一本松の庚申塚(中野区南台)
中野区南台は幡ヶ谷の北、方南通り以南のエリアの住居表示。南台の南エリアを北東から南西に走る古道は江戸時代からの道で、その途中に一方万津の庚申塚がある。辺りの江戸時代の地名は雑色村。
一本松の庚申塚の造立は、地元の言い伝えによると明和年間(1764~1771)に雑色村の人々が共同で庚申塔と地蔵尊を祀ったのが始まりと言われる。また区の教育委員会の資料によると『中野町史』によれば、数百年前に西国の武士が3人、この地で亡くなり、その供養のために塚が築かれたと記されているらしい。
庚申塚は第二次世界大戦の時に空襲で焼け、原型を失ってしまったが、地域の人々の協力で昭和25年(1950)に同じ場所に再建された。堂宇の中に青面金剛像、邪鬼、三猿の庚申塔がある。隣には小さめの地蔵立像があるが、その土台にも原型を留めないほど破壊されたので再建したとある。
堂宇手前に建つ自然石の板石(庚申塚と彫られている)は昭和45年(1970)に建てられたもの。どれもが新しくなっていることに戦災の凄さを感じてしまう。堂宇右手には、古い破壊された庚申塔の破片なのかどうかは分からないが、らしき石片が積み上げられている。
関東大震災以前にはこの辺りにはほとんど民家はなかった。それでもこの場所に庚申塚が築かれたのは、雑色村と幡ヶ谷村の村境が近く、西に行くとほんの数分で和田村だった。いわゆる村の外れで、そういう場所には野仏が置かれる。江戸時代はそんな場所だったはずである。
場所 中野区南台4丁目47-1
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