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2019年8月 4日 (日)

雲照寺の庚申塔(渋谷区西原)

四半世紀以上小田急線で都心に通勤している。代々木上原駅に営団地下鉄千代田線が乗り入れたのは昭和53年(1978)。それまでは小田急線代々木八幡と千代田線代々木公園前を乗換駅として人々は利用していた。駅の完成で南北の視界が遮られたが、代々木上原と代々木八幡は渋谷川の支流が削り取った谷底の駅だから、両側の台地を車窓から望むことは十分にできた。

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上は周辺の地形図。卍マークが今回紹介する雲照寺、八幡というのが代々木八幡である。代々木上原駅は雲照寺の左下(南西)にある。昭和の最初に開通した小田急線はこの谷筋を通したのである。代々木公園・明治神宮の台地を囲むように渋谷川の支流が谷を形成したのがよく分かる。こんな地形だから縄文時代の遺跡も多い。当時はここまで海が迫っており、魚や貝も豊富に獲れたからである。しかも川がこれだけあるということは湧水も豊富なので、生活用水の確保もできる。その陸と水の間で何千年も人間は生活を営んでいるのである。

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雲照寺に併設された徳教会館は小田急線からよく見える体育館のような建築物で、車窓から何だろうと思いつつ眺めている人も多いと思う。線路の通る谷から北、西原の台地を上ると雲照寺の石段がある。台地の縁をうまく利用している。隣駅にある代々木八幡もそうだが、昔からこういう突端の土地は寺社仏閣か戦国時代の城跡であることが多い。雲照寺は大正10年(1921)に小石川目白台にあった蔵王寺を移転して改名した寺で新しいが、よくこの場所を確保できたものだ。

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階段を上り門を入ると、左手の大きな欅の下に舟型の観音菩薩立像がある。造立年を読み取ろうとしたがかすれてよく見えない。かろうじて寛文と四という文字が見えたので、寛文4年(1664)と推定した。江戸時代初期、徳川光圀が『大日本史』の編纂を始めたころである。新しい寺によくこんな古いものがあるなと感心したが、雲照寺にはもっと昔の板碑も保管されているらしい。

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欅から右手に視線を移すとそこには都内でも最大級(高さ143㎝)の板碑型の庚申塔が、最高の保存状態で残されている。この庚申塔にはしばらく目を奪われた。板碑型は比較的初期のものが多い。この板碑型庚申塔も寛文12年(1672)と古いもの。青面金剛像、邪鬼(天邪鬼)、三猿、日月、二鶏がくっきりとしており、青面金剛の持つ武器や獲物もここまでクリアなのは珍しい。

こうなると板碑も見たくなったが、あまり開かれた寺ではないようなので無理をせず再び谷に下った。

場所   渋谷区西原3丁目31-1

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