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2019年7月25日 (木)

石神井町の子育地蔵と庚申塔(練馬区石神井町)

練馬区は東京23区で5番目に面積の広い区である。明治の初め頃は14の村に分かれていた。現在の石神井町は下石神井村の一部である。川越街道の上板橋宿から南西に富士街道(大山街道)が分岐して、多くの富士講・大山講の人々が歩いた道である。石神井公園駅から350mほど富士街道を西へ進んだところ、練馬区役所石神井庁舎の少し先に小さな公園(子育地蔵遊び場)に並んで子育地蔵と庚申塔がある。

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子育地蔵は高さが2.3mもある背の高いもので見上げるようになる。造立は元文2年(1737)で武刕豊嶋郡下石神井村の銘がある。目の前の道が富士街道(大山街道)で、現在は環八と川越街道の大きな立体交差になった北町陸橋辺りから分岐し、石神井から田無を経て神奈川県の伊勢原に達していた。

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道路の近くにある簡易的な堂宇の下はなんだかごちゃごちゃしているが、立派な庚申塔と聖観音像が並んでいる。周りの我楽多が一体何なのかは不明。庚申塔は元禄11年(1698)の造立で、駒型で大型(高さ137㎝)のもの。青面金剛像に邪鬼と三猿が丁寧に掘られている。願主の名前を見ると半分が本橋姓、次に豊田姓が多い。子育地蔵はほとんどが豊田姓であったが、こちらは本橋中心である。

右側の聖観音像は寛政8年(1796)の造立。武州豊嶋郡下石神井村、願主豊田重助とある。

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庚申塔の前には一対の燈籠がある。どちらも寛政10年(1798)の造立。 どちらも本橋家が願主である。右側には念仏講中廿人、左側には庚申講中廿人とあるので、念仏講と庚申講がどちらも盛んだったのだろう。

石神井の地名の由来だが、「昔、村人が井戸を掘っていたところ、石棒が出土した。村人は石棒を霊石と崇め、石神(いしがみ)様としてお祀りした。それが石神神社→石神井神社と名前を変えて現在に至る。石神井神社(石神井町4丁目14)が地名の由来という訳である。別説では石棒が出土したのは石神井公園の三宝寺池という話もあるが、石神井神社出土説が主流のようである。

場所  練馬区石神井町7丁目4-3

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