郷土資料館前庭の石仏(前列)
東京は再開発の終わらない街である。壊しては建て、建てては壊す(壊れる)。江戸幕府以来その再開発シンドロームは治るどころか一層症状を悪化させている。文化のある街というものは何百年も変わらないのが地球上の常であるが、東京は破壊と創造が文化でもある異彩なる都市だとつくづく思う。その果てに追いやられた民間信仰の石仏たちは、寺社の境内に逃れるか、打ち捨てられるか、ただ稀に郷土資料館という最も保護された場所に移設される石仏もあり、杉並区郷土資料館には11基ほどのそれがある。
杉並区郷土資料館の入口は旧井口家住宅の長屋門で、この井口家は大宮前新田を開発し、代々名主を務めた名家らしい。建築年は文化・文政年間(1804~1829)で元は茅葺だったが、防火上銅板屋根に替えられている。その門を入り、右にある資料館に入る前に右手を見ると、石仏がたくさん並んでいる。
前列左端にあるのは舟型光背型の庚申塔。青面金剛像と三猿がきれいに残り、上部には薄い彫りの日月もはっきりと見て取れる。造立年は元禄6年(1693)4月。下部に11名の願主銘があるが、大熊姓が圧倒的に多い。久我山の始まりからあった大熊家である。それもそのはず、この庚申塔は久我山3丁目14からの移設だとある。久我山稲荷神社から南に下ったあたりである。その辺りにはかつて大熊家の稲荷神社があった。久我山稲荷神社にある大熊家関連の石塔も同じ場所からの移設だと考えられる。
前列にある大人しめの不動明王像も上の庚申塔と同じ移設である。上部は欠損しているが、右下に正覚院とある。正覚院は練馬区の神社だが、それとは無関係で戒名か何かではないかと思う。年代は正徳元年(1711)10月で、講中拾五人とあるから、大山信仰の可能性もある。
前列右端に大きな角柱がある。中央に「南 高井土(戸)宿道」とある。各面には、「東 四ツ谷道」「西 井之頭道」「北 ほりの内ミち」とある道標である。これも大熊家の稲荷神社にあったものらしい。造立年は寛政12年(1800)12月。第六天の文字もある。第六天は各地にあったが、最近ではほとんど忘れられかけている。元々は神仏習合の時代に「天魔」を祀る神社として建てられた。天魔=第六天魔王は仏道修行を妨げる魔物と言われるが、そういうものも神にしてしまうこの国の民衆のパワーは凄いと思う。
場所 杉並区大宮1丁目20-8
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