みの中をのぞいてみた。

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上馬引沢村にあった石橋供養塔である。裏面に造立年が彫られていた。寛政11年(1799)とある。道標を兼ねていて、正面には めくろ いけ上 道(目黒・池上道)、左には ふちう のほりと 道(府中・登戸道)とある。 右には ほりのうち 道 ともう一つあるが、その文字が読めない。 きくさま という読み方が素直だが、きたさわ(北沢)ではないかと推測。

面白いテラスハウスだと思って調べてみると、現在は満室、3LDK(100㎡)~最大の部屋は200㎡で、家賃はなんと31万~70万。都心並みである。いやぁ世の中バブリーだなと思いつつ、ここに山門と石橋供養塔を移設したのはいったい誰だろうと、そのギャップに頭を抱えてしまった。

場所   東京都世田谷区駒沢2丁目18

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2019年5月12日 (日)

新町庚申講(世田谷区駒沢)

国道246号線に面した庚申堂が新町庚申講である。 玉川通りの駒沢交差点から数十m西に進んだ北側の歩道に面して、立派な庚申堂が立っている。周辺は毎日何万台もの自動車が往来し、頭上には首都高速3号線が走りこれもまた何万台という交通量で、一時も静まらない場所。こういう場所に庚申塔があるとなんだか石仏に申し訳ない気がしてくる。

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堂宇はきれいに保たれており、中には大型の庚申塔が2基祀られている。 どちらも造立年などはまったくわからない。 風化が激しく、幽霊地蔵のようになってしまっているからである。 左の舟型光背型の庚申塔は青面金剛のシルエットが分かり、その下の三猿も何とかわかるが、詳細はぼやけてしまっている。

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右側の駒型のものも青面金剛像がかろうじてわかるくらい。三猿はうっすらとしていてよく分からない。そしてどちらも青面金剛の部分が黄色くなっている。これは化粧なのかいたずらなのか考えてしまったが、いたずらではないだろう。

駒沢交差点にはかつて玉電の駒沢電停があり賑わっていた。現在は駒澤大学が至近で学生で賑わっている。この場所に庚申塔があるのは、この辺りが昔の下馬引沢村と世田谷新町村の村境だったからであろう。特に下馬引沢村は庚申講の盛んだった村で、村の庚申講は寛文11年(1671)から大正時代まで続いたという。現在でも講の人々が春秋には親睦旅行に出かけるほどのコミュニティを保っているらしい。

場所   東京都世田谷区駒沢3丁目2-5

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2019年5月11日 (土)

久富稲荷神社(世田谷区新町)

目黒区から大田区を流れて羽田空港で東京湾に注ぐ呑川の源流は世田谷区桜新町である。そこから世田谷区深沢を流れた呑川であるが、小さな川でよく氾濫し、深い谷を形成したのが深沢の地名の由来。そしてその水は飲めるほどきれいだったので呑川という川名になったという。ついぞ100年も昔はそんな川が都内を流れていたのである。その呑川源流の左岸(東側)にあるのが久富稲荷神社である。

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この神社の変わったところは長い参道があるところである。神社の境内が230坪しかないのに、参道は270坪もある。本殿から厚木街道(旧道)まで250m近くある。結構甘い管理のようでバイクが置いてあったり、民家の勝手口が付いていたりと、かなりアバウトな状態である。この辺りの江戸時代の小字名が稲荷丸というのはもちろんこの稲荷のあるためである。

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神殿は昭和に入って建替えられたものだが、その前の建物は嘉永年間(1848~1853)の建築だったらしい。しかし神社の創建については不明である。 古くから新町村の鎮守社として親しまれてきたというが、江戸時代中期以前の情報は皆無である。ただ東京都神社庁のHPには鎮座四百有余年と書かれている。

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北側の長い参道に比べると南側は勝手口のような近さ。すこし南には国道246号線が走る。しかし元々こちら(南側)には道はなく、長い参道こそが江戸時代から続くこの神社の参道である。

ちなみに久富稲荷の西側、呑川の源流の左岸一帯は明治末期に開発された日本で最初の高級分譲住宅だった。サザエさんで有名な長谷川町子美術館のある周辺で、過度の交番はその分譲住宅地が開発されたときからあの場所にある。その住宅の道路にはソメイヨシノの並木が植えられ、玉電の電停も「新町」から「桜新町」に変更された。この高級住宅地が南に延びたところが現在の深沢の高級住宅街である。最初の開発エリアは商業地化が進み、昔の風景はとどめていない。

場所   東京都世田谷区新町2丁目17-1

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2019年5月10日 (金)

桜新町2丁目の地蔵堂(世田谷区桜新町)

世田谷通り馬事公苑から桜新町への道はかつての品川用水である。品川用水は旧厚木街道にぶつかると東に流れを変えていた。現在の道路は旧厚木街道にあたる直前でなぜかクランクしている。大正時代までの地図を見ると用水は街道までまっすぐに流れているが、昭和に入ってからの地図を見ると現在の道のクランクと同じ流れになっている。一方の大正時代までの水流は遊歩道になっており、こちらもかなり暗渠臭い。しかし明治期の地図を見るとクランクの道路の方に水線はないものの水車のマークがある。ということはここで流れは二手に分岐してすぐに合流していた可能性が高い。どちらも水路だったというのが一番腑に落ちる。

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遊歩道が旧厚木街道にぶつかるところに地蔵堂がある。中には地蔵菩薩像があり、造立は安永9年(1780)である。世田谷新町村の女念仏講中による造立。 このあたりはもとは世田谷村の飛地だったが、万治年間(1658~1660)に分村して世田谷新町村となった。その時代のものである。明治になって明治22年に世田谷新町村は駒沢村に編入されている。

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地蔵の向かい側にRUSSE桜新町という大きなマンションがある。この区画は明治の終わりころから関東大震災までブライアン・チャールズというイギリス人銀行家が住んでいた豪邸があった。ブライアンはミッキー・カーチスの叔父である。周辺の民家とはまったく異次元の邸宅であったが、レンガ造りだったので関東大震災で倒壊してしまった。昭和10年頃には第一生命がこの土地を買いチャールズ家はイギリスに帰った。第一生命はここに社宅を建てて使っていたが、昭和後期にマンション開発されたという歴史がある。

場所  東京都世田谷区桜新町2丁目17

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2019年5月 9日 (木)

弦巻の野中の地蔵(世田谷区弦巻)

現在の弦巻通りは三軒茶屋の西側から自然発生的に始まり、駒留陸橋の六差路を経て、ボロ市通りからの直線路に突き当たると、弦巻四丁目交差点で左に折れ用賀に抜ける。 この折れ曲がるところにあるのが通称「野中の地蔵」で、現在は地蔵と馬頭観音がコンビニの駐車場にぽつんと立っている。一応小さな屋根は付いているが、雨除けにはなりそうにない。

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コンビニは以前はサンクスだったが最近ファミリーマートに代わった。 店舗のような新しいものはランドマークにはならない。 それに比べて地蔵や道標は何百年もランドマークの役割を果たしている。背の高いほうの地蔵は天和2年(1682)造立の地蔵立像で、弦巻村の念仏講が立てたもの。その台座が道標になっている。 左り 大山道、そして 右り 世田谷道・堀之内道とある。堀之内というのは現在の杉並区堀ノ内で、堀ノ内道と彫られた道標は大田区あたりにも多い。鎌倉時代の鎌倉街道が大宮八幡宮を経て練馬城へ向かっていた名残りで、道標にも大宮八幡宮に近い堀之内が示されることが多いのではないかと思う。

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地蔵の表面はかなり風化が進んでいて顔もよく分からないが、あちこち補修がなされていて三百年余りの間人々に大切にされてきたのだろう。施主の名前が13人分ほど台座に彫られている。

コンビニが出来るよりずっと前、ここには地蔵堂があったようだ。私もこの地域に30年近く住んでいるが、記憶がはっきりしない。しかし世田谷区の資料にはこの住所には別の2体の石仏が記録されている。ひとつは聖観音立像で元禄元年(1688)のもの、もうひとつは如意輪観音座像で元禄10年(1697)に弦巻村の女念仏講が立てたものである。この2基が何処に現在保存されているのかまだ調べて切れていない。

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現存するもう1基は馬頭観音である。造立年は不明だが、馬頭観音なのでそれほど古くはなさそうである。弦巻通りがこの地蔵にぶつかる東側一帯を昔は渋柿横丁と呼んだ。渋柿の樹が道路わきに植えられ、秋にはたくさんの渋柿がなったという。

上記地蔵が立てられた元禄年間の弦巻村の人口は二百人余りで戸数は35戸という記録があるように、農家がぽつぽつとある風景だったようだ。1戸あたり6人以上というのは当時としては普通の構成だっただろう。明治になる少し前(天保年間)になると戸数は45戸と少し増え、商店もできたという。現在の街の様子からは想像もできない。

場所  東京都世田谷区弦巻5丁目2-12

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2019年5月 8日 (水)

弦巻五丁目庚申堂(世田谷区弦巻)

弦巻の地名の由来は諸説あるが、台地の地形であったことから「水流巻(ツルマキ)」と呼び、水の流れが渦を巻くほど激しいところという由来が個人的には好きである。弦巻を東西に流れていたのは蛇崩川で、その源頭は弦巻村の西のババ池とその南のジジ池の二つの湧水だったという。ジジ池は現在の馬事公苑の東(弦巻5-32)で弁天の小祠が残っている。ババ池は桜新町駅の近くにあったようだが、両池とも戦後不法占拠され既得権として開発されたいきさつがある。蛇崩川は小さな川だが一旦大雨が降ると氾濫する川だったので、水流巻が弦巻になったという説が気に入っているのである。

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世田谷通りのカーブに松ヶ丘交番という派出所がある。弦巻地区の小学校は弦巻小学校と松丘小学校、松が丘の地名の由来についてはいろいろ調べたがまだ掴んでいない。松ヶ丘交番の斜めに分岐する道を進むと1~2分で写真の庚申堂に着く。地元の古老の話でもお堂はイボ地蔵とここの2ヶ所にあったというので、昔から場所は変わっていないだろう。きれいなお堂で、かつ隣接の戸建の塀がステゴザウルスのデザインになっているのが洒落ている。

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堂宇の中には庚申塔が1基のみ、大切に守られている。駒型の青面金剛像が邪鬼を踏みその下に三猿が描かれている。造立年は安永2年(1773)である。古老の話だと弦巻の辻にはお地蔵さんがあちこちにあったというが、現在はほどんどない。戦前は弦巻はほとんど農家だったという。少し南に行くと、蛇崩川洗い場跡というところがあり小さな公園になっている。

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ここにはユニークなレリーフがある。大山詣の姿を描いたものらしい。大山(丹沢)は雨乞いの山岳信仰で江戸時代に広く信仰された大山講の信仰対象の山。青山方面から、世田谷、二子、溝ノ口、長津田、伊勢原を経て大山に至る道の世田谷部分がここを通っていた。三軒茶屋から世田谷通り、ボロ市通り、そこから弦巻に南下し、用賀を経て二子に至るのがこの街道である。このレリーフは後期の大山詣に出かけたプチブルジョアの商家の主人らしく、江戸時代後期になると、帰りに江の島や鎌倉で観光をして遊んだお気楽な大山詣の姿のようだ。

場所  東京都世田谷区弦巻5丁目19-20

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2019年5月 7日 (火)

さわら庚申(目黒区中町)

駒沢通り沿いにある庚申堂。 堂宇があまりに立派なのでいささか驚く。 瓦葺のお堂だが、まずその瓦が立派。 鬼瓦があり、柴又題経寺(柴又帝釈天)の菱形の渦巻きの寺紋が付いている。 「さわら庚申」という名前の由来は、近くにサワラの樹があったためと極めて単純。この場所は江戸時代から目黒村の重要な辻(交差点)であり、かつ目黒川支流の谷戸前川の源頭でもあった。その流れは現在も暗渠として残っている。

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昔からの道が駒沢通りに出ようとするその場所にさわら庚申があるので、道は二つに枝分かれしている。その三角地帯には、さわら庚申以外にも様々な石塔が立っている。一番大きいのは皇太子殿下御降誕記念とある。これは石ではなくコンクリート製。 造立年は昭和9年(1934)と新しいもの。ただ、コンクリートなので他の石塔よりも早く朽ちてしまうだろう。

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堂宇には3体の庚申塔が所狭しと肩を擦り合わせるように並んでいる。 左は駒型青面金剛像で造立は元禄10年(1697)と古い。真ん中は一番大きく、舟型青面金剛像に日月と三猿が描かれている。こちらの造立は元禄5年(1692)とこれも古い。 しかし最も古いのは右側の板碑型の庚申塔で、献開眼帰命帝釈天王と彫られている。 この庚申塔が帝釈天との関係が深いのだろうか。造立は寛文3年(1663)と江戸時代初期のものである。

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庚申堂手前に朽ちかけた道標がある。造立年は消えかけているが安政年間(1854~1860)であることは間違いない。 正面には、おく沢 ひもんや いけかみ道とあり、南西方向に向かって街道が伸びていたことがわかる。右側は、ごほん木 ふたこ道とあり、昭和通りを経て玉川通方面へ抜ける街道があった。 左側には、あさふ あお山道 とあり、都心に向かう駒沢通りそのものを案内している。道標はその位置関係が分かるととても面白い。

場所   東京都目黒区中町2丁目38

 

 

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2019年5月 6日 (月)

昭和通り地蔵(目黒区祐天寺)

東急東横線祐天寺駅の南に昭和通りという商店街がある。江戸時代は祐天寺前の街道は駒沢通りの変則交差点祐天寺二丁目から真南に下り鷹番に向かっていた。祐天寺以南の駒沢通りは昭和になってから通された車道である。この祐天寺二丁目交差点から西に向かう古道が現在の昭和通りだった。現在では商店はまばらになったが、高度経済成長期までは商店が立ち並んでいる通りだった。

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祐天寺駅前ロータリーに続く南北の商店街は古への鎌倉街道。 この鎌倉街道から昭和通りに入り、東横線の高架をくぐる手前に小さな堂宇がある。 前述の五本木庚申塔群からも数分の距離にある。また、昭和通りは江戸時代は上目黒村と碑文谷村の村境であった。現在は祐天寺と五本木の町境である。 そういう場所には地蔵が置かれることが多い。

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地蔵はいささか風化が進んでいるが、造立年は宝永5年(1708)と読める。この地蔵より西側は、五本木庚申塔群のところでも書いた蛇崩川支流の谷だった場所で、大正時代までは水田が広がっていた。現在は2m程度の高低差だが、当時は倍ほどの高低差があったようだ。現在は辺りは一面の住宅街だが、大半は関東大震災で西に住宅を求めて引っ越してきた人々によって昭和になってから発展した街である。

場所   東京都目黒区祐天寺2丁目15

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2019年5月 5日 (日)

五本木庚申塔群(目黒区五本木)

東横線祐天寺駅の南に目黒区立守屋図書館がある。この場所はかつて、実業家の守屋善兵衛(1866~1930)の邸宅だった場所で、昭和5年(1930)の没後に区に寄贈され公共施設となった。守屋図書館は同氏の名前を取ってつけられた。図書館の裏手の道を進むと旧道らしい曲がりくねった道筋になり、間もなく巨樹に囲まれた五本木庚申塔群が見えてくる。

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庚申塔群前の古道は、蛇崩川支流の源頭の谷の右岸(東側の縁)に通された道だった。守屋氏の邸宅はこの谷を見下ろす斜面に建っていたのである。支流の暗渠は東横線の高架下から謡坂に向かって現在も残っている。この旧道は一説には鎌倉街道と言われている。とはいえ鎌倉街道は東京に何本もあったようで、特定は難しい。

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石像群は一段高いところにあり、アプローチの階段脇に念仏塔が立っている。ここの石仏の保存状態はとても良い。一番右が地蔵菩薩立像であとの4基は庚申塔である。地蔵菩薩立像は五本木地蔵と呼ばれるが、上部に日月が描かれているので庚申塔の可能性もある。造立年代は元禄というのは読めたがあとは分からない<元禄年間(1688~1704)>。

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庚申塔は右から、駒型八臂の青面金剛像で二鶏、三猿、邪鬼が描かれている。造立は宝永11年(1761)とある。 真ん中の庚申塔は、駒型青面金剛像三猿だが、造立年は不明。 左から二番目が最も古く、貞享3年(1686)の駒型青面金剛像で二鶏、三猿が描かれている。 

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一番左側の庚申塔は、元禄8年(1695)のもので、駒型青面金剛像+三猿。 これで終わりかと堂宇の左手に回り込むと、上部の欠けた文字塔の庚申塔が立っていた。「庚申供養塔 上目黒五本木組」とあり文化7年(1810)の造立のようである。

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この五本木庚申塔群は、目黒区の指定有形文化財となっている。区内の庚申塔で有形文化財に指定されているのは、ここと田道庚申塔群、鉄飛坂庚申塔群のみである。五本木の地名は住居表示としては昭和43年に新設されたものだが、由来は古く、江戸時代の目黒村は、上知(アゲチ)、宿山、石川、五本木という4つの組から成っていた。 鎌倉時代までさかのぼると、鎌倉街道沿いに五本の大樹があったことに由来するという説が有力である。

場所  東京都目黒区五本木2丁目20

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2019年5月 4日 (土)

こぶとり庚申(目黒区中央町)

これもわかりにくい場所にある。学芸大学駅から線路沿いを渋谷方向に歩き、突き当たったら左でさらにすぐ左の路地に入ると目立たないお堂がある。こぶとり庚申と呼ばれているので、かつてはイボやコブを取ってくれるご利益があると言われていたのだろうか。

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お堂の中にある石仏はちょっと変わった庚申塔である。かなり風化が激しくてわかりにくい。 中央の像は猿のようだが、猿は山王の使いとされている。像の上に「最高青面金剛守護」とあり、脇に日月が描かれている。下部には7人の施主の名前がある。造立年は元禄3年(1690)とある。

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南北の道路は昔からある道で蛇崩から碑文谷への主要道だった道。 お堂のある脇道も農道としては明治以前からあったようだ。学芸大学駅寄りの東西の道は品川用水が流れていた用水脇の道。環七通りと駒沢通りの交差点の北側に、東西にバイパスするように走る道があるがこれが品川用水の跡である。用水はこの先、武蔵小山で南に流れを変え、かつて大名屋敷(抱屋敷)だった戸越公園に流れた。

場所  東京都目黒区中央町2丁目38

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2019年5月 3日 (金)

四郎兵衛地蔵(目黒区五本木)

場所はかなりわかりにくいが、駒沢通りの三谷バス停の西側三角地帯の裏の道、駐車場の壁面にお堂を築いて安置されているのが3体の石仏である。 お堂前に御影石の石柱があり、正面に四郎兵衛地蔵尊とあり、側面に昭和44年下馬史跡保存会と彫られている。 おや?ここは五本木3丁目。どうも以前は世田谷区下馬にあったものらしい。

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とてもしっかりしたお堂で、区を飛び越えても大切にされていることがよく分かる。3体の石仏は真ん中が最も大きく地蔵尊、続いて右側はその3分の2ほどの高さの地蔵尊、左側はかなり小さな石仏で詳細は不明、どれもかなり溶けたようになっている。造立年などは3体とも不明である。

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世田谷から移転したというので世田谷の資料を掘り起こしてみた。駒沢通りをもう少し下り、野沢への道を分けた少し先の世田谷区下馬6丁目15にあったという記録があり、堂宇ごと移転したようだ。また左側の石仏についても、馬頭座像で文化3年(1806)に高橋氏によって造立されたものということが分かった。

場所  東京都目黒区五本木3丁目27

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2019年5月 2日 (木)

五本木三丁目庚申塔馬頭観音(目黒区五本木)

葦毛塚の道を南へ下り下馬五丁目で名薬通りと接する手前の路地を入ると、小さな公園(五本木西みどり街かど公園)の向かいの角に大小の堂宇が並んでいる。右手の大きな堂宇には石仏が3基、左手の小さな堂宇には1基がある。

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大きなほうの堂宇の3基は馬頭観音が2基と庚申塔が1基。 真ん中にあるのが庚申塔。 五本木三丁目庚申塔と呼ばれている。 舟型の庚申塔で青面金剛像が彫られている。造立年は享保16年(1731)である。

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向かって右側の角柱タイプの石塔は文字塔の馬頭観音。造立年は大正12年(1923)と新しいが、馬頭観音は明治以降が多い。左側の浮彫の馬頭観音像の造立年は分からない。このタイプを浮彫半跏像(ハンカゾウ)塔というらしい。仏像の一形式で、台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組む姿を半跏という。立派なたてがみの馬頭観音である。

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小さな堂宇に入っている馬頭観音は、角柱型の文字塔馬頭観音で造立年は不明。正面の馬頭観世音という文字も見えにくい。おそらく大正前後だろう。近年に作られることの多かった馬頭観音は石質が良くないものが多い。宮大工の話では、匠の技術は鎌倉時代をピークに江戸時代ではかなり衰え、現在では江戸時代にすら遠く及ばないらしい。石工の技術も同じだろう。

場所   目黒区五本木3-11

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2019年5月 1日 (水)

葦毛塚(目黒区五本木/世田谷区下馬)

下馬通りの起点のすぐそばに道路が二つに分かれて再び合流するところがある。同じような景色は北区西ヶ原の日光街道一里塚、川越街道上板橋の五本けやきなどがあるが、ここの葦毛塚はまるで西欧のロータリーのように道路が大きく迂回している。また下馬通りからこの葦毛塚の通りは目黒区と世田谷区の区境(さらに昔は下馬引沢村と中目黒村の村境)になっているが、この道路は戦後通された道。戦前は道路はなく、関東大震災以前はこの場所まで蛇崩川が蛇行しており、まさに川岸だった場所である。

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葦毛塚の由来は、蛇行していた蛇崩川に深く関係する。鎌倉時代になろうという時代、源頼朝が葦毛の馬に乗って、この地を通った時、その馬が何かの拍子に沢にはまって死んでしまったという伝説に由来しているのである。この地にその馬が埋葬され塚が築かれた。ただこの辺りは大昔から馬の放牧場で、そのために馬に関する地名が多い。

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ただ気になるのはこの石碑が立てられたのは昭和44年(1969)と新しい。 道路が新設されたから作られたもので、昔からあるものではない。石碑の後ろにある巨樹は都内では珍しいサイカチの樹で、大きな豆の実がなる。この実は昔、石鹸として使われていた。今でも究極のオーガニック洗剤として使う人もいるという。

場所  東京都目黒区五本木1丁目18

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