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2019年5月17日 (金)

半田塚(世田谷区松原)

菅原天神通りと松原大山道の分岐を南から左の菅原天神通り側(凧坂)に進む。すぐに左手に「赤松ぼっくり庭園園地」という面白い名前の公園があり、その数十m先の右手にひっそりとネットに囲まれた半田塚がある。 この半田塚の名前から、この凧坂ではなく、一本東の松原大山通りを半田坂と呼ぶのが不思議でならなかった。さらに半田坂という名前は地元では閻魔坂と呼ばれていた方がメインで、かつてこの大山道沿いに閻魔堂があったという。その閻魔堂は現在は下北沢の森厳寺に移設されている。

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コンクリートの階段を数段登るが、昔はこんもり盛り上がった塚だったのだろう。入口に世田谷区教育委員会が設置した説明板が立っている。

文政9年(1828)に脱稿した新編武蔵風土記稿の松原村の項に「墳墓、半田塚、小名スナハチ半田ト云。コノ塚アルユヘニ地名モ起レリト云。高サ4、5尺、敷ノ径1間許。何人ノ墳ナリヤ ソノ来由ヲ伝ヘザレバ、詳ナルコトヲ知ラズ」「小名、半田、村ノ中央ニアリ。東西3丁バカリ、南北8丁余ノ地ヲ云。」とあり、赤堤村の項に「小名、半田塚、村ノ巽(南東)ノアタリヲ云。東隣松原村ニ半田ト呼ベル塚アリ。ソノ地続キナレバ此ノ唱アリ」と述べられている。(中略)

地元の古老の話では、大正年間には「大塚サマ」と呼んでいたという。(後略)

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長々と書かれているが、要はわからないということである。江戸時代の地図を見ると松原大山通り以東が赤堤村になっていて、以西が松原村となっている。明治初期の地図(フランス式の地図)でも同じである。これでは説明板の文章に納得がいかない。現在は周辺は松原で、南と西に赤堤が広がっている。世田谷区の『ふるさと世田谷を語る』にある地図は東が松原で西が赤堤ということで、私の結論は江戸期の一部の地図と明治初期の地図が間違っているということになった。困ったものである。

もっとも赤堤村は元禄時代に松原村から独立している。この辺りは江戸時代の前半に開墾された地域で、松原村の人が開墾すれば松原村になり、赤堤村の人が開墾すれば赤堤村になるというようなこともあった可能性がある。

半田塚の諸説の中である程度確かなのは、この塚が1,300年以上前からここにあったということと、塚の上には祠があったということだけ。但し諸説には、鎌倉時代に新田義貞の軍勢が川越城を攻め落とした後に、鎌倉を攻めたが、多摩川原の戦いで敗れて傷つき、その残党がここまでたどり着いて息絶えたのを葬ったというものがある。これもなかなか興味ある説である。

場所   東京都世田谷区松原6丁目20-8

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