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2019年9月 3日 (火)

東山谷庚申・お猿庚申(世田谷区下馬)

通称お猿庚申尊、またの名を東山谷庚申尊というお堂である。江戸時代までの道筋としては、蛇崩川の北側に芝溝道(芝道)が三軒茶屋から目黒方面へと東西に走っていた。下馬の南側には品川用水が西から東へ流れ、用水沿いに用水道が通っていた。それを南北につなぐ道が、東山谷道と中山谷道である。二つの道の間には蛇崩川の支流が北へ流れていた。下馬4丁目(戦前は中三谷地区)と5丁目(戦前は東三谷地区)の境は谷筋になっているが、それがこの支流筋にあたる。

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お猿庚申は最初からここにあったわけではない。お猿庚申本体は昔は大教寺墓地の角にあったといい、庚申塔は昔、東山谷の中程にあったというが、現在その場所を特定することは難しい。現在の大教寺は国道246号線と山手通りの交差点に近い、日本地図センターの近くにある。大教寺の歴史を見ると、まず下高井戸に創建、後の正徳3年(1713)に下馬引沢村へ移転、明治28年(1895)に現在の目黒区青葉台に移っている。江戸時代から明治にかけての場所は現在の下馬1丁目20の辺り、三宿からの通りと蛇崩からの通りの交差点の南側である。従って、お猿庚申は中山谷にあったのである。

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そのお猿庚申、庚申塔としては極めて珍しいタイプである。造立は寛文11年(1671)と江戸時代初期のもの。上部は猿像で、土台には「為庚申待供養也」とあり、武刕荏原之郡(下)馬引沢村、願主10人の銘がある。これが御幣猿かどうかは分からないが、後の時代の御幣猿像は池尻庚申堂に大正元年(1912)のものがある。 しかし他の場所ではほとんど見かけたことがない。

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中山谷から移された猿像の庚申塔を中央にして、向かって左側には見事な庚申塔がある。駒型で、青面金剛像と三猿の図柄。こちらは元禄7年(1694)の造立である。年号の下に、施主であろう思本久右門と銘がある。下には10名ほどの名が刻まれている。

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お猿庚申の右側には自然石のまま角柱風に加工した「南無青面金剛尊」と彫られ石塔があるが、これについては何もわからない。それほど古いものではなさそうである。

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その足元にある周りが欠損してしまった庚申塔が面白い。元の形は分からないが、角柱が折れた後削れたのではないかと思う。文字は欠けているが「庚申供養」が中央の文字だろう。左は荏原郡下馬引沢村。面白いのは「下」という字が後で取ってつけたように彫られている事である。右を見ると、癸亥(みずのとい)11月とある。

江戸時代の癸亥は1623、1683、1743、1803、1863の5つがあるが、後で「下」を取ってつけたとすると、馬引沢村が上馬引沢村と下馬引沢村に分かれた頃ではないかと推測できる。その時代は寛永年間(1624~1643)とされているので、おそらく5つの造立年の中では最初の1623年(元和9年)の可能性がある。ただし、あくまでも推理上の話である。世田谷で庚申信仰が広まったのはもう少し後の時代と考えられる点で、区の教育委員会もそういう説は一切載せていない。

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しかしここには板碑の上部もある。 元禄7年の庚申塔の土台の前に埋まり掛けるように置いてある。板碑は鎌倉時代から室町時代くらい、西暦でいうとほぼ1200年代から1500年代まで造られている。そして江戸時代以前には「申待」とか「庚申供養」とだけ書かれた文字塔も多い。この辺りには鎌倉道も通っており、頼朝伝説も残っている。こういう石碑石仏を作る文化が鎌倉時代からあった可能性がある。

そうすると上の庚申塔は、一猿、三猿そして青面金剛に移行する前の黎明期のものである可能性がゼロではない。たかが石だが、400年前のことを想像することにはとても深いロマンがある。

場所  世田谷区下馬5丁目25-17

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