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2019年7月15日 (月)

等々力七丁目の馬頭観音(世田谷区等々力)

深沢から南に向かい目黒通りに出る少し手前、上野毛通よりもさらに一本北を東西に走る道は古い街道で、目黒方面から来ると上野毛通りと目黒通りが合流する等々力六丁目辺りで分岐、南の道は今の目黒通りの筋で等々力の渡しへ、北の道は上野毛を経て二子の渡しへと繋がっていた。この北側の道にあっただろうと思われるのが、現在等々力7丁目にある馬頭観音塔と道標である。

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四つ角の南東に植込みがあり、その中に3基の石塔がある。道標や馬頭観音は、庚申塔や地蔵と違い、お堂を立てて祀ったりはしていないケースが殆どである。昔は牛馬も死ぬと亡骸を捨てる場所があったりしたというから、そういう場所に馬頭観音が立てられたりしたのかもしれない。

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自然石でつくられた塔が馬頭観音である。自然石の馬頭観音は世田谷ではほとんど見たことがない。裏側には鈴木鎌作の銘がある。その後ろにある小さな石碑はどうやら道標らしいが、欠損がひどくて何も読み取れなかった。

明治22年に玉川村が出来、等々力は大字となった。この辺りは等々力山谷という小字。等々力にはキツネの民話が多く残されているが、その中でキツネの嫁入りを見て化かされる鉄蔵の話があり、鉄蔵は鈴木家の末っ子であると記述されていた。もしかしたら馬頭観音の施主である鈴木鐘作の身内だったのかもしれない。

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左手奥にある道標はわずかに読める部分がある。しかしほとんど読めなかったので世田谷区の資料を確認した。正面には、右 九品仏道、左面(写真では右側)には玉川、裏面には本龍山御嶽不動講とあるという。等々力も講の盛んな村だったようだ。念仏講、善行寺講、大山講、御嶽講、富士講、等々力不動講など20近くの講中があったというが、江戸時代末期から明治大正にかけては、信仰の場というよりも親睦の場としての役割が大きくなっていったという。

場所   世田谷区等々力7丁目13-9

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