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2019年6月30日 (日)

赤堤三差路の庚申塔(世田谷区赤堤)

個人的に甲州街道に抜けるためにしばしば使う裏道の途中に庚申塔がある。世田谷区には大通りは少ないが、こういう細街路は沢山あり、その一部が江戸時代からある古い道である。だから碁盤の目のようには道が走っておらず、土地の地理に詳しくないと道に迷うとよく言われる。この庚申塔を挟む二つの道はいずれも江戸時代からある古道。明治から大正時代には庚申塔のすぐ北側に松澤村の村役場があった。

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どちらの道も直接甲州街道には繋がっていなかったが(現在は東側の道が甲州街道に繋がっている)、それでも村では重要な道だったのだろう。この辺りは江戸時代初期は赤堤村だったが、元禄時代に赤堤村から松原村が分離独立した。その後明治22年に松澤村に統合され、昭和7年に世田谷区に含まれるようになった。

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地元の記録でも相当古い庚申塔だとあるが、造立年代は塔にも資料にもない。おそらくは江戸時代中期(1700年前後)ではないかと思う。青面金剛に三猿のシンプルな庚申塔だが、大きさはかなり大きい方に入る。角柱型だが昔は笠付だったのかもしれない。

場所  世田谷区赤堤5丁目9-1

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2019年6月29日 (土)

赤堤のささ地蔵(世田谷区赤堤)

赤堤5丁目の一角にほとんど資料のない地蔵がある。民家の一角に立派なお堂が建てられそこに鎮座している地蔵様は、子育地蔵と書かれているが、実は昔はささ地蔵と呼ばれていた。

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地蔵の造立年は寛延2年(1749)という。台座に彫られていた文章を板に書き起こして堂内に掲げてあった。「秩父西国坂東順禯 供羪塔爲二世安楽 法号自見道性上座 施主 藤右衛門」と書かれている。この地蔵は岩田家が大切に守ってきたらしく、昭和63年の事として、「本子育地蔵尊御堂建立を機会に皆様各位からいただいた奉納金は社会福祉協議会に寄付する」とある。奉納者名には富士銀行明大前支店まで入っていて感心した。

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ところで「ささ地蔵」の話だが、この道とすぐ東側にある南への道は古くからある道で、ささ地蔵のすぐ南には松澤村の村役場があった。松澤村は明治から大正にかけて存在した村で、松原村、赤堤村、上北沢村が合併してできた。昭和になって世田谷区に編入された村である。

時代はそれよりも遡る。全国を修行して子供たちの病気を治して歩いた医者を祀ったのがこの地蔵の始まりで、当時医者が倒れた場所がこの近くの竹藪だったことから「ささ地蔵」と呼ばれたという。個人的には「ささ地蔵」の方が響きがいいが、その医者が地蔵になったと思えば子育地蔵も間違いではないか。

場所   世田谷区赤堤5丁目13-16

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2019年6月28日 (金)

祖師谷商店街の庚申塚(世田谷区祖師谷)

ウルトラマンで有名な祖師谷商店街、円谷プロがあったのは南の方だが、商店街は北に長く伸びる。その北側の商店街を駅から450mほど行くと神社の玉垣のような場所がある。木梨サイクルのちょっと先である。商店街の話ではここには祖師ヶ谷の七庚申のうちの二つが祀られている。

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昔は塚だったのだろう。周りよりも1mほど高くなっている。昔からここは庚申塚と呼ばれてきた。商店街の話ではここの庚申を二つとしているが、『ふるさと世田谷を語る』の記述ではここは二つで一つとしている。

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右側の大きい方は高さが146㎝ある。青面金剛像と三猿の板状駒型の庚申塔。造立年は正徳6年(1716)、願主は下祖師谷村の人々とある。左側の小さい方は、青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれた庚申塔。高さは84㎝、造立は元文元年(1736)で、祖師ヶ谷村の庚申講中8人によると彫られている。

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今は四角い台地に乗っかった庚申塔だが、昔は南側が大きな塚、次に中くらいの中塚がありそこに庚申塔が乗っていた。さらに北側には小さな山があって三連になっていたようだ。大塚には赤松の名木があったが、昭和20年頃に松が枯れてしまったので、庚申塔を中塚から大塚に移したという記録がある。祖師ヶ谷大蔵周辺には縄文時代の集落跡もたくさん発見されているので、塚は古墳時代辺りまでの墓だった可能性もありそうだ。

場所  世田谷区祖師谷2丁目3-11

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2019年6月27日 (木)

烏山念仏堂の石仏(世田谷区南烏山)

烏山神社の北側に烏山念仏堂がある。念仏堂の隣には昔、寺があったと伝えられるが、村人たちはこの地から離れた三鷹の真福寺、宇名根の常光寺、その他杉並の寺などを菩提寺にしていた。しかし遠くて不便なので、相当数の村人はこの地に共同墓地を設けて先祖を葬っていた。念仏堂は閻魔様が祀られ、明治6年には烏山村で初めての学校「温知学舎」が開設され、後の烏山小学校の発祥の地とされている。

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東京の郊外にはこういう寺ではない墓地をしばしば見かける。船橋観音堂もそうだし、杉並や板橋にもある。ただ、地物との人々の信仰が深いので、多くの石仏が大切に保存されているのが何よりである。入口を入るとすぐ左の屋根付き堂宇に収まっているのが、元禄2年(1689)造立の高さ152㎝の笠付の念仏塔である。「南無阿弥陀仏講」とあり、烏山村10人の名があるが半分は下山姓である。

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念仏堂の奥には多数の石仏(後述)があり、墓所入口には二つの地蔵がある。右側は三界万霊の座像で「百万遍講中 烏山村」とある。造立は不明だが江戸時代初期だろう。百万遍というのは、多くの人が大きな数珠にとりかかり、念仏を唱えながら回す行事(百万遍の数珠繰り)。 正月と盆などに行っていた。

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左の涅槃像はもっと古いと言われている。江戸初期は間違いないだろう。年号がかすれてしまって読めないと昭和中期の資料にも書かれている。涅槃像と最初の念仏塔の間にはいくつもの石仏があるが、手前の左手から6体並ぶのが六地蔵である。文政10年(1827)の造立である。「武刕多摩郡烏山講中」とある。

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六地蔵の右(手前右から2番目)は馬頭観音でこれは造立年不詳である。手前の一番右端の大きなものはも馬頭観音で慶応2年(1866)の造立。烏山下宿とある。甲州街道烏山宿には上宿、中宿、下宿があった。後列の右端もまた馬頭観音で大正4年(1915)と新しい。その左となりの変わった形の石塔は、中段下段は台座だが、上部は地蔵のようだ。座像の可能性もある。造立は宝暦5年(1755)で烏山女中念仏講中とある。

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念仏堂の向かい側にも2基の石塔があるが、右側は墓石のようだ。左側はまったく読めないほど欠損している。それでもきれいな花を供えている方がいらっしゃるということは、昔からここにある野仏なのだろうか。

場所  世田谷区南烏山2丁目23-16

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2019年6月26日 (水)

烏山神社の庚申塔群(世田谷区南烏山)

烏山神社は京王線の南側、千歳烏山駅と芦花公園駅の間にある。古そうだが江戸時代以前の記録はあまりない。創建は元文元年(1736)とされているが、昭和37年(1962)に町内の天神社、神明社、稲荷社を合祀して烏山神社と呼ぶようになった。それ以前は白山御嶽神社と言われていたらしい。この神社の境内には江戸時代の庚申塔が複数並んでいる。

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鳥居の南側の一角、二つの屋根付き堂宇と、玉垣の傍に小さめの庚申塔が2基。江戸時代のこの辺りは粕谷村である。甲州街道を境に北側が烏山村であった。神社の東側には烏山川(古烏山川)が流れ、周辺は低地になっていた。甲州街道を参勤交代する大名は、高島藩(諏訪地方)、高遠藩、飯田藩の3藩と京都から将軍にお茶を献上するお茶壷道中くらいで、比較的寂しい街道だったらしい。賑やかになったのは江戸時代後半、富士講や身延参拝に往来する庶民が増えてからだという。

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向かって右側の堂宇に収まるのは、舟型光背型の大きな庚申塔。高さは114㎝ある。造立年は江戸時代初期の貞享3年(1686)、青面金剛像に三猿の図柄。下部には「品誉連九」とあり願主が9人並んでいると思いきや、10人目に「おかま」という名前がある。このおかまさんがどんな人なのか興味をそそる。

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左側の堂宇にあるのは高さ105㎝のこれも大きめの庚申塔。 青面金剛像の下に邪鬼、さらに三猿が描かれている。造立年は宝暦13年(1763)で江戸時代中期。山型角柱タイプである。

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玉垣の脇にある2つの石塔も庚申塔である。右側は駒型で、青面金剛像+邪鬼+三猿の図柄。造立年は右下にかすかに残っていて、宝暦2年(1752)である。左側はそれぞれ三面に猿が描かれており、山状角柱型で、造立年は裏側にあった。享保12年(1727)とある。どれもかなり時代が古いものだが、きれいに保たれていてありがたい。神社の北側には烏山年仏堂がある。

場所  世田谷区南烏山2丁目21-1

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2019年6月25日 (火)

榎庚申(世田谷区上祖師谷)

安穏寺東側にある榎交差点は江戸時代から交差点であった。東西に走る瀧坂道と南北に走る六郷田無道がここで交差していた、とても歴史のある交差点。この辻から少し北へ六郷田無道を進んだところにあるのが榎庚申である。六郷田無道は現在の中央線の前身である甲武鉄道が明治22年(1889)に開通するまでは、この道が田無方面から大田区の六郷への重要な街道であった。私はこの道が地形に素直に走っているところが好きである。

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榎庚申の台座は新しく黒御影石で作り直されていた。そこには願主たちの名前が刻んであるのだが、御影石は花崗岩だから江戸時代の多くの石仏の材料であった玄武岩よりも風化が早い可能性がある。とはいえこの手の石に使う御影石は風化に強いタイプを使っているのだろうが、200年後にどうなるか見てみたいものである。

この榎庚申の造立年は文化9年(1812)で、駒型の文字塔、但し下部に三猿が彫られている。この辺りの瀧坂道は上祖師谷村と粕谷村の村境であった。そのためか道標の役割も果たしていた。

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正面には「庚申塔」の文字、台座には武州多摩郡上祖師ヶ谷村とある。右面には、「北 ところざハミち 南 せたがや めぐろみち」、左面には「東 たかいどミち」とある。 所沢道は三鷹を経て所沢に繋がる道で、六郷田無道をその先まで含めて示している。東 高井戸道というのは、粕谷村を経て高井戸に行く道で、この方角に進むと間もなく粕谷地蔵尊に至る。

場所   世田谷区上祖師谷1丁目1-3

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2019年6月24日 (月)

安穏寺境内の石仏(世田谷区上祖師谷)

安穏寺は正式名を舜栄山行王院安穏寺という。瀧坂道に面しているので古そうだが実は元禄年間(1688~1703)の開山と伝えられ、比較的浅い歴史である。しかも明治初期には廃仏毀釈もあり寺は荒廃して、明治18年の台風では倒壊してしまった。それから長い年月を経て、昭和に入る頃から復興、檀家も増えたという。

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瀧坂道からの安穏寺の参道は真っ直ぐでいい景色である。瀧坂道は長年の交通不便から寺の裏側に新たな道路の建設が進んでおり、そうなれば門前の安穏寺坂も散策可能な散歩道になりそうである。現在はすれ違いぎりぎりの車におびえながら僅かなスペースを歩くしかない状況である。

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山門は武家屋敷風の風格あるもの。舜英山の扁額か掛かる。この山門と境内の風情はせたがや百景の一つに指定されている。なお別説で安穏寺の開山を寛永年間(1624~1644)というものがあるが、おそらく元禄が正しいだろう。

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山門を回って右奥が墓所の入口。そこには古い六地蔵が並んでいる。いずれも世田谷領上祖師ヶ谷村の村民による造立。左から、正徳6年(1716)、正徳2年(1712)、正徳5年(1715)、右半分は左から、享保2年(1717)、正徳3年(1713)、享保元年(1716)で、右から2番目を除いてはすべて上祖師谷村の女中念仏講が願主である。(残りの1基は個人の願主)

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墓所と本堂の間に3基の石仏石塔がならぶ。真ん中についてはよく分からないが、右の地蔵の台座には「三界万霊 廻国六十六部供養塔」とあり、造立年は正徳元年(1711)、左側も供養塔で、大師編照金剛とあるが、左面に道標も彫られている。「従是 上高井戸宿医王寺迄十八町、下祖師ヶ谷観音堂迄六町廿間」とある。裏面には「武刕多摩郡世田ヶ谷領上祖子ヶ谷村」と彫られ、右面には宝暦8年(1758)の造立とある。これらの石仏からもおそらくは元禄の開山であろう。

場所  世田谷区上祖師谷2丁目3-6

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2019年6月23日 (日)

安隠寺近くの石仏群(世田谷区上祖師谷)

瀧坂道は渋谷から仙川に及ぶ古い街道。経堂駅付近から西に進み、環八脇の千歳清掃工場裏から千歳台交差点を通り、榎交差点からは丘を下り宮下橋で仙川を渡る。安穏寺墓地脇から下りになるが、ここは道路拡幅が出来ないまま現在に至り、乗用車ですらすれ違いにくい道幅でかつ路線バスも走る難所になっている。電柱にはたくさんの擦り傷があるが、なぜかここで警察を呼んだ人を見たことがない。皆、当て逃げならぬ、当たり逃げしているのだろうか。

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坂を下った安穏寺山門の先に広いスペースがあり、地蔵堂の前に石仏が5基並んでいる。左の3基は馬頭観音で、右の2基が庚申塔である。この場所は記憶の限り30年以上変わっていない。名前があってもよさそうなものだが無名である。仕方なく安穏寺近くの石仏群とした。ちなみにこの坂道は安穏寺坂という。

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地蔵堂は施錠されているが、中に祀られているのは岩船地蔵。この地蔵の所有は安穏寺らしい。岩船地蔵というだけに岩のような舟に乗っている。その下に木の舟があるので、舟on舟になっているのがちょっと違和感があった。海沿いの街にたまに岩船地蔵があるようだが、こんな内陸になぜこの地蔵がという疑問が湧く。岩船地蔵は江戸時代中期に起こった集団的な宗教現象を機に各地に設置されたという。当時の新興宗教だったのだろうか。

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さて左の3基の馬頭観音だが、一番右の石塔は摩滅風化が激しくて何も読み取れない。これが一番古そうなのだが致し方ない。真ん中のものは、前面に「嘉永五年 馬頭〇〇」とあることから、造立年は嘉永5年(1852)だとわかる。馬頭観音としては比較的古い方である。そして一番新しい左端のものは昭和26年(1951)の馬頭観音。 私より少しばかり古い。

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右の2基の庚申塔のうち左側のものは高さが107㎝あり大型である。板状駒型で、正面には青面金剛像と三猿がある。その右側に「武州荏原郡祖子ヶ谷村」とあるが造立年は欠損した左下部にあったのだろうか不詳である。しかし「祖師谷村」とあることから、祖師谷村が上と下に分かれた元禄8年(1695)の検地以前ではないかと考えらえる。

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一番右にある庚申塔については年代もわかっている。造立年は宝永6年(1709)である。青面金剛像に三猿が描かれ、多摩郡世田谷領とある。祖師谷村が上祖師谷と下祖師谷に分けられた元禄8年(1695)以降、幕末まで上祖師谷村、下祖師谷村は幕府の天領となったので、造立年と村名が合致する。そんな推理を入れながら石仏を見るのもまた面白いものである。

場所  世田谷区上祖師谷2丁目3-7

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2019年6月22日 (土)

塚戸十字路の庚申堂(世田谷区千歳台)

塚戸十字路と呼ばれる交差点は祖師ヶ谷大蔵商店街の北の端。祖師ヶ谷大蔵の商店街は戸越銀座並に長く、駅からここまでは1.3㎞もある。途中にはとんねるずの木梨憲武の実家の木梨サイクルがあったりして、散策していても楽しい町並み。この北の端は祖師谷通りがかつての品川用水に突き当たる地点で、北西から南東に瀧坂道が通っていた。塚戸十字路は今も昔も交通の要所だったわけである。

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交差点の南東側角に小さな公園のような区画があり庚申堂がある。この庚申堂、昔は向かいにあったらしい。後に区画整理が始まり一旦根ヶ原熊野神社(跡地)に移され、平成になってこの場所に再建されたそうである。もともと2基あったようで、1基は今もまだ熊野神社(跡地)にある。

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ちょっとした広場になっているのがいい。祖師谷商店街周辺には7つの庚申塔があり、地元では「祖師ヶ谷の七庚申」と呼んでいる。この庚申塔はその一つである。山状角柱型の大きな庚申塔で、むしろ道標としての役割の方が大きいと思われる。

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正面には大きく「庚申塔」とあり、その下に「世田ヶ谷道」とある。右には「北 高井戸道」、左には「南 二子道」、また裏には「西 府中」と彫られている。造立年は享和2年(1802)で、高さは123㎝ある。

場所  世田谷区千歳台2丁目46-13

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2019年6月21日 (金)

東覚院門前の石仏(世田谷区千歳台)

現在の住所は世田谷区千歳台、江戸時代はというと幕府領廻沢村、明治になり品川県廻沢村、神奈川県北多摩郡廻沢村、明治22年に市町村制が始まり東京府北多摩郡千歳村に統合された。明治初期に環八以西のエリアの大部分が神奈川県に所属していたことを知る人は少ない。現在の千歳台がほぼ廻沢村である。

東覚院は古刹で開山は正応元年(1288)と古い。鎌倉中期に大和長谷寺より月空という廻国僧がここに草庵を結んだのが始まりと言われる。戦国時代には吉良氏に守られた。その後盛衰を繰り返したが、明治19年(1886)に大部分が焼失し、完全に復興したのは昭和に入ってからであった。

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正式名は青林山東覚院薬王寺。山門には青林山の扁額が掛かる。この山門は明治19年に焼失しなかったと聞いている。330年前のものが現在も残っているようだ。本堂には元亨2年(1323)あるいは享徳2年(1453)の板碑、墓所には文化11年(1814)の庚申塔があるようだが、今回は拝観できていない。

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山門に向かって左側には庚申塔が立っている。駒型で前面は青面金剛像と邪鬼、右面には世田ヶ谷領廻沢村講中拾八人とある。造立年は元文3年(1738)で江戸時代中期。庚申塔には白っぽいゼニゴケが付着していて文字が読みにくい。

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もう片側には寛文9年(1669)建立の舟型光背型の地蔵菩薩立像が立つ。前面には、「念仏供養道行男女五十人 庚申供養道行三拾一人」とあるので庚申塔でもある。「めくりさわ村」の文字もある。

廻沢の地名の由来は地形から。東覚院の西北の窪地は雨が降ると水がたまる沢地で、その為にこの水を烏山川へ落としていて、いわゆる水めぐる沢だったことから付いたと伝えられる。

場所  世田谷区千歳台4丁目11-11

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2019年6月20日 (木)

中和泉の庚申塔兼道標(狛江市中和泉)

小田急線和泉多摩川と京王線仙川を結ぶ松原通の田中橋交差点から少し北に進むと、西に入る細路地がある。この角に野ざらしの庚申塔が1基祀られている。野ざらし雨ざらしなので風化が激しい。全体的な劣化から文字が読み取りにくいのである。

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それでもブロックできちんと囲いがあるのはありがたい。狛江市の資料から彫られている文字を参照した。 形としては駒型で青面金剛像は十分わかるが、他の文字はなかなか難しい。狛江市の資料に同じ場所で昭和52年に撮影した写真があったので使わせていただいた。

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随分と街並みも道路も変わってしまったが、それでも江戸時代の庚申塔は同じ場所に鎮座。こういう写真があると散策していても、イメージが時空を超えて湧いてくるのでありがたい。

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造立年は安政5年(1858)だから明治維新の10年前。道標も兼ねており、右側には「右 高井戸宿」、左側には「左 国領宿」と彫られていたようだ。古地図を見ると細路地を行くと国領に至ることが分かった。また右というのは松原通りを北上し仙川で甲州街道に出る。その先江戸に向かうと高井戸宿になるということであろう。

場所  狛江市中和泉3丁目3-7

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2019年6月19日 (水)

田中橋跡の石仏(狛江市元和泉)

狛江市を多摩川に対して平行に北西から南東へ走っていた品川道(筏道)から南の登戸の渡しに向かう道があった。現在の松原通り(仙川から和泉多摩川への通り)がほぼそれに近い。現在も六郷桜通りとの交差点を田中橋という。この田中橋の下を流れていた水路は六郷用水である。六郷用水は慶長2年(1597)に徳川家康が多摩川下流低地の水田灌漑を目的に工事を命じたもので、慶長16年(1611)に完成した。喜多見の次太夫堀は六郷用水の別名である。

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田中橋交差点に斜めに合流する細街路がある。これが昔からの南北を繋ぐ古道である。三角形の敷地には稲荷神社がこじんまりと収まっている。その社の裏にいくつかの石仏が並んでいる。両脇の大きい石柱は田中橋の親柱である。この親柱には、昭和4年(1929)の竣工年が刻まれているので、江戸時代のものではない。昭和のものなのに江戸時代の他の石仏よりもはるかに欠損が多い。

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二つの親柱の間にあるのが庚申塔である。前面には、「武州多摩郡世田谷領和泉村八人講中」とある。造立年は宝暦13年(1763)である。舟型で青面金剛像の下に邪鬼と三猿が彫られている。塔の中央部分が折れた形跡があり、後年繋がれたのだろう。

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庚申塔の後ろにある墓石のような塔は廿三夜月待塔である。願主は「泉邑石井又市」とある。造立年は安永4年(1775)。日待塔や月待塔については、現在でも登山をしてご来光を拝んだり、初日の出を拝んだりするが、昔は特定の日に場所を決めて人々が集まり、夜もすがら忌み籠りをして日の出や月の出を待つ行事が広く行われていた。本来は満月の夜に行っていたものが、月は勢至菩薩の化身であるという信仰があり、特に23日目は勢至菩薩の縁日であることから、二十三夜待ちが盛んであった。

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参考に、狛江市の資料にあった田中橋の昔の写真を使わせていただいた。昭和39年(1964)のものである。東京オリンピックの頃、23区内は暗渠を埋めて臭い物に蓋をする土木突貫工事がお祭りのように進められたが、この辺りまで来るとまだまだのどかな風景だったようである。

場所  狛江市元和泉1丁目14-19

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2019年6月18日 (火)

和泉工業所の新旧庚申塔(狛江市東和泉)

狛江駅と和泉多摩川駅の間、小田急線と世田谷通りが絡むように走る。ファミリーレストランだった建物が居抜でデイサービス施設になっていた。この辺りは小田急線より南東側が東和泉、北西側が元和泉。以前はまとめて和泉と呼んでいた。デイセンター脇の路地を入ると、和泉工業所という水道設備屋さんのビルがあり、その敷地内に新旧二つの庚申塔が並んでいる。

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この水道屋さんが代々守って来られたのだろうか。左側が新しいものだが、古い方の完全コピーになっている。古い方は造立年が文化7年(1810)と200年以上も昔。 一方の新しい方は平成15年(2003)と極めて新しい。山型角柱で文字塔で「庚申塔」と彫られている。施主は下泉講中20人とある。

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新しい方の土台には三猿も描かれている。古い方の土台がいつのものかはわからないが、水道屋さんの言い伝えで昔の土台には三猿があったなどという話があったのかどうかは分からない。

庚申塔のある細路地は昔は和泉村の主要な村道であった。矢倉沢往還(津久井道)は登戸の渡しから庚申塔の近くまで一旦北上したのち、この庚申塔近くで東に向かう。猪方村を通って現在の二中通りで狛江三差路へ、そこからは現在の世田谷通りとあまり違わないルート。そんな街道から和泉の本村に向かう道がこの道である。

場所  狛江市東和泉1丁目35-9

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2019年6月17日 (月)

猪方の角柱庚申塔(狛江市猪方)

狛江市は明治22年(1889)に和泉村、猪方村、駒井村、岩戸村、覺東村、小足立村の6つの村が合併して狛江村となった。多摩川寄りの村であった猪方村は、その昔源頼朝が狩りで猪を射止めた場所というのが地名の由来と言われている。もっとも猪はあちこちにいただろうから、それなら全国に多くの猪方村がありそうなものだ。地名の由来というものはそういう一面もある。

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猪方1丁目6番地と5番地の間の丁字路の植込みに山型角柱型の文字塔の庚申塔がある。ここは猪方の北の端にあたる。これより北は和泉になる。庚申塔というものはそういう場所に置かれることが多い。民俗信仰というものは境の儀礼を伴うことが多く、塞ノ神を祀って悪いものの侵入を防ぐというのが本来の主旨である。

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この庚申塔の全面は大きく「庚申塔」という文字、それ以外の面は道標を兼ねている。右側が 東 江戸青山道、左側が 南 野みち、裏面が 西 大山道とある。大山道は現在の世田谷通り、別名を津久井道、登戸道とも呼ばれた。二子玉川を通るのも大山道だが、ここから登戸に渡るのも大山道(矢倉沢往還)である。この庚申塔の前の細い道は和泉村と猪方村の境界でもあり、昔の大山道でもあったのである。庚申塔の造立年は文政9年(1826)と江戸後期である。

場所  狛江市猪方1丁目5-7

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2019年6月16日 (日)

慶岸寺門前の庚申塔(狛江市岩戸北)

狛江市は東京のベッドタウンとして急速に発展した。高度経済成長期前の人口は1949年には1万人ほど、1952年に村から町になった。その後、東京オリンピックの1964年には3万人を超え、5年後の1969年には5万人を超えるという爆発的な増加を経ている。現在の人口は約8万人まで来ている。しかし駅を離れるとかつての農村風景が至る所に残る環境がいい。

その狛江市を東西に走る世田谷通りは昔からの街道(津久井道あるいは登戸道)。また江戸の町に木材を供給した青梅地方の筏師が大田区六郷に木材を荷揚げした後、歩いて青梅に戻るための筏道(品川道)という多摩川沿いの街道が交差していた。その街道の辻の傍にある寺が慶岸寺である。

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慶岸寺は南にある慶元寺の末寺で、村民の川合氏が開基となり、正保2年(1645)に僧然度が開山したという浄土宗の寺院。岩戸の住人川合氏は財産の半分を供出した。本寺の慶元寺は徳川以前に辺りを治めていた江戸氏(世田谷城主吉良氏の家臣)が文治2年(1186)に現在の皇居あたりに作った寺院だったが、江戸氏の領地が現在の喜多見に移るとともに移転した。江戸氏は徳川の町である江戸に配慮して、喜多見氏と改名したと言われる。(但しそれ以前に木田見氏がこの地に居たが、どういう関係かはわからない)

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その末寺慶岸寺の門前にかなり風化の進んだ庚申塔が立っている。文字はほとんど読めない。従って造立年も不明。板状駒型で青面金剛像と三猿が描かれていることは分かる程度。雨ざらしというのもあるだろうけれど、材質は安山岩だろう。稀に砂岩や花崗岩の庚申塔もあるが、風化が早いので適さない。安山岩でもやはり300年~400年が限界なのだろうか。

場所   狛江市岩戸北4丁目15-8

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2019年6月15日 (土)

宝性寺境内の石仏たち(世田谷区船橋)

宝性寺の山門を入ると正面に本堂、左手に船橋不動堂がある。船橋不動堂は昭和28年(1953)に宗教法人法の切換えの時、この寺の所有とならず国有財産となっている。そういうこともあるのだといささか驚いた。不動堂は本堂とは違った風情を醸し出している。

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不動堂の裏手には鐘楼があり、その奥が墓所になる。墓所の入口には、念仏供養塔を囲んで六地蔵が並んでいる。真ん中の念仏供養塔は元禄4年(1691)と古い造立で、正面には「意趣者念仏供養為二世安楽也 舟橋村」とあり、12人の施主の名前がある。高さは1.51mもあるなかなか大きな供養塔である。

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六地蔵の年代は正徳3年~5年(1713~1715)で、右から一番二番と六番まで書かれている。いずれも武州舟橋村の念仏講中によるものである。このように真ん中に供養塔があるのは珍しいように思う。

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六地蔵の堂宇の手前にある地神塔もまたたまにしか見かけない石塔。 この地神塔は明治27年(1894)の造立で、土地の神、農業の神を祀った塔である。春分秋分に近い戊(ツチノエ)の日に、田の神と山の神が交代、それが一年の農業の始まりと終わりを表すのである。この日には農具(鍬クワや鋤スキ)を使わずに休ませるという地神講によるもの。明治期にはまだまだ周辺は農村地域で、この辺りの地名は舟橋本村といい農村の中心的な場所だった。宝性寺や隣接する神明神社は本村だからこそここにあった訳である。

場所  世田谷区船橋4丁目39-32

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2019年6月14日 (金)

宝性寺門前の地蔵・庚申塔(世田谷区船橋)

宝性寺は真言宗波羅密山観光院宝性寺といい、川崎市小杉の末寺。開山は寛永年間(1624~1644)と伝わる。天保年間(1830~1844)より明治中頃まで荒廃して、西にある東覚寺が管理していた。明治19年(1886)に東覚寺が焼失した際に、宝性寺に関する史料も焼失し過去不詳になった。本尊は大日如来の木像。

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門前には、山門に向かって右側の植込みに地蔵立像が立っている。造立年は延宝4年(1676)と古いものである。資料によると、門前には夜泣地蔵という元禄年間の地蔵があり、子育地蔵として有名とあるが、この舟型光背型の地蔵立像はさらに古い延宝年間のものである。資料と異なるが、なぜそうなったのかは不明。

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門前にはもうひとつ、この地蔵立像の向かいに古い庚申塔がある。唐破風笠付角柱型の庚申塔で造立年は元禄16年(1703)である。正面には青面金剛像と三猿が彫られている。また側面左右には蓮華が彫られていて、存在感がある。この庚申塔はイボ庚申と呼ばれ、祈念するとイボが取れると信じられていた。

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いぼとりの石仏は各地に見かけるが、なぜ人々がそんなにイボを気にするのかが私には理解できない。しかし全国にはたくさんのいぼとり地蔵がある。疱瘡(天然痘)にご利益のある神もあるがそっちは当時の人知では治せなかったのだからわかる。民間信仰というものは不思議な面が多い。昔から日本人は神仏習合だけでなく道教も民間信仰もすべて吸収して自分たちの信仰を作り上げてきたクリエイティブな民族だった。庚申信仰も道教と仏教の合作に飲み食いの騒ぎを加えて定着した不思議な民間信仰であるから、奥が深い。

場所   世田谷区船橋4丁目39-32

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2019年6月13日 (木)

瀧坂道(船橋)の道標(世田谷区船橋)

赤堤通りは環七の世田谷代田から甲州街道の八幡山駅近くまでを走る区道。十数年前に希望丘通りと城南信用金庫桜上水店前の丁字路で接続した。それ以前は細街路として赤堤通りから荒玉水道道路へ連絡していたが、拡幅されて交通量も増えた。元々この赤堤通りも希望丘通りも古い道だが、赤堤通りのこの辺りは古道の瀧坂道で江戸時代には既に民家も集まっていた。

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ここの道標は小さくて、歩いている人ですらおそらく気付かない。私も探して見つけたくらいだから、よく残してくれたものだとありがたく思った。この瀧坂道は上北沢村と船橋村の村境でもあった。

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道標の正面には「向 土手〇〇」とあり、右側面には「向 右 千歳役場 左 宮坂停留所」とある。造立年は大正15年(1926)と新しいが、小田急線の開通が昭和2年(1927)だからそれよりも前である。「土手」というのは品川用水の土手のことだろう。大正時代以前、千歳船橋駅北西のバス停周辺は土手下という地名だった。宮坂停留所は瀧坂道を渋谷方面に行くと、世田谷八幡神社の北側に出る。そのすぐ近くに現在も世田谷線の宮坂駅がある。当時の千歳村役場は現在の榎交差点の北側にあった。榎庚申から路地を入った都立芦花高校の北側である。

場所  世田谷区船橋5丁目33-20

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2019年6月12日 (水)

世田谷線脇の堂宇(世田谷区若林)

世田谷線の松蔭神社前と若林の間に気になっていた場所がふたつあった。ひとつはこんもりとした森。これは峰松緑地(世田谷区若林3-30-10)で世田谷区が管理している公園だが、出入はできない。閉鎖したまま区の管理となっているのに文書では公園となっているのである。1,400㎡の樹林が鬱蒼と茂っている。

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峰松緑地の50mほど西側に二つ目の気になるものがある。野仏の堂宇である。世田谷区の資料にも載っていないし、どこを探しても記述がない。現地で得られる情報がすべてである。堂宇内には石仏が2基。左側の大きな方が板碑型の供養塔で、万治3年(1660)のもの。右側は舟型光背型なので庚申塔かと思ったら、文字を読み取る限りではこれも供養塔のようである。

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奉造立千手観音現当世成就と彫られている。造立年は貞享元年(1684)とある。これらを代々守ってこられただろうお宅が右隣りの河野氏らしい。これほど古いものがどの情報にも入っていなかったのは驚きであった。どちらも区内の石仏としては最古クラスで、よくこれまで守ってこられたと感心するばかりである。

場所   世田谷区若林3丁目23-8

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2019年6月11日 (火)

勝国寺門前の地蔵(世田谷区世田谷)

勝国寺も烏山川の崖線の際に建つ寺院である。天文23年(1554)に世田谷城主吉良家によって開山された。世田谷城の東北方向、裏鬼門にあたるこの地に鬼門除けとして薬師如来を祀って建立された。江戸時代は中野宝仙寺の末寺だが、この勝国寺も末寺を持っていた。本寺(本山)と末寺というのは主に江戸期に寺社奉行などが寺を管理する為に作り上げた制度で、多くの末寺を持つ寺は本寺、少しの末寺を持つ寺は小本寺と呼ばれる。勝国寺もいくつかの寺を末寺にしていたので小本寺であった。

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室町時代から戦国時代にかけて区役所あたりからこの勝国寺にかけては砦と同じ役割を果たしていたのだろう。吉良家が衰退し、徳川の時代になっても勝国寺は優遇されていた。歴代将軍から御朱印を与えらえたようだ。御朱印は現代も派手に流行しているが、江戸時代は寺はある種行楽地のようなものだった。御朱印も今の記念スタンプと同じようなものである。ただし将軍から与えられた御朱印というのはちょっと違うようだ。

江戸の切絵図(古地図)では神社や寺院はその敷地の範囲を赤く塗られている。幕府より寺社領として認められた場合に朱印を押した朱印状が与えられた。また江戸の町奉行の管理範囲を墨引というのに対して、寺社奉行の管轄範囲を朱引という。朱は寺社の色だったのである。その領内の租税は免除され、収入は寺のものになった。現代の宗教関連への非課税と似ている。

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山門脇に古い地蔵菩薩立像がある。村人たちが建立したものである。造立年は享保17年(1732)。堂宇もしっかりしたものが造られている。今もなお地元の人々に親しまれているお地蔵様である。

場所  世田谷区世田谷4丁目27-4

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2019年6月10日 (月)

くぬぎ公園の庚申塔(世田谷区世田谷)

くぬぎ公園と言っても小さな公園である。東急世田谷線の世田谷駅と世田谷区役所の間、実は区役所の西側は崖線になっていて5m以上の高低差がある。西側の崖線上に建てられたのが区役所の第二庁舎、その南側にくぬぎ公園がある。烏山川が形成した河岸段丘の崖線上の公園である。この公園の小高い丘にボロボロの堂宇に守られた2基の庚申塔がある。

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背後に見えるビルが区役所の第二庁舎。垂木とトタンでこしらえた簡素な堂宇である。しかし中の庚申塔は年代物。昭和中期の地図を見ると、第二庁舎が出来る前は崖線に神社があったようだが、思い出せない。くぬぎ公園は第二庁舎が出来たころに出来たような気がする。そしてこの古い庚申塔はいったいどこから持ってきたのだろうか。

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右の庚申塔は欠損と風化が激しく、年代もわからない。青面金剛像の上半身はかろうじて確認できる。左の庚申塔は折れた形跡があるものの、駒型の青面金剛像と三猿が確認できる。造立年も足元の部分にあり、享保9年(1724)と読み取れる。

場所   世田谷区世田谷4丁目17-17

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2019年6月 9日 (日)

中里の庚申尊(世田谷区上馬)

国道246号線の旧道である上馬~三軒茶屋の間の道は中里商店街という。蛇崩川を街道が渡る辺りを中里といったのだろうか。明治時代はまだ蛇崩川付近には商店が少なく、三軒茶屋側か上馬交差点側に街道筋の商店が集まっていた。三軒茶屋というのは本当に3軒の茶屋があったためについた地名である。田中屋、角屋、石橋屋(信楽)という3軒が大山街道の分岐点にあった。お茶屋というのは座敷にお膳を整えて、茶屋娘を置く接待料理茶屋である。カフェ的ではなく、少し場末になるとすぐに岡場所になるような店も茶屋といったが、三軒茶屋のそれはおそらくそういう店ではなかった。

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この中里通り(旧道)が明薬通りと交差するところにお堂がある。中を覗いてみると、庚申塔が1基祀られている。蛇崩川を渡った駒沢側にあったものが残っているのだろう。

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文字が赤くなっているのは後年誰かが塗り込んだものだろう。造立年は貞享2年(1685)、板状駒型で青面金剛像と邪鬼が彫られているが三猿は見当たらない。下の部分には14人の施主の名前がある。旧街道沿いは野仏が残っていて散歩も味が出る。

場所  世田谷区上馬1丁目33-11

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2019年6月 8日 (土)

小坂の地蔵(世田谷区上馬)

国道246号はかつての大山道である。世田谷区内でも何ヶ所か、旧道が分かれて残っている区間がある。最も長いのは駒沢の西の新町一丁目から二子玉川迄の旧道。その手前では三軒茶屋先から上馬交差点手前までの小坂という坂のある部分、あとは池尻の付近である。小坂は「ぼのぼのぶろぐ」の坂道でも紹介しているし、そこでも地蔵について触れている。(坂の方のページでは2017年の写真)

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地蔵の造立年は正保2年(1645)らしい。というのは再度調べてみたが、坂道散歩当時造立年をどこで知ったかを失念してしまったのである。大山道沿いなのでそれくらい古くても不思議ではない。地図を確認しても江戸末期以前の地図はなく、鎌倉道の詳細もわからないから、詳細は分からない。

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大山道はいずれ歩いてみたいと思っている。ただ大部分が国道246号(玉川通り)になってしまうのでどうも触手が伸びない。やはり旧道を歩くのがよさそうだ。

場所  世田谷区上馬1丁目13-11

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2019年6月 7日 (金)

上馬子育地蔵尊(世田谷区上馬)

環七の東側も西側同様住居表示は上馬。上馬は江戸時代の上馬引沢村に由来する地名である。三軒茶屋から数百m南を蛇崩川が流れており、その流域まで上馬引沢村であった。現在の環七の道筋につかず離れない位置を南北に走っていたのが鎌倉街道のひとつだと言われる。村道がその鎌倉街道に出合う辻に地蔵と道祖神があったのだろう。

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大きめの堂宇の中には舟形光背型の地蔵立像があり、両脇には後に作られたであろう小さな地蔵が並んでいる。地蔵立像の造立年などは分からない。きれいにされているがかなり欠損があり文字などがあるのかどうかわからないのである。見た感じでは江戸時代後期くらいのような印象を受けた。

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世田谷区の調査ではお堂の前にある道祖神の石柱の方の情報が残っていた。それでも造立年は不明である。お堂の表にある説明板には、鎌倉道と大山道が合わさる処、舟型の光背、右手に錫杖左手に宝珠の地蔵尊像と道祖神がある。江戸の頃に疫病が、また大正11年には疫痢が流行し、多くの人や子供が病に苦しんだ。村の人は心配のあまりお地蔵様に祈願を重ねた。幸いにもそのご利益が現れ皆助かった。それからはお地蔵様を子育地蔵尊と名を改めて祀った、とある。

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道祖神は知らなければ標識の石と間違われそうである。世田谷区の資料によると、土に埋まっている部分に道標が書かれているようだ。正面が、右 池上 品川 道、右面が、左 ほりのうち道、左面には、当村と彫られている。こちらも江戸時代後期のものだろうか。

場所  世田谷区上馬2丁目7-1

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2019年6月 6日 (木)

駒留陸橋脇の地蔵堂(世田谷区上馬)

駒留陸橋は環状七号線と弦巻通りと駒留通りが六差路で交差する複雑な交差点。タクシーの運転手の中にも曲がる先を間違える人がいるほどである。もちろん環七は昭和の道路。世田谷通りから玉川通りまでの環七は戦前に拡幅されたが、それ以遠の区間は東京オリンピックに間に合わせるように工事が行われたので、30年以上作り掛けだったことになる。

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駒留陸橋の南西、弦巻通りのひとつ裏の道に入ったところに地蔵堂がある。台座にも文字はなく、造立年などは不詳だが、かなり前からあったらしい。色んな資料を見てみたがこの地蔵の情報は見当たらなかった。弦巻通りのすぐ北側を並行して蛇崩川が流れていた。この地蔵の場所は環七の前にあった南北の村道(鎌倉道)から、品川用水沿いの六郷田無道に抜ける道の分岐点だった。

世田谷区の資料には、明治時代はこの近辺には7軒の農家があり、すべて横溝姓だったという。周辺はのどかな田園風景で、西南には箱根丹沢の山々と富士山、北西は秩父連峰まで一望できたとある。その横溝さんたちが造立したのかもしれない。

場所  世田谷区上馬4丁目33-10

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2019年6月 5日 (水)

上北沢勝利八幡神社(世田谷区上北沢)

珍しい名前の八幡神社がある。京王線桜上水駅の南約700mにある上北沢勝利八幡神社。住居表示は上北沢ではなく桜上水だが、元々この辺りは上北沢村だった。桜上水という地名が現れたのは駅名が「京王車庫前駅」から「桜上水駅」になった1937年以降で、駅の北200mを西から東に流れる玉川上水の堤に桜並木があることから駅名が変えられた。その影響で昭和42年(1967)に地名も桜上水となった。

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創建は古い。神社の説明書きによると万寿3年(1026)年と平安時代である。京都の石清水八幡宮より勧請。境内には合祀された山谷稲荷や天祖神社と並んで、この神社の古い本殿が格納されている。この本殿は区の有形文化財になっている。勝利という名前については、日露戦争以降のもの。氏子が日露戦争に出兵したが無事帰ったことから「勝利」の冠が付いたもの。

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なかなか風格のある本殿は昭和43年(1968)に建てられた。境内社の天祖神社の創建は慶長19年(1614)と古い。神社のすぐ北側をなぞるように北沢川が流れていた。江戸時代以降北沢川は玉川上水の水を分水していたが、流域には田んぼが広がっていた。この場所は小高い丘で、旧本殿はその丘の上に築山され、その上に建っていたと伝えられる。江戸時代から長い間、旧上北沢村の鎮守だったようである。

場所   世田谷区桜上水3丁目21-6

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2019年6月 4日 (火)

密蔵院の庚申塔と草木塔(世田谷区桜上水)

密蔵院には多数の石仏があることは前述した。荒玉水道道路側から訪問すると、手前の閉じた入口の前に2基の大型の庚申塔が出迎えてくれる。これほど大型の庚申塔は珍しい。

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右側の大型の庚申塔は駒型で青面金剛像に三猿が描かれている。造立年は元禄3年(1690)とある。高さは塀よりも高く2mほどはありそうだ。左側の庚申塔でも一般的なものよりかなり大きめなのだが、並ぶと小さく見える。こちらの造立年は彫られていない為不明である。同じく青面金剛像に三猿の彫られた駒型の庚申塔である。

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境内に入ると左の方に大きな地蔵菩薩がある。形がちょっと変わっている。高さは1.5m近くある。少し太り気味の地蔵菩薩。造立年は万治3年(1660)とかなり古い。その近くに珍しいものを見つけた。草木供養塔(草木塔)である。お寺の方に、とても珍しいことをお話ししたがご存じなかった。

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草木塔は山形県に多い。全国では約170基あると言われるが、山形県内に150基とほどんどが山形県にある。県外で最も多いのが東京都で8ヶ所。密蔵院以外では、等々力不動尊、用賀の無量寺、目黒区八雲の常円寺、狛江の泉龍寺、柴又帝釈天、大田区南馬込の長遠寺、そして久が原の安祥寺の8基である。山形にはしばしば渓流釣りに行くので草木塔はなじみ深い。田んぼの畔や村道の脇によく見かけるが、実はかなり珍しいものなのである。山形でも県南に多く置賜地方に7割があるそうだ。

場所  世田谷区桜上水2丁目24-6

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密蔵院と境内の諸尊(世田谷区桜上水)

密蔵院は幽谿山密蔵院観音寺が正式な寺名。縁起は、天正年間(1573~1592)下野国都賀郡水代(現在の栃木県栃木市)の城主だった榎本氏が城を退き、その子氏重と共にこの地にやってきた。当時の地頭であった鈴木家と懇意になり、天正8年(1580)に定住。その後都賀郡から来た僧頼慶法師がこの地にやってきて地頭の鈴木重貞が帰依し法師は当地の観音堂に住むようになり、慶長3年(1598)この地に観音寺が開山した。

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江戸時代には上北沢の勝利八幡神社の別当寺となり、当地にあった安楽寺(縁起元年(1744)開山)を明治8年(1875)に合併した。写真の本堂は延喜元年(1744)の建立である。境内には多数の石仏が保存されている。それらを見て回るだけでもあっという間に時間が過ぎてしまう。また本堂右手には水琴窟があり、静けさを味わうことが出来る。

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境内には古い六地蔵がある。仏教では、生前の悪事によって人は死後に地獄、畜生、餓鬼、修羅、人、天と6つの境遇を輪廻すると信じられている。地蔵菩薩はそれぞれの境遇の衆生の苦しみを救う存在である。地獄道は檀陀(ダンダ)、畜生道は法印、餓鬼道は宝珠、修羅道は持地(ジジ)、人間道は除蓋障(ジョガイショウ)、天道は日光、というそれぞれの菩薩が担当する。この思想が各地に六地蔵を造立させた。

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密蔵院の六地蔵の年代は西暦1670年~1711年の造立。最左は寛文10年(1670)、二番目は宝永8年(1711)、三番目は宝永3年(1706)、四番目は元禄元年(1688)、右から二番目が正徳元年(1711)、最右は元禄5年(1692)である。宝永年間は8年で終わり正徳年間になっているので西暦は同じである。右から二番目を除いて施主は同じなので、経済的な理由か作成時間の理由で41年もかかったのかもしれない。

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多数ある石仏の中から、7基並んでいる享保3年(1718)に造立されたものを紹介。施主はすべて鈴木左内とあり、地頭鈴木家の施し。左から順番に、千手観音立像、聖観音立像、馬頭観音立像、十一面観音立像、如意輪観音立像、准胝(ジュンチ)観音立像、勢至観音立像の7基。同じ日の日付が彫ってある。

場所   世田谷区桜上水2丁目24-6

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2019年6月 3日 (月)

上北沢の北向地蔵(世田谷区上北沢)

上北沢自動車学校と日大グラウンドを結ぶ路地道の途中、荒玉水道道路より少し西側のコインパーキング脇に空き地があり、そこに地蔵が立っている。地元では北向地蔵とよんでいるが、堂宇があるわけでもなく雨風にさらされている。それでも地元では大切にされているのか、前掛けをして菅笠を被っているのが微笑ましい。

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造立年は宝暦11年(1759)。台座正面には三界万霊とあり、上北沢村女中、念仏講中と書かれている。施主は鈴木万右衛門の娘たち。実はこの地蔵には謂れがある。地蔵が北向なのは比較的稀有だが、この地蔵は火事で焼けた鈴木家の新屋敷の方向を向いているのだという。新屋敷の娘が人々のために尽くしていたのでその菩提のために建立された地蔵なのである。

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地蔵の前には折れた石仏を含めて何基かの石仏があるが詳細は読み取れない。しかしこういう空き地に地蔵が独立して残っている例は都内ではかなり珍しいのではないだろうか。鈴木家というのはこの辺りの昔の地頭で後に出てくる密蔵院の開山にも力を注いでいる。

場所   世田谷区上北沢1丁目12-9

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長徳寺の野仏(世田谷区上北沢)

京王線桜上水駅・上北沢駅の南約1㎞にある浄土真宗本願寺派の寺院。上北沢自動車学校の南側の路地からのアクセスになる。ご本尊は阿弥陀如来だが、建物も寺院だとは気づかない洋風なもの。目的地として訪れないと行きつかない場所だろう。

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正式な寺名は光明山清浄院長徳寺。長享2年(1488)に世田谷区弦巻にて創建し、永禄2年(1559)に本芝(現在の田町駅付近)へ移転、戦後昭和41年(1966)に当地へ移転した。しかし門をくぐってすぐ左手に、古い野仏が複数保存されている。

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庚申塔が2基、そのうち通路側にあるのが舟型光背型で青面金剛像に一猿が彫られたもの。造立年は延宝8年(1680)とある。一猿は御幣猿で、御幣というのは神官がお祓いなどの時に振る棒の先にヒラヒラと白い紙が付いたもので、それを持った猿を御幣猿という。この猿も右手に御幣を持っている。

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もう一つの庚申塔は角柱型で、風化が進んで文字が読みにくい。正面上部に「奉供養庚申」とあり、前面右面左面にそれぞれ不聞猿、不見猿、不言猿がいる。造立年は延宝6年(1678)とこちらも古いものである。

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奥まった方に地蔵立像が置かれている。上の写真の地蔵立像は右上に「念仏講供養道行廿五人」とある。彫られている造立年は延宝2年(1674)とこちらもかなり古いものである。

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最後の古い野仏はかなり風化が進んでいるが、上記3基よりも新しい。地蔵立像で元禄12年(1699)の造立。右上に「奉造立地蔵尊二世安楽道行八人」とある。この地蔵立像は世田谷領松原村のものである。

場所   世田谷区上北沢1丁目3-17

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2019年6月 2日 (日)

八幡山稲荷神社の庚申塔(世田谷区八幡山)

八幡神社の総本山は大分県の宇佐神宮、主祭神は応神天皇(第15代天皇:西暦500年頃)で、八幡宮(八幡神社)は一説によると全国に44,000社あるという。それらは大きく分けて、宇佐神宮(大分)、石清水八幡宮(京都)、鶴岡八幡宮(神奈川)から勧請されたものがあるが、あまりに多いのでそれぞれの由緒もさまざまである。

世田谷区の八幡山の八幡山八幡社はかつての瀧坂道に面している。現在は路地裏だが、かつては街道に面していた。八幡社の前で北に分かれる道があり、桜上水で甲州街道に出た。地形的には烏山川の右岸の小高い丘に建っている。八幡社の創建は不明だが、別当である環八の西側にある東覚院が鎌倉時代の開山なのでそれと同じ時代と思われる。明治期には八幡山村の鎮守となった。

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八幡山の地名の由来は、この八幡社に由来するというのが定説。神社の北東には烏山川が流れ、一方南西側にはその支流である金川が流れ、瀧坂道を西に進むと「坂下橋」で金川を渡ったと資料にあるが、橋の現地に行ってみると残されているのは「葭根橋」の欄干であった。調べてみたが、どちらが正しいのか分からない。ただ、古老の聞き取りでは皆、坂下橋と呼んでいたようである。

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八幡神社の裏手には屋根付きの場所に3基の庚申塔が並んでいる。保存状態はとてもいい。左側は板状駒型で青面金剛像、邪鬼、三猿の彫られた庚申塔。 造立年は寛保3年(1743)とある。中央も同様に板状駒型、青面金剛像、邪鬼、三猿の庚申塔で、造立は享保7年(1722)と3基の中では最も古い。

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右側も同じタイプ(板状駒型・青面金剛像、邪鬼、三猿)で宝暦7年(1757)ともっとも時代が新しい。これらの庚申塔が造られた時代、八幡山村は井伊家の御林となっていた。辺りはまだ開墾があまり進んでいない寒村だったようだ。ただ船橋村との交流は深く、船橋村の島田五兵衛という人が移住して開墾を進めたという記録もある。しかし台地地形だったので米作はできず、大部分が畑だった。八幡山という地名も、ここが小高い丘のような台地だったので、八幡社のある丘の意で八幡山となったのだろう。

場所   世田谷区八幡山1丁目12-30

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経堂5丁目の石橋供養塔(世田谷区経堂)

世田谷区経堂は江戸時代幕府直轄の経堂在家村という村だった。中心になったのは福昌寺という寺院で、現在もビル数階建の高さの本堂がそびえており、小田急線からもよく見える。正式名を経堂山福昌寺といい、江戸時代の初めに創建された寺院である。その寺院の北には北沢川が南には烏山川が流れており、しばしば周辺は洪水に見舞われた。

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経堂5丁目の路地裏に石橋供養塔があるが、おそらくこれは烏山川に架かる橋の近くにあったものではないだろうか。江戸時代の橋はほとんどが木橋だったが、この近くの新道橋と大橋は御影石の石造りの橋だったと伝えられる。供養塔のある場所からしておそらくは新道橋の建設に関わって建てられた可能性が高い。

ところがこの石橋供養塔、2018年になって周りの土地が分筆されて再開発が始まった。上の写真は再開発以前の姿である。この供養塔の周りもすべて囲いの中になってしまい、どうなる事かと気を揉んだが、今年になって行ってみると少しだけ場所を変えて新たな住まいが確保されていた。ありがたいことである。

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ゴミ箱というのはちょっと気になるが立派なコンクリートの屋根もついて、横にポツンとあった小さな石仏も台座を頂いて並んでいた。小さい石仏については詳細不明だが、石橋供養塔は寛政4年(1759)の造立、「両石橋供養塔」とあるので、もしかしたら新道橋と大橋の両方の供養塔なのかもしれない。

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供養塔の正面には、「東 江戸道 南 二子道」とある。江戸時代の道は経堂の集落から、新道橋を渡り、この石塔のあたりを通る。南は用賀を経て二子玉川に至る。願主は福昌寺、施主は経堂在家村の念仏講中の人々だけでなく舟橋村の村人の名前も入っている。多くの人々の願いで頑丈な石橋が造られ、人々に踏みつけられる石橋への感謝の念、そして通行する人々の安全を願う江戸時代の人々が目に浮かぶ。

場所  世田谷区経堂5丁目25-9

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2019年6月 1日 (土)

船橋観音堂の野仏など(世田谷区船橋)

前述の船橋観音堂で確認ができた野仏をいくつか紹介したい。何しろ風化が激しかったり、様々な石仏がひしめき合ったりで、選択がとても難しいのである。

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まずは入口近くにある風化してボロボロな石塔だが、これは馬頭立像だと思われる。船橋村の津右衛門という人が施主で安政5年(1858)のものである。40年くらい前に区の教育委員会が撮影した写真を見るともっと馬頭観音がくっきりしているが、石の質が悪いのか40年でさらに風化が進んでいた。

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次の石仏だが、これは舟型光背型の庚申塔である。青面金剛像だけで三猿はない。礎石からズレているが、造立年は延宝8年(1680)と古い。船橋村の庚申講中が施主である。

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この二基は左が地蔵立像で右は聖観音菩薩立像だろうか。左側が享保8年(1723)で右側が延宝○○年と読めないので延宝年間(1673~1681)のもののようである。

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裏側に回り込むとさらに聖観音菩薩立像が並んでいた。左側が宝暦2年(1752)、右側が享保16年(1731)のものである。本来はもっと時間を掛けてひとつずつ確認していきたいのだが、何分数が多くて困った。自宅からあるいて20分ほどなので、また行ってみようと思っている。

 

 

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船橋観音堂の庚申塔(世田谷区船橋)

不思議な空間である。小田急線千歳船橋駅から北へ住宅地を600mほど、墓地のような寺のような、しかし境内とは呼べない荒れた数百坪の土地が現れる。船橋観音堂というのはその中の堂宇の名前。延徳明応年間(1489~1501)に当地に浄徳庵が開かれた。当時は吉良氏が世田谷を支配していた。その吉良氏が、浄徳庵を世田谷城の守護とするために常徳院と改めて宮坂に移転させた。その跡地に開かれたのが船橋観音堂である。

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立派な堂宇でちょっとした山寺の規模。 中には聖観世音菩薩座像があるらしい。堂宇自体は昭和11年に再建したもので、建坪9坪の木像瓦葺入母屋造りである。堂宇に向かって右手(北側)は整地されているが、左手(南側)には樫の木らしい巨木や多くの石仏が並んでいる。奥には墓地も広がり、こちらは昔のままのような雰囲気。

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室町時代は吉良氏の家臣で江戸時代の地元の名主であった鈴木家、内海家の墓所を中心にしたもので、カメラで撮影してもすべてを入れることが出来ないくらい古い石仏が数多置かれている。その中で堂宇の南側、巨樹の近くには古い庚申塔が並んでいる。時間を掛けてじっくり調べたいが、不審者にみられるのであまり長時間は避ける必要がある。

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大樹したに5基の庚申塔が並んでいる。一番右は三猿のみの舟形光背型庚申塔で、延宝4年(1676)の造立、施主8人の名前が刻まれている。右から二番目は山型角柱タイプで三猿のみ、貞享3年(1686)造立。真ん中のものは庚申塔ではなく駒型の地蔵立像で珍しい二地蔵が並ぶ形。造立年は天保13年(1842)、左から二番目はよく分からないが墓石のような感じである。最も左にあるのは庚申塔、延宝7年(1679)造立のもので、舟はし村と彫られている。

これ以外にも馬頭観音や庚申塔がありそうなので、再訪してさらに調べてみたい。

場所  世田谷区船橋1丁目20-16

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