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2019年11月30日 (土)

法華墓の石仏<後編>(杉並区松ノ木)

杉並区松ノ木の法華墓の後編は奥に3基並ぶ馬頭観音像である。馬頭観音は地蔵・庚申塔とともに庶民に親しまれ、多く残されている。全国的には東日本に多いという。この観音は忿怒(ふんぬ)の相をしており、慈悲相の地蔵とは異なる印象がある。頭上に馬頭を戴き、一面二臂(臂とは腕を意味する)のものや三面六臂のものなど多様。但し多く作られるようになったのは江戸時代後期からで、運送馬や農耕馬が普及し始めてからのこと。言い換えると江戸時代前期以前は農民はほとんど人力だったということである。

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右の小さい馬頭観音は大正14年(1925)6月と新しい。瀬沼清五郎の銘がある。真ん中の台石付きの馬頭観音は最も古く、造立は嘉永4年(1851)2月、これは三面の馬頭観音だがかなり風化が進んでいる。台石には武州多摩郡和田村松野木とある。珍しく石工の名前があり、「新宿 石工甚造」とあるのが興味深い。左端は明治21年(1888)2月の造立で施主 田中伊三郎とある。

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左手にある9基の石塔は日蓮宗の墓石である。この場所は記録によると700mほど東にある妙法寺の檀家の墓所だった土地。堀之内妙法寺は日蓮宗の本山で今も厄除大師に多くの人が参詣する名刹である。

場所  杉並区松ノ木2丁目26-14

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2019年11月29日 (金)

法華墓の石仏<前編>(杉並区松ノ木)

杉並区には鎌倉街道が南北に走っている。一説には大宮八幡以北の鎌倉街道は中野富士見町から中野駅方面にメインルートがあったようだが、サブルートも何本かあったと言われる。松ノ木を南北に走る狭い都道427号線は江戸時代には村の幹線道路になっていた。鎌倉街道ほど古くはないがそれに近いものがあるようだ、松ノ木の「法華墓」は分かりにくい場所にあるが、以前もワンブロック南の辻にあったと伝えられる。南北の道路が二手に分かれて五日市街道に接続していた時代の東側の道である。以前の場所は北の馬橋村と南の堀ノ内村の村境だった場所である。

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法華墓(ホッケバカ)というのは、左にある墓石群が法華衆(日蓮宗)のものであるため、この土地を地元で法華墓と呼び始めたという。右の3基が古いもので、奥の3基は少し新しい馬頭観音。 これだけそろうとなかなか壮観である。右端から見ていくと、まずは聖観音菩薩立像である。聖観音は数多くの観音のベースであり、これから変化して如意輪観音、千手観音、十一面観音などに発展する。概ね左手に蓮華を持つ。

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この聖観音立像は元禄4年(1691)8月の造立でm、念仏講18人が願主となっている。これがワンブロック南の松ノ木2-27から移設されたものらしい。真ん中は、享保8年(1723)10月造立の地蔵菩薩。和田村之内松之木道行十四人とある。まさに地元の念仏講中のものである。左側(右から3基目)は宝永5年(1708)10月造立の駒型庚申塔。高さは110㎝と立派なもの。願主は11人とある。

場所   杉並区松ノ木2丁目36-14

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2019年11月28日 (木)

東福寺の石仏<3>(宇田川庚申/渋谷区渋谷)

宇田川地蔵の境内には庚申塔もあった。その子育地蔵堂の境内にあった庚申塔は3基。それが宇田川地蔵の堂宇の右側に並んでいる。地蔵と共に東福寺に引き取られたことには何となくうれしくもある。今の東京の開発なら、跡形もなく破壊することもあり得るからである。

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縦に並ぶ3基の庚申塔は一番後ろの大きい塔がもっとも原型をとどめている。駒型で高さは128㎝ある。青面金剛像に三猿の図柄だが、造立年は分かっていない。この庚申塔も戦災によってかなり傷んだと言われる。渋谷の街が焦土に化したことを若者たちは想像すらできないだろう。

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その手前には右側が大きく欠損した庚申塔が無残な姿を見せている。板碑型高さは81㎝ほど。文字塔の下部に三猿が彫られている。造立年は元禄4年(1691)9月。施主は渋谷八郎左衛門とあるようだ。下部には10名ほどの願主名が彫られている。

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3基目は上部が完全になくなっている。ただしバランスからして二猿であろう。下部も欠損しているそうである。こういう石仏が破壊されるほどの爆撃を浴びたわけである。当然裏手にあった陸軍の監獄も爆撃に遭ったはずで、一体何人の政治犯(渋谷監獄は軍事政権に逆らった政治犯を投獄していた)が逃げることもできずにその場で死んでいったことかと思う。

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庚申塔の右側には宇田川地蔵の堂宇と同じような堂宇がもう一棟建っており、その中にはほとんど原型をとどめない二つの地蔵が安置されている。奥の方はほとんど形になっていない。どちらも塩かけ地蔵と呼ばれてきた地蔵と言われる。東京の石仏研究の第一人者である佐久間阿佐緒氏によると新宿の太宗寺の塩地蔵を信濃高遠の伝説の石仏師守屋貞治のものではないかと言っている。江戸は石仏を粗製乱造していたらしく、それは城壁を築く石工たちの食い扶持を維持するためでもあったようだ。

城壁の普請のない時期には石工は江戸近辺各地の石仏を納品していた。それが地蔵や庚申塔のブームを加速させた可能性が極めて高い。その中で貞治は関東で8体のみ造ったらしい。その8体が何処にあるかは謎である。塩地蔵や塩かけ地蔵を見るとその話を思い出さずにはいられない。

場所  渋谷区渋谷1丁目5-8

 

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2019年11月27日 (水)

東福寺の石仏<2>(宇田川地蔵/渋谷区渋谷)

東福寺に立寄って驚いたのは、渋谷の街から消え去ったものがここに保存されていることだった。西武デパートの間から始まる井の頭通りは東急ハンズ前を通り、NHKの南に繋がる。途中パルコの方に上る道があり、オルガン坂と呼ばれているが、そころNHK方向に少し進んだあたりに「宇田川地蔵」があった。現在はセブンイレブンがある辺りである。

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この宇田川地蔵は最初は宇田川橋のたもとにあったと言われている。南の宇田川は東急東横店前の宮益坂下で渋谷川に合流する支流で、109の付近から下流はは東急本店通り沿いから、ハチ公前交差点に流れていた。もう一本の北の宇田川は宇田川交番前で井の頭通り沿いを流れ宮下公園で渋谷川に合流していた。明治時代にはこの南北に流れが分かれるところ(宇田川通りと夢二通りの交差点・渋谷BEAMの角)には水車もあった。私はここに架かっていた橋が宇田川橋ではないかと推測している。東福寺では立派な堂宇を建ててここにあった地蔵3体を保存している。

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宇田川地蔵は明治40年(1907)頃に宇田川橋のたもとから、開発のために西武デパートB館裏(現在のロフトの前辺り)に移設され、そこも開発が進んだために、ハンズの先の宇田川町10-1に昭和38年(1963)に移転させられた。そしてついに平成25年(2013)にここ東福寺へ移転となったというのが経緯である。中央の大きな地蔵が宇田川の子育地蔵と呼ばれていたものだが、実はこの地蔵は戦後の昭和37年(1962)に造られたもの。

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右側に建つ摩滅の激しいものが元禄元年(1688)に造立された昔からの子育地蔵である。戦災で傷んだと伝えられる。もう一つの地蔵については情報がほとんどない。宇田川町の場所には地蔵堂の境内があり、庚申塔も並んでいたがそれらも東福寺に来ている。なお、宇田川地蔵の裏手にある区役所と神南小学校はかつて陸軍衛戊(エイジュ)刑務所だった。そのためこの辺りには陸軍の杭(境界標)などの遺構が残っている。渋谷の街の変遷があまりに激しすぎるのだが、それだけにこの世のものもあの世のものも入り混じっている感が街には漂っていると感じるのは私だけだろうか。

場所  渋谷区渋谷3丁目5-8

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2019年11月26日 (火)

東福寺の石仏<1>(渋谷区渋谷)

金王八幡神社の隣にあるのが天台宗の東福寺。源義家が金王八幡と同じ時期に創建したと伝えらえるので、平安末期か。開山は養和元年(1181)と言われる。平安時代末期から鎌倉時代にかけては渋谷氏がこの地に館城を築き渋谷を支配していた。とにかく古い話である。言い換えれば、鎌倉時代まではここが渋谷の中心だったということになる。

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本堂前に興味深い石仏が立っている。右の光背型の地蔵菩薩立像は総高が153㎝、左の角柱は2mはありそうである(資料には158㎝とあるが絶対違う)。この二つの石仏の造立年は文明2年(1470)とされているが、研究者の間でも後年に年号が改刻されたという意見が主流のようだ。500年以上にしてはきれいすぎる。

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地蔵菩薩の蓮台には三猿が彫られている。これは庚申塔であるから、江戸時代に入ってからというのが自然だろう。ただしこのように蓮台に三猿というタイプは極めて稀である。また刻字から庚申講中によるものだということは明確なので、江戸時代前半のものではないかと思う。

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左の角柱の塔の下には龍台がありおそらくは亀であろう背中から石塔が立っている。これは亀趺(キフ)と呼ばれるもので実は亀ではない。中国の伝説に由来し、龍が産んだ9頭の神獣のひとつで一般的には「贔屓(ヒイキ)」と呼ばれる。現在使われるご贔屓の語源らしい。この塔も刻字を見ると庚申講中によるものである。同じく文明2年の刻字があるがこれも嘘らしい。しかし、個人的な直感ではこっちは意外に嘘ではないような気がしてならない。

二つの石仏は大正時代には東京都の旧跡として指定されている。

場所  渋谷区渋谷3丁目5-8

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2019年11月25日 (月)

豊栄稲荷の庚申塔群<4>(渋谷区渋谷)

豊栄稲荷の庚申塔のラスト。しかしよくもまあここに渋谷の庚申塔を集めたものだと感心する。江戸時代は上渋谷村、中渋谷村、下渋谷村があり、金王八幡よりも都心側はほぼ大名屋敷と武家屋敷が立ち並ぶ地域だった。だから港区や千代田区には野仏が少ない。村人が居なかったのだから。村から見たら武家エリアへの入口が渋谷だった。

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さて11基の庚申塔の左端の2基である。大きいほうは高さが71㎝と平均的なサイズ。駒型で青面金剛像に三猿の典型的な図柄。造立年は元文4年(1739)11月で、16名の願主名がある。いちばん左端は、鷹さ58㎝とこの並びの中では最小。図柄も青面金剛像のみで、中渋谷村と願主9人の銘がある。造立は享保5年(1720)11月。

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鳥居脇の植込みに壊れた庚申塔のかけらがある。説明板に13基の庚申塔とあったのはこの2基を含めたのだろうか。但しどちらも渋谷区の史料には記述がない。右は板碑型の庚申塔の上部、「庚申供養」とあり、延宝2年(1674)10月の造立年も読める。一方左側は上部が欠損しており、下部の三猿のそれもまた激しい欠損で判りにくいがかろうじて三猿の足だろうと判る。その下には願主名が7名彫られている。二つが上下ということはないだろうが、その可能性を捨てることはできない。そうすると12基になってしまうが。

場所  渋谷区渋谷3丁目4-7

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2019年11月24日 (日)

豊栄稲荷の庚申塔群<3>(渋谷区渋谷)

11基並ぶ庚申塔の左半分は徐々に高さが低くなるように並べられている。少し小さめの庚申塔はもし単独で路傍にあればそれだけでも十分目立つと思うが、これだけ並ぶと壮観であると同時に、一つ一つの印象が薄れてしまう面もある。

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右から7基目は左から数えると5基目。角柱型で縁取りのある比較的少ないタイプである。高さは86㎝、上部梵字の下に「南無阿弥陀仏」という文字が彫られている。その脇に日月が彫られ、下部には三猿が描かれている。造立年は宝永元年(1704)9月。また、左面には「めくろ こんわう道」とあるので、目黒・金王道という意味だろうか。下部には願主名が9名ほどある。

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左から4番目は駒型の庚申塔。比較的オーソドックスな図柄で、青面金剛像、三猿が彫られている。高さは70㎝、造立年は享保元年(1716)11月とある。下部には12名の願主名が彫られ、すべて当村とあるが村名は不明。

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右から3基目は高さ74㎝とかなり小型になってくる。しかしこれでも平均的な大きさである。青面金剛像に三猿の図柄で、三猿の向きがいささか凝っている。造立年は享保6年(1721)11月、下部の人名は摩滅が多く読み切れないが10名強の名前が彫られている。

場所  渋谷区渋谷3丁目4-7

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2019年11月23日 (土)

豊栄稲荷の庚申塔群<2>(渋谷区渋谷)

豊栄稲荷の庚申塔は多いので少しずつ紹介したい。提灯をぶら下げた小屋根の下にあるのは11基である。右から5番目の角柱型が最も背が高い。そこを頂点に両側に高さを揃えているので、遠目には富士山の山容に見える。それを狙ったのかもしれない。

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右から4番目の庚申塔は舟型で高さは97㎝。日月に雲の図柄がうっすらと上部を飾り、その下には三猿があるシンプルなデザインである。造立年は延宝2年(1674)5月と古く、願主名が13人ほど彫ってある。

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中央のひときわ背の高い角柱型の庚申塔は高さが108㎝ある。デザインは三猿のみの極めてシンプルなもの。上部中央に梵字で「空風火水地」とあり、その両脇に「南無阿弥陀仏」と彫っている。造立年は延宝4年(1676)9月でこれも江戸前期のものである。人名は多数刻まれているがほとんど読めない。

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その隣、右から6番目の庚申塔は左上が少し欠損している。日月と三猿のこれも極めてシンプルなデザイン。造立年は元禄7年(1694)である。元禄時代には大きく彫りの複雑な庚申塔が増えた中で、こういうシンプルなものはかえって味わいがある。下部に願主名が7人分ある。

場所  渋谷区渋谷3丁目4-7

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2019年11月22日 (金)

豊栄稲荷の庚申塔群<1>(渋谷区渋谷)

江戸時代以前の渋谷は渋谷川の流れる原野に近いものだった。その頃の渋谷の中心は現在の金王八幡神社があるところで、神社はかつての渋谷氏の居城(館)の地に建っている。金王の由来は渋谷金王丸(1141~1185)という武将の若い頃の名前だが実在したかどうかは不明。神社の宝物館には当時の渋谷城のジオラマがある。金王八幡と関係の深いのが隣接する豊栄稲荷で、稲荷よりも庚申塔の方が有名かもしれない。

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豊栄稲荷神社の境内には合計13基の庚申塔が保存されている。その由来を記した石碑がある。

『ここに建てられている庚申塔は、江戸時代、中渋谷村、中豊沢村、宮益町など、金王八幡神社を中心とする地域に住んでいた人々が建てたものである。その頃人々は大変盛んであった庚申信仰を受入れ、近隣相集い講を結んで61日目毎に廻ってくる庚申の日に謹行、飲食、談笑、しばし日頃の労苦を忘れて一夜を過ごすのが娯楽の少ない当時としては無上の楽しみであった。これを庚申待という。

庚申信仰の功徳作法などを述べた庚申縁起という本に三年一座即ち1年に6度、3年で18度の庚申待を終ったならば、平素よりも御盛物などを沢山あげて塚を築き塔を建てて盛大に供養するようにと書いてある。この辺の講中の人々も恐らくその教えに従ってこれらの塔を建てたものである。

年代は延宝2年(1672)から元文4年(1739)までのものがある。元はそれぞれ村や町中に建てられていたが、都市化の早かった渋谷では明治末から大正時代にかけて渋谷川畔にあった田中稲荷の社殿の周囲に順次集められ戦災を蒙るまでそこに並べられていた。戦後区画整理の実施と共に、田中稲荷は金王八幡神社南側の地に移り、豊栄稲荷と名を改め、庚申塔は八幡神社の社殿横に移され、今日に及ぶ。

今回金王八幡神社鎮座880周年記念の為、社殿社地の整備に際し豊栄稲荷は崇敬会諸氏のご尽力で立派な社殿が再建され、庚申塔も旧渋谷村民の歴史的文化遺産として手厚い保護のもとに次の世代に受け継がなければならないと、有馬康男、安藤善啓氏をはじめ多くの方々の努力で当社地に還った。この昔の姿を語りかけてくれる貴重な遺物が立派に整備されたことは大変素晴らしい言で、これからも大切に見守って行きたい。(後略)

昭和47年12月 庚申懇話会 渋谷区道玄坂2-5-8 横田甲一 安藤善啓 建立』

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まずは右端の3基。右端は駒型の庚申塔で、高さは65㎝。造立年は不詳。青面金剛像と三猿の図柄である。二番目は駒型の文字塔で大きさは隣りと同じ65㎝。これも造立年は不詳。中央に「為庚申供養」とある。下部には11名の願主銘があるがほとんど読み取れない。三番目は高さ85㎝の駒型の立派な庚申塔。彫りも見事で、青面金剛像の両側には二童子が居て、金剛は邪鬼を踏みつけている。その下には三猿が描かれている珍しい図柄である。

場所  渋谷区渋谷3丁目4-7

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2019年11月21日 (木)

渋谷宮益坂御嶽神社の石仏(渋谷区渋谷)

渋谷の宮益坂は江戸時代からの古道で厚木街道(大山街道)である。江戸時代の切絵図では坂下部分が宮益坂、上の方が富士見坂と書かれている。当然ながら坂上から富士山が見えたはずである。現在の御嶽神社は郵便局の脇にあるが、江戸時代には御嶽権現とあり、同じ場所に別当学宝院とある。明治維新の廃仏毀釈で寺は消えたのだろうか。明治3年には明治天皇が駒場野の練兵天覧行幸の際に往復この神社で休憩している。その段階では寺はなかった可能性がある。

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宮益坂の御嶽神社はビルの中庭のような境内になってしまった。賑やかな渋谷の街の中で、静かな雰囲気を味わえる希少な場所でもある。江戸時代の宮益坂は階段坂でとても急な坂だった。現在の宮益坂は均されて階段などないが、この神社の階段はかつての土地の標高を示しているのではないかと思われる。その神社の階段を上ると正面に拝殿、左に宮益不動尊がある。この不動尊の堂宇の中に3基の石仏が祀られている。

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右にあるのは供養塔で勢至菩薩立像が舟型光背型の石に彫られている。造立年は不詳。この供養塔は月待の供養塔。左にあるのは舟形光背型の庚申塔。青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄である。造立年は延宝辛酉とあるので延宝9年(1681)3月。そして中央に高くそびえているのは大山街道らしく、不動明王像である。造立年などは不詳、しかし不動明王像があるということは、大山詣での人々はここで必ずお参りをしただろうから、江戸時代は相当な賑わいだったに違いない。

渋谷区渋谷1丁目12-16

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2019年11月20日 (水)

渋谷小学校跡地の庚申塔(渋谷区渋谷)

今を時めく渋谷、しかし夏目漱石の時代には蛍が飛び、メダカが泳いでいた川の流れの周りに出来た街である。ディベロッパーのCMに「ホタルのいる渋谷」などというキャッチコピーがあるが、つい最近までいたのに彼らの仲間がその環境を壊してしまったためにホタルが居なくなっただけである。自分で壊しておいて元に戻すのに金を儲けるというどうも許しがたいことになっている。

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渋谷小学校は最初は東横デパートの辺り、そして明治時代後期に東急文化会館の場所(現在の渋谷ヒカリエ)へ移転。坂下はJR山手線の線路と宮下公園。坂下を流れた渋谷川は新宿御苑辺りから現在の原宿キャットストリートを流れて渋谷で宇田川と合流していた。近年、渋谷小学校は平成9年(1997)に大向小学校と共に神南小学校に統合された。ちなみに神南小学校は渋谷区役所の傍、大向小学校は当初は東急本店の場所。そんな渋谷小学校の校庭には以前から庚申塔があったようである。梨本宮邸時代のあった明治期の地図にはこの場所に鳥居マークがあるので、元はそこにあったのかもしれない。

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庚申塔は板碑型で高さは76㎝ほど。上部に二鶏、下部に二猿の珍しい図柄で、中央は文字が彫られている。区の史料によると、この庚申塔は江戸時代に大名屋敷に仕えた奴と呼ばれる身分の低い人々により造立されたらしい。造立年は延宝8年(1680)である。江戸時代末期まで、ここから青山通り、そして骨董通りのある南青山5丁目、原宿のネッコ坂までの約5万坪は京都藩稲葉家10万石の下屋敷だった。ただ1680年頃も京都藩だったかどうかは調べ切れていない。庚申塔の願主銘には、「奴平 久蔵 多十 奴十 長藤」とあるが、それも何を表すのか分からない。

場所  渋谷区渋谷1丁目18-21

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2019年11月19日 (火)

郷土資料館前庭の石仏(後列)

杉並区郷土資料館の前提にある石仏はこの後列まで。 後列左にあるのは庚申塔、その脇に富士信仰塔、五輪塔の供養塔、少し後ろに御嶽信仰碑と並んでいる。

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左端の庚申塔は、唐破風笠付角柱型の塔で高さは109㎝ある。正面には青面金剛像、邪鬼、三猿が描かれており、右側に「寛政4年(1792)2月 上高井土(戸)下宿講中」と彫られている。上高井戸下宿は現在の環八より100mほど西から調布側が上宿、そこから環八辺りまでが下宿という。従ってほぼ環八周辺の講中によるもの。以前は、甲州街道と環八の交差する上高井戸一丁目交差点の北側にあり、後に井の頭線と神田川の間の高井戸東1-18の西部土木事務所(現在の杉並区立こども発達センター)に移されたのち、平成3年(1991)に郷土資料館に移設された。

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隣りにあるのが「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」と彫られた石柱。造立年は安政3年(1856)。木花開耶姫命は富士浅間神社の祭神。富士講に関係しているのだろうか。この石碑は久我山3-14からの移転なので、久我山の大熊家のものかもしれない。興味深いのは安政2年(1855)10月2日の安政大地震の記録があることだろう。「御山振崩」とあるので山体崩壊を表しているようだ。安政地震は複数の地震をそう呼ぶらしく、東海、南海、八戸沖などが連続した時代。政治的には日米和親条約(1854)から日米修好通商条約(1858)の間に日本が天災と黒船でどうしようもなくなった時代である。

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その脇にある五輪塔は左端の庚申塔と同じく、甲州街道・環八の北側から、井の頭線沿いの西部土木事務所、そしてここへと移転してきたもの。造立年は寛永18年(1641)とあり、江戸時代初期のものである。「妙法蓮華経 慈父春北」とあるのは、父を供養する為に息子が建てたものらしい。

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ひとつ後ろに立つ自然石の石碑は、御嶽信仰塔で、嘉永5年(1852)の造立。これも久我山の大熊家から移設されたものである。「小御嶽石尊大権現 大天狗 小天狗」とあるので、山岳信仰、殊に青梅の御嶽神社と相州の大山阿夫利神社への信仰塔と言われる。昔の日本人は自然物、その中でも特に山を信仰の対象にしてきた。富士山は言うまでもなく、白山、御嶽山、丹沢の大山、妙義山、筑波山、など枚挙にいとまがない。石の向こうから、「六根清浄」と声が聞こえてきそうである。

場所  杉並区大宮1丁目20-8

 

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2019年11月18日 (月)

郷土資料館前庭の石仏(中列)

郷土資料館の石仏群は大きく分けて前中後の三列になっていて、今回はその真ん中の列の石仏である。ここは郷土資料館なので、当然のことだが、これらの石仏石碑は昔からここにあったものではない。再開発に伴って撤去されここに引き取られてきたものである。元の場所は大きく分けて、久我山の大熊家関連場所、高井戸東、そして中央自動車道高井戸インターのある中ノ橋からの移設。

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まず一番左にあるのは駒型の馬頭観音。正面には「馬頭観世音」とあり、右側に明治4年(1871)と造立年がある。左には十月十八日と日付も入っている。側面には「上高井戸宿原 木下氏」とある。原という小字は現在の高井戸東三丁目、環八より東側で首都高4号線(玉川上水)より北側のエリアである。環八よりも西にあった天神社辺りも原だったようだ。 その辺りにあったのではないかと思われる。

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真ん中にあるのが石橋供養塔。 造立年は文化3年(1806)11月で、下部に「當村 念仏女講中 同和泉村 鉄五郎母」とある。右面には「右 所澤道」、左面には「左 府中道」とあり、永福あたりから移設されたという。当時は石橋を架けるとこういう石橋供養塔を立てることが多かった。ちょっとした水害で木の橋は流されてしまい、村人は石橋を架ける以上は永続的に壊れないでほしいという願いを込めたのである。

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石橋を架けるものが居れば、川に飛び込んで死ぬ者もいた。この供養塔は正面にある通り、「川中投身亡者供養塔」である。造立は明治26年(1893)4月15日とある。元の場所は高井戸西1-1の中ノ橋。 太宰治も玉川上水に入水自殺をしたが、他にも多くの人が同じことをしたのだろう。昔の玉川上水は背丈を遥かに超える水量と水深があったという。

場所  杉並区大宮1丁目20-8

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2019年11月17日 (日)

郷土資料館前庭の石仏(前列)

東京は再開発の終わらない街である。壊しては建て、建てては壊す(壊れる)。江戸幕府以来その再開発シンドロームは治るどころか一層症状を悪化させている。文化のある街というものは何百年も変わらないのが地球上の常であるが、東京は破壊と創造が文化でもある異彩なる都市だとつくづく思う。その果てに追いやられた民間信仰の石仏たちは、寺社の境内に逃れるか、打ち捨てられるか、ただ稀に郷土資料館という最も保護された場所に移設される石仏もあり、杉並区郷土資料館には11基ほどのそれがある。

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杉並区郷土資料館の入口は旧井口家住宅の長屋門で、この井口家は大宮前新田を開発し、代々名主を務めた名家らしい。建築年は文化・文政年間(1804~1829)で元は茅葺だったが、防火上銅板屋根に替えられている。その門を入り、右にある資料館に入る前に右手を見ると、石仏がたくさん並んでいる。

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前列左端にあるのは舟型光背型の庚申塔。青面金剛像と三猿がきれいに残り、上部には薄い彫りの日月もはっきりと見て取れる。造立年は元禄6年(1693)4月。下部に11名の願主銘があるが、大熊姓が圧倒的に多い。久我山の始まりからあった大熊家である。それもそのはず、この庚申塔は久我山3丁目14からの移設だとある。久我山稲荷神社から南に下ったあたりである。その辺りにはかつて大熊家の稲荷神社があった。久我山稲荷神社にある大熊家関連の石塔も同じ場所からの移設だと考えられる。

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前列にある大人しめの不動明王像も上の庚申塔と同じ移設である。上部は欠損しているが、右下に正覚院とある。正覚院は練馬区の神社だが、それとは無関係で戒名か何かではないかと思う。年代は正徳元年(1711)10月で、講中拾五人とあるから、大山信仰の可能性もある。

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前列右端に大きな角柱がある。中央に「南 高井土(戸)宿道」とある。各面には、「東 四ツ谷道」「西 井之頭道」「北 ほりの内ミち」とある道標である。これも大熊家の稲荷神社にあったものらしい。造立年は寛政12年(1800)12月。第六天の文字もある。第六天は各地にあったが、最近ではほとんど忘れられかけている。元々は神仏習合の時代に「天魔」を祀る神社として建てられた。天魔=第六天魔王は仏道修行を妨げる魔物と言われるが、そういうものも神にしてしまうこの国の民衆のパワーは凄いと思う。

場所  杉並区大宮1丁目20-8

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2019年11月16日 (土)

大宮八幡宮鳥居横の庚申塔(杉並区大宮)

大宮八幡宮の創建は康平6年(1063)というからおよそ千年前。平安時代の後期、東北の乱を鎮圧する為に東征した源頼義に由来する。京都の石清水八幡宮からの分霊である。頼義の子、源義家の名も神社の歴史には登場するが、東京を南北に走る伝説の鎌倉道(鎌倉街道)は彼らの物語を土地に多く残している。

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元々この周辺は古墳も多く、一帯は考古学上は大宮遺跡と呼ばれている。そんな場所だから、世俗的な七五三や宮参りの時でなくても、多くの人がお参りにやってくる。そんな鳥居に向かって左側、道路から見える場所にひっそりと庚申塔が立っているのを知る人は少ない。

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駒型の庚申塔は高さ57㎝と小ぶり。 青面金剛に邪鬼が描かれているが、三猿は見えない。造立年は寛政3年(1791)4月。願主銘は根岸源四郎と彫られている。この人が何者なのかの情報は全くない。しかし明治維新の廃仏毀釈を経ても現在こうして大宮八幡の境内に残る庚申塔には、その歴史を乗り越えたものがありそうである。

場所  杉並区大宮2丁目2-14

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2019年11月15日 (金)

大宮八幡参道入口の石仏(杉並区堀ノ内)

大宮八幡神社は杉並区の中でも最も有名な神社のひとつである。大宮八幡入口の交差点は方南通りがカーブしているが本来まっすぐな方が神社の参道にあたる。ここは二つの交差点がくっついている感じになっている。この二つの交差点の間に以前は小松屋酒店という店舗があったが、2010年より以前に閉店してしまった。その酒店の脇にあったのが庚申塔や地蔵だが、2018年からマンションに建替えられた後、同じ場所に石仏が祀られた。

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マンションとオリジン弁当の間に手前から、地蔵立像、庚申塔、庚申塔、燈籠型石柱の順に並んでいる。これを残してもらったことに深く感謝すべきであろう。ここは1000年の歴史を持つ大宮八幡神社の入口。この石仏たちも多くの人々が守って来たものだからである。

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一番道路側の地蔵菩薩立像は正徳2年(1712)10月の造立。史料に「地主庄三郎」とあり、他80人が願主らしい。高さは台座含めて153㎝あり、村銘は欠損しているが多くの人々によるものである。

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その隣に並んでいる二つの庚申塔。手前の唐破風笠付の庚申塔は高さが142㎝もある。造立年は宝永4年(1707)12月。青面金剛像・三猿の図柄だが、大きさは最大級である。こちらも村名は欠落しているが、施主は与四左衛門と道行11人、作兵衛と道行15人とある。小さい方の庚申塔は駒型の青面金剛像で邪鬼・三猿が描かれている。造立年は宝暦10年(1760)11月と少し新しい。こちらは「講中 和泉村11人 大宮4人」とある。以前に来た時も、この前で手を合わせる人が複数いた。それだけ今でも信仰を受けているということだろう。

場所  杉並区堀ノ内1丁目14-1

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2019年11月14日 (木)

大圓寺の石仏(杉並区和泉)

大圓寺の地蔵堂の脇に石仏石碑が並んでいる。なかなか彫りのしっかりした地蔵菩薩が3基、同じく素晴らしい石工の見せる技を感じる庚申塔が1基ある。ただしどれも年代が分からない。残念である。

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左の2基の供養塔については左端は確認していないが、2番目の大きなものは線刻の准提観音立像が描かれた供養塔で文政13年(1830)のもの。一番右に庚申塔、間の3基は地蔵菩薩だ。左の地蔵は舟型の半跏像でわずかに左ひざを立てている。左から2番目の地蔵は地蔵立像で前面右側に黄楊地蔵尊と書かれている。黄楊というのはツゲのことである。おそらく読みもツゲ地蔵尊であろう。ツゲは印鑑や将棋の駒、版木などの工芸美術品に多く使われる材。それと何か関係があるのかもしれない。その右の地蔵は舟型の地蔵菩薩半跏像。これも詳細は全く分からない。

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一番右にあるのは庚申塔。右上が欠損しており日月の月が欠けている。青面金剛は邪鬼の上に立ち、その下には三猿が彫られている。見事な彫りである。青面金剛のひざ元には二鶏もはっきりと残っている。間違いなく塔型は駒型だろう。

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地蔵堂を左に回り込むと奥に聖観音菩薩立像がある。この丸彫の立像の造立年は安政2年(1855)とある。台石には多くの人名が彫られていて、180名の名前があるという。

場所   杉並区和泉3丁目52-18

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2019年11月13日 (水)

大圓寺の地蔵堂(杉並区和泉)

井の頭線永福町駅からさらに北に進むと井の頭通りの先で最初に曲がるのが古道。大宮八幡神社へ向かう道だが、大圓寺は曲がらずにまっすぐに北上する方の道の先にある。現在は方南通りが東西に走っているが、昔は方南通りはほぼ大宮八幡神社の参道だった。その少し手前に大圓寺がある。大圓寺は曹洞宗の寺院で慶長8年(1603)に赤坂の溜池辺りに大渕寺の名で建立されたが、寛永18年(1641)の大火で焼失、高輪の伊皿子に移転し大圓寺と改名。現在の地に来たのは明治41年(1908)と意外に新しい。

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山門を入って左側に小さなお堂がある。地蔵堂である。この中にはお宝が眠っている。有名なのは3基並ぶうちの中央にある高さ105㎝の丸彫の地蔵菩薩立像。俗称は潮見地蔵という。寛永2年(1625)に芝浦の海中から見つかったというから、江戸幕府以前のものかもしれない。

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その左側には土台に乗った高さ10㎝程の出っ張り?があるが、どうも丸彫の座像らしい。勿論この風化状態では時代もわからない。 右側のものは舟型の座像だが、地蔵なのか何なのかは分からない。これも時代を経たものであろう。残念ながら地蔵堂は施錠されていて入れない。格子のガラスも曇っていたが、一部曇りをふき取ってあるところから撮影させていただいた。

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さらにこの地蔵堂の右の壁には3枚の板碑が立てかけてある。板碑は寺院で内部に保存されていることが多く、あまり目につくところにはないのだが、ここの板碑はこうしてかろうじて見ることが出来る。大圓寺周辺から掘り出された13枚の板碑は杉並区の指定有形文化財で、南北朝時代の延文2年(1357)から応永16年(1409)にかけてのものだという。近くを南北に通っていた鎌倉街道との深い係わりもありそうである。

場所  杉並区和泉3丁目52-18

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2019年11月12日 (火)

龍光寺の諸石仏(杉並区和泉)

龍光寺の石仏の続き。 多くの石仏があるが墓石も多いので結構難儀した。原則として墓石は古くても取り上げないことにしている。というのも墓石を入れたら、それこそ数万単位の数になるからで、もし石工の研究をするならば捨てがたいだろうが、私の場合は民間信仰に関係するものというテーマなので除外している。

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まずは地蔵菩薩坐像。台石に浄秀信士㚑位とあるので墓石の可能性があるが、これだけの大きな地蔵は墓石としてはほとんど見かけない。造立年は寛延2年(1749)11月である。施主は久兵衛とある。史料によると、和泉2丁目7から移設されたとある。甲州街道と井の頭通りの交差する松原交差点の北西側、鈴木久右衛門の庚申塔の区画が元の位置である。

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こちらは笠付角柱型の文字塔で供養塔である。正面に、「奉回國六十六部供養」とあり、右面に享保10年(1725)仲秋、三界万霊とある。左側には武州豊嶋郡目黒とあるが、台石には上高井土(戸)村、松原村、和泉村、和田村の願主銘があるので、いささか混乱する。

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この供養塔はかなり傷んでいたが、正面には、「奉納大乗妙典六十六部廻國供養成就所」とあり左面に、「武陽多摩郡和泉郷願主 梅田〇左衛門」とある。造立年は享保11年(1726)9月。廻国供養塔というのは、大乗妙典(法華経)を日本全国66ヶ所に奉納したことを記念して建てるものらしい。諸国巡拝塔ともいう。札所巡礼や霊場巡拝を行い、無事巡拝を終えた時に結願の供養塔造立を行うケースで、坂東三十三箇所、秩父三十四観音、西国三十三観音で合わせて百ヶ所、あるいはその一部などがある。勿論四国八十八ヶ所の遍路も同様である。

場所  杉並区和泉3丁目8-39

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2019年11月11日 (月)

龍光寺の庚申と馬頭(杉並区和泉)

井の頭線の北側にある龍光寺も古刹である。開創は承安2年(1172)とされ、平安時代末期は杉並区内でも稀である。和泉の地名の由来は、現在は細々と残る小さな貴船神社(和泉3-22-22)にあった泉に因むが、龍光寺は和泉最大の寺院である。

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境内には多数の石仏がある。入り混じっているので一つ一つ刻字を読んでいく。それらの中に庚申塔が2基、馬頭観音が1基あった。まずは笠付角柱型の大きな庚申塔。中央に「奉庚申供養二世安樂也」とあり、右に元禄14年(1701)10月の造立年、左には「武列多摩郡上荻久保村」とある。その下に三猿が彫られている。江戸時代の地名は270年もあるので途中で変わっていて興味深いが、上荻窪村は1590年に荻窪村が上下に分割されで出来た村。江戸時代には服部半蔵の知行地になった後、天領になった。

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次はかなり苔むしているが、図柄は見事な駒型の庚申塔。青面金剛に二邪鬼(これは極めて珍しい)、その下に三猿である。左の邪鬼の顔は欠損しているが、明らかに二邪鬼である。造立年は天保9年(1838)3月。史料によると南荻窪3丁目より移転とある。土台石には講中とある。

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馬頭観音は風化が極めてひどく、風雨にさらされたことがわかる。造立年は嘉永4年(1851)3月の角柱型で馬頭観音立像がシルエットとしてしかわからない。元あった場所は、和泉3丁目23というから、前述の貴船神社の辺りになる。

場所  杉並区和泉3丁目8-39

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2019年11月10日 (日)

永福寺墓所裏口の庚申塔(杉並区永福)

永福寺は曹洞宗の寺院。大永2年(1522)の創建だが、文禄2年(1593)、元文3年(1738)、昭和20年(1945)の三度焼失したものの貴重なものは多くが残っている。最後の火災は戦争だから仕方ないとして、江戸市中よりもはるかに火事による延焼は少なかったのだろう。

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墓地の裏口、別当である永福稲荷神社の側の門脇に三基の石塔が屋根付きのスペースに祀られている。傍には区が史跡に建てる説明柱が立っている。左は見た目通りの庚申塔だが、中央の五輪塔も庚申塔で区の指定有形文化財となっている。右は地蔵菩薩立像である。

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左の庚申塔も大型のもの、欠損はあるが笠付の角柱型で、青面金剛、二鶏、三猿の図。造立年は天和元年(1681)11月である。江戸時代前期の庚申塔は石の質がとてもいいので保存状態もいいのだろう。高さは105㎝ほどある。

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中央にあるのが指定文化財の五輪塔型庚申塔。杉並区で最古の庚申塔で、造立年は正保3年(1646)とある。高さは137㎝。 武刕多東郡養福寺村の銘がある。多東郡というのは江戸時代以前の区割りで、鎌倉時代から室町時代は東京の西部は多西郡と多東郡に分かれていた。多東郡は多摩地区に加えて杉並区、中野区、世田谷区の一部を含んでいた。

この五輪塔型庚申塔の説明版には、「正保三年銘 五輪庚申供養塔は、区内最古の庚申塔で、江戸初期の庚申信仰の普及状況を示す貴重なもの。また五輪塔型式の庚申塔も極めて珍しく、中世の名残りを示す-武州多東郡養福寺村-という地方銘を刻んだものとして稀である。この庚申塔は当初、永福1-27にあった修験儀宝院(廃寺)にあったが、昭和30年頃からこの地に安置されている。」と書かれている。

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一番右の舟型の地蔵菩薩立像は元禄4年(1691)の造立。自然風化は進んでいるが、保存状態はそれほど悪くない。裾脇に両側合わせて16人の願主銘が彫られている。こちらは念仏講中のものだろうか。3体とも江戸時代初期前期のもので、しばらくの間見入ってしまった。

場所   杉並区永福1丁目25-10

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2019年11月 9日 (土)

永福寺参道入口の地蔵堂(杉並区永福)

井の頭線で各駅停車が急行を待ち合わせる駅が永福町。 この永福町の名前の由来になったのが永福寺である。 永福寺は曹洞宗の寺院で、大永2年(1522)に開山。 北条氏の小田原城が陥落した後、北条氏の家臣であった安藤兵部丞が住職を頼り帰農して周辺を開拓したと伝えられる。そういう経緯から周辺を永福寺と呼ぶようになった。永福町という呼び名になったのは昭和に入ってからだと思われる。

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永福寺の参道は下高井戸と永福町を結ぶ道から東に入る。その角に地蔵堂が立っている。屋根が高いので警察などの哨舎(ショウシャ)のようである。目の高さに格子があるのでそこから除くと背の高い地蔵が安置されていた。

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地蔵菩薩立像の造立年は安永6年(1777)10月。 念仏講中によるものらしい。 台石は道標を兼ねており、前面には、「左 江戸道 右 いの頭」とある。左側に、「左 ほりの内道  右 大山道」とあるが、子育地蔵と一般的に呼ばれているようだ。

場所  杉並区永福1丁目23-6

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2019年11月 8日 (金)

永昌寺門前の庚申塔(杉並区永福)

さて、永昌寺門前の石仏、6基のうち左3基は庚申塔である。明治時代の地図を見ると、この寺院の並びはなく、甲州街道から永福寺に向かう道を挟んで玉川上水の北側の東に永昌寺、西に龍泉寺が相対していただけであった。玉川上水から神田川へ永泉寺坂の下り、この坂名の由来になった永泉寺は現在はなく、明治43年(1910)に永昌寺と合併して消えた。

永泉寺に伝来した玉石も永昌寺に合祀されたが、この玉石は、玉川上水の永泉寺付近工事の際に土中より発見され、その光沢の中に薬師像が浮き出たと伝えられる。永泉寺は工事の無事竣工を念じ、この玉石を供養したことから、近隣の信仰を集め、これに因み丸薬も作られた。

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左から3番目の笠付角柱型の庚申塔は珍しいデザインをしている。小さく彫られた青面金剛と一猿が正面にあり、側面にそれぞれ一猿で計三猿となる。造立年は延宝6年(1678)10月と比較的初期のもの。武州荏原郡松原村の銘がある。

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左から2番目は享保17年(1732)3月造立の駒型庚申塔。 青面金剛像に邪鬼・二鶏・三猿が描かれており、「武刕多摩郡下高井土村」とある。江戸時代は下高井戸と上高井戸が半月交代で宿場をやっていた。一番右は元禄11年(1698)11月の庚申塔である。青面金剛に三猿の図柄で、武刕多摩郡下高井土村とこれも高井戸の戸が「土」になっている。石工の都合だろうか。

場所  杉並区永福1丁目6-15

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2019年11月 7日 (木)

永昌寺門前の地蔵菩薩(杉並区永福)

京王線下高井戸駅から北へ、甲州街道を渡り玉川上水暗渠を越えると右(東)の道に寺院がいくつも並んでいる。明治大学の隣は築地本願寺の和田堀廟所。明治大学のキャンパスに迫る広さを有する。そこから西に7寺が並び、その一番西側が永昌寺である。関東大震災で築地本願寺をはじめとして多くの寺が焼け、その一部がこの街に移転してきた。ただし永昌寺はちょっと異なる。創建は寛永元年(1624)に江戸四ツ谷塩町(現在の新宿区愛住町)に建立、明治43年(1910)に高井戸にあった永泉寺と合併してこの地に移転した。

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門前西側に6基の石仏が並んでいる。一番奥は石碑だが石仏ではなさそう。奥から2番目は舟形光背型の地蔵菩薩立像。造立は寛文7年(1667)2月とかなり古いもの。「武州多東郡下高井土村」とあるが多摩郡下高井戸村であろう。高さは134㎝もある大きなものである。

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その隣は少し小さいがそれでも高さ121㎝ある。舟形光背型の地蔵菩薩立像。造立年はさらに古く、寛永8年(1631)秋とある。江戸時代初期、ようやく徳川政権が固まり始めたばかりの頃である。何気に400年前のものと考えると、イギリスの清教徒(ピューリタン)がアメリカ大陸に移住し始めた頃で、アメリカの大半がまだ原住民の住処だった時代である。

場所  杉並区永福1丁目6-15

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2019年11月 6日 (水)

地蔵堂墓地の地蔵(杉並区和泉)

井の頭通りの庚申塔がある六差路から神田川に下っていく古い坂道を下る。左に右に折れながら下っていくこの道は地蔵坂と呼ばれる。その地蔵坂の坂上に近いところに地蔵堂墓地がある。地蔵堂墓地だが地蔵はいても堂宇はない。ただ入口脇の地蔵には屋根がかけられている。

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階段を上って墓地に入るのだが、あいにく鉄扉が閉まっている。鉄扉の中にも墓石かもしれないが多数の石仏がある。実はこの場所には明治初年まで本当に地蔵堂があったらしい。『新編武蔵風土記稿』にその記述があるという。 現在、地蔵堂の本尊は龍光寺の閻魔堂に安置されているそうである。

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階段上にある地蔵の手前に、「和泉村 地蔵堂墓地」と彫られた自然石の碑があるが、これは平成4年(1992)に造られた新しいもの。その後ろの屋根下に3体の地蔵がある。

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左端は墓石である。左から二番目は嘉永2年(1849)10月に造られた地蔵菩薩立像(丸彫)。その右にあるいちばん背の高いのが、宝暦9年(1759)9月の造立である。台石には「和泉村 願主 良元  寒念仏供養」とある。 一番右の地蔵座像は造立年不詳。同じくらいの年代だろうか。杉並区の史料によると、墓地内には寛文元年(1661)の舟型阿弥陀如来立像があり、墓石なのだが写真を見ると当時いたであろうような顔で、いわゆる阿弥陀の顔ではないのが面白い。

場所   杉並区和泉2丁目10-17

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2019年11月 5日 (火)

井の頭通りの庚申塔(杉並区和泉)

通称井の頭通り、武蔵野市の境浄水場と渋谷西武デパートを結ぶほとんどが直線の道。境浄水場から京王線代田橋の和田堀給水所まで水道管を敷設するための用地を道路に転用した経緯。昔は水道道路と呼ばれていた。井の頭通りは神田川を越えて間もなく片側2車線から1車線になり甲州街道に接続。 そこから和田堀給水所先まではカーブになる。その1車線になる辺りの六差路に庚申塔がある。

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植込みの陰にひっそりと立っているのは比較的大型の庚申塔。駒型で、青面金剛像・三猿の図柄である。造立年は元禄5年(1692)9月。下部に10名の願主の名前が彫られている。高さは106㎝ある。

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やはり和泉は鈴木姓が多い。10人中5人が鈴木姓である。関東大震災以前になると水道道路はなく、この場所は前述の泉2丁目8の庚申塔の道から久右衛門橋を渡った先の丁字路だった場所。位置的にはその丁字路にこの庚申塔があったと思われる。井の頭通りに近い道筋で吉祥寺方向に延びていたのは井の頭道で井の頭池の弁財天にお参りする人々の通る道だった。

場所  杉並区和泉2丁目21-36

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2019年11月 4日 (月)

甲州街道裏の庚申塔(杉並区和泉)

京王線明大前、現在は国道20号線(甲州街道)と首都高速5号線が上下になり、道路以北の杉並区と以南の世田谷区を川のように分断している。交通量が多いので横断歩道はほとんどなく、何十年も経過した歩道橋がところどころにあり、杉並区と世田谷区を繋いでいる。昔の甲州街道はほぼ同じ場所。その北側には羽村から流れてきた玉川上水がある。庚申塔は路地を入り道がクランクに折れ曲がっている角に立っている。

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この道は実は江戸時代からある道。庚申塔の先を左に曲がるとすぐに玉川上水の暗渠と交差、そこには「久左衛門橋」という橋があった。この橋名になっている久左衛門は、実はこの庚申塔の願主である。昔の道はそのまま北へ進み、地蔵坂を下って神田川を越えていた。地蔵坂の途中に江戸時代からある地蔵堂墓地がある。

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庚申塔は駒型で高さが111㎝と大きいもの。 青面金剛、邪鬼、三猿の図柄である。下部に「當村願主 鈴木久右衛門」と書かれている。その他、江戸神田講中ほか7人の願主銘がある。残念ながら、造立年は全体的に摩滅がひどく読み取れない。当村というのは和泉村である。

場所  杉並区和泉2丁目8

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2019年11月 3日 (日)

祖師谷観世音堂の石仏(庚申塔編)

祖師谷観世音堂に並ぶ野仏の過半数は墓石なのだが、その中に庚申塔が2基ある。入口至近の石橋供養塔の隣にあるのが、山状角柱型の庚申塔。高さは84㎝ほど、造立年は寛政3年(1791)7月とある。図柄は、青面金剛像に邪鬼と三猿。青面金剛像の右に「南 登戸道」とある。

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道標を兼ねた庚申塔で、右面には「西 府中道」、左面には「東 江戸青山道 目黒道」、裏面には「北 上高井戸道」とあり、右面下部には「武刕多摩郡 下祖師ヶ谷村 願主 石井三郎兵衛 加賀美惣佐衛門」と彫られている。左面、裏面にも願主銘があるが、殆どが石井と加賀美姓である。

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その右隣りにあるのが板碑型の庚申塔。板碑型は古いものが多いが、これは元禄13年(1700)12月と江戸時代で最も華やいだ時期のもの。図柄は青面金剛像に邪鬼と三猿。その右には「奉造立庚申供養青面金剛尊像一躰」とあり、左には造立年と、「下祖師ヶ谷村 講衆二拾六人」と彫られている。元禄時代の石は極めて質が高いものが多い。その右にある上部に白いゼニゴケを被った石仏は弘化3年(1846)4月造立の馬頭観音像。右面には施主 石井金次郎とある。 石井姓は大蔵から祖師谷にかけて多い旧家である。

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石仏の列の中程に地蔵立像が並んでいる。左側は文字が読みにくく資料もなかったので不明だが、地蔵立像であることは分かる。右側も地蔵立像で、錫杖(シャクジョウ)に「奉唱満念仏養講中十四人」とある。左面には下祖師ヶ谷村、右面には宝永7年(1710)8月の造立年が彫られている。

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もう少し奥に進むと地蔵立像があり右手に錫杖、左手に蓮華を持っている。地蔵の多くは宝珠を持っており蓮華は珍しいと思ったが、正面裾に「阿闍梨法師真観」とある。鎌倉時代の時宗の高僧で、地蔵ではなさそうだ。右側は供養塔で、中央に「奉納大乗妙典六十余州供養二世安樂所」とあり、右には「三界万霊六観」、そのならびに宝永6年(1709)武州多麻郡下祖子谷村とある。願主は安穏寺の僧侶。祖師谷は下祖師谷、上祖師谷ともに安穏寺の名が多く現れる。

場所  世田谷区成城9丁目1-6

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2019年11月 2日 (土)

祖師谷観世音堂の石仏(供養塔編)

祖師谷観世音堂は千川の右岸にあるので、住居表示は成城になるが、成城という地名は成城学園という学校に由来する極めて最近付けられた地名で、何百年もの間、この辺りから東は祖師谷と呼ばれてきた。この辺りから西は江戸時代は入間村だったので、下祖師谷村にとってはこの境内は村境でもあったのだろう。祖師谷の地名はその昔この辺りに地福寺という寺があり、その境内に祖師堂があったことから呼ばれるようになったというのが一説。地福寺は現存しないが、近くに地福寺坂と呼ばれる坂がある。坂のページでそのいきさつを書いた。

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仙川に架かる大石橋(だいしばし)の西側に広い境内に小さな社殿が二つ、正面が観世音堂、左が薬師堂である。観世音堂の起こりは承応3年(1654)で、半世紀後の元禄13年(1700)に再建とあるので、焼けてしまったか何らかの事情があったのだろう。その後祖師谷村内にあった薬師堂が明治期にこの境内に移設された。元は榎の安穏寺の元に築かれた堂宇である。

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境内に入ると、左側の盛り上がった塚状の小山の裾をなぞるように二十数体の石仏が並んでいて圧巻である。大半は墓石のようであるが、こうして丁寧に並べてあると、江戸時代の石の文化が見えてくる。江戸の石仏は江戸城の築城や改修で余った丹沢や伊豆の石を使って、石工が広めた一面がある。だから石のクオリティが抜群にいい。それに比べ明治以降の石仏はほとんど風化してしまっているものが多い。だいたい関東ローム層にはこういう石材は存在しない。

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石材の話はさておいて、まずは一つだけ離れた角柱型の立派な石塔である。これは供養塔で、造立は宝暦9年(1759)。正面には「大師編照金剛」、左面には「奉供養大乗妙典六十六部」とある。右面は造立年と「武刕多摩郡世田ヶ谷領下祖師固谷村」とあるので、地元の下祖師谷村のもの。 裏には「従是 上祖師ヶ谷村安穏寺迠六町廿間 廻沢村東覚院迠拾二町」とあるから、安穏寺までは約700m、東覚院までは1300mということになる。観世音堂から安穏寺までは1㎞ほどあり、東覚院までは1.5㎞程度、20%程度の誤差はありそうだがまあそんなものかと思う。

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塚の小山に沿った石仏の中で一番手前にあるのは上の写真の石橋供養塔。造立年は享和2年(1802)2月とある。大石橋を架けた時のものだろうか。 右には「東 世田ヶ谷道」、左には「西 ふちう道」、裏には「南 二子道」とあるので、おそらく大石橋のほとりにあったと考えられる。他にも多数の石仏があるのだが、墓石以外を紹介したい。

場所  世田谷区成城9丁目1-6

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2019年11月 1日 (金)

御霊神社境内の庚申塔(新宿区中井)

新宿区中井の八の坂の坂上にあるのが中井御霊神社。境内の裏手はごりょう坂で、こちらは御霊神社の名前に由来する坂名。本殿は棟札の記録で享保3年(1718)から文化7年(1810)の間の江戸時代中期に建てられたものという。第二次世界大戦で多くの東京の寺社が戦災に遭った中で、現存する貴重な社殿である。

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本殿前の網で包まれた狛犬は新宿区指定有形民俗文化財に指定されている狛犬で、正徳5年(1715)に下落合村の氏子たちが造立したもの。新宿区内では最古の狛犬らしい。本殿の裏にごりょう坂が通るが、ごりょう坂からも数段の階段で境内にアプローチが出来る。

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本殿の右裏手、ごりょう坂への階段近くに庚申塔があった。駒型の文字塔で、中央には庚申青面金剛塔とある。造立年は宝暦8年(1758)11月で、下落合村中井講中が建立。 下部には三猿が彫られている。文字塔と三猿の組み合わせは比較的稀てある。

場所   新宿区中井2丁目29-16

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