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2019年7月31日 (水)

池ノ上駅前の庚申塔(世田谷区代沢)

京王井の頭線池ノ上駅、駅の南にある小学校は池之上小学校。「池ノ上」と「池之上」の使い分けについてはよく分からない。旧町名は大字下北沢字池ノ上(昭和初期以前)であった。その頃から池ノ上と池之上は混用されていた可能性が高い。池ノ上地区は昭和7年(1932)には北沢2丁目に含まれ、昭和39年(1964)の新町名で代沢2丁目になった。池之上小学校の創立は昭和15年(1940)である。

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庚申塔は池ノ上駅改札前の踏切から40m下北沢寄りにある踏切から少し南に下がったところにある。この通りは江戸時代からの古道で、三田用水の三枚橋(現在松蔭学園がある三又)から森厳寺に繋がっていた。この道は北沢と代沢の町境。庚申塔は代沢側にある。

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庚申塔の右下に石碑があるが、読んでみるとこの庚申塔を建設するにあたり尽力した人々への感謝が書かれていた。この二歩(2坪)の土地を寄贈してくれた青山南町の望月軍四郎氏への謝意がメイン。この碑は大正13年(1924)に立てられている。大正13年というとまだこの辺りの多くが原野だった。ここから森厳寺までは民家は皆無。そんな場所だから礼を言うほどのものでもないと思うのだが。

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庚申塔は堂宇にすっぽり包まれて、上下や側面の文字を見ることすらできない。顔だけ出して「こんにちは」状態。昭和の後期に調査をした世田谷区教育委員会でもこの状態で写真を撮っている。青面金剛像だけは分かるが、造立年や下に何が描かれているかは不明である。おそらくは戦前はむき出しの状態で庚申塔があったのだろう。それを戦後堂宇で囲んだのではないかと思われる造りをしている。

昨今世田谷近辺では石仏を網や檻で守るようなところが増えてきた。守る方は必死である。悪いのはいたずらをしたり盗難を図るクズのような人間たち。昔は「このバチ当たりめが!」と叱られたものだろうが、世の中、人間よりも経済が重要になってしまい、当の人間からおかしい個体が多数現れているように思う。やはり民間信仰は平和のために必要なのではないかと思わされるのであった。

場所   世田谷区代沢2丁目44-9

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2019年7月30日 (火)

自由が丘熊野神社の庚申塔(目黒区自由が丘)

一時期「トレンディ」という言葉が流行っていた。今ではクサい響きに聞こえる言葉で、かつての「ナウい」を想起させる。ただ流行のはしりになる街というのは昭和、平成と変遷していて、王道は渋谷なんだろうが、その後吉祥寺、下北沢、自由が丘などが流行り、自由が丘は中目黒の人気と武蔵小杉の開発でちょっとだけブレーキが掛かったようなところがあった。しかし二子玉川、横浜、渋谷という街に電車一本で行ける地の利から今でも十分トレンディなのではないだろうか。

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ただし流行が落ち着いたおかげで、私でも楽に回遊できる街になったのは有難い。そんな自由が丘駅の北200mほどの場所に熊野神社がある。昔は「谷畑の権現様」と呼ばれた鎮守。谷畑は現在の自由が丘や緑が丘の地域の大字で、江戸時代は衾村の南端で奥沢村に接していた。鎌倉時代から江戸時代にかけて熊野詣が民間に流行し、あちこちに熊野講が出来た。言い伝えではこの神社もその流れで鎌倉時代に勧請されたものらしい。

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神社の参道入口脇に小さな祠がある。その中には庚申塔が1基祀られている。熊野講が落ち着いた頃、江戸中期には念仏講、庚申講が大流行している。したがって古くからある熊野神社の門前にちょっとだけ間借りして建てられた庚申堂なのだろう。庚申塔は角柱型で青面金剛像のみが描かれている。造立年は文政11年(1828)と江戸時代後期のもの。

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自由が丘という地名が出来たのはいつだろうと調べてみた。昭和2年(1927)に東横線が開通、当時は自由が丘駅ではなく九品仏駅だった。ところが2年後の昭和4年(1929)に大井町線が開通し、九品仏浄真寺の参道入口に駅が出来た。その駅は九品仏駅でなければならない。するとそれまでの九品仏駅をどう改名するかで東急電鉄の検討が始まった。

同じ時代、近所に自由ヶ丘学園が開校して昭和の新しい時代の雰囲気を持っていた。電鉄は昔からの村名を使った「衾駅」としようとしていたが、結局自由ヶ丘学園の名前からとって「自由ヶ丘駅」とすることになった。「自由ヶ丘」が「自由が丘」になったのは昭和41年(1966)の全国的な住居表示変更に従ったものである。

自由ヶ丘学園は昭和12年(1937)に幼稚園と小学校を分離してトモエ学園が出来た。そこにいたのが『窓際のトットちゃん』で有名な黒柳徹子である。

場所  目黒区自由が丘1丁目24-12

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2019年7月29日 (月)

恵比寿西衆楽坂下の庚申塔(渋谷区恵比寿西)

代官山から恵比寿駅に向かって下る名のある坂のうち、一番北の比較的広めの道が衆楽坂である<衆楽坂のページ>。 その坂下にあるのが恵比寿庚申塔と言われる数基の庚申塔が集められた境内。道路より背丈ほど高いところにあるのはかつては塚だったのだろうか。

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現代的な代官山、恵比寿にしてみればいささか異空間である。しかしここに保存されている庚申塔群は江戸時代初期の極めて貴重なもの。またこの地域は、江戸時代は下澁谷村の外れで、当時やはり野原だった広尾から大山道(別道)をやってくると、まず渋谷川を渡り、続いて現在の恵比寿駅前周辺は「渋谷広尾町」という町名で池尻に向かう街道筋となっていた。衆楽坂はそこから裏手の丘に登る道である。

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まずは屋根付きの4基の大型庚申塔。 右から、板碑型で図柄は猿のみ、造立年は寛文8年(1668)とある。武州豊嶋郡下澁谷村の銘がある。次に右から2番目の庚申塔は、板状駒型で青面金剛に三猿の図柄。造立は延宝4年(1676)とある。左から2番目は板碑型で図柄は青面金剛のみ。造立年は延宝2年(1674)で、最右と同じく武州豊嶋郡下澁谷村の銘がある。そして一番左にあるのは、同じく板碑型で三猿のみの図柄。最も古く造立年は寛文4年(1664)である。

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堂宇脇には折れて欠損して何も読めない石碑(多分庚申塔)が2基あり、その脇に比較的新しい庚申塔と馬頭観音が並ぶ。この小さめの庚申塔は時代が新しく明治38年(1905)のもの。青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれている。馬頭観音の造立年は大正4年(1915)。

この庚申塚(個人的に勝手に塚とした)に立っていると、恵比寿や代官山の喧騒がピタッと消えるような感覚になるから不思議である。

場所  渋谷区恵比寿西2丁目11-8

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2019年7月28日 (日)

祖師谷熊野神社跡の庚申塔(世田谷区祖師谷)

ウルトラマンで有名な祖師ヶ谷大蔵駅、江戸時代はその北エリアに上祖師谷村と下祖師谷村があった。その真ん中やや西に釣鐘池という湧水池がある。ここから湧水は仙川に流れ、仙川流域は大蔵たんぼと呼ばれた水田地帯だった。もっとも釣鐘池の湧水も1950年頃から枯れてしまい、今は水道水を補給循環している。

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釣鐘池の西100m余りのところに木々を湛えた広場がある。神明社の札が立っているが、昔は熊野神社だったところである。元々祖師谷にはそれぞれ地域の氏神があったが、明治になって神明社が村社に指定されると、熊野神社や稲荷神社も神明社に合祀されるようになった。この場所に熊野神社があったのは明治の末までである。

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熊野神社跡の社域の南側に頑丈な堂宇が立っている。除くと中に一体の庚申塔があった。祖師谷にはいくつもの庚申塔があるが、概ね1700年から1800年前後までのものである。祖師谷七庚申と呼ばれるのは、1.祖師谷観音堂、2.祖師谷商店街の庚申塚、3.熊野神社跡の庚申塔、4.大石橋傍の庚申塔、5.神明社境内の庚申塔、6.西台十字路の庚申塔、7.塚戸十字路の庚申塔である。

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施錠されていて庚申塔の全体を見ることは叶わなかったが、この庚申塔は寛保4年(1744)の造立。駒型で青面金剛像に邪鬼、三猿の図柄。「武州多摩川郡下祖子ヶ谷村」の銘。高さは120㎝ある大型のものである。実は昔、一時塚戸十字路の道標付の庚申塔もここにあった。昭和の末期に世田谷区が作成した石造遺物調査報告書によると当時は熊野神社跡に2基の庚申塔があったことになっている。

場所  世田谷区祖師谷6丁目5-28

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2019年7月27日 (土)

殿塚と姫塚(練馬区石神井台)

石神井公園の西北側、あまり人の多くない場所に二つの塚がある。殿塚と姫塚である。かつて三宝寺池の南側には石神井城とい城があった。室町時代後期から戦国時代にかけての事である。当時は城と言っても天守閣や櫓のようなものではなく、いわゆる館の周りに防御のための土塁や掘がめぐらされている程度のものである。当時この城に居たのは豊嶋氏。東京の北西部を昔は豊嶋郡と呼んだが、これは豊嶋氏の地の名残りかどうかは知らない。石神井城は戦国時代の文明9年(1477)に太田道灌に攻め落とされて無くなったが、今も僅かに空堀と土塁を残している。

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イヌシデの樹の傍に石碑が立っている。殿塚である。太田道灌に石神井城を攻め落とされたとき、城主豊嶋太郎泰経は黄金の鞍をつけた白馬に乗り、三宝寺池に沈んだという。その言い伝えを元に、演者が殿の徳を偲んで築いたと言われるのがこの殿塚である。「古墳 殿塚 石神井城主従五位上左衛門尉豊嶋太郎泰経之塚 文明九年十月六日落城討死 後裔 小谷一郎圀次建之」と彫られている。

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殿塚から30mほど西の(たぶん)アカガシの樹の傍には姫塚がある。落城の時、同じく三宝寺池に身を投げた二女照姫を供養している。こちらの石柱には「古墳 姫塚 石神井城主豊嶋太郎泰経二女照子姫之塚 文明九年十月六日落城之砌城内三宝寺池入水落命 縁之者 小谷一郎圀次建之」と彫られている。どちらも造立年は不明である。

ただしこの落城悲話は明治時代に作り上げられた創作話という説もある。

場所  練馬区石神井台1丁目26-1

 

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2019年7月26日 (金)

富士街道一里塚の庚申塔(練馬区石神井町)

富士街道が西武池袋線をくぐるすぐ西側に富士街道の一里塚がある。練馬春日町にある愛染院からおよそ1里だが、起点である下練馬宿(下練馬の大山道道標)からは約7㎞と中途半端な距離になる。五街道の一里塚は正確に設定されているようだが、富士街道辺りはどうなのだろうか。

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なかなかにぎやかな一里塚である。富士街道から入ると、左に水盤、右に燈籠、これは大正時代の頃のものかと思われる。どれも年号不明だが、一部の石塔には大正5年、大正14年の年号が彫られている。庚申塔は奥の方に中心的存在として、後ろに大正14年造立の一里塚回収祈念碑を従えて立っている。

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庚申塔は唐破風笠付の角柱型。 青面金剛像に邪鬼と三猿という図柄である。 造立は延享3年(1746)で、武陽豊嶋郡下石神井邑、願主本橋惣右衛門、講衆四十三人とある。ここは本橋家である。どうも富士街道のこの辺りの庚申塔はごちゃごちゃといろんなものが置かれているように思う。この庚申塔の土台も富士講で持ってきた富士山の溶岩を使っているようだ。色んな民間信仰が仲良くシェイクされているみたいで面白い。

場所  練馬区石神井町7丁目1-3

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2019年7月25日 (木)

石神井町の子育地蔵と庚申塔(練馬区石神井町)

練馬区は東京23区で5番目に面積の広い区である。明治の初め頃は14の村に分かれていた。現在の石神井町は下石神井村の一部である。川越街道の上板橋宿から南西に富士街道(大山街道)が分岐して、多くの富士講・大山講の人々が歩いた道である。石神井公園駅から350mほど富士街道を西へ進んだところ、練馬区役所石神井庁舎の少し先に小さな公園(子育地蔵遊び場)に並んで子育地蔵と庚申塔がある。

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子育地蔵は高さが2.3mもある背の高いもので見上げるようになる。造立は元文2年(1737)で武刕豊嶋郡下石神井村の銘がある。目の前の道が富士街道(大山街道)で、現在は環八と川越街道の大きな立体交差になった北町陸橋辺りから分岐し、石神井から田無を経て神奈川県の伊勢原に達していた。

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道路の近くにある簡易的な堂宇の下はなんだかごちゃごちゃしているが、立派な庚申塔と聖観音像が並んでいる。周りの我楽多が一体何なのかは不明。庚申塔は元禄11年(1698)の造立で、駒型で大型(高さ137㎝)のもの。青面金剛像に邪鬼と三猿が丁寧に掘られている。願主の名前を見ると半分が本橋姓、次に豊田姓が多い。子育地蔵はほとんどが豊田姓であったが、こちらは本橋中心である。

右側の聖観音像は寛政8年(1796)の造立。武州豊嶋郡下石神井村、願主豊田重助とある。

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庚申塔の前には一対の燈籠がある。どちらも寛政10年(1798)の造立。 どちらも本橋家が願主である。右側には念仏講中廿人、左側には庚申講中廿人とあるので、念仏講と庚申講がどちらも盛んだったのだろう。

石神井の地名の由来だが、「昔、村人が井戸を掘っていたところ、石棒が出土した。村人は石棒を霊石と崇め、石神(いしがみ)様としてお祀りした。それが石神神社→石神井神社と名前を変えて現在に至る。石神井神社(石神井町4丁目14)が地名の由来という訳である。別説では石棒が出土したのは石神井公園の三宝寺池という話もあるが、石神井神社出土説が主流のようである。

場所  練馬区石神井町7丁目4-3

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2019年7月24日 (水)

中町金剛寺の庚申塔他(世田谷区中町)

金剛寺の境内の石仏の続編。野良田村を築いたのは世田谷を統治していた吉良氏の家臣で弦巻に居た粕谷与一右衛門が、北条氏が秀吉に滅亡させられるとその家臣の吉良家も没落し、結局この地(野良田村)に土着して農民となり開墾したのが始まりと言われる。その菩提寺が金剛寺である。

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境内の本堂に向かって右手に大型の庚申塔がある。板状駒型で青面金剛像と三猿が彫られたもの。 造立年は貞享元年(1684)で、願主名は野良田村の粕谷氏(糟谷氏)とある。前述の粕谷家の子孫であろう。

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近くには小さな駒型の文字塔がある。これも庚申塔で、同様に粕谷氏が願主になっている。造立年は享保10年(1725)。「庚申供養仏」と彫られている。

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またよみがえり地蔵の脇に三基の石塔がある。中央は明和2年(1765)の不動明王塔、左は宝暦4年(1754)の供養塔、右は宝暦10年(1760)の供養塔である。

「ふるさと世田谷を語る」の野良田村の資料に粕谷氏の子孫らしき方の話が載っている。名家だけに大正から昭和の初期にかけては、ドサ廻りの漫才師が家にきて村人を集めて芸を披露したという。また、その方の父上(明治16年生)は金剛寺の本堂の前を手引き荷車で通っているその時に関東大震災が襲い、目の前で本堂が倒壊するのを見て、あまりに恐怖に無我夢中で帰宅したという。奈良田は地盤はしっかりした地域だが、村の家々はほとんど大丈夫だったのに金剛寺だけが倒壊したのはシロアリにでも食われていたのだろうか。

場所   世田谷区中町2丁目20-11

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2019年7月23日 (火)

中町金剛寺の石仏(世田谷区中町)

上野毛駅の東側一帯が世田谷区中町、南は環状八号線、北は玉川通り(国道246号)よりも少し南、全体的には南北に長い住居地域である。このエリアは江戸時代の野良田村で、西側が上野毛村、東側が深沢村・等々力村になる。金剛寺は東陽山薬王院金剛寺という真言宗の古刹。最初の開山は弘安7年(1284)と古い。聖空上人が薬師如来を勧請し野良田の北向薬師として信仰を集めた。江戸時代が始まる頃、改めて金剛寺として創建された。

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山門前には金剛寺の石碑と共に野良田村と彫られた石碑も建っている。境内に入ると、右側には現在も北向薬師が祀られている。左側には8体の地蔵と不動明王などが祀られていて、それらの不揃いさが時代の奥行を感じさせる。

左から、まずは三鈷を持った僧の座像。土台に文政5年(1822)と彫られている。その右の小さな地蔵は詳細不明。

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左から三番目の白っぽい丸彫の地蔵立像は新しいもののようだ。四番目の黒っぽい地蔵立像は宝暦6年(1756)の年号が刻まれている。その隣、右から4番目はその少し後、宝暦12年(1762)の造立で武州荏原郡野良田村の銘がある。そして右から三番目の一番背の高い地蔵は最も古い寛保2年(1742)の造立。武刕荏原郡世田谷領野良田村男女講中の銘がある。残る右の2体も古いが年代が読み取れなかった。

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山門を入った脇にもいくつかの古い石仏があり、その中でよみがえり地蔵という地蔵の前で足が止まった。読み取ると造立は天明元年(1781)で、武州荏原郡世田谷領野良田村とあり、光明真言五十五万四百遍と書かれているので、この地でも百万遍が行われていたのだろうか。

関東大震災で金剛寺は倒壊した。しかし翌年には藁葺の本堂が復興、現在の本堂は昭和35年に再建されたものである。

場所   世田谷区中町2丁目20-11

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2019年7月22日 (月)

谷沢川中の橋ほとりの庚申塔(世田谷区中町)

東急大井町線の上野毛駅の東側が世田谷区中町。区立玉川小学校の裏手にある中の橋のほとりに庚申塔が堂宇に守られて祀られている。30年ほど昔、上野毛に住んでいたことがある。知人のアパートがこの庚申塔の川を挟んだ向かいにあった。この川は谷沢川という。有名な等々力渓谷の上流である。

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当時この堂宇があったかどうか全く記憶にない。でもきっとあったのだろう。当時は私も30歳になるかならないかの年齢だから、庚申塔などには目もくれなかった。しかし橋はよく覚えている。落下防止?の網が張られた以外は当時と変わっていない。

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庚申塔そのものは風化が進みすぎて、影として青面金剛像と三猿があっただろうなと見られるくらいで、あとは舟型だろうなと判断するのが精一杯である。造立年は不明。

中町は昔は野良田村と呼ばれた農村。野良田を潤した谷沢川は大昔は呑川の支流である九品仏川の上流だったが、等々力渓谷の源頭の湧水による谷頭侵食によって河川争奪が起き、途中から流れが変わったという説が有名な川である。別説で人工的に等々力渓谷に流したという説もある。どちらも決定的証拠が出ていないので今後も論争が続くだろう。

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中の橋の上流に姫の橋という橋があり、その橋から堰堤が見える。実はこれは堰堤ではない。昔は姫の滝という滝だったのである。地元の人はシメン滝と呼んでいた。滝の高さは5m近くあったという。滝壺は池のようになっていて、幅30m、長さ50mもあったらしい。ところが昭和13年(1938)の水害で滝が崩落してしまったのである。世田谷にそれだけの滝があったというのは魅力的な話だと思う。

場所  世田谷区中町2丁目36-11

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2019年7月21日 (日)

等々力三丁目の庚申塔(世田谷区等々力)

東急大井町線等々力駅の改札を出て右の線路を越え、右に曲がってすぐその先を左に曲がる。そのまま進むとなぜか民家の前に立派なサワラ(ヒノキかもしれない)の樹がある。その下にお堂があり、庚申塔が祀られている。

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久しく守られてきたのだろう。樹木もここまで育つには100年ばかりかかりそうだ。ヒノキとサワラを樹皮で見分けるのは至難の業、葉を観ればサワラの方が先が尖っているのでわかるのだが、とても確認できない高さだった。しかしこの樹木と堂宇の組み合わせはいい。なんだかとても落ち着く。

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堂宇の中の庚申塔は割れかかっていた。板状駒型で、青面金剛像に三猿のデザイン。 造立年は左側に文政4年(1821)とある。等々力村は多摩川の移動により時代によって面積が違ってきた。川崎市にある等々力スタジアムはその名残である。北は深沢村に接し南北に長い村だった。多摩川の両岸をもつ等々力村には等々力の渡しもあった。実は徳川家康は慶長5年(1600)に多摩川に六郷大橋を架けることを命じて立派な橋が出来上がったが、貞享5年(1688)の多摩川の洪水で流されてからは多摩川は渡しで越えるしかない川になった。

場所  世田谷区等々力3丁目10-17

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2019年7月20日 (土)

浄真寺の石仏石塔の一部(世田谷区奥沢)

九品仏浄真寺には数多くの野仏が移されて保存されている。その一つ一つを調べるのは気の遠くなるような作業なので、一部のみ取り上げておきたい。総門を入りすぐ右側のエリアに沢山の聖観音像や六地蔵があるが、その先参道の折れ曲がるところにひときわ大きな十夜塔がある。

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城の石垣のような土台に乗っているのは虚空蔵菩薩像である。奥沢村にも多くの講中があったことは伝えられている。十夜講というのは集まって念仏を唱える行事で、特定の月齢の日に当番の家に集い、飲食・会話を楽しむ懇親的なもので、その夜の月の出を待つというもの。二十三夜塔(廿三夜塔)が多いが、十六夜などもある。十夜塔は珍しい。虚空蔵菩薩像の土台に文政4年(1821)とあるのが造立年だろうか、まだ十分に調べ切れていない。

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その先山門手前右手の三十三間堂周辺にもたくさんの石仏があり、上の写真はそのごく一部である。これらを一つずつ調べるのはもう学術的な領域に入るので立ち入らない方がいいかもしれない。多くは墓石として造立されたものだろうが、江戸時代の世田谷領の農民の信心深さが伝わってくる。

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その三十三間堂前に新しいものがひとつ目についた。昭和5年造立の馬頭観音塔である。こういう新しめのものもちゃんと保存してあるところが素晴らしい。

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ところで前述した九品仏の9体の阿弥陀如来像だが、そのうちの一部が上の写真である。これは上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)とあるうちの下品堂に納められている3体である。既に修復が終わった阿弥陀如来像が上品・中品にあったがその黄金の輝きは素晴らしいものであった。写真では表現できないのであえてここでは未修復のものを取り上げた。

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余談だが、九品仏浄真寺周辺にはこの「禁銃猟 警視庁」という明治期に立てた石塔がいくつもある。これは浄心寺の周辺及び寺域で野鳥を討つなどの折衝を禁じたものだが、当時はまさに野山の風景だったらしく、普通に猟師が鉄砲で獲物を捕らえていたようだ。今では想像もできない風景である。

場所  世田谷区奥沢7丁目41-3

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2019年7月19日 (金)

浄真寺山門脇の庚申塔(世田谷区奥沢)

九品仏浄真寺の総門をくぐると、左に閻魔堂(再建中)、右に多数の石仏群があり、その先で西に参道が折れ曲がる。すると眼前に巨大な山門が現れ、左右一対の仁王が門を守っている。この仁王門の建立は寛政5年(1793)で東京都内でこれほどの仁王門を持つ寺はそう多くない。加えて浄真寺は京都の古刹に勝るとも劣らない雰囲気を持っている。

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その仁王門(山門)の北側(右手)に4基の庚申塔が並んでいる。どれも保存状態の素晴らしいもの。江戸時代の奥沢村にはたくさんの地蔵や庚申塔があったという。大部分は昭和初期の大規模な耕地整理で無くなってしまったようだが、道端や辻にあったものは近隣の寺社に移設されたという。浄真寺に移設されたものが最も多いと言われる。

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一番左の庚申塔は、青面金剛像に三猿、元禄3年(1690)の造立である。板状駒型のこの庚申塔は以前は等々力6丁目24-18にあったもので、民家の建替えにより浄真寺に移された。この庚申塔だけでなく、左から3基目までが同じ場所にあったものである。

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左から二番目の庚申塔は青面金剛、邪鬼、三猿がきれいに描かれている板状駒型。造立は享保4年(1719)、等々力村の銘があり、8人の願主の名前がある。高さは112㎝あるが、この庚申塔だけでなく4基ともが高さ1mを超えている大きなものだ。

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左から3番目は、同じく板状駒型で青面金剛と三猿、造立年は元禄17年(1704)である。ここの庚申塔は1690年から1721年という造立で、実は山門よりも相当古い。後からここに設置されたにもかかわらず、寺域の中では一級の場所を与えられているのはその時代の古さからであろうか。

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一番右は違う場所から移されたものらしい。世田谷区の庚申塔の資料にも載っていなかった。 造立年は享保6年(1721)とこの中では最も新しい。新しいと言っても都内の庚申塔の中ではかなり古い部類に入る。青面金剛、邪鬼、三猿が彫られており、「奉青面金剛講中…奥沢村」とある。「武州荏原郡世田谷領」という文字もあるので、奥沢村のものである。

明治の廃仏毀釈で随分とぞんざいな扱いを受けた石仏たちは、昭和の初期まで打ち捨てられるようなことが多かったというが、今になって民俗の貴重な資料と証拠としての価値が問われており、綿々と守られていれば日本の文化財はもっと世界に冠たるものになったのではないかと思う。

場所  世田谷区奥沢7丁目41-3

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2019年7月18日 (木)

浄真寺参道の石仏(2)(世田谷区奥沢)

浄真寺参道に並ぶ8基の石仏の後半。左から5番目(右から4番目)は典型的な庚申塔。かなり古そうな板状駒型の庚申塔で、青面金剛像に三猿が彫られている。造立年は寛文12年(1672)と比較的初期の庚申塔。その30年ほど前に鎖国となり、20年後には元禄文化の華が咲いた時代である。

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庚申供養 武刕荏原郡 世田谷奥沢村の銘がある。江戸時代初期は等々力村と奥沢村の間、現在の目黒通りの南側一帯は未開発地であった。その地域を江戸時代中期にかけて開発し奥沢新田と呼んだ。元禄時代前後のことである。九品仏浄真寺が徳川家の加護により開かれたのは延宝6年(1678)であるから、この庚申塔はそれ以前のもの。こういう古いものに出合うと感心する。

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右隣にあるのは善光寺講の供養塔である。側面に掘られた造立年が肝心の年数のところが欠損していて特定できない。年号についてははっきりと明和と読めるので、時代的には1764~1772年の間のものである。その隣(右から2番目)もまた善光寺講の供養塔。

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唐破風の笠付の角柱だが、こちらは文化11年(1814)と読める。善光寺講というのは江戸時代中期から後期にかけて庶民の間に流行した代参講のひとつ。特定の神社仏閣に参拝する為に講を作り、協力し合ってお参りの旅をした。善光寺講は当然長野の善光寺である。他には伊勢講、金毘羅講、高野講、秋葉講などがあった。江戸時代後半になると、代参講はほとんど町内会の懇親旅行になっていたようだ。

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一番右にある石仏は風化と欠損でほとんど読めないが、側面は読み取れる。昭和の後期に撮られた写真では前面に「庚申塔」という文字が大きくはっきりと見て取れるのだが、現在は見る方もない。造立は文化8年(1811)で、右側には九品仏道とあるので、道標も兼ねていたか。

この8基の石仏石塔の並びは実にバラエティに富んでいて面白い。

場所   世田谷区奥沢7丁目36-12

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2019年7月17日 (水)

浄真寺参道の石仏(1) (世田谷区奥沢)

浄真寺は山号を九品仏という。そのまま駅の名前になっているだけでなく、浄心寺の通称も九品仏である。九品仏の名の由来は浄心寺にある9体の阿弥陀如来像だが、この9体の仏像が実に素晴らしい。どれも眺めていて飽きることがない。もっともテーマは野仏であるから、阿弥陀如来像については別述ということで。

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九品仏駅は踏切の真ん中に改札出口がある。そこから北に少し歩くとすぐに長い参道になる。九品仏浄真寺の縁起については、延宝6年(1678)に徳川幕府より奥沢城跡地を拝領して創建。幸運にも関東大震災や戦災の被害をあまり受けず、多くの貴重なものが残されている。門前の参道を進み、総門が近づくと左側に並んだ石仏群が目に入る。タイプの異なる8体の石仏がアンバランスに並ぶ。まずは左の4基について取り上げたい。

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まず左端にあるのが三界万霊塔。造立年は文政5年(1822)。三界万霊塔は路傍、寺院の入口や境内、墓所などに立てられる供養塔である。「三界」とは、欲界(食欲・物欲・性欲)、色界(物質の世界)、無色界(物質も欲もない世界)の概念だが、過去・現在・未来とする説もある。どの塔にも通じるのは、万物、万霊に対して供養するという意味合いを持っているということだろう。

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二番目は欠損と風化がひどすぎて読める文字は僅かだが、資料を確認すると青面金剛像、三猿を彫った庚申塔である。左面には新田・池上道、右面には九品仏道とある。造立年は不詳。

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左から三番目はひときわ高さのある石塔。実はこれも庚申塔である。このタイプは滅多に見掛けない。造立年は延宝8年(1680)と古いもの。正面には文字で「奉寄進庚申供養」とあり三猿が彫られている。右面には武州豊嶋郡江戸本八町掘四町目とある。さすがに浄真寺程の規模の寺になると八丁堀の講中からも寄進があるのだろう。この塔の高さは2.45mもある。

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四番目は丸彫の地蔵立像である。この地蔵は年代不詳。顔はほとんど欠損している。総門に入る前から、浄心寺の石仏群は重鎮感がある。すべて取り上げると途方もない情報量になり、前に進まなくなりそうなので、代表的なものだけをピックアップしたい。特に三十三間堂前には数十体の石仏があり、再建中の閻魔堂前にも何十もの石仏がある。いつかじっくりと一基ずつ調べてみたいと思う。

場所  世田谷区奥沢7丁目36-12

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2019年7月16日 (火)

等々力六丁目辻の庚申塔(世田谷区等々力)

目黒通りと上野毛通りが分かれる交差点は変則的な形状をしている。真ん中にガソリンスタンドを挟んだ六差路、それも東からは目黒通り一本のみ、それに南北の道が絡み、西には目黒通りと上野毛通りとその北側の古道とがフォークのように分岐する。実は上野毛通りが新しい道で、目黒通りは野毛の渡しを経て武蔵新城へ渡り、上野毛通りの北側の道は二子の渡しを経て高津へ渡る古い街道である。

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上野毛通りと北側の古道の分岐点が樹木に覆われた土地でそこに簡易的な屋根が付いた石仏が並んでいる。一番大きな右側の石塔は道標である。造立は延享3年(1746)で高さは138㎝ある。正面には地蔵座像が彫られ、荏原郡等々力村講中とある。右面には、「右 大山道 二子渡し」とあり、左面には、「左 影向寺中稲毛江」とある。

影向寺というのは現存する古刹で、川崎市宮前区と高津区の区境にある天台宗の寺院。江戸名所図会にも登場する名刹で、開山は古く天平12年(740)で開基は行基と伝えられる。この景向寺の別名が稲毛薬師で、それで影向寺の中にある稲毛(薬師)へ(江)ということなのだろう。

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その隣にはもう影も形も失せかけた赤みがかった石塔の一部があるが正体は不明。その左にあるのが庚申塔である。青面金剛像に邪鬼と三猿を描いたものだが、邪鬼と三猿はほとんどわからない。大正10年(1921)再建とあるが材石が悪いのか傷みがひどすぎる。また再建される前はいつの造立だったかも不明である。おそらくは道標と同じような時代なのではないだろうか。

左端には新しい地蔵立像が横向きに置いてある。これは真ん中の正体不明の石塔の再建モノなのだろうか。なにも彫られていなかったので、これも正体不明であった。

場所  世田谷区等々力7丁目14-28

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2019年7月15日 (月)

等々力七丁目の馬頭観音(世田谷区等々力)

深沢から南に向かい目黒通りに出る少し手前、上野毛通よりもさらに一本北を東西に走る道は古い街道で、目黒方面から来ると上野毛通りと目黒通りが合流する等々力六丁目辺りで分岐、南の道は今の目黒通りの筋で等々力の渡しへ、北の道は上野毛を経て二子の渡しへと繋がっていた。この北側の道にあっただろうと思われるのが、現在等々力7丁目にある馬頭観音塔と道標である。

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四つ角の南東に植込みがあり、その中に3基の石塔がある。道標や馬頭観音は、庚申塔や地蔵と違い、お堂を立てて祀ったりはしていないケースが殆どである。昔は牛馬も死ぬと亡骸を捨てる場所があったりしたというから、そういう場所に馬頭観音が立てられたりしたのかもしれない。

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自然石でつくられた塔が馬頭観音である。自然石の馬頭観音は世田谷ではほとんど見たことがない。裏側には鈴木鎌作の銘がある。その後ろにある小さな石碑はどうやら道標らしいが、欠損がひどくて何も読み取れなかった。

明治22年に玉川村が出来、等々力は大字となった。この辺りは等々力山谷という小字。等々力にはキツネの民話が多く残されているが、その中でキツネの嫁入りを見て化かされる鉄蔵の話があり、鉄蔵は鈴木家の末っ子であると記述されていた。もしかしたら馬頭観音の施主である鈴木鐘作の身内だったのかもしれない。

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左手奥にある道標はわずかに読める部分がある。しかしほとんど読めなかったので世田谷区の資料を確認した。正面には、右 九品仏道、左面(写真では右側)には玉川、裏面には本龍山御嶽不動講とあるという。等々力も講の盛んな村だったようだ。念仏講、善行寺講、大山講、御嶽講、富士講、等々力不動講など20近くの講中があったというが、江戸時代末期から明治大正にかけては、信仰の場というよりも親睦の場としての役割が大きくなっていったという。

場所   世田谷区等々力7丁目13-9

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2019年7月14日 (日)

中村庚申様(世田谷区深沢)

現在の深沢4丁目から5丁目にかけては明治大正時代は中村という字名だった。元々北から辻、八幡という二つの集落が字中村としてまとめられたのは明治になってから。深沢村の地名の由来は、呑川の源流ということで深い沢が多いの意であったと思われるが、諸説あるようだ。この辺りの呑川は細いながらもとても澄んだ流れで、川の水が飲めるほどという意味で呑川とついた。明治の末頃にはこの中村集落には17軒ほどしか民家がなかったという。しかし玉川電気鉄道(玉電)の開通で明治の末からは大きく変貌していったのは言うまでもない。

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裏道の路地の一角に突然鳥居が現れる。民家の門が鳥居…という感じである。実はこれは中村八幡というちゃんとした神社。明治の初期には一旦深沢神社に合祀されたが、昭和13年にこの地に分離独立した。その中村八幡の脇に庚申塔が並んでいる。

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台座は3基分あるのだが、一番右はほどんど形を残していない。左側の庚申塔は駒型、青面金剛像に邪鬼のみ。造立年は文化13年(1816)とある。真ん中は同じく駒型で青面金剛像+邪鬼+三猿が描かれている。造立年のところは欠損していてわからない。年代的には変わらないだろう。左の庚申塔には、当所懇親講中の銘がある。戦前は庚申講と日待ち講が盛んだったと聞くが、戦前戦後あたりでほとんど消滅してしまったらしい。ただ片山(秋山の森周辺)の日待ち講は昭和40年頃まで続いたという。

場所  世田谷区深沢4丁目31-18

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2019年7月13日 (土)

深沢中村の馬頭観音(世田谷区深沢)

深沢不動交差点の南東側の区画は昔は中村と呼ばれる字だった。裏道に入ると間もなく区立深沢中村公園という蔵のある小さな公園に出くわす。遊具などほとんどない、蔵と物置がやけに目立つ小公園である。

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この蔵の出所に関する史料はないが、昔の地図や聞き及んだ話から本田家の蔵の一つだったのではないかと思われる。明治時代の地図によると、この辺りは数軒の本田家があり、ここはその敷地の一つだったからである。この公園から南西にちょっと歩くと、1,000坪はあろうかという大きな庭の邸宅がある。ここは現在の本田家である。

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その本田家の裏通用口に祠に入った馬頭観音像が立っている。造立年は明治23年(1890)で願主は本田市太郎とあるので、当時の当主であろう。昔は世田谷区にはこういう大きな農家の家が残っていたが、少なくなった。深沢近辺はそういうところが多かったが、殆どディベロッパーが駒切りにして売ってしまっているのが現実である。

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明治時代のものとはいえ、かなり腕のいい石工の作品のようだ。駒沢2丁目の品川上水跡の脇にあった馬頭観音に迫る彫りをしている。馬頭観音は大正時代になるとほとんど文字塔になっていく場合が多い。腕のいい職人は明治時代までだったということだろうか。

場所  世田谷区深沢4丁目36-24

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2019年7月12日 (金)

深沢不動堂前の石仏(世田谷区深沢)

駒沢通りと駒沢公園通りの交差点は「深沢不動」という名前。この北西側の角にあるのが、かつては隣接する医王寺の境内仏堂であった深沢不動堂である。現在の正式名は不動堂ではなく深沢不動教会というらしい。明治時代に入って、深沢村でも成田山信仰が広まり、医王寺に不動明王を祀ったお堂が出来た。戦後に医王寺から独立したが、今は再び医王寺との関係を深くしているという。

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不動堂の狛犬については特に記述しない。その北側に地蔵堂、狛犬と地蔵堂の間に地蔵座像と庚申塔がある。この深沢不動の交差点だが、江戸時代から村の中心部であった。不動堂の北隣には火の見櫓があって、明治になって江戸道の東側に新しい道が通った。それが駒沢公園通りである。

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右手の地蔵堂の中をのぞくと小ぶりな地蔵立像が一基ぽつんと立っていた。年代も銘も不明である。明治以前からここにあったという地蔵はこれではなく外にある地蔵座像の方であるから余計に不可思議である。

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地蔵堂の隣にあるのが昔から「だんご地蔵」と呼ばれてきた丸彫の地蔵座像である。造立は宝暦13年(1763)、土台が道標になっている。右面には江戸みち、正面はさがみ海道、左面はせたかや道とある。

この地蔵がだんご地蔵と呼ばれたのには逸話がある。昔、子供たちはこの境内でよく遊んでいたが、当時の深沢村は貧しくて、お地蔵さまには何のお供え物もなかった。そこで子供たちは草を石で叩いてお団子に似せた丸い塊を造り、お地蔵さまに供え、折に触れて願い事を託してお祈りをしていたという。その後のオチはないのだが、そういう子供たちの習慣から「だんご地蔵」と呼ばれるようになったと伝えられる。

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だんご地蔵の後ろの塀際にひっそりと立っているのが庚申塔。文政3年(1820)の造立。駒型で台座部分に道標がある。図柄は青面金剛像に邪鬼と三猿というオーソドックスなもの。道標は、右ほりのうち道、左あわしま道と彫られている。また片山庚申講中の銘がある。

江戸時代中期の深沢村は秋山の森周辺の深沢6丁目の東半分を三岳、西半分を稲荷丸、深沢不動交差点南西を三島、日体大付近を西山と呼んでいた。このうち稲荷丸と御嶽を合わせた地域(現在のほぼ深沢6丁目)を片山とまとめて呼んだという。その片山集落の念仏講が片山庚申講で最近まで続いていたというから今もあるのかもしれない。

ちなみに現在の駒澤大学キャンパスは明治時代は明治天皇の兎狩りの場所で松山とクヌギ山という二つの小山があったそうである。この山の木で村人は炭を作っていたというが、それこそが100余年前の深沢の風景であろう。

場所  世田谷区深沢6丁目1-13

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2019年7月11日 (木)

深沢の秋山の森庚申(世田谷区深沢)

世田谷区には玉川田園調布や成城学園のような高級住宅街があるが、深沢もネームバリューを持った高級住宅街である。深沢には小沢一郎氏の邸宅があり、自民党の核になっていた時代は警察官が何人も周辺で警備をするようになり、小沢邸の知名度から深沢に高級住宅の価値が増したようにも思う。しかし本来の深沢はのどかな農村であった。その痕跡があちこちにみられるのが深沢の良さでもある。

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区立深沢小学校の南東の角に庚申塔のお堂がある。金属製の標柱には庚申塚(庚申様)深沢神社とある。その少し奥にある御影石の標柱には秋山の森、さらにその奥にある標柱にはお地蔵様と書かれているが、ここには庚申塔が一基あるだけである。この庚申塔は風化が激しくて書かれているものが読めない。青面金剛像ですら幽霊の立ち姿になっている。

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秋山の森というのは深沢の名家で、この辺りの森を所有していた家である。非公開ではあるが大正4年築の母屋も保存されていて、周辺の樹林は秋山の森と呼ばれて今もなお武蔵野の原生林を彷彿とさせる。その一部は農芸高校の演習林にもなっていて、ここが東京23区内にある住宅街とは思えない雰囲気がある。

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すぐ近くにある小沢邸は秋山邸に比べれば小屋みたいなものである。そうすると我が家はクロネコの段ボール程度か。まあ、それくらいの規模ということである。明治時代の深沢村の地図を見ると、この辺りには北から南に「江戸道」と呼ばれる道が走っており、その途中には「小便地蔵」「だんご地蔵」があり、秋山の森には庚申塔があったとある。この庚申塔の位置が特定できないが、それが現在あるこの庚申塔ではないだろうか。小便地蔵は昭和後期まであったようだ。

地蔵の傍に大きな松の木があり、子供たちが登って小便をかけるなどいたずらをして地蔵の頭を壊してしまった。そこで片山の和助という人老人が柵を作ってお守りしたが、急に病気になってしまった。ある日夢にお地蔵さまが現れ 「わたしは子供が大好きなので柵を取るように」 と告げた。 柵を取り外すと和助老人は元気になり、 子供たちはまた周りで元気に遊ぶようになった。以来、 この地蔵を小便地蔵というようになったという。この庚申塔の場所は元は小便地蔵のあった場所である。さて、では小便地蔵はどこへ行ってしまったのだろう。また宿題になってしまった。

場所  世田谷区深沢1丁目3-31

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2019年7月10日 (水)

三宝地蔵菩薩(世田谷区松原)

場所は京王線明大前駅のごく近く。甲州街道(国道20号)から20mばかり南に入ったところにある地蔵堂が三宝地蔵菩薩と呼ばれる。堂内には3体の石仏があり、地蔵立像の念仏供養塔を真ん中にして、右には馬頭観音、左には庚申塔が並ぶ。

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中央の地蔵立像の念仏供養塔は高さが139㎝あるが半分は台石、寛保2年(1742)の造立で、武州世田谷領松原村銘がある。また願主は全員女性で、〇〇母とあるのが8人、〇〇内とあるのが4人、母は文字通り母で、内は奥さんだろうか。いわゆる女中念仏講中という集まりだろう。右にある馬頭観音は文政5年(1822)のもの。武州荏原郡松原村とあるが、世田谷領松原村と同じことである。左面に「右り あわしまみち」とあり道標を兼ねてどこかに立っていたのだろう。

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左の白っぽい材石の庚申塔は青面金剛像に邪鬼の組み合わせのもので、松原村念仏講中の銘がある。造立は文化5年(1808)で、「是より二子みち」とあるので、こちらも道標を兼ねていたか。

現在の京王井の頭線は沢が削った谷筋を通り、玉川上水をくぐって吉祥寺に向かう。この谷を見下ろす台地の上の道がこの堂宇の前の道で、江戸時代からある。少し南の現在明大前駅南の最初の踏切、松原5号踏切の道を経て、半田塚手前で大山道に入り、豪徳寺からさらに南に抜けていた。それでこれより二子道と書かれているのだろう。

場所 世田谷区松原1丁目39-21

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2019年7月 9日 (火)

松原の六地蔵(世田谷区松原)

代田橋駅の南にある和田堀給水所から100mばかり西に六地蔵がある。羽根木の子育地蔵の近くから甲州街道に向かう古道の途中、特に目印はない。しかしこの道は江戸時代からある村の主要道路だから地蔵があるのは自然なこと。明治以前はこの道の周りには大きな農家がぽつんぽつんとあるような台地上の畑の中の道だったはずである。

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ごく普通の民家の間に3坪ほどの地蔵堂がある。堂宇は昭和中期に建てたものだろう。手水鉢が内外にひとつずつあるが水は入っていない。さて撮影ととりかかって困ったのは、以前に盗難に遭ったのか、あるいは破壊されそうになったのか、だれも手を出せないように鉄柵と金網で保護されていて、手持ちのカメラではどうしてもその柵と網にピントが合ってしまうのだった。

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まあ致し方ないと妥協。 六地蔵の土台にある文字はひとつづつ読むことが出来る。造立年は、左から順に一番目が延享3年(1746)、二番目が寛延4年(1751)、三番目が享保15年(1730)、四番目が享保13年(1728)、そして右の2体はどちらも延享3年(1746)と書かれていた。古いものと新しいもので23年ほどの差がある。

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六地蔵の後ろのちょうど真ん中に1体の地蔵立像がある。造立年などの情報は読み取れなかった。年号の部分か欠損していたのである。ただし十一年という文字は読めたので、江戸時代に11年以上あった年代からすると、享保11年(1726)、宝暦11年(1761)、寛政11年(1799)、文化11年(1814)、文政11年(1828)、天保11年(1840)のどれかだろう。

場所   世田谷区松原1丁目14-11

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2019年7月 8日 (月)

代田橋の北向子育地蔵尊(世田谷区大原)

京王線代田橋駅は各駅停車のみ止まる駅。しかし代田には地名の由来である「でいたらぼっち」の伝説が残されている。

ある冷夏の年、関東から見える遠くの富士、筑波、浅間、日光連山が良く見える晴天の日、男体山と浅間山の頂上に棹をかけて大きな布で北風を防いでいるのを村人たちが見た。その夜の事、巨人を恐れて家の戸を固く締めた代田の丘に、ドシンドシンと大きな足音が響いた。隙間から覗いてみると、巨人が荒れ地をせっせと耕しているではないか。一夜明けると、そこには池、田んぼができ、巨人の贈り物だと村人たちはたいそう驚いた。翌日、巨人は筑波山に腰を掛け、長いキセルに浅間山の煙で火をつけて煙草をうまそうに吸っていたという。

それが地名の由来になっているというのはいささか荒唐無稽だが面白い。

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代田橋駅の西側に大原稲荷神社がある。線路わきに参道があるが、北側にも参道があり、その入り口に地蔵堂がある。現在は北向き子育地蔵尊と呼ばれるが、元は代田村の厄除四地蔵の一つで北側からの魔物の侵入を防いでいた。

代田村には東西南北にそれぞれ厄除地蔵があったが、現存するのは東向の淡島地蔵とこの北向地蔵だけ。その淡島地蔵も戦災で破壊されてしまい、後に角柱の地蔵塔が建てられた(南と西は世田谷代田駅南側の圓乗院に移されて保存されている)。しかし実はこの北向地蔵も京王線の施設工事の折には場所を移され打ち捨てられていたが、村人がそれをあまりに不憫に思い、現在の地に祀ったという。

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造立は代田村の記録では四地蔵とも承応2年(1653)と相当古い。この厄除四地蔵にも言い伝えがある。代田七人衆と呼ばれた侍たちがこの地に定着して半世紀が経った頃、その二代目、三代目が開墾を担うようになり、村の人口も増えていった。そこで村の平穏と外部からの疫病の侵入を防ごうとこの四地蔵が造られたという。当時の名主、秋本重右衛門が願主だった。

南向地蔵は瀧坂道と堀之内道の辻(現在の若林小学校の北側)、西向地蔵はその少し西北の代田村と赤堤村の境である栗原道と呼ばれた道の路傍にあったという。住宅街の一角に公園があり、栗原稲荷神社跡を示す狐塚之霊碑が立っている辺りだろう。現在の小田急線、井の頭線、京王線の逆Zエリアがかつての代田村。周辺も含めて野仏が多い地域である。

場所  世田谷区大原2丁目27-4

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2019年7月 7日 (日)

向岸地蔵尊(世田谷区大原)

向岸地蔵尊は玉川上水の暗渠緑道の上に在る。玉川上水を渡る何かに由来して向こう岸かと思ったが全く違った。向岸というのは人名だったのである。この地蔵尊、堂宇はないが公園の藤棚のような柵に囲まれている珍しいものである。藤棚のフレームに地蔵の由来が書かれた板がある。書かれたのは平成4年だが、書いた主が「二代目講元」とあった。古い謂れのある地蔵の講元が二代目というのは少なすぎる。しかし平成になっても講が続いていることにうれしさを感じた。

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手前の角柱に地蔵の造立が彫られている。享保元年(1716)に百万遍講中によって建てられたとある。百万遍とは長い数珠をみんなで囲むように輪になって持ち、念仏を唱える講中である。地蔵の土台には、「十億四千八百四十八万遍」と彫られているが、それだけくりかえし百万遍が行われていたことの証だろうか。

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手前の石柱はかなりぞんざいに扱われているようだ。頂部はコンクリートで補修されたような感じ。その後ろ(左奥)には馬頭観音があるが造立年は読み取れない。どこからか移してきたものだろう。頭上の説明板には概ね次のようなことが書かれている。

『今から200年以上も前の事(これが書かれたのは平成4年)、荏原郡北の里(現在の世田谷区大原)に生まれつき身体が曲がっている向岸という独り身の人がおり、自身の境遇を悲しんでいた。ある晩のこと、地蔵様が現れ欲しいものを出せるといい、今後世のため日夜念仏を唱えれば救われると説いた。お地蔵様の教えに従い、向岸は念仏を昼も夜も唱え続け、それを聞き知った人々が集まるようになり二百を超える大きな講中となった。後に向岸は悟りを開いて大往生を成し遂げたという。地蔵尊は、生前の徳を偲んで講中の人が享保元年(1716)の秋に建立したものである。』

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馬頭観音の反対側、向かって右側には舟型の地蔵立像が二つ並ぶ。大きい方は宝永7年(1710)の造立、小さい方は正徳元年(1711)の造立である。これらも地蔵とは特に関係はなさそうである。

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玉川上水はこの少し上流で一部開渠になる。そこに架かる橋はゆずり橋というアーチ式のレンガ橋。江戸時代、多摩川上流の水を江戸の町に飲料水(上水)として引くために掘られた玉川上水。玉川兄弟が工事を指揮したと伝えられる。豊かな玉川上水からは多くの支流の上水に分水された。時代と共に玉川上水はどんどん暗渠化されたが、このあたりだけは開渠として残されている。

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この橋は以前は幅が狭く、ゆずりあって渡っていたので、地域の人々から「ゆずり橋」という名前を付けられた。デザイン的にも素晴らしい橋である。モチーフは地元の子供達が描いた橋の絵だったそうである。歩行者専用の橋で、車止めがあるが、この中にはタイムカブセルが埋められているという。橋が付け替えられたのは平成3年(1991)だから、当時小学校1年生だった子はもう30代半ば、タイムカプセルは開けられたのだろうか?

場所  世田谷区大原2丁目19-1

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2019年7月 6日 (土)

謎のとげぬき地蔵(世田谷区大原)

井の頭通りは渋谷の西武デパートから吉祥寺方面への幹線道路で直線部分が極めて多い。吉祥寺の先は武蔵野の境浄水場まで続く。直線が多いのは境浄水場からこの地蔵のすぐ近くの和田堀給水所の間に水道管を敷設するための用地を道路に転用したためである。昔は水道道路と呼ばれていた。その和田堀浄水場は現在工事中だが、隠れた桜とツツジの名所で普段は入れないがその時期だけは一般公開されていた。

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井の頭通りを西に進み、和田堀給水所に突き当たる数十m手前に不思議な家がある。2リットルのペットボトルがずらりと並び、「とげぬき地蔵」と書かれたのぼり旗が多数並ぶ。但しのぼり旗はもう色あせてしまっている。この家の玄関脇に不気味な地蔵があり、どうやらそれがとげぬき地蔵らしい。

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お堂ではなくまさに玄関脇で、昔の乾燥機のスタンドを使って地蔵の屋根をつけてある。屋根は飛ばないようにするためか、数本のペットボトルを重しにしてある。地蔵の後ろにぶら下がっている乳児のおもちゃも不気味さを加味している。この家にはポストが二つあり、一つは普通のポスト、もう一つのポストには「0センター」とある。しかも家のポストの住所は大原2-8-5で「0センター」のポストは2-8-6となっているが、どう見ても家は一軒のみ。

ストリートビューのアーカイブが沢山あったので見てみたら2009年の時点ではこの家そのものがFor Rentとなっていた。地蔵はなかったがのぼり旗は立っていた。2013年にはもう現在と同じ状況でのぼり旗、ペットボトル、地蔵の組み合わせが出来ている。あまりに謎めいているので、取り上げてみた。

場所  世田谷区大原2丁目8-5

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2019年7月 5日 (金)

新代田駅近くの庚申塔群(世田谷区羽根木)

京王井の頭線の新代田駅は環七通りの下にホームがある。駅の出入り口は環七の内回り側。駅前は幅10mを超える横断歩道があり、駅の存在を主張している。駅を出て横断歩道を渡り、北に向かう。すぐにシェルのガソリンスタンドがあるが、その裏手に稲荷神社と庚申塔群がある。

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庚申塔の存在感がすごいので稲荷神社の方が付け足しにすら思えてしまう。それほど立派な庚申塔が並んでいる。どれもが比較的大型で、保存状態も極めて良いのが素晴らしい。

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一番右にあるのは板碑型の庚申塔で、高さは118㎝、造立年は元禄12年(1699)である。青面金剛の下に三猿が描かれており、下部には願主の名前が8人ほど彫ってある。色が少し薄茶なのは安山岩の中でもこういう系統の石を使っているのかそれとも他の石なのかは見分けがつかなかった。いい色である。

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右から二番目は角柱型の庚申塔。 青面金剛と三猿が描かれ、最も高さが高く136㎝ある。この庚申塔の造立が最も古く、貞享4年(1687)と彫られている。五代将軍徳川綱吉が生類憐みの令を出した年に作られたものである。左右の側面に願主の名前がある。

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右から三番目(左から二番目)は少しだけ小さめの駒型の庚申塔。青面金剛に三猿である。造立は正徳元年(1711)で、庚申塔としてはやや大きなものだが隣が大きいので小さく感じた。どれも保存状態がいいのは、おそらく使っている石材がいいのだろう。彫り師も腕がよさそうに見える。

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一番左だけは庚申塔ではない。 舟型の地蔵立像である。こちらは念仏講中の立てた供養塔である。造立は元禄10年(1697)。どの石仏も江戸時代の前期のものなのにどれも美しいのには感心してばかりだった。

場所   世田谷区羽根木1丁目5-16

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2019年7月 4日 (木)

子育明林地蔵尊(世田谷区松原)

境の辻である徳明地蔵尊から東へ100mほど進む。広い道は作りかけの計画道路なので斜め北に分岐する旧道を歩く。この道は江戸時代からの古道で東松原駅を通り、羽根木の子育地蔵を経て笹塚まで続いていた。江戸時代から大正時代まで羽根木通りと呼ばれ村の幹線道路だった道である。徳明地蔵と明林地蔵そして松原五丁目の細街路奥にある地蔵で三角形を形成しているのは偶然だろうか。

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明林地蔵の脇の丁字路から北西に向かう道もまた、現在は路地だが江戸時代からある古い道である。この羽根木通の南東側は昔、沢があって田んぼが広がっていた。その沢を渡って羽根木に向かう手前にこの地蔵が位置している。昔の小字名は赤羽根。

沢はこの先でY字型になっていて、羽根木の集落はYの上、赤羽根集落はYの左側、そしてYの右側は飛羽根木という小字名だった。羽根木の本集落は宇田川家を中心に栄えていた。この羽根木通は昭和初期まで二間道路と呼ばれる道幅3.6mの道だった。古老は南側にどぶ川が流れていたという。それがY字の右側の沢であろう。昭和中期まで子供が落ちて流されるような事故もあったらしい。

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明林地蔵はコンクリートの頑強な堂宇に守られているが、ちょっと顔が不気味である。造立年などは不詳。壁面に左官さんが彫ったような文字で昭和19年に御堂を再建したことが記されている。沢が流れ、街道が通り、低地には水田、丘陵地には畑が広がる江戸時代から明治時代にかけての松原のこの辺りの地形だが、そういう変化と起伏の多い場所だからこそ、辻(分岐点)ができ、地蔵が多く作られたいきさつがあったのではないだろうか。

場所   世田谷区松原5丁目9-21

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2019年7月 3日 (水)

徳明地蔵(世田谷区松原)

徳明地蔵のある場所は、世田谷区の計画道路の交差点になる予定で、いつまでこの場所に居られるかはわからない。東西に予定されているのは15m幅の補助54号線で、東北沢から下北沢を通り環八千歳台に抜ける。一部が開通している。南北の道は、補助154号線で明大前から駒沢へ抜ける。こちらは徳明地蔵の前まで完成している。そんな危機的な場所にあるのだが、地元の支持が厚いので必ず残されると思っている。

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交差点になることを見越してコンビニが出店していた。現在はコンクリートの擁壁を背にして堂宇があり、その中に徳明地蔵が収まっている。この地蔵は江戸時代末期、文久3年(1863)に造立され、その後何らかの事情で他所に移されていた。しかし昭和の初め、村の子供が多く病にかかったり、不幸が続いたりしたので、村人(世田谷区になったのは昭和7年)たちはお堂を立て、地蔵をこの地に戻し、徳明地蔵と呼んで信仰した。

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しかし台座の正面には正徳5年(1715)の刻もある。「松原村 正徳五乙未天 文久三亥年 庚申講中 十月再建」とあるので、最初に地蔵が造立されたのは正徳5年(1715)で、再建されたのが文久3年(1863)ではないだろうか。その後のいきさつは前述のとおりである。小祠内に収まった丸彫の地蔵は高さが152㎝と比較的大きいもの。

この道路の場所を松原6丁目15とする情報と、松原5丁目11とする情報があるが、ゼンリンの地図で見るとここは松原5丁目と6丁目の境の真上になっている。まさに境の辻にあるのがこの地蔵と言える。

場所  世田谷区松原5丁目11-2 もしくは 6丁目15-1

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2019年7月 2日 (火)

松原五丁目の地蔵(世田谷区松原)

この路地を歩く人はほとんどいない。それでもこの地蔵の脇をクランクで折れ曲がって東松原駅の方に抜ける道は江戸時代からの道である。現在は直進するように地蔵脇を抜けて徳明地蔵の道に出る路地は昔は沢筋だった。おそらくこの沢を渡るために道がクランクしたのではないだろうか。そんな道にある地蔵尊だからか、資料は全くない。

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地蔵尊のためのスペースは意外に広い。向きは南東向き。 地蔵尊自体の傷みもほとんどないので、比較的新しい時代のものではないかと思われる。しかし、再建されて新しくなることもあるので、この地蔵の由来はさらに調べてみたい。

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松原五、六丁目地蔵保存会なるものがあるようで、そこで聞けば何か分かりそうな気がする。この地蔵から南東へ100mほど進むと徳明地蔵の近くに出る。松原地区(旧松原村)にはたくさんの地蔵や石仏がある。この辺りは松原村と赤堤村の村境だったエリア。江戸時代の人々は村境近くに多くの石仏を立てて、悪いものが侵入するのを防ごうとしたのである。

場所  世田谷区松原5丁目10-11

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2019年7月 1日 (月)

松原の豪邸の庚申塔(世田谷区松原)

ここ四半世紀、世田谷区を中心に店舗数を増やしている「スーパーオオゼキ」だが、その一号店は松原である。今年(2019)リニューアルして他の店舗とは一線を画すフラッグシップ店舗になったようである。我が家も30年以上近隣のオオゼキで生鮮食品を購入する。そんな親近感のあるオオゼキの前の道を東に進むと間もなく道の北側に不思議な堂宇が現れる。

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これはだれかデザイナーがいるのではないかと思わせる堂宇である。地図には「上丸実業」とあるが、調べてみると不動産業の会社のようだ。ここはパセオ松原という高級マンションらしい。西隣にあるテラス松原という高級マンションもこの会社の所有である。パセオ松原マンションがコンクリートの柱をモチーフにした現代的なデザインでそれに合わせて堂宇を作ったのだろう。

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庚申塔は笠付角柱型で、青面金剛像に邪鬼と三猿が彫られている。造立年は元禄15年(1702)とある。願主は松原村の12名。庚申塔の前の道はこの先から東側は昔の道に戻るように細街路になる。ここで計画道路が止まって何十年も経つ。補助54号線という計画道路で道幅15mで東北沢から下北沢の街中を抜き、以前に書いた榎交差点を通り、西へ向かう幹線道路で、部分開通はしているがまだ最低数十年かかりそうである。(もうあきらめた方がよさそうに思う)

庚申塔の南には六所神社があるがその周辺を昔は「陣屋の山」と呼んでいたらしい。江戸時代初期からここは天領(幕府直轄)で、服部家が治めていた。その服部家の屋敷があった場所で、まさに武蔵野の林の中だったという。現在も六所神社の一角だけが周囲よりも2~3m高くなっている。

場所  世田谷区松原4丁目8-25

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