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2019年11月28日 (木)

東福寺の石仏<3>(宇田川庚申/渋谷区渋谷)

宇田川地蔵の境内には庚申塔もあった。その子育地蔵堂の境内にあった庚申塔は3基。それが宇田川地蔵の堂宇の右側に並んでいる。地蔵と共に東福寺に引き取られたことには何となくうれしくもある。今の東京の開発なら、跡形もなく破壊することもあり得るからである。

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縦に並ぶ3基の庚申塔は一番後ろの大きい塔がもっとも原型をとどめている。駒型で高さは128㎝ある。青面金剛像に三猿の図柄だが、造立年は分かっていない。この庚申塔も戦災によってかなり傷んだと言われる。渋谷の街が焦土に化したことを若者たちは想像すらできないだろう。

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その手前には右側が大きく欠損した庚申塔が無残な姿を見せている。板碑型高さは81㎝ほど。文字塔の下部に三猿が彫られている。造立年は元禄4年(1691)9月。施主は渋谷八郎左衛門とあるようだ。下部には10名ほどの願主名が彫られている。

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3基目は上部が完全になくなっている。ただしバランスからして二猿であろう。下部も欠損しているそうである。こういう石仏が破壊されるほどの爆撃を浴びたわけである。当然裏手にあった陸軍の監獄も爆撃に遭ったはずで、一体何人の政治犯(渋谷監獄は軍事政権に逆らった政治犯を投獄していた)が逃げることもできずにその場で死んでいったことかと思う。

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庚申塔の右側には宇田川地蔵の堂宇と同じような堂宇がもう一棟建っており、その中にはほとんど原型をとどめない二つの地蔵が安置されている。奥の方はほとんど形になっていない。どちらも塩かけ地蔵と呼ばれてきた地蔵と言われる。東京の石仏研究の第一人者である佐久間阿佐緒氏によると新宿の太宗寺の塩地蔵を信濃高遠の伝説の石仏師守屋貞治のものではないかと言っている。江戸は石仏を粗製乱造していたらしく、それは城壁を築く石工たちの食い扶持を維持するためでもあったようだ。

城壁の普請のない時期には石工は江戸近辺各地の石仏を納品していた。それが地蔵や庚申塔のブームを加速させた可能性が極めて高い。その中で貞治は関東で8体のみ造ったらしい。その8体が何処にあるかは謎である。塩地蔵や塩かけ地蔵を見るとその話を思い出さずにはいられない。

場所  渋谷区渋谷1丁目5-8

 

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