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2019年8月10日 (土)

用賀真福寺の石仏(世田谷区用賀)

明治時代の終わり、明治40年に玉電(玉川電気鉄道)が渋谷~三軒茶屋~用賀~玉川で開通した時、用賀駅の駅前から大山街道までは駅前の道だったが、大山街道から真福寺への道は街道から参道であった。つまり用賀駅と真福寺は向かい合っていたのである。現在の大山街道の商店街の一角に参道の入口があり、両脇に石柱が立っている。

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左の角にある高さ90㎝程の石柱は巡礼塔で、正面には「上達法身下及六道」、側面には「四国八十八箇所霊場 六十六番讃岐国雲辺寺」とあり、造立年は安永6年(1777)である。 右側の塔も同じサイズで、こちらは正面に「三界万霊」とあり側面には造立年がかすかに見え、明和4年(1767)とある。左側の住所は用賀4-12-1、右側は用賀4-13-4である。

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参道の突き当りにある山門をくぐる。正式名は実相山真如院真福寺、創建は天正6年(1578)。すぐに左側に二つの堂宇が見える。手前が庚申堂で、奥が太子堂。もともと大山街道の向原にあったのを昭和39年(1964)にここに移したもの。向原とは昔の小字で現在は首都高速の下に谷沢川が流れる筋と国道246号(玉川通り)と大山街道(旧道)の三角地帯にあたる。

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左の庚申堂には1基の庚申塔が祀られている。二つの堂宇の間にある由来碑によると、弘化4年(1847)の造立。駒型で、青面金剛像に邪鬼、三猿の図柄。道標を兼ねており、右面には「北 青山道」左面には「南 大山道」裏面には「東 六郷道」とあるので、大山街道(旧道)の現在の消防署近くの路傍の東側に立っていたのだろう。

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太子堂にあるのは造立嘉永3年(1850)の聖徳太子の像である。しかし建てたのは庚申講の人々。 右面に「用賀邑講中」とある。正面には聖徳太子、庚申講中と彫られているので庚申塔扱いしている。

由来碑には、「武州荏原郡用賀村字向の高橋亀太郎、鈴木長兵衛を世話人とする講中25名が、地区街道の安全と村民の除災獲福祈願として庚申塔を建て、さらに嘉永年間には職方の守り本尊として聖徳太子像を建立(現用賀町1-233)した。この度、その境内の地を消防署拡張の用地として提供したため講中で話し合い真福寺にお願いした(昭和39年)」ということが書かれている。

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真福寺には元文5年(1740)造立の六地蔵もある。こちらは用賀村下女中念仏講中の銘がある。色がそろわないところが逆に魅力的でもある六地蔵である。

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墓所の入口には写経読誦塔があり、その右手に7基の地蔵が並ぶ。この写経読誦塔は文化5年(1808)のもの。左面には、開山から四代の住職の名が刻まれている。開山法師宗円 天正6年(1578)、二世 宗慶 元和4年(1618)、三世 宗重 寛永5年(1628)、四世 宗音 寛永10年(1633)。宗円さんは40年もの間寺を守って、二世宗慶さんは10年、三世宗重さんは5年とだんだん短くなっている。

開基とされるのは飯田図書(1578没)という用賀村の開拓者。飯田帯刀、図書の父子は小田原北条氏に仕えていたが、14世紀にこの用賀村にきて着農した。用賀に土着してから勢力をもつようになり、苗字帯万を許され彦根藩の代官職を務めたという。

場所  世田谷区用賀4丁目14-4

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