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2019年9月15日 (日)

猿楽古代住居跡の石仏(渋谷区猿楽町)

流行の先端を行く代官山の街、40年ほど前は急行の止まらない静かな住宅街だった。渋谷から明治通りを恵比寿方向に行ったところにある並木橋から、鎗ヶ崎への道を上るとJR山手線を跨線橋で越える。そのすぐ先の渋谷側に路地を入ると天狗坂という坂があり、坂の脇に横山邸があった。横山邸の庭には古い石仏が数体祀ってあった。

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写真は横山邸と右側の道が天狗坂である。横山邸(猿楽町5-2)の門の左側に説明板があり、その後ろ側に5体の石仏があった。石仏たちは最近猿楽町の古代住居跡公園の奥に移設されたので見に行った。横山邸にあった頃は、網があってうまく撮影できなかったのである。

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公園では大きさ順にきれいに並べられていた。後ろの網の向こうは区立猿楽小学校のグラウンドである。ここは弥生時代の遺跡で、古代住居跡がコンクリートで固められている味気ないもの。しかし札束をゴミのように使う開発に取り囲まれた中でこういう施設を残してくれるのは何よりもうれしいことである。

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さて、一番右だがなかなか大きな庚申塔である。板碑型で高さは129㎝ある。青面金剛像に三猿の図柄、造立年は延宝5年(1677)10月と江戸時代初期のものである。その隣の石塔は廿三夜塔。舟型の勢至菩薩像で高さは110㎝ある。造立年は延宝3年(1675)11月とあり、隣の庚申塔よりも古い。武州豊嶋郡中澁谷村の銘がある。

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廿三夜供養塔というのは、月待塔の一種である。始まりは室町時代と言われるが、流行したのは江戸時代に入ってからで、特定の月齢の夜に集まり飲食を共にしたのち念仏を唱えたりして悪霊払いをした風習。十三夜塔、から廿六夜塔まであるが、廿三夜塔がもっとも多い。二十三野党の左には、ほぼ同じサイズの板碑型庚申塔がある。青面金剛像に三猿の図柄は最初の大型の庚申塔とほぼ同じ。造立年は元禄16年(1703)11月で少しだけ時代が新しい。願主が10人記されているが海老沢姓が4人いる。

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その隣にあるかなり摩滅風化した石像は道標の地蔵立像。「左 目黒道」は読めるが他の文字が殆ど読めない。年代については〇暦3年とあるので、明暦か宝暦だろうが、明暦だと1657年、宝暦だと1753年だから可能性は宝暦3年の方が高そうだ。「右 〇〇道」の方については推理が楽しそうである。もし、並木橋あたりにあったとすると、左目黒道は目切坂上を目指しそこから目黒不動へ向かう道と推定できる。そうすると右は上目黒を経て大山道に出る道を指し「右 大山道」だったか、あるいは三田用水沿いに行き滝坂道へ向かう意味で「右 滝坂道」だったかなど、推測は尽きることがない。

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一番左にあるのが猿が一匹だけのいわゆる一猿と呼ばれる猿像。 これも当然庚申塔である。造立年は宝永8年(1711)4月。これにも海老沢姓が半分入っている。すべてが横山邸にあったものだが、江戸時代初期から中期にかけての貴重な石仏を今に残してくれたことには深い感謝の念を覚える。

場所  渋谷区猿楽町12-5

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