« 2019年9月 | トップページ | 2019年11月 »

2019年10月31日 (木)

駒込妙義坂子育地蔵尊(豊島区駒込)

江戸時代の日光街道(日光御成道)は東大本郷校舎の北にあった駒込追分で中山道と分岐して北上、現在の駒込駅から北は当時の下駒込村に入る。この下り坂が妙義坂と呼ばれてきた坂で、坂の西にある妙義神社が名前の由来。今は4車線の大通りだが、江戸時代の切絵図は段々の印があり、階段状の道だったことがわかる。坂の途中には切絵図を見ると、「神明社 三峯地蔵堂」とあるので、当時から日光御成道のランドマークだったようである。

Cimg1930

現在の堂宇は戦災で焼けた後に再建されたもの。説明書きによると、寛文8年(1668)に地元の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵と堂宇を建立したとある。戦前は70坪ほどの広い敷地に多数の供養墓石が祀られていたが、戦後駒込診療所となり、地蔵たちは北区上中里の城官寺に移されているという。

Cimg1932

説明書きの下には江戸時代の切絵図があり、駒込から染井辺りの当時の様子がよく分かる。地蔵堂の先の坂下には谷田川(別名 谷戸川)が流れており立会橋という橋が架かっていた。谷田川の下流は藍染川と呼ばれ、谷根千に暗渠道が残る。谷田川の源流はソメイヨシノを生んだ染井霊園付近。中央左寄りにある「染井村植木屋多し」とある。

Cimg1933

堂宇内の中央にあるのが寛文8年(1668)の地蔵立像である。いろいろな時代をくぐりぬけ350年人々に守られてきた。右の像は聖観音像で、正徳2年(1712)の造立。戒名らしきものも書かれているので墓石だったのではないだろうか。左側には新しいおかっぱ頭のセーラー服の二人の少女像の供養碑があるが、昭和8年(1933)にこの辺りで交通事故に遭い亡くなった11歳の少女二人の霊を祀っている。車というものが珍しかった時代に犠牲になった少女たちの無念は今も続いているのだろうか。

場所  豊島区駒込2丁目6-14

| | コメント (0)

2019年10月30日 (水)

桜二丁目の地蔵(世田谷区桜)

前述の桜一丁目の庚申塔の向かいにあるのが桜二丁目の地蔵。 この道が一丁目と二丁目の境で、地蔵と庚申塔は数mしか離れていない。古道の辻にそれぞれ立ち続けてきた石仏である。

Dscn9742

地蔵は角柱の台石に載っていて、全体の高さは116㎝だが、地蔵自体は45㎝程。台石に書かれた文字は半分以上摩滅して読めないが、「三界万霊 無学了…」とある。右側には造立年の宝暦9年(1759)9月の文字が見られるが、ピンクの布を上げると舟形光背型らしい地蔵の脇に寛政6年(1797)11月再建と書かれている。僅か40年ほどで一体何があったのだろうか。

Dscn9743

台石の左側には「大〇道」とあるが、これは大山道だろう。この辻に北から南へ行く旅人は、この先現在の東京農大と農大一高の間の道を南下し、用賀で大山道に出たに違いない。この辻のすぐ南側には浅い谷があり、ボロ市の方へ小さな流れがあった。実は今もまだその流れが幅1mほどの開渠として残っている。勿論コンクリートの蓋がされているがこういう水線の痕跡が昔の風景のヒントになる。

場所  世田谷区桜2丁目12-1

| | コメント (0)

桜一丁目の庚申塔(世田谷区桜)

世田谷区には古道がいくつも残っている。比較的耕地整理や再開発が遅かった所為だろう。練馬区なども同様。これがもっと都心になると、江戸時代以前の痕跡を探すのも一苦労する。小田急線千歳船橋駅の南側に東に向かって伸びる道がある。江戸時代は府中道と呼ばれた道で、甲州街道の給田から千歳船橋を経て、ボロ市で有名な世田谷の代官屋敷へ繋がっていた主要道である。経堂の近くでこの道は南北に分岐し、ボロ市通り手前で再び交わる。この北側の道の途中の民家の門前に庚申堂がある。

Dscn9740

世田谷、杉並、練馬、板橋などではよく見かける光景だが、徐々に減ってもいる。この庚申堂の場所は東西の古道に、北の宮坂からの道が出合い、クランクして南に延びていく変則の辻に昔からある。 唐破風笠付の角柱庚申塔で、高さは120㎝ある。青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿が描かれている。

Dscn9746

ピンクの布がそれらを隠しているが、結構彫りの深い邪鬼と三猿である。造立年は享保10年(1725)9月で、瀬田谷村とあるのは世田谷村のこと。願主名が15名彫られているが、軽部と杉本がそれぞれ5名ある。庚申塔の前に置かれている水鉢がまた庚申講中のもので、嘉永2年(1849)2月の手洗い鉢。 よくこれまで地元の方が守って来られたものだと感心する。

場所  世田谷区桜1丁目56-1

| | コメント (0)

粕谷村地蔵尊(世田谷区粕谷)

小田急線と京王線の間、環八の西側一帯はその昔、滝坂道以北が粕谷村、以南が廻沢村であった。現在廻沢村は千歳台という住居表示、粕谷村は粕谷という住居表示になっている。明治40年に徳富蘆花が青山からこの地に越してきて、その住居周辺が芦花公園(蘆花恒春園)になっている。武蔵野の面影を残す素敵な公園である。そのさらに西に道路が複雑に入り組み中央に三角地残された場所があり、そこに念仏堂「粕谷村地蔵尊」が祀られている。

Cimg1483

この場所は北西から東南へ品川用水が流れていたところで、分岐する北への道は芦花公園駅前から甲州街道へ繋がる。この念仏堂は江戸時代からあったようで何度か建替えられているらしい。昔は草鞋などが沢山吊るされ、遠くからお詣りする人も多かったという。その後、昭和になってこの地蔵と庚申塔を移転しようとしたところ、関係者が不明の病を次々と発症してしまい取りやめになった。

現在5体の石仏がある。手前右は造立年不詳の丸彫地蔵立像で風化が激しく文字もほとんど読み取れない。手前左は板状駒型の立派な庚申塔。造立年は安永7年(1776)11月。青面金剛像に邪鬼、二鶏、三猿の図柄で、粕谷村講中の銘がある。

Cimg1484

奥に入って右側は板状駒型の庚申塔、元禄9年(1696)10月の造立。青面金剛像に三猿が彫られている。 中央は舟形光背型の地蔵菩薩像だが、右上に「奉造立供養庚申 粕谷村」とあるので庚申塔である。造立年は宝永7年(1710)10月。 そして後列左は如意輪観音像。 元禄4年(1691)10月の造立で、「念仏講供養同志 施主18人」とある。丸彫の地蔵以外は保存状態は極めて良い。

この品川上水脇の念仏堂の場所は江戸時代には共同集荷場があったりして村の中心的な場所だった。現在は「蘆花恒春園」というバス停になっていてバスが止まると必ず渋滞する。

場所  世田谷区粕谷3丁目33

| | コメント (0)

2019年10月29日 (火)

石造大山不動明王像(練馬区高松)

近年環八通りが完成して、井荻から赤羽はかなり短時間で行けるようになった。ただ騒音と排ガス対策で環八はまるで川が流れているように両側の地区を分断するようになった。しかし練馬区はまだまだ昔の農道筋が濃く残されているので、環八と他の道のつながりはバラバラである。その環八が石神井川を越える辺りが高松というところ。かつては石神井川流域に田んぼが広がっていた。それが住宅に変わったのは昭和の後期になってからである。

Cimg1459

高松八幡神社は意外に古く、康平7年(1064)に源頼義が前九年の役後、ここに社殿を建て戦勝に感謝して八幡宮を創建したと伝えられる。それから600年以上後、江戸時代には富士講や大山講が大流行。関東一円からも大山を目指して相州へ向かう旅人が増加した。この不動明王像はそんな大山信仰の氏子たちが享和3年(1803)に建立したもの。

Cimg1463

台石正面に「石坂供養大山大聖不動明王」とある。大山講は主に雨乞いが中心の講中で、大山道はあちこちにある。高さ213㎝の下半分は台石で像自体は47㎝ほど。 施主は高松の佐久間氏、志村の大野氏ほか、石工は飛鳥山の伊藤富次郎廣重とある。なかなか見事な石工の技術で、江戸時代後期になると石の質や石工の技術が低下してしまい品質の低い石像が増えるが、これはしっかりしている。

場所  練馬区高松1丁目13-9

| | コメント (0)

2019年10月28日 (月)

別荘橋地蔵尊(練馬区大泉)

練馬区光が丘から西へ向かう都道443号は土支田(どしだ)を過ぎて工事中になるが、そこから白子川に下る道は長久保道と呼ばれた古道である。目白通りがかつての清戸道で、現在の西武池袋線中村橋付近(宮田橋)で北に向かって分岐していたのが長久保道。 この先は朝霞の肘折で川越街道に合流した古い道である。

Cimg1348

土支田から別荘坂を下っていくと間もなく白子川に架かる別荘橋を渡る。橋の手前に欅の巨樹があり、そのたもとに二つの堂宇が並んでいる。別荘坂の由来は別荘坂のページにあるが「別荘」ではなく「別の荘」というのが由来である。この地蔵は別荘橋地蔵とも中里地蔵尊とも呼ばれる。

Cimg1344

白子川寄りにあるのが別荘橋地蔵。舟型の地蔵立像。 造立年は天明8年(1788)2月。 地蔵の脇に、「奉造立地蔵尊  新座郡上白子村 講中拾八人」と彫られている。 下部には「南 江戸、左 ほうや」の道標がある。長久保道のホッとステーションだったのだろう。花の量からしても今も近所の方々に守られているのが分かる。

Cimg1343

ケヤキの足元にあるのは庚申塔。 駒型で造立年は嘉永3年(1850)12月。青面金剛像のみなのか、下に邪鬼が描かれているのか、風化が激しくて判別できない。左側には、武州新座郡中里村講中とあり、セハ人(世話人)の名前が2名ある。近くには湧水のある清水山公園や見事な中里の富士塚のある八坂神社がある。

場所  練馬区大泉2丁目59-1

| | コメント (0)

2019年10月27日 (日)

東本村庚申講(練馬区平和台)

練馬区の坂道を探訪していた時、上板橋から工兵坂を目指して歩いている途中で、かつての田柄川の暗渠を横切るところに庚申塔を見つけた。練馬区は開発の時代が遅いのでまだまだ多くの野仏が残っている。田柄川は光が丘を源頭にして、練馬区、板橋区を流れていた川で、茂呂遺跡の下流、桜川小学校の南で石神井川に合流する暗渠。かつては練馬の水田を潤していた。

Cimg1292

2坪ほどありそうな敷地に庚申塔と庚申講の碑が祀られ、石塀で囲まれている。門柱には「東本村庚申講」と書かれ、真ん中に大きな庚申塔がある。駒型の庚申塔の高さは140㎝と極めて大きい。 造立年は貞享2年(1685)9月。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。

Cimg1294

青面金剛像の右側には「奉新造立庚申之供養結衆二世安樂所」とあり、左側には造立年と「武刕豊嶋郡下練馬本村」と書かれている。下部には10人の願主名があり、河嶋姓が3人。

Cimg1296

右わきにある笠付の石塔は庚申講の碑で高さは80㎝程。正面に「庚申講十人」、右に「下練馬内 本村」とあり、宝暦2年(1752)8月の造立年がある。左側には、「是 〇 たなし道、〇 〇たはし道」とあるが、南に行くと田無道、北に行くと戸田橋ということではないかと推察した。

場所  練馬区平和台1丁目4-8

| | コメント (0)

2019年10月26日 (土)

幡ヶ谷子育地蔵尊(渋谷区幡ヶ谷)

国道20号線はかつての甲州街道。 新宿から幡ヶ谷、笹塚を経て、高井戸近くまで、国道の上に中央自動車道に連絡する首都高速5号線が走り、昼なお暗い道になっている。その甲州街道の南側、幡ヶ谷駅の250mほど新宿寄りのビルの中に頑丈な檻に入った幡ヶ谷子育地蔵尊がある。

Cimg0486

それはそれは厳重な監獄のような檻で、かろうじて隙間から中の石仏を覗くしかないのが現状。毎年4月に例大祭があるのでその時なら中の石仏を拝顔できるかもしれない。 

Cimg0488

地蔵堂の主役の子育地蔵尊は一番右にある丸彫の地蔵立像。 造立年は貞享3年(1686)と伝えられる。地蔵信仰は江戸時代に入りその他の民間信仰と合わせて各地で起こった。 地蔵菩薩というのは、釈迦入滅の後、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの56億7千万年の間の無仏の時代、大衆を救うために世に現れる菩薩で、それを有像化したものがお地蔵様である。当時は地蔵講がとても盛んだったようだ。

Cimg0489

右から二番目には題目塔がある。「南無妙法蓮華経  平等利益」と彫られている。 主に法華経の経典に関わる供養塔である。この供養塔、高さは164㎝もあり、堂内でも最も大きいもの。 造立年は、元禄16年(1703)6月とある。

Cimg0490

右から3番目にあるのが「勇地蔵」とされている。若干小ぶりな丸彫の地蔵菩薩でいい顔をしている。鉄格子の隙間からさらに覗き込むと、この勇地蔵の左の壁近くに庚申塔らしきものがわずかに見える。渋谷区の史料を見てみると、ここには2基の庚申塔があるらしい。一基は高さ112㎝の駒型で、青面金剛像、三猿、二鶏の図柄。正徳5年(1715)の造立。もう一つは高さ99㎝とこれも大きめで、青面金剛像、三猿、二鶏の図柄も同じ駒型のもの。造立年は正徳3年(1713)である。 これらの庚申塔もぜひ見てみたいのだが、困難であった。

場所   渋谷区幡ヶ谷1丁目1-8 

| | コメント (0)

2019年10月25日 (金)

雪ヶ谷八幡神社庚申塔群 左の堂宇(大田区東雪谷)

雪ヶ谷八幡神社庚申塔群の続きである。左側にあと二つ堂宇がある。合計3つの堂宇があるのだが、その真ん中の堂宇には3基の庚申塔が並んでいる。一番右にあるのは、駒型で青面金剛像の右側に「帝釈天王」とある。その右には造立年が、元禄10年(1697)11月と彫られている。青面金剛像と三猿の図柄。下には雪ヶ谷村の銘とともに8人の施主名が入る。8人中5人が直井姓である。

Dscn9930

真ん中の庚申塔も駒型、青面金剛像と三猿のデザインも同じ。造立年は元禄4年(1691)2月とある。そして施主名は9人で直井姓が4人。呑川の近くにあった庚申塔に刻まれていた鈴木姓もそれに次ぐ多さである。

Dscn9931

左にある庚申塔は若干小さめだがそれでも94㎝の高さがある。ここの庚申塔はどれも立派なもの。 これも駒型で青面金剛像と三猿の図柄。願主は7名すべて直井姓であった。造立年は天和元年(1681)12月と、7基の中では最も古いもの。以上3基の庚申塔は、もとは東雪谷4丁目3番にあったものらしい。荏原病院の北西の東中公園あたりだろうか。

Dscn9932

雪ヶ谷村の村民は、池上本門寺が近いこともあり、昔はほとんどが日蓮宗の檀徒であった。そのため日蓮宗の影響が濃く、左の庚申塔の青面金剛像の上には「妙法」とある。しかしどれも大切にされてきたようで、保存状態がすこぶるいい。

Dscn9934

さらにその左に小さな堂宇があり、「猿田彦神社」と書かれている。覗いてみると中にあるのは庚申塔であった。駒型で青面金剛像に、これは邪鬼・二鶏が入り下に三猿の図柄。右面には「是より右につ〇みち」、左面には是より左 池上道」とあり、道標を兼ねている。台石の銘は「武州雪ヶ谷村」と「願主直井市三良」とある。この塔の造立は、明和7年(1770)6月とあった。

場所  大田区東雪谷2丁目25-1

| | コメント (0)

2019年10月24日 (木)

雪ヶ谷八幡庚申塔群 奥の堂宇(大田区東雪谷)

中原街道にある洗足池の南西、東急池上線石川台駅の東側に雪ヶ谷八幡神社がある。神社の創建は永禄年間(1558~1569)と伝えられる。戦災に遭い社殿は焼失してしまったが、昭和34年(1959)に社殿は再建された。この場所は呑川とその支流である洗足池の流れに挟まれた台地の上になる。神社前から北東に向かって宮前坂が上る。その先下ると洗足池からの流れが遊歩道になっている。

Dscn9924

雪ヶ谷八幡の境内の奥には付近から集められた庚申塔が7基ある。 どれも保存状態が極めて良い。 奥の堂宇には3基の庚申塔がある。右にあるのが、駒型で高さが103㎝の庚申塔。 青面金剛像と三猿のデザインで彫りが深い。下の方には8名の願主名が彫られている。造立年は元禄11年(1698)2月15日。

Dscn9928

右から二番目にあるのは文字塔と三猿の図柄の駒型庚申塔。 中央に「南無妙法蓮華経為二世安楽」とあり、脇に奉庚申供養とある。造立年は享保4年(1719)2月。下部には雪ヶ谷村とあり、7人の願主の銘がある。

Dscn9929

2基目と3期目の間には区切りがあり、一番左の庚申塔は単独のような形になっている。青面金剛像が大きく、下部に三猿がある駒型のもの。 左側面には4人の願主の銘と、安政4年(1857)4月の造立年が記されている。これら3基の庚申塔は、もとは東雪谷5丁目36番地にあったもの。その場所は新幹線よりも少し西側の呑川の近くだったようだ。現在の呑川は真っ直ぐな流路だが、昔は辺り一面水田で、その中をくねくねと曲がって流れていた。台地から崖を下って呑川に出たあたりがその場所のようだが、昔の道の痕跡は地形や道路からは完全に消えてしまっているので、古地図を見て想像するだけである。

場所  大田区東雪谷2丁目25-1

| | コメント (0)

2019年10月23日 (水)

久我山の六地蔵(杉並区久我山)

久我山地蔵堂には両脇に3体ずつ、両方で6体の地蔵があり、これが久我山六地蔵である。駅から北に上る道には「六地蔵通り」という表示があり、「昭和25年頃まで六地蔵が安置されていた道」という説明がある。現在の住所でいうと、久我山4丁目7-1にあったのがこの六地蔵。 東西に走るうえみちと駅からの道の丁字路になっていた場所に地蔵があったと伝えられる。

Cimg3122_20191022221101

向かって左側の3体は特に造立年が彫られていないようだが、区では享保8年(1723)としている。そして右の3体のうち一番入口側の地蔵に享保8年(1723)8月28日の造立年月日が彫られている。6体とも杉並区の登録文化財になっている。

Cimg3123_20191022221101

これらの六地蔵は丁字路に南向きに並んで祀られていたという。駅からの坂は当時とても急な切通しの崖に挟まれた坂道で、雨が降るとぬかるんで通行人が難儀をしていた。 昭和26年にこの坂道が耕地整理によってなだらかにされた折に、丁字路は十字路となり、六地蔵は光明寺跡の墓所に移された。明治末期の国土地理院の地図を見ると、この坂が切通しの崖になっていて、その先西の道を北に進むと墓所がある道筋になっている。ただし、丁字路はすでに北に道が伸びて十字路になっている。地図を拡大してみると僅かに南から上ってきた六地蔵通りは丁字路で突き当たるが、ほんの1間程度で北への道が繋がっている。この微妙なクランクの角にあったのであろう。

場所   杉並区久我山4丁目50-8

| | コメント (0)

2019年10月22日 (火)

久我山地蔵堂の四仏(杉並区久我山)

久我山地蔵堂を訪れた時、ちょうど葬儀の真っ最中であった。 かなり遠慮気味に地蔵堂を拝見した。 この地蔵堂は久我山墓地の入口脇にある。久我山の最初の家だった、大熊家、秦家、小作家の人々の墓所でもある。その昔ここには光明寺という寺があったらしい。墓地の南側にあったと言われ、中野の宝仙寺の末寺であったが、明治の初め頃に廃寺となった。廃仏毀釈のあおりを食らったのだろうか。

Cimg3127

万年塀に久我山墓地と書かれたプレートがあり、その下にも「光明寺跡」と書かれているが、無くなってから150年も経っているのにすごいものである。この墓所に至るには、久我山駅前の南北の道路を北に進み、「うえみち」の次の路地を左に、そしてすぐに右に入る。この辺りの道のいきさつについては六地蔵のところで書くつもりである。

Cimg3124

地蔵堂の奥に4基の石仏が並んでいる。いずれも杉並区の登録文化財である。一番左にあるのは、舟型の地蔵菩薩立像。これは庚申塔である。右に「奉寄進庚申供養(寄は立の下に可と書くのが彫られた文字でママと読む)」とある。造立年は寛文5年(1665)11月。其の右の丸彫の地蔵菩薩立像は享保4年(1719)11月のもの。久我山村の大熊喜右衛門が願主。

Cimg3125

右の2基のうち丸彫の地蔵立像は宝永5年(1708)11月の造立。念仏供養同行廿六人とあるので、念仏講の造立であろう。施主は「久ヶ山村 名主蔵本佐兵衛」とある。久我山三家の名でないのは珍しい。 右端の舟型の地蔵立像は、寛文10年(1670)10月の造立。 これは日待講の造立らしく、右側に「奉寄進日待供養」とある。 施主は久ヶ山村の8名の名前がある。

もとは久我山のあちこちにあったものを原位置から移されてここに集められたもの。江戸時代の前期から中期にかけてのものがきれいに残っており、当時の久我山村の信仰が分かる石仏である。

場所  杉並区久我山4丁目50-8

| | コメント (0)

2019年10月21日 (月)

久我山道標庚申塔(杉並区久我山)

久我山で最も古い庚申塔。 人見街道から「うえみち」が分岐するY字路の頂点にある。杉並区の登録文化財に指定されている。 この辺りは久我山村でも東原と呼ばれたエリア。現在のまっすぐな人見街道は大正時代からの道で、それ以前は馬車道、うえみちが東西のメインルートだった。

Cimg3141

庚申塔は駒型で、青面金剛像、邪鬼、二鶏、三猿の図柄。下部には8人の願主名が彫られているが、その中に秦(野)が3人、大熊が2人と久我山の有力者の系統が多い。庚申塔の右側には「これよりみぎ いのかしら三ち」とあり、左側には「これよりひだり ふちう三ち」とある。右のうえみちを行けば井の頭へ、左の人見街道(馬車道)を行けば府中に至るということだろう。江戸時代になってもそれまで何百年もの間関東の国府であった府中は道標の指針である。

Cimg3137

高さは115㎝あり大きな庚申塔で、かつては井の頭弁財天信仰者の道標として大切にされた。江戸時代から場所は変わっていないという。弁財天信者は右へ、府中への旅人は左へ、それぞれがここで庚申塔を拝んで分かれていく姿が思い浮かぶ。

場所  杉並区久我山5丁目9-1

| | コメント (0)

2019年10月20日 (日)

久我山の不動明王像(杉並区久我山)

人見街道に面したとある共同住宅の敷地内に屋根付きの不動明王像がある。ここは現在は共同住宅だが、小作家の土地であった(現在はわからない)。しかし今もまだ不動明王像が祀ってあるのでおそらくそのままだろうと思われる。

Cimg3134

残念ながら敷地内なので中に入って撮影することはできなかったが、赤いトタン屋根のしたに石塔が1基立っている。元は玄関先にあったようだが、その頃は小作家の子孫の人の民家だったのではないだろうか。火炎光背の不動明王立像の立派な石塔は、もとは大磯の中島久萬吉邸内にあったものを、江戸時代に久我山の小作太二郎邸に移転したという話である。造立年は分からないが、その話からすると江戸時代後期か。

場所  杉並区久我山5丁目7-2

| | コメント (0)

2019年10月19日 (土)

久我山の馬頭観音(杉並区久我山)

久我山には各路地に親しみやすい名前が付いている。「うえみち」「かさもり坂」「馬車道」「六地蔵通り」など様々。「うえみち」は東西に走る人見街道のサブルート的な馬車道よりも高い台地上を並行して走る道なので「うえみち」と名付けられている。このうえみちの途中に大きな馬頭観音が立っている。

Cimg3130

自然石の文字塔で、正面には「馬頭観世音」とあり、裏面には「明治三十六年九月 小作伊之松」と彫られている。久我山三氏のひとつ小作家の造立である。現在は集合住宅の角にあるが、ここは小作家の土地だった(現在もかもしれない)のだろう。

Cimg3132

伝えられる話では、小作伊之松氏の家では大きな馬を飼っていた。ところがある日その馬が急死してしまったので、うえみちの角に埋めて、八重桜の樹を植えた。やがて八重桜は大きな樹になり、久我山の人々を楽しませたという。その桜の木はもうないが、馬頭観音は明治36年(1903)から120年近くここに建っている。

場所  杉並区久我山5丁目35-10

| | コメント (0)

2019年10月18日 (金)

久我山の消えた石塔(杉並区久我山)

かつて久我山駅と玉川上水の牟礼橋の中間に大熊稲荷社があった。しかし2016年から2017年にかけて宅地造成されてしまい、切売りされて民家とマンションに変わってしまった。どこへ行ったのだろうと探してみると、久我山稲荷神社の境内にそこにあった石塔が移設されていた。

Cimg3110

境内の左手に並んでいる石塔のうち左が「正一位稲荷大明神」と正面に彫られた角柱型石塔。右側には「大熊氏講中」とあり、左側には安政3年(1856)2月の造立年がある。稲荷神社の御神体だろうか、大熊一族の守護神とされている。大昔の久我山の神田川左岸には小作家と秦家(秦野家)の2軒しかなかったが、南側の右岸には大熊氏が住んでいたという。この三家が久我山のルーツだとされる。神田川を挟んで左岸の稲荷神社が秦氏、右岸の稲荷神社が大熊氏という棲み分けだったようだ。

Cimg3112

隣りには富士講の石塔がある。これも同じ大熊稲荷社にあったもの。正面に「富士山仙元大菩薩」とあるが仙元=浅間だろう。造立年は効果年(1848)1月。大熊氏の建立である。久我山稲荷神社の南にある神田川の宮下橋の上流には堰があり大熊堰と呼ばれていたので、神田川が家同士の境界だったろう。ちなみに秦氏の稲荷である秦家稲荷(訛ってはだかいなりと言われる)は人見街道の久我山東保育園の向かいに残っている(久我山5-27-1)。

場所  杉並区久我山3丁目37-14 久我山稲荷神社

| | コメント (0)

2019年10月17日 (木)

久我山稲荷神社の庚申塔(杉並区久我山)

久我山駅の西側、井の頭線と神田川の間の段丘の縁に久我山稲荷神社がある。古来からの久我山の鎮守だが、創建などは不詳。神社の境内に上る階段があり鳥居を見上げる階段の脇に祠に入った庚申塔がある。古くから信仰を集めてきた道祖神的な庚申塔で、西向の塞ノ神として大切にされてきた。正月明けに行われるどんと祭も塞ノ神の行事である。

Cimg3101

久我山稲荷神社は明治40年(1907)に天祖神社を合祀して現在の形になった。庚申塔が塞ノ神である別の条件を考えてみると、江戸時代はこれより裏手(北側)は中高井戸村、南側は久我山村で、村境でもあった。そういう境において塞ノ神の祭りは行われる。

Cimg3102

稲荷神社は南向きだが庚申塔は西向である。そのため別名で「西向庚申」とも呼ばれる。この庚申塔には砧の木槌が奉納され、養蚕の神とされていた。砧(きぬた)というのは布地を打って艶を出すのに使う石や木の台の総称。布地を打つ行為そのものも砧という。おそらくは絹をたたく→きぬたではなかろうか。

Cimg3104

駒型の庚申塔は高さが70㎝程、青面金剛像に三猿の図柄。 右側に「奉造立庚申供養二世安楽攸」(攸は~するところ、の意)、左側に造立年があり、元禄16年(1703)11月4日。下部には施主の名が8名ある。堂宇脇には立て札があり、「庚申様御祭神 猿田彦大神」と題している。西向のことや砧の槌の奉納のことなどが書かれているが、養蚕業の発展祈願の占める割合が大きいようである。

場所  杉並区久我山3丁目37-14 久我山稲荷神社

| | コメント (0)

2019年10月16日 (水)

玉川上水牟礼橋の庚申塔(杉並区久我山/三鷹市牟礼)

正確には三鷹市牟礼にあるのだろうか。市境にあり、これぞ塞ノ神という庚申塔である。すぐ西側には玉川上水が流れ、現在は牟礼橋だが脇に古い橋が残っており石橋供養塔も建っている。 石橋供養塔と橋の間に「どんどんばし」という石碑がある。ここだけは昔のままという風景である。杉並区側の地名は久我山になるが、脇のケヤキはどうも三鷹市側っぽい。杉並区の石造物史料にも、三鷹市の石造物史料にも載っている庚申塔である。

Cimg3086

人見街道が東八道路とニアミスする不規則な交差点に囲まれて、さらに玉川上水にも囲まれた飛地のような場所にある庚申塔の堂宇は、実はケヤキの根のふくらみでかなり傾斜している。(写真は庚申塔を水平基準にしている) このケヤキは見事な巨樹でこれもまた庚申塔と共に境のシンボルである。

Cimg3087_20191013155101

庚申塔は一猿のみの駒型でとても珍しいタイプ。造立年は元禄13年(1700)11月26日とある。一猿の右には「奉供養庚申」と彫られている。一猿の下にはうっすらと願主名が多数書かれている。全部で25人分の名前がある。道路工事でも一応は保存されている、ホッとした庚申塔でもある。

場所  杉並区久我山3丁目7-17

| | コメント (0)

2019年10月15日 (火)

久我山病院前の民間信仰塔(杉並区久我山)

京王井の頭線久我山駅から南へ歩くと、まず神田川(神田上水)を越え、さらに500m南で玉川上水に架かる岩崎橋を渡る。神田川に架かる久我山橋の標高は44m、そこから上り坂になり岩崎橋は50m。玉川上水は緩やかな台地の尾根に掘られている。そのさらに先に久我山病院がある。久我山病院で左折すると都営久我山一丁目団地の工事現場があり、その一角に堂宇がある。工事は2023年に竣工予定。

Cimg3076

中央にあるいちばん大きな石仏が庚申塔。青面金剛像のみの角柱型で珍しい。 造立年は安永5年(1776)10月。右側に「右 井ノ頭道」、左側に「左り ふちう道」とあり道標を兼ねている。この庚申塔は、この辺りが久我山村字原といわれた頃、当場所より少し西寄りの井ノ頭道の交差点に建立されたもの。ところが戦争中周辺が軍用地となり、塔の管理も十分に行われないまま放置されてきたが、昭和52年1月地元有志者の奉仕により、この地に安置されたとある。青面金剛像の下には18人の願主の名前がある。

Cimg3066

左の石像はよく分からない。一見如意輪観音座像なのだが、帽子が違う。右の舟型の石仏は如意輪観音像である。造立年は享保15年(1730)。昭和55年(1980)4月にこの近くで発見され、安置されたもの。この観音塔造立の目的は、刻字の一部が欠けているため不明だが、彫られている如意輪観音は、衆生の欲望と万苦を救済する菩薩とされている。

場所  杉並区久我山1丁目3-2

| | コメント (0)

2019年10月14日 (月)

石原の庚申塔(大田区南千束)

洗足池の北側、かつては洗足池に流れ込む二つの沢のうち東側の沢沿いの小字を狢窪といった。いかにも暗い沢のイメージだが、明治時代には学校もあったようだ。その東側の台地の上が石原という小字だったが、狢窪から石原に上ったところの辻にあるのがこの庚申塔である。特に名前はないが、私が石原の庚申塔と名付けてみた。

P1070184

祭りとあるのは千束八幡神社の祭礼の案内で庚申塔とは関係ない。なかなか立派な堂宇である。中を覗き込んでみると、平均的な大きさの庚申塔がある。

P1070188

かなり風化が進んでいるようで、格子からでは文字などは読めない。大田区の史料によると、中央に青面金剛像、その右には「奉造立青面金剛に精安楽所」とあり、左側に正徳3年()11月造立、土屋〇右衛門とあるらしい。下部には三猿が彫られている。台石には後に明治になってから(明治21年)台石を造ったであろう願主の名前が11名ほどある。

P1070190

庚申塔の脇に小さな石碑が置いてある。よく見ると文字が彫られている。これも庚申塔である。中央には「奉納庚申」と大きくあり、左右に年月がある。造立年は寛保2年(1742)7月とあり、その下には願主名がある。文字塔で、下部には三猿もあるらしい。

場所  大田区南千束2丁目7-3

| | コメント (0)

2019年10月13日 (日)

洗足池妙福寺の馬頭観音(大田区南千束)

洗足池の近くには史跡が多い。勝海舟の別邸跡、西郷隆盛の留魂祠、勝海舟夫婦の墓など。その中に妙福寺という素敵なお寺が池畔にある。入口は大田区立洗足池図書館の裏手になる。すぐに雰囲気のいい山門が現れる。

P1070159

山門を入ると数多くの石仏があるので、それらを拝見しながら本堂の左奥、洗足池の近くに向かう。妙福寺は日本橋馬喰町に創建、明暦の大火で浅草永住町へ移転、関東大震災でこの地に移転した、災害に追いやられた経緯の寺。日蓮上人が足を洗ったので洗足池、そのほとりで老松に法衣を掛けたのが袈裟掛けの松で、その所以でここに庵があったのと合併して現在に至っている。

P1070165

裏手にある馬頭観音は大田区の文化財指定がされたもの。天保11年(1840)に馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って立てられたもの。馬頭観音の下の台石には道標が刻まれており、正面に「北 堀ノ内・碑文谷 道」、左面に「東 江戸中延」、背面に「池上・大師 道」、右面には「丸子稲毛」とある。元は中原街道と碑文谷から池上至る道の交差するところにあったものらしい(現在の環七と中原街道の交差する南千束交差点あたり)。

場所  大田区南千束2丁目2-7 妙福寺

| | コメント (0)

2019年10月12日 (土)

洗足坂の延命地蔵尊(大田区南千束)

洗足坂という坂は洗足池から目黒に向かっての目黒通りの上り坂で、南千束陸橋手前で稜線に達し、そこから碑文谷へはどぜむ坂を下る。洗足坂は目黒通りが開通する以前は砂利道の急な上り坂で、今のような傾斜になったのは大正時代の終わり頃である。洗足池から洗足坂を上っていくと、坂上に堂宇があり「延命地蔵尊」とある。

Dscn6605

この延命地蔵尊の資料はまったくもって見つからない。 だから由緒や造立の経緯などもわからない。 地蔵を祀っておられる方がいるはずなのでその人を捕まえて訊くしかないのだろうか。しかたなく堂宇の格子から中を覗いてみると比較的時代の新しそうな地蔵尊が立っていた。

P1070157

しかしこれが初代とは限らないので、ある意味宿題になった。 延命地蔵で有名なのは巣鴨のとげぬき地蔵。 現代と異なり、年寄りの延命ではなく、生まれてすぐ赤子が命を失っていた昔は、生まれた子供の命を守り、その寿命を祈念するのが延命地蔵の元々の始まりだった。後に命一般の祈願になっていったようだ。

場所  大田区南千束1丁目32-6

| | コメント (0)

2019年10月11日 (金)

洗足池の庚申塚(大田区南千束)

九品仏からの道が出穂山から中原街道に出るところは現在の洗足池小学校の辺りだったが、途中から東に分岐して洗足池近くにショートカットできる近道もあったらしい。その九品仏道の近道が中原街道に出るところに現在も庚申塔が残っている。そしてこの庚申塔は大田区の指定文化財にもなっており、高さが110㎝ある。

P1070148

庚申塔の後ろに説明板が立っている。文化11年(1814)に、品川の御忌講(ぎょきこう)という法然上人の命日に祈る浄土宗の講中があり、その人々が造立した。角柱型に大きな文字を刻むのは江戸時代後期に増えてきた、ということが書かれているが、実は最初の造立年は延宝6年(1678)とずっと前で、文化11年は再建の年だった。

P1070145

裏側の彫文字によると、延宝6年の庚申塔は何らかの理由で失われていたという。となれば造立年は文化11年ということになる。この庚申塔は道標を兼ねており、右側面に「従是九品佛道」とある。中原街道から九品仏道に入るところにあったと考えるのが自然だろう。そして背面には、「延宝6年に願主森氏道圓が造立した」とあり、左側面には「文化11年に再造したのが御忌講中」とある。さらに台石には「品川」と大きく彫られているので、品川の御忌講の再建であることがわかる。

場所  大田区南千束2丁目29-2

| | コメント (0)

2019年10月10日 (木)

出穂山子育地蔵尊(大田区南千束)

大田区立洗足池小学校の裏手、路地の角に地蔵堂がある。江戸時代の九品仏からの道はちょうどこの辺りを通って中原街道に出ていた。そして、この辺りは江戸時代、石川村、上池上村、雪ヶ谷村の村境でもあった。中原街道の由来になっている「中原」は川崎市の中原ではなく、平塚の中原である。40年ほど前に車で中原街道を踏破したことがあるが、途中細い道もあったりして興味深かった。しかし寒川以西は街道筋が分からなかった。

P1070143

地蔵堂には4体の石仏が祀られている。中央の前掛けをしているのが出穂山子育地蔵尊と言われているが、造立年などは不明。傷ついたのを繰り返し補修した姿が時代を偲ばせる。右手にある2体の像は、小型のものが小観音菩薩坐像らしいが、宝永4年(1707)とあるものの、これはどうも墓石のようである。後ろの大きめのものは観音菩薩立像。文字の彫りが薄くて読み取れなかった。

P1070137

一番左にあるのは舟型の庚申塔である。こちらは大田区の資料があり、造立年が天和2年(1682)11月。青面金剛像と三猿のシンプルなものだが、江戸時代前期の素朴な感じが出ていて好きである。高さは110㎝あり、下部には願主の名前が7人ほど彫ってある。耕地整理で街区が変わっても残されているのは本当にありがたいことである。

場所   大田区南千束3丁目28-3

| | コメント (0)

2019年10月 9日 (水)

観音霊場供養塔兼庚申塔(大田区南千束)

東工大キャンパスの南エリアにある出穂山(でぼやま)稲荷大明神の庚申塔の前に丁字路があり、それを東に進むとすぐに民家の塀の脇にいかにも古そうな石碑が立っている。正面は東工大の方角を向いている。大きめの墓石ほどもある。

P1070131

正面に彫られているのは、まず上部に羽黒山・湯殿山・月山という山名が水晶玉のようなデザインの中にある。いわゆる出羽三山である。その下には、「奉納 天下泰平」「秩父西国坂東 百番供養為二世安楽之也」とあり、天明2年(1782)霜月(11月)と彫られている。上部は平たいピラミッド型(上突角柱型)の供養塔だが、出羽三山と秩父西国坂東百番のつながりがよく分からない。

P1070134

道路側(右面)には「右 いけかみミち  左 めくろ みち」とある。左面には「右 くほんふつみち  左 志な加わミち」とある。 この道標で元あった場所を推理してみる。どうも方向が合わない。石川台辺りの中原街道にあったとすると、辻の真ん中に道とは45度ズレて立っていた可能性がある。南から来た人が見て、右に行けば池上、左に行けば目黒は合点。北から来た人から見て、右に行けば九品仏、左に行けば品川も合点。

江戸時代の切絵図を見てハタと気付いた。この供養塔は出穂山稲荷の辺りにあったならば、江戸時代の道が約45度で交差している。その辻にあったのならちょっと無理はあるが方角が合う。こんな推理をするのもなかなか面白い。

場所  大田区南千束3丁目27-10

| | コメント (0)

2019年10月 8日 (火)

東工大キャンパス内の庚申塔(大田区石川町)

大岡山と言えば東京工業大学というほど町の中心となっている東京工大。近年のノーベル賞受賞者も輩出して日本の科学の先端を走っている。そのキャンパスは呑川の左岸に南北に広がり、都内にありながら北の端と南の端が1㎞以上ある。大正時代は浅草蔵前にあったが、関東大震災で焼失し、ここ大岡山に移転して開校したのが大正13年(1924)。もうかれこれ100年になる。

P1070127

キャンパスは呑川の河岸段丘上に作られているが、この辺りはかつては呑川と洗足池の間の丘で出穂山と呼ばれた地域だった。出穂山は「でぼやま」と読む。東工大キャンパスの一番南の端に近いところにあるのが出穂山稲荷大明神。その近くに地面から筍が生えたように建っている小さな庚申塔がある。

P1070126

中央に庚申塔と彫られた駒型角柱の文字塔である。高さは40㎝程。享保10年(1725)10月の造立年が書かれている。左右には「これより」とあるがその下が土の中。 江戸時代、洗足池南の中原街道の庚申塔(道標)からここを通って石川町の庚申堂へ抜ける道があった。ちょうどその道の途中にあるので、東側は目黒道か不動道、西側は九品仏道であろうと推測している。

場所  大田区石川町1丁目1-18

 

| | コメント (0)

2019年10月 7日 (月)

石川町の庚申塔(大田区石川町)

呑川の別称に石川という名前があり、大田区石川町の町名の由来になっている(「新編武蔵風土記稿」)。世田谷区奥沢から30mほど目黒区緑が丘を通ってから、呑川に架かる島畑橋を渡って石川町に入る。この道は江戸時代からある道。耕地整理された街区の中で数少ない古道のひとつである。かつては大岡山に通じていたが、現在は東京工大のキャンパスに含まれてしまっている。

P1070109

島畑橋を渡ってから50mほどで左に堂宇が見えてくる。ここから東側は呑川の河岸段丘になっており、100m程東には稲荷坂、その北100mには神明坂という坂があり、特に稲荷坂の崖線上の公園に立つと河岸段丘がよく分かる。段丘の高さはおよそ12mほどである。したがって庚申塔の堂宇は呑川の河岸段丘の下にある。この辺りは周辺の耕地整理に遅れて戦後開発されたエリア。それだけ地盤が弱かったのだろう。

P1070115

堂宇を除くと2基の庚申塔と1基の供養塔が並んでいる。右の供養塔は寒念仏供養塔で高さは77㎝、舟型の地蔵菩薩立像である。造立年は寛保3年(1743)12月、願主石川村鈴木治兵衛とある。中央は板状角柱型の文字塔。「庚申供養」と真ん中にあり、右側に享保13年(1728)、左側に11月とある。下部には石川村以下、願主9名の銘があり、その中で鈴木姓が5人、この辺りは鈴木姓が多かったのだろう。

P1070111

左側の庚申塔は高さ98㎝の大きな駒型の塔で、青面金剛像に三猿が描かれている。造立年は貞享元年(1684)12月29日と古く、世田谷領之内石川村願主とあり6名の名前がある。ここでも鈴木姓が半数。もっとも日本人の中で鈴木姓は第2位で約180万人が鈴木さんなのだが、全国的には1.5%だから50%は極めて多い。全国分布を見ると西日本は意外と少なく名古屋以東~北海道の東日本エリアに多い。東京・神奈川・埼玉・千葉・茨城・栃木では佐藤さんより多く1位である。

場所  大田区石川町1丁目13-4

| | コメント (0)

2019年10月 6日 (日)

奥沢大音寺の庚申塔(世田谷区奥沢)

奥沢と石川町の境は呑川。 呑川右岸にあるのが大音寺である。厳密には北から目黒区が伸びていて、大音寺と呑川の間の一角は目黒区緑が丘になっている。この区割りは関東大震災以降、それまで奥沢村と池上村の境がなぜか目黒区緑が丘になってしまったためである。ただ、大音寺のある区画とその北の奥沢中学校の土地は標高が20m前後と高く、呑川周辺は10mほど低い。大音寺は川の支流が形成した岬の突端にあるので、境内には石段を登っていくことになる。

P1070103

大音寺はとてもきれいな境内である。創建は享保年間(1716~1735)と伝えられ、室町時代にはこの台地は吉良家家臣の砦があったところで、見張り小屋があり野武士がホラ貝を吹いて大きな音を鳴らしていたことから大音山と呼ばれ、それが寺の名前になったという。また奥沢という地名は九品仏川が呑川に流れ込むあたりを指し、奥深い沢だったことから呼ばれたという。江戸時代以前は野武士が駆け回るような野原だったのだろう。

P1070094

山門を入ると左の車道の脇に石造物が並んでいる。一番左が庚申塔、造立年は元禄11年(1698)霜月(11月)とある。板状駒型で青面金剛と邪鬼が描かれているが三猿は見当たらない。武刕荏原郡奥沢村の銘と、願主15人が刻まれている。

P1070096

その右隣りにあるのが念仏塔。 造立は文政4年(1821)3月で、当時は弘法大師信仰が盛んだったのだろう。正面には「南無大師返照金剛 木食観世」とあり、光明講のもの。側面などには各地の願主世話人の銘がある。 洗足村、衾村、馬引沢村、野沢村、深沢村、稲毛領梶谷村、稲毛領作延村、奥沢村、石川村など、かなり広い地域である。多摩川の西側も含まれているのはかなり交流があったのだろう。

場所   世田谷区奥沢1丁目18-3

| | コメント (0)

2019年10月 5日 (土)

奥沢の文化6年の庚申塔(世田谷区奥沢)

奥沢の道祖神から3ブロック程東にあるのが、文化6年(1809)11月造立の庚申塔。 住宅街の中の路地にまるで犬小屋のように建っているので、見過ごしてしまいそうである。

P1070084

しかしここの民家の方がしっかりと守っておられるようで、綺麗にされていて黒御影石の石碑まで立っている。その石碑に刻まれた名前の中には8人中3人の和田さんがおられる。実はこの庚申塔の願主は和田常右衛門と銘が彫られているので、その人の子孫であろう。

P1070090

青面金剛像に邪鬼、三猿が描かれている駒型の庚申塔だが、右面には「奥沢本村惣講中」とあり、「願主 和田常右衛門」と続く。高さは74㎝なので平均的な大きさである。江戸時代のこの辺りは当然奥沢村で、東側の呑川が石川村との村境であった。明治時代の地図を見ると、大音寺とこの地の間は低地で田んぼがあり、1~2mほど高くなったこの庚申塔の辺りには数軒の農家があったようだ。和田家はそのひとつだったのであろう。

 

場所  世田谷区奥沢1丁目27-17

| | コメント (0)

2019年10月 4日 (金)

奥沢の道祖神と庚申塔(世田谷区奥沢)

東急目黒線の奥沢駅、私の年代だと2000年に名前の消えた目蒲線の方が分かるが、名前を変えてすぐに目黒線が地下鉄の乗入れを開始、駅も沿線も変貌したのは記憶に新しい。奥沢駅は目蒲線時代は4両編成の小さな駅だったのが今は8両編成のホームを整備した立派な駅になった。その奥沢駅の南側、碁盤目状の街区を斜めに南東に走る道がある。この辺りの現存の道はほとんどが関東大震災以降の耕地整理で宅地化した道だが、なぜこの道だけが斜めなのかはわからない。そんな斜めの道の途中に道祖神と庚申塔がある。

P1070075

上の写真の右の路地を進むと奥沢駅である。そのとんがり部分に3基の石塔が祀られている。左の細めのものは文字塔の庚申塔で、造立年は寛延3年(1750)12月。正面には「庚申之供養」とあり、左面に「寛延三年」右面に「庚午十二月吉日」とある。裏面には「武刕荏原郡奥沢村」と彫られている。上部の白いところは補修の跡のようである。

P1070076

中央は道祖神である。世田谷では道祖神は珍しい。上馬の道祖神は道標を兼ねていたが、この道祖神はちょっと変わっている。正面には大きく「道祖神」とあり、文化9年(1812)11月の造立年が刻まれている。右面には、「ぐわん志やう志ゆ 此ぐわんは 寿命長久 志そんはん志やう」とある。下部には願主の名が、「品川弥兵衛内 かね はま 八百」とあるので、女性3人か。道祖神は一般にはサエノカミ(塞ノ神)と呼ばれ、村境や峠、辻、橋などで悪霊を防御するもの。「ぐわん」は「願」なので、「願成就 この願は寿命長久 子孫繁盛」という意味であろう。

P1070083

一番右は庚申塔。中折れしているが、これは昭和中期の写真でも折れているので戦災に遭ったものだろうか。山型角柱の文字塔で、これは道標を兼ねている。造立年は天保11年(1840)。正面には「庚申供養」の下が分からないが、史料を見ると「東 目黒道 奥沢本村」とあったようだ。右面は「南 沼部 丸子 道神ノ屋講中」、左面には「北 九品仏道」と造立年がある。この道祖神の場所は明治時代までは奥沢の本村だった。今は閑静な高級住宅地である。

場所  世田谷区奥沢3丁目20-17

| | コメント (0)

2019年10月 3日 (木)

東玉川の馬頭観音(世田谷区東玉川)

環八通り内回りを南下、田園調布で東横線を越えた先で道路は右へカーブするが、左にまっすぐ行く道がある。その道を進むと中原街道が呑川を渡る石川橋の脇に出る。この道は江戸時代からの道で、下沼部村と奥沢村の村境の道でもあった。中原街道に出る石川台丁字路には石橋供養塔(安永3年=1774)があるが、途中の辻には馬頭観音がある。

P1070067

屋根付きの堂宇には、地蔵座像と馬頭観音塔がある。地蔵の方は古くないように見える。史料にも出てこない。しかし馬頭観音の方はなかなか立派な造りで、上部に馬頭観音が彫られており、その下に「馬頭観世音」と大きく書かれている。高さは117㎝ある。造立年は享和3年(1803)11月とあり、「等々力村、願主早川弥兵衛、惣講中」の銘がある。

P1070070

また左右にはさらに大きな文字で、「右 九品仏道」、「左 池上道」と彫られている。向きから考えると、現在の向きではなく、道路の南側に道路に向けて立っていたのだろう。そうすれば、右へ進めば池上本門寺、左へ進めば九品仏浄真寺である。

場所   世田谷区東玉川1丁目28-12

| | コメント (0)

2019年10月 2日 (水)

東玉川の庚申塔(世田谷区東玉川)

東玉川という住居表示は田園調布と石川台・雪が谷大塚の間の三角地帯の住所。明確なランドマークがない住宅地だが、おおよそ環八の中原街道の間になる。閑静な住宅地は碁盤目状に路地が出来ていて、昭和以降の耕地整理でできたことを想像させる。江戸時代のこの辺りは荏原郡下沼部村。近所には東玉川神社があり、江戸時代からあって築400年の社殿がある。とはいえこの社殿は昭和14年に渋谷から移築したそうで、東玉川神社という名前になったのは昭和の中期から。

P1070066

東玉川の庚申塔は東玉川神社から200mほど東にある。路地の角に屋根付きの庚申塔が立っているのは、ここのお宅が守っていらっしゃるのだろう。この辺りは昔は等々力村の字諏訪分という地名で、この20mほど北側には沢が刻んだ僅かな谷があり、そこに降りる道が切通しになっていた。この庚申塔も坂の下り初めあたりにあったのではないだろうか。

P1070064

庚申塔は板状駒型で青面金剛像、二鶏、三猿の図柄。高さは1mほどで、造立年は正徳6年(1716)1月である。下部に願主の9人の名前が彫り込まれている。

ところで東玉川という地名だが、昭和7年に大字等々力の飛地の諏訪分だったのが、世田谷区になって東玉川町となった。当時の東京市の史料に「本町の地、玉川村の東部にあり、故に町名とせり」とあるのでやはり昭和の命名である。

場所  世田谷区東玉川1丁目20-15

| | コメント (0)

2019年10月 1日 (火)

田園調布出張所前庚申塔(大田区田園調布)

田園調布は世田谷区と思っている人も多いが、実は大田区。北に接する玉川田園調布が世田谷区である。東急東横線田園調布駅の西側が豪邸街だが、東側は幾分庶民的なところがある。この辺を散策していると著名人に出くわすが自然にふるまうのがマナーだろう。長嶋さん宅前で荒川コーチにばったりということがあったが、20年以上前の事。駅前の長嶋さん行きつけの焼鳥屋もなくなった。

P1070057

ちょっと庶民的な東側に出て六間通りを南に進む。間もなく田園調布二丁目の交差点(辻程度の小さな交差点)、その先に田園調布特別出張所の案内標識がある。そこから路地に入ると、植込みに小さな祠があり、その敷地が出張所と親睦会館である。一番道路側に庚申堂、その後ろに調布稲荷神社と福徳弁財天がある。

P1070052

庚申堂はしっかりしたもので、庚申社と書かれた扁額も掛けられている。鍵が掛かっているので格子の間から庚申塔を撮影させていただいた。駒型で青面金剛像に三猿の図柄、資料によると10名の願主の名前が彫られているという。

P1070054

造立年は元禄12年(1699)2月。庚申信仰の流行としてはピーク時期のもの。青面金剛像の右には「奉供養青面金剛 為講中二世安楽」、また左側には造立年の下に 武刕荏原郡と銘がある。江戸時代にはこの辺りは下沼部村。六軒通りは大正時代の開通だが、それ以前は畑の間に農道が走るようなところだったようである。田園調布は国分寺崖線の先端に当たり、浅間神社がその突端になる。大正時代初期には調布村となり、昭和に入って世田谷区・大田区の一部になった。

場所  大田区田園調布2丁目20-15

| | コメント (0)

« 2019年9月 | トップページ | 2019年11月 »