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2019年8月25日 (日)

二つの大山道道標(世田谷区玉川)

瀬田から二子玉川にかけての大山道は二つのルートがあったことは以前にも書いた。用賀駅南の延命地蔵尊で左右に別れて、西の慈眼寺ルートと日東の行善寺ルートがあったのである。世田谷区の製作したパンフレットの一部を使わせていただいたのが下の図である。

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暴れ川多摩川なので、ある時代は上の図の二子の渡しがある時代は兵庫島近辺にあったりしたようだ。一方多摩川に沿って国分寺崖線下を青梅から大田区六郷まで通っていたのが「筏道」。こちらは江戸の街に木材を供給する為に、奥多摩の材を筏にして多摩川を下り、六郷で江戸の商人に受渡した筏師が3~4日かけて青梅に戻る道で、世田谷区辺りはほぼ国分寺崖線下に沿うように通っている。

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慈眼寺ルートの慈眼寺坂を下り、丸子川にかかる治大夫橋を渡ると交差点の角に石碑がある。「右 むかし 筏みち」そして「むかし 大山みち」と彫られている。治大夫橋は以前は車道と歩道の高さが違い、舗道は数段の階段を上って越えるようになっていたが、2010年頃架け替えられた。丸子川は江戸時代に狛江市の水神社辺りで多摩川の水を取水し、二子玉川、田園調布を流れ大田区の水田を潤していた。この場所が大山道と筏道の江戸時代の交差点である。

世田谷区では掘削をした代官の名を冠して次太夫堀、また女性も工事を手伝ったとして女堀、全体としては六郷用水といろいろな名前を冠している。現在の河川法では丸子川という川名になっている。始まりは慶長10年(1605)の徳川家康の小泉次太夫の六郷用水・二ヶ領用水の開削命令。両用水は数年で完成した。

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行善寺ルート側にあるのは古い道標。立派な石組のコンクリート製の台座に載せられ、ガードレールまで付いている。道標はとちゅう2ヶ所中折れした痕跡があるが、この道を走る車に当てられたのだろうか。それで立派な土台になったのではないかと思う。横を流れるのは丸子川(六郷用水)で、この道がかつての筏道である。

P1060975

左の道標は、安永6年(1777)の造立。瀬田村の庚申講中が建てたものである。「南 大山道」と中央にあり、「左 西 赤坂道」「右 東 目黒道」とあるが、赤坂道は三軒茶屋、渋谷、青山を経て赤坂見附御門に至る。目黒道は上野毛通りから目黒行人坂に至る道である。 右の小さな石碑はかなり短くなってしまっていて上部のみが残った状態。 富士講碑と言われている。 東、南、西の文字が見えるが下は分からない。これも同様に道標を兼ねていたのだろう。

場所

治大夫橋脇の石碑  玉川4丁目10-15

行善寺ルートの石碑  玉川2丁目13-5

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