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2019年5月23日 (木)

正蔵院川嶋地蔵堂(中野区弥生町)

向台子育地蔵尊を西に進む道を川島通りという。古い商店街の通りで、間もなく南北に走るバス通りに出る。南は方南通りへ、北は青梅街道に繋がる。この交差点の名前は川島通り入口といい、正蔵院は少し北にある。辺りは江戸時代は雑色村の東の端で、本郷村と接していた。明治時代に雑色村も本郷村も合併して中野村になった。

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正蔵院の門前の参道脇に大きな地蔵堂がある。川島地蔵堂とある。六地蔵の真ん中に大きな地蔵菩薩が立っている。中央の地蔵尊は享保10年(1725)の造立。正面の台座には、川嶋村内の善男善女が一人も欠けず皆でこれを建てたとある。両脇の六地蔵は少し後の宝暦7年(1757)に川嶋村の地蔵講中が建てたもの。 以前は正蔵院の境内にあったようだが、平成10年(1998)に参道の入口に移されたとある。

いかにも地元の人々に大切にされてきていることがわかるきれいな地蔵堂である。雑色村は大宮八幡神社を建てた時、諸雑費(雑色)をまかない土地を与えられた人々が住んだ村と言われる。昭和7年になって、雑色町という住居表示が復活したが、昭和42年には名前が消えてしまった。

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地蔵信仰が盛んな雑色村には雨乞いの行事もかつて行われていた。武蔵野の台地は水の確保が大変な土地が多く、玉川上水をはじめとする多くの用水の開発によって江戸時代に田畑の面積は大きく増えたが、時には異常に晴天が続き日照りで凶作になることがあった。農民は神仏への祈りで何とかしようとして雨乞いが始まった。

日照りが続くと村人が相談し雨乞いのお触れを村の人々に出す。村の代表は歩いて井の頭弁財天に水をもらいに行き、一尺ほどの竹筒に水を頂いて帰途につく。休みなしに歩いて帰る途中、迎えの仲間がやってきてリレー形式で運び、三番迎えほどで弁天の水は村に到着。

水は一旦鎮守の多田神社に奉納、祈祷を上げたうえで、大きな桶に村の井戸の水を入れ、太鼓を鳴らして村の畑を練り歩く。戻ると水垢離(ミズゴリ)が始まる。神田川に下着だけになり入水、両岸に竹を立て注連縄を渡し、真ん中に弁天で水をいただいた竹筒を吊るす。人々は川に入って水を掛けあう。それが終わると多田神社に集まり酒を飲んで労をねぎらい合うというもの。資料によると大正末期まで行われていたそうである。

場所   中野区弥生町4丁目4-14

 

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