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2019年9月16日 (月)

目切坂上の地蔵と猿楽塚(渋谷区猿楽町)

代官山のヒルサイドテラス脇から目黒川沿いに下る有名な抜け道が目切坂。 この辺りは江戸時代以前の痕跡が意外に多い。地蔵の南側にはかつて目黒富士があった。富士塚は文化9年(1812)に上目黒村の富士講中が築いたもので高さは12mもあったという。しかし文政2年(1819)には別所坂上に新目黒富士が築かれるとそちらが新富士と呼ばれ、こちらは元富士と呼ばれた。歌川広重の『名所江戸百景』には両方とも題材として描かれている。しかし元富士は明治になってから壊され、大橋の上目黒氷川神社に移された。

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その少し西側には神田正輝と松田聖子がデートを重ねていたというヒルサイドテラスがある。その一角にこんもりと盛り上がった小山があるのだが、これが猿楽塚で、猿楽町の地名の由来になった場所。この築山は6~7世紀の古墳で二つの円墳からなり、そのうちのひとつを人々は長年猿楽塚と呼んだ。古墳の脇を初期の鎌倉道が通り目黒川に向かって崖を下っていたらしい。

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さて再び100mばかり代官山交番の方へ戻り地蔵にお参りする。この地蔵は文政元年(1818)7月に造立されたもの。台座の正面には「右 大山道 南無阿弥陀仏 左 祐天寺道」とある。右の道は目切坂、左の道は駒沢通りにあった新道坂を示している。目切坂は今でも薄暗い坂道だが、昔は崖線の森の陰でさらに薄暗く、暗闇坂とも呼ばれていた。

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上の写真と前掛けの柄が違うのは上が2016年、下が2019年の写真だからである。左の小さな地蔵立像については資料もなくほとんどわからない。文字はまったく読めないが聖観音像ではないかと思われる。この辺りの標高が33mほどあるのに対して目黒川は10mほどだから、ここから南へ行くと20mの崖を下らなければならない。そんな高い場所にかつては三田用水が流れていた。場所的にはまさに地蔵の真ん前である。そして三田用水よりも北側が中豊澤村、南が上目黒村という村境でもあった。分れ道、村境、橋、というすべての条件がそろった場所なのである。

場所  渋谷区猿楽町30-3

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