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2019年9月 5日 (木)

西澄寺の石仏(世田谷区下馬)

三軒茶屋の東側、蛇崩川暗渠岸の駒繋神社の北西側にあるのが古刹の西澄寺。 始まりは弘法大師伝説、空海が諸国不況の折、この地へ薬師如来像を発見し整地と定めて薬師堂を立て、傍らにマキの樹を植えてその下に像を埋め再び旅立ったというもの。その後天文2年(1533)に高野山で修業した僧が薬師堂を中興し、江戸時代になると領主の加護を得て西澄寺が建立された。

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西澄寺には多くの石仏がある。それらをすべて紹介するわけにもいかないので、主だったものをいくつか。 両側に墓所の広がるまっすぐな参道を進むと山門をくぐる。この山門は武家屋敷門で、港区芝にあった阿波徳島藩須賀家の中屋敷門を、大正時代末期に移設したもの。25万石の風格を感じさせる門の先には鐘楼があり、その手前に水子地蔵をはじめとする4基の丸彫の地蔵がある。

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鐘楼に向かって右には3基の地蔵があるが、その一番左側の六十六部供養仏の造立年が興味深い。正面には天保15年(1844)再建とある。右面を見ると、明和9年(1772)願主安藤忠兵衛という銘と、文化2年(1805)横山氏再建立という銘がある。つまり30~40年おきに二度再建立されたのである。左面には「武刕荏原郡下馬引沢村」とある。どこがどう変わったか知る術はない。

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探していた石仏が見つからなくてうろうろしている時にたまたま住職がいらしたので聞いてみた。親切にいろいろと教えてくださった。墓所の中程に中山谷庚申尊の石碑があり、その一角に多くの石仏が並んでいる。先代の住職があちこちに散らばっていた石仏をここに集めたのだそうだ。中山谷は野沢から蛇崩までの尾根筋、今の学芸大学附属高校辺りを指す。

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中山谷庚申尊碑の脇にあるのは馬頭観音像。これは以前学芸大学附属高校南側の下馬中央公園の傍(下馬6-37-16)にあったもので、なくなったと諦めていたがここで出合えて縁を感じた。造立年は安政2年(1855)で下馬引沢の銘がある。

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その隣の大きな舟型光背型の地蔵立像は庚申供養のものである。右側に「奉造立庚申塔」とある。造立年は宝永3年(1706)とあるので、富士山大噴火の前年である。

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後にこじんまりと収まっているのは庚申塔。上部が少し低めだが、青面金剛像に邪鬼と三猿が描かれている。正徳2年(1712)造立の板状駒型庚申塔。 願主9人の銘がある。ちなみに中山谷庚申尊は最初学芸大学附属高校の南にあったと書いたが、そのあとはそこから少し西の下馬3-5あたりに移されたそうである。学芸大学附属高校は関東大震災後の開発で青山師範学校だったものが、戦後学芸大学になり、昭和の中頃から附属高校になった。

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その後ろには元禄8年の地蔵立像。ゼニゴケが下半分にまんべんなくついている。 右側には「念仏供養塔」とある。願主の名前がちりばめられている。男性の名前と女性の名前が半々という珍しいもの。名前を読んでいると面白いのは、「梅沢吉兵衛、同母、」などと書かれており、男には名乗る名前があっても女性にはなかった江戸時代の事情が見えてくる。

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そのさらに後ろには一度折れたものを補修した舟形光背型の聖観音立像がある。こちらは男の名前ばかりだが、この石仏も元禄8年(1695)の造立で、こちらは男性名ばかりである。

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沢山の石仏を堪能したのち、参道を戻る途中にある馬頭観音像に立ち止まる。この馬頭観音は造立年不詳。以前はこのならびに多くの石仏があったと住職は言う。 その方が個人的にはよかったが、先代の住職がまとめたのはそれなりの理由があったのだろう。

場所  世田谷区下馬2丁目11-6

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